プロレス 考察 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第321
回 マットの魔術師と呼ばれた絶対権力者の光と影/パット・オコーナー








プロレス界における「最強」とは何を指すのだろうか。


相手を力でねじ伏せる圧倒的な肉体美か。 見る者すべての息をのませる華麗で危険な大技か。 あるいは、一言で万の観客を熱狂の渦に巻き込む天性のカリスマ性か。


プロレスの長い歴史を紐解くとき、そこには一握りの「真の支配者」が存在する。


 彼らは必ずしも、現代のプロレスファンが思い描くような、派手な空中殺法、血を流し合う過激なデスマッチのリングに身を投じたわけではない。 


彼らは、マットの上の真実――すなわち「相手の骨を折り、相手をコントロールし、同時にビジネスとしてリングを支配する」という究極の技術と知性を併せ持った男たちであった。



ルー・テーズ。 カール・ゴッチ。 ダニー・ホッジ。 ハーリー・レイス。 バーン・ガニア。



彼ら「レジェンド」と呼ばれる名レスラーたちの名前がプロレス史の金字塔として刻まれる一方で、ある一人の男の存在は、時代が下るにつれて、まるで歴史の陰に隠された秘宝のように、あるいは意図的に触れられることを避けられた禁忌のように、静かに語り継がれるのみとなっている。


その男の名は、パット・オコーナー。


「マットの魔術師」 「スカイロケット・ドロップキックのパイオニア」 「オコーナーズ・ロールアップ(後方回転エビ固め)の創始者」



1950年代後半から1960年代初頭にかけて、全米プロレス界の最高峰であったNWA世界ヘビー級王座に君臨し、2年5か月という長期にわたって世界のトップに立ち続けた男。


 そればかりか、現代のプロレス界の勢力図を決定づけたAWA(アメリカン・レスリング・アソシエーション)の「初代AWA世界ヘビー級王者」として歴史にその名を刻み、さらには「全米プロレスの首都」と呼ばれたセントルイスのリングを陰で操り続けた、NWA史上最高の「黒幕」「知性派ブッカー」でもあった。



ルー・テーズをして「私が戦った中で、真の意味で最も手ごわく、完璧なレスラーだった」と言わしめ、ジャイアント馬場が「プロレスの神様から遣わされた本物のプロフェッショナル」と崇拝した男。



なぜ、パット・オコーナーという男はこれほどの伝説を残しながらも、後世のメインストリームの記憶から、少しずつその輪郭をぼかされていったのか。 


なぜ、現代の巨大プロレス帝国であるWWEは、彼を「忘却の彼方に追いやろうとした」とまで言われるのか。



そこには、レスラーとしての圧倒的な強さと美しさ、そしてプロレスビジネスという欲望とうごめく権力闘争の渦中で生き抜いた男の、壮絶なまでの「光と影」が存在していた。


新旧洋邦のレスラーの生き様を解剖する「俺達のプロレスラーDX」。 今回は、ニュージーランドの緑豊かな羊牧場から這い上がり、世界最高峰のベルトを腰に巻き、全米プロレス界の権力構造の頂点へと上り詰めた「マットの魔術師」パット・オコーナーの、栄光と孤独、そして知性に満ちた62年の生涯を解剖してみたい。


★ニュージーランドの緑野から生まれた「生粋のアスリート」


パット・オコーナー――本名パトリック・ジョン・オコーナーは、1927年8月22日、ニュージーランドの北島にある小さな町、ライティヒで産声を上げた。



大自然に囲まれたこの地で、オコーナー家は羊の牧場を営んでいた。幼少期のオコーナーは、大自然の過酷な労働環境の中で育ち、広大な大地を駆け巡りながら、力強い足腰と底なしのスタミナを自然と養っていった。



ニュージーランドという国において、少年たちが夢中になるスポーツといえば、言わずと知れたラグビーである。 


オコーナーも例外ではなかった。彼は地元のクラブチームや学校でラグビーに熱中し、タフで頑丈な肉体をさらに鍛え上げていった。


ラグビーで培われた「倒されてもすぐに立ち上がる粘り強さ」と「瞬発的なスピード」、そして「タックルを受けても崩れない腰の強さ」は、後の彼のプロレススタイルの強固な土台となる。



しかし、オコーナーの才能が真に開花したのは、彼がマッセー大学(マッセー農科大学)に進学し、畜産学を学んでいた時期に本格的に出会った「アマチュアレスリング」のマットの上であった。



当時のニュージーランドにおけるアマチュアレスリングは、伝統的なキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの色彩を強く残していた。



