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5年ぶりですみません!経済的自由への旅路にいる「JUN16」の日記 (^-^

 知名度はないけれど、インパクトの戦国武将を紹介するシリーズ。

今回は、大和国(現在の奈良県)の僧侶武将、筒井順慶(つつい じゅんけい 1549~1584)。


 実は、この順慶公、2つの有名な「ある言葉」に関係する武将です。


 筒井氏は、大和国の興福寺の僧兵集団から成長した一勢力でした。

順慶公が生まれた当時、筒井氏を束ねてたトップは「順昭(じゅんしょう)」というお坊さんでした。

 筒井氏は、周辺の松永・三好・畠山氏などの諸大名と抗争しながら勢力を拡大しますが、この順昭公が、若くで他界してしまいます(1551年)。
 
 さて、跡継ぎはというと、当時2歳になったばかりの順慶公しかいません。
 もちろん、2歳では当主は務まりませんし、もし順昭公の死を周囲に知られれば、他勢力がこれこそ好機と攻勢を強めるかもしれない状況です。
 
 そこで筒井氏サイドは考えました。順慶公が成長するまで、順昭公の死を伏せるしかないと。そのためには、順昭公の代わりになる影武者(いや、影僧侶?)を据えねばなりませんでした。


 実はそのとき、うまいことに、筒井氏サイドには「杢阿弥(もくあみ)」さんという、順昭さんに背丈もお顔も似ているお坊さんがいたのです。
  そんなわけで、この杢阿弥さんが、順慶公が成長するまで順昭公になりきることで、筒井氏サイドはこの難局を乗り切ることができました。
 
 その後、当の杢阿弥さんはというと、約束どおり、順慶公が成人した後に、順昭公の役から解放され、以前のように「杢阿弥」という自分自身に戻れたというわけです。

 この逸話から、「元の木阿弥 (もとのもくあみ)」という言葉ができたそうです。

 さらに話は続きます。

 成長した筒井順慶公のその後はどうなったかというと、織田信長公に仕えます。そして本能寺の変がぼっ発。実は、明智光秀公と以前から親しかった順慶公は、光秀公から味方につくよう誘いを受けます。
 
 そのとき、どうやら秀吉公のほうが有利かも?と考えたかどうかは不明ですが、順慶公は明智光秀公のいる京都までへ行く途中の「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」までは出陣したものの、そこから一向に動きませんでした。
 

 ようやく順慶公が動いた時には、秀吉公と光秀公の勝負の決着がついていました、順慶公は、秀吉公の陣に祝賀のお祝いをするために峠から動いたのでした。

 順慶公のこの行動から、「どっちつかずで様子を見る」と意味で、「洞ヶ峠の日和見(ほらがとうげのひよりみ)」という言葉が生まれました。


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 お城でオススメしたいのは、わが故郷の岐阜城です。

金華山(きんかざん)という山の頂上にあるお城です(^-^


 岐阜のシンボルといってもよく、JR岐阜駅からもその勇姿を望めます。JR岐阜駅からは、岐阜バスで15分。「岐阜公園」というバス停で降りてください。


 

 お城の下は、岐阜公園となっていまして、歴史博物館や昆虫博物館などがあります。さらに「板垣死すとも、自由は死せず。」の名言で有名な、板垣退助さんが暴漢に襲われた碑もあります。


 その他、信長の館跡なんかも発掘調査中ですが、あります。



 金華山の山頂にある岐阜城へは、ロープウェーが出ています(往復1200円)。所要時間3分くらいの空中散歩で、頂上駅へ。

 もちろん岐阜城へは登山でも可能ですが、1~2時間かかります。


 ロープウェー頂上駅から岐阜城までは、7~8分程度の山道登り(初級)になりますのでご注意。

 

 岐阜城に到着したら、織田信長も眺めたであろう天守閣からの絶景をお楽しみに!金華山は、標高が329mあります。その頂上にお城があるので、天守閣からの高さは340m以上。


 東京タワーが333mなので、そのてっぺんよりも高い眺めが堪能できます(^-^


 東京スカイツリーが出来るまでに?、一度登って欲しいお城です。


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 知名度はないけれど、インパクトのある戦国武将を紹介するシリーズ。今回は、徳川家康の祖父、松平清康(まつだいら・きよやす 1511~1535)


 この清康公、家康公のおじいさんなのですが、家康公が1542年生まれなので、その年の差はなんとわずか31歳。しかし、両者が実際に会うことはありませんでした。


 家康公の三河(現在の愛知県東部)は、東を今川、西を織田の2大勢力にはさまれた土地。

 家康公の松平家は、この2強にはさまれて多々苦労するわけですが、家康公がそれなりの地方勢力として出発できたのも、この清康公の活躍があってのこと。


 清康公は武勇に優れ、松平家を三河を代表する勢力に育て上げました。家康公から見れば、創業者的な存在でしょうか。その活躍の様子は、「海道一の弓取り」と称されたほどです。


 しかしながら、織田家との抗争中の最中、家臣に暗殺されてしまいます。


 家康公は、若いころ松平元康と名乗っていたことがありますが、この「康」は祖父である清康公の武名にあやかったともいわれています。


 さらに清康公の子、松平広忠(1526~1549 家康公の父)も、一説では暗殺されたとも言われています。

 とにもかくにも、子どものころに父を失った広忠公、そして家康公。初期の松平家は若くして当主を失うという苦難から出発していました。


 ちなみに、家康公が「松平」から「徳川」とい名字に改めたのは、家系のでっちあげといわれています。

 「徳川」とは、新田源氏支流の名字ですが、家康公の「松平」とは縁もゆかりもありません。

 自らの家をブランド化するため、また、征夷大将軍に任命されるには源氏であることが慣習であったことを見越しての、家康公の意図的な家系の改ざんともいえるでしょう。


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