知名度はないけれど、インパクトの戦国武将を紹介するシリーズ。
今回は、大和国(現在の奈良県)の僧侶武将、筒井順慶(つつい じゅんけい 1549~1584)。
実は、この順慶公、2つの有名な「ある言葉」に関係する武将です。
筒井氏は、大和国の興福寺の僧兵集団から成長した一勢力でした。
順慶公が生まれた当時、筒井氏を束ねてたトップは「順昭(じゅんしょう)」というお坊さんでした。
筒井氏は、周辺の松永・三好・畠山氏などの諸大名と抗争しながら勢力を拡大しますが、この順昭公が、若くで他界してしまいます(1551年)。
さて、跡継ぎはというと、当時2歳になったばかりの順慶公しかいません。
もちろん、2歳では当主は務まりませんし、もし順昭公の死を周囲に知られれば、他勢力がこれこそ好機と攻勢を強めるかもしれない状況です。
そこで筒井氏サイドは考えました。順慶公が成長するまで、順昭公の死を伏せるしかないと。そのためには、順昭公の代わりになる影武者(いや、影僧侶?)を据えねばなりませんでした。
実はそのとき、うまいことに、筒井氏サイドには「杢阿弥(もくあみ)」さんという、順昭さんに背丈もお顔も似ているお坊さんがいたのです。
そんなわけで、この杢阿弥さんが、順慶公が成長するまで順昭公になりきることで、筒井氏サイドはこの難局を乗り切ることができました。
その後、当の杢阿弥さんはというと、約束どおり、順慶公が成人した後に、順昭公の役から解放され、以前のように「杢阿弥」という自分自身に戻れたというわけです。
この逸話から、「元の木阿弥 (もとのもくあみ)」という言葉ができたそうです。
さらに話は続きます。
成長した筒井順慶公のその後はどうなったかというと、織田信長公に仕えます。そして本能寺の変がぼっ発。実は、明智光秀公と以前から親しかった順慶公は、光秀公から味方につくよう誘いを受けます。
そのとき、どうやら秀吉公のほうが有利かも?と考えたかどうかは不明ですが、順慶公は明智光秀公のいる京都までへ行く途中の「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」までは出陣したものの、そこから一向に動きませんでした。
ようやく順慶公が動いた時には、秀吉公と光秀公の勝負の決着がついていました、順慶公は、秀吉公の陣に祝賀のお祝いをするために峠から動いたのでした。
順慶公のこの行動から、「どっちつかずで様子を見る」と意味で、「洞ヶ峠の日和見(ほらがとうげのひよりみ)」という言葉が生まれました。