オコーナーは、大学での7年間に及ぶ学業とスポーツの両立の中で、ラグビーのタフネスとアマレスの精密なグラップリング技術を融合させていった。



1949年、オコーナーはニュージーランドのアマチュアレスリング選手権において、ヘビー級王者となる。 翌1950年にも同タイトルを連覇。ニュージーランド国内には、もはや彼に敵する者はいなくなっていた。


そして1950年、彼の人生を決定づける大きな転機が訪れる。 ニュージーランドのオークランドで開催された大英帝国競技会(コモンウェルスゲームズ=旧イギリス帝国傘下の国々が集う総合競技大会)に、ニュージーランド代表のフリースタイル・レスリング・ヘビー級選手として出場したのである。



この大会で、オコーナーは世界各国の強豪を次々と破り、見事に銀メダルを獲得(※一部文献では金メダルとも称されるが、公式記録上は銀メダル)。 


ニュージーランドの国民的スポーツヒーローとなった22歳の青年オコーナーの名は、海を越えてアメリカ合衆国のプロレス関係者の耳にも届くこととなった。



当時のアメリカ・プロレス界は、第二次世界大戦後の高度経済成長期とともに、テレビ放送の普及という画期的なイノベーションの波に乗っていた。 プロモーターたちは、全米を熱狂させる新たな「本物の技術を持つスター」を喉から手が出るほど求めていたのだ。



大英帝国競技会のメダリストであり、端正な顔立ちと引き締まった185cm、112kgの恵まれた肉体を持つオコーナーに、アメリカのスカウトの目が留まったのは当然の成り行きであった。


「アメリカに来ないか。プロレスラーとして、世界を相手に戦ってみないか」



農場の未来の経営者として生きるか、それとも海を渡り、プロのリングという過酷なジャングルに挑むか。


 オコーナーの決断は早かった。


1950年10月、彼は母国ニュージーランドを後にし、太平洋を渡って夢の大陸・アメリカ合衆国へと降り立ったのである。


★新大陸アメリカへの渡航と「マットの魔術師」の覚醒




1950年12月、アメリカにおいてプロレスラーとして正式にデビューを果たしたパット・オコーナー。 彼が最初に入ったのは、北米プロレス界の中でも特に「レスリングの実力」が厳しく問われるミネソタ地区(バーン・ガニアらが台頭する拠点)や、中西部、さらにはカナダのトロント地区(ホイッパー・ビリー・ワトソンが牛耳るメープル・リーフ・レスリング)であった。


当時のアメリカのプロレス界には、アマチュア出身で実績を引っ提げてプロ入りしたものの、プロ特有の「客に見せるパフォーマンス」や「興行上の駆け引き」に適応できず、そのまま潰れていく者が山ほどいた。



しかし、オコーナーは違っていた。 彼には、アマレスで培った本物の関節技やグランドテクニックのバックボーンがありながら、プロとしてファンを魅了するための「魅せるセンス」と「プロ精神」が抜群に備わっていたのである。


オコーナーのファイトスタイルは、当時のアメリカのファンにとって新鮮そのものだった。 大柄なヘビー級でありながら、まるで軽量級レスラーのように軽やかにリングを舞い、相手の隙を突いて流れるように技を切り返す。


相手が腕を取ってくれば、一瞬の関節の回転で逆に相手の腕を極め返す。 相手が力任せに押し込んできれば、その力を利用して見事な投げ技に変換する。


 その動きには一切の無駄がなく、まるで手品師がカードを操るかのように、相手の攻撃を無効化し、自分のペースへと引き込んでいった。



観客も、そして共演するレスラーたちも、彼のその変幻自在なファイトスタイルに感嘆の声を上げた。 いつしか、人々は彼のことを敬意を込めてこう呼ぶようになった。



「マットの魔術師」



オコーナーの魅力はテクニックだけにとどまらない。 彼は、試合のクライマックスで見せるダイナミックな空中戦で観客を爆発的な熱狂へと導いた。 その代名詞となったのが、「スカイロケット(空飛ぶロケット)」と形容されたドロップキックである。



当時のドロップキックは、まだつなぎの技や簡単な牽制技として使われることが多かった。 


しかし、オコーナーのドロップキックは違った。驚異的な跳躍力で相手の胸元から顔面にかけて垂直に近い角度で飛び上がり、両足の裏で正確かつ強烈に打ち抜く。その軌道がまるで空へ向かって打ち上げられるロケットのようであったことから、この名がついたのだ。



1955年3月19日、イリノイ州モリーンにおいて、オコーナーはロイ・マクラリティと組んでNWA世界タッグ王座(シカゴ版)を獲得。


プロとして初の主要タイトルを手にする。 その後、カナダのトロントに主戦場を移すと、1956年3月29日にはジン・キニスキーを破ってNWA大英帝国ヘビー級王座を獲得。


