キクさんは、容子が5歳 、浩市が3歳、泰生がまだ1歳の頃,何んと結核に罹り闘病の末亡くなったのです。あの頃は結核で亡くなる人が多かった。お薬も少なく治らない病と知り3人の幼い子供達を残しての旅立ちは、母親として切なく悲しかったことでしょう。
禮三の友人がその頃京都に住んでいて、舞妓さんを抱えている 置屋さんの息子さんでした 置屋には その頃塚田家に後妻として入るおきみさんが、お手伝いさんとして住んでいた。このことが塚田家に嫁ぐそもそもの縁だったのでしょうね。
禮三は幼い容子を連れて京都の友人宅には時々遊びに行っていた。その関係でおきみさんは禮三のことは少しは知っていた。 ところがある日禮三さんが奥さんを亡くされ、幼い子供3人を抱えて大変な状態だとご主人に聞かされたのでした。。
おきみさんは30歳で未婚でした 。置屋のご主人はおきみさんが面倒見が良い働き者と知っていたので、何とか子供たちを助けて欲しいとおきみさんに頼んだのです。おきみさん自身も幼い頃両親を亡くし、大変な苦労をしていた身でした。自分と残された子供達が重なったのです。
おきみさんは決心して3人の母親になるため京都から静岡へ来たのでした。先ず嫁いで驚いたのは子供達 3人とも小児結核に罹っていたのです。 母親のそばにいたからでしょうね。
おきみさんは着物道楽で沢山着物を持っていましたが、ほとんど 子供たちの医者代に消えたといつも話していました。
酒乱のおきみさんになったのはそれからかなり先の事でした。 3番目の子供 泰生は栄養不良で2歳まで歩けないくらい 体の弱い子供でした。 おきみさんは懸命に子供たちを育てました。かなり厳しい継母でしたが子供の結核は大人に比べて治りやすくて3人とも 完治したのです。
一家の大黒柱だった禮三は短気で長く仕事が続かず、嫌になるとすぐやめたことで一家は収入もなくなり極貧状態でした。その頃からおきみさんとは喧嘩が絶えなかったそうです。
その後日本は戦時中でした。空からは焼夷弾が降る毎日が続き、空襲警報が鳴りやまない大変な世の中でもあったのです。続く