ふるさと戦国武将(Ⅲ) | JUN16のブログ

JUN16のブログ

5年ぶりですみません!経済的自由への旅路にいる「JUN16」の日記 (^-^

 知名度はないけれど、インパクトのある戦国武将を紹介するシリーズ。今回は、徳川家康の祖父、松平清康(まつだいら・きよやす 1511~1535)


 この清康公、家康公のおじいさんなのですが、家康公が1542年生まれなので、その年の差はなんとわずか31歳。しかし、両者が実際に会うことはありませんでした。


 家康公の三河(現在の愛知県東部)は、東を今川、西を織田の2大勢力にはさまれた土地。

 家康公の松平家は、この2強にはさまれて多々苦労するわけですが、家康公がそれなりの地方勢力として出発できたのも、この清康公の活躍があってのこと。


 清康公は武勇に優れ、松平家を三河を代表する勢力に育て上げました。家康公から見れば、創業者的な存在でしょうか。その活躍の様子は、「海道一の弓取り」と称されたほどです。


 しかしながら、織田家との抗争中の最中、家臣に暗殺されてしまいます。


 家康公は、若いころ松平元康と名乗っていたことがありますが、この「康」は祖父である清康公の武名にあやかったともいわれています。


 さらに清康公の子、松平広忠(1526~1549 家康公の父)も、一説では暗殺されたとも言われています。

 とにもかくにも、子どものころに父を失った広忠公、そして家康公。初期の松平家は若くして当主を失うという苦難から出発していました。


 ちなみに、家康公が「松平」から「徳川」とい名字に改めたのは、家系のでっちあげといわれています。

 「徳川」とは、新田源氏支流の名字ですが、家康公の「松平」とは縁もゆかりもありません。

 自らの家をブランド化するため、また、征夷大将軍に任命されるには源氏であることが慣習であったことを見越しての、家康公の意図的な家系の改ざんともいえるでしょう。


 ペタしてね