1957年5月9日には、トロントの帝王ホイッパー・ビリー・ワトソンとのコンビでNWAカナディアン・オープンタッグ王座を戴冠する。



ミネソタ、シカゴ、トロント、セントルイス――。 全米とカナダの主要テリトリーを渡り歩き、どんな地区に行っても超満員の観客を呼べるトップスターへと成長したオコーナー。 正統派レスラーとしての洗練された美しさと、シュート(真剣勝負)にも耐えうる圧倒的な実力。



全米のプロモーターたちが加盟する巨大組織「NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)」の幹部たちは、確信していた。


 「この男こそが、次のNWA世界ヘビー級王者にふさわしい」と。



★NWA世界ヘビー級王座戴冠と「AWA誕生」の複雑なパラドックス




1950年代末、NWA世界ヘビー級王座の価値は最高潮に達していた。 当時、NWA世界王者とは単なる一団体のチャンピオンではない。全米、カナダ、さらには日本やメキシコに及ぶプロモーターたちが統一組織として認めた「世界で唯一の、真のプロレス世界王者」であった。



初代王者ルー・テーズが築き上げた重厚な王座の伝統は、ホイッパー・ビリー・ワトソン、ディック・ハットンへと引き継がれていた。


 特にディック・ハットンは、全米レスリング選手権王者であり、NCAA王者、さらにはオリンピック代表という輝かしい実績を持つ「シュートの化け物」であった。


しかし、ハットンのファイトスタイルはあまりにも固く、地味であり、テレビ時代のプロレスビジネスにおいては興行的な爆発力に欠けるという悩みをNWA幹部は抱えていた。



「本物の実力を持ち、なおかつ観客を熱狂させられる華のある王者が欲しい」



その白羽の矢が立ったのが、パット・オコーナーであった。



1959年1月9日、ミズーリ州セントルイス、キール・オーディトリアム。


プロレス史に燦然と輝く運命の日が訪れる。 NWA世界ヘビー級王者ディック・ハットンに、チャレンジャーとしてパット・オコーナーが挑んだ。



満員の観客が見守る中、試合は極限のレスリング攻防となった。 ハットンの重厚なクラシカル・レスリングに対し、オコーナーは緻密な関節技の切り返しと、目にもとまらぬスピードで対抗する。 


試合は60分を超える死闘となった。 最後は、オコーナーが放った渾身の「スカイロケット」ドロップキックがハットンの胸元に激突。そのまま間髪入れずに後方回転エビ固め――オコーナーズ・ロールアップでカウント3を奪い取ったのである!



第42代NWA世界ヘビー級王者の誕生。



この瞬間、パット・オコーナーは全米プロレス界の頂点に立った。 オコーナーの戴冠により、NWA世界ヘビー級王座は再び輝かしい黄金期を迎えることとなる。



王者に就任したオコーナーの日常は、過酷を極めた。 NWA世界王者の義務は、全米各都市のテリトリーを巡業し、各地のローカル・ヒーロー(一番手レスラー)たちとタイトルマッチを行い、彼らの挑戦を退けつつ、地元のプロモーターに多大な利益をもたらすことにある。


月曜日はニューヨーク、火曜日は芝加哥(シカゴ)、水曜日はセントルイス、木曜日はトロント、金曜日はヒューストン、土曜日はロサンゼルス……。 


年間300試合を超える過酷な移動と防衛戦。 オコーナーは、どのような劣悪な環境であっても、どのようなタイプの挑戦者(荒々しいヒールであれ、無骨なパワーファイターであれ)であっても、完璧なクオリティの試合を提供した。 


彼は相手の強さを極限まで引き出した上で、最後の最後に鮮やかな「オコーナーズ・ロールアップ」で勝利を奪ってみせる。観客は敗れた地元のヒーローの健闘を称えつつも、オコーナーという王者の圧倒的な美技に酔いしれた。


しかし、このオコーナーのNWA世界王者時代に、プロレス史を大きく揺るがす「ある事件」が発生する。 それが、AWA(アメリカン・レスリング・アソシエーション)の誕生と、初代AWA世界ヘビー級王者認定劇である。


1960年、ミネソタ(ミネアポリス)地区のプロモーターであったバーン・ガニアとトニー・ステッチャーは、NWA本部の政治的決定や、NWA世界王者の巡業スケジュールが自分たちの地区になかなか回ってこないことに強い不満を抱いていた。


そこでガニアらは、1960年5月、NWAから独立する形で新団体「AWA」の設立を宣言。 


そして、当時のNWA世界王者であったパット・オコーナーを、「初代AWA世界ヘビー級王者」として勝手に認定したのである。



ガニアらの要求はこうだった。


 「パット・オコーナーは、90日以内にミネアポリスに来て、バーン・ガニアとのAWA世界ヘビー級王座防衛戦を行わなければならない。もし来ない場合は、王座を剥奪し、ガニアを新王者とする」


当然ながら、NWAの顔であり、NWA本部の意思に従うオコーナーが、独立派であるガニアの要求に応じて防衛戦を行うはずもなかった。 


90日が経過した1960年8月、AWA本部は予定通りオコーナーからAWA世界王座を「剥奪」。バーン・ガニアを第2代AWA世界ヘビー級王者に指名した。



この前代未聞の出来事により、オコーナーは歴史上「NWA世界ヘビー級王座とAWA世界ヘビー級王座を同時に保持した(認定された)唯一の男」となった。


 これはオコーナーの意思を超えた政治的抗争の産物であったが、彼が「どの団体にとっても世界王者として担ぎ上げたいほどの実力とネームバリューを持っていた」という何よりの証明でもあったのだ。


★ドロップキックとロールアップ――技術の極致「オコーナー・スタイル」



ここで、パット・オコーナーというレスラーの「ファイトスタイル」と「得意技」について、深く掘り下げて考察してみたい。



プロレスの歴史において、技の「元祖」とされるレスラーは数多く存在する。 しかし、自らの名前がそのまま技の名称となり、半世紀以上が過ぎた現代プロレスにおいても世界中で使われ続けている技を持つレスラーは、極めて稀である。



その代表例こそが、「オコーナーズ・ロールアップ(後方回転エビ固め)」である。



現代のプロレスファンにとって、後方回転エビ固めは丸め込み技(スクールボーイやピンフォールを狙うクイック技)の基本的な一つとして認識されているかもしれない。 


しかし、オコーナーが披露したロールアップは、単なるピンチ脱出の丸め込みではなかった。それは、完璧な物理学とタイミングの計算の上に成立する「芸術品」であった。



相手が前傾姿勢になった瞬間、あるいは相手の攻撃をかわしてバックに回った瞬間、オコーナーは相手の腰に手をかけ、自分の身体を丸めながら後方へ回転する。 


その際、自らの体重と回転力を利用して相手の膝裏をロックし、両肩をマットに完全に固定する。 相手が逃げようと力を入れた時には、すでにオコーナーの体躯が完璧な角度で抑え込んでおり、ブリッジの支点がびくともしない。



ルー・テーズのバックドロップが「岩石落とし」と恐れられたように、オコーナーのロールアップは「一度ハマったら絶対に逃げられない底なし沼」として恐れられた。 


試合終了のゴングが鳴った時、敗れた挑戦者はなぜ自分が押さえ込まれているのか理解できず、ただマットを見つめるしかなかったという。


そしてもう一つの代名詞、「スカイロケット」ドロップキック。


アントニオ・ロッカ、ペドロ・モラレスと並び「全米ドロップキック三大名手」と称されたオコーナーであるが、ルー・テーズは自身の著書やインタビューにおいて、明確にこう語っている。


「ドロップキックの最高の名手は、間違いなくパット・オコーナーだった。彼のドロップキックは、高さ、正確さ、そして打撃の重さにおいて、他の誰とも比較にならないレベルに達していた」



オコーナーのドロップキックの最大の特徴は、その「フォームの美しさ」にある。 跳躍の際、身体が地面と完全に平行になり、足先が相手の顔面や胸元に突き刺さる。


そして着地の瞬間には、体をひねって受け身を取り、ダメージを最小限に抑えながらすぐさま次の動作(ロールアップへの連続攻撃など)へと移行することができた。



彼にとって、ドロップキックは単なる見せ技ではなく、相手の呼吸を整えさせないための「打擊によるダメージ付与」と「ピンフォールへの呼び水」を兼ねた、究極のフィニッシュ・コンボの序章であったのだ。


さらに、彼のグラウンドテクニックにおける最大の武器は、地味ながらも相手の体力を削り取るアームロックやレッグロック、そして首へのプレッシャーであった。


オコーナーの戦術は極めて論理的であった。


アマレス仕込みのグランドで相手のスタミナと関節の可動域を奪う。


相手が焦って大技を狙ってきたところを、華麗な切り返しで翻弄する。


相手のガードが空いた瞬間に「スカイロケット」ドロップキックを叩き込む。


倒れた相手を電光石火の「オコーナーズ・ロールアップ」で完璧にピンフォールする。


この一連の流れには、一切の無駄がない。 プロレスを「力と力のぶつかり合い」から「知性と技術の詰爆弾」へと昇華させた男。それこそが、パット・オコーナーという「マットの魔術師」の真体であったのだ。



★1961年シカゴ・コミスキーパーク――バディ・ロジャースとの歴史的頂上決戦


パット・オコーナーのレスラー人生において、最大のハイライトであり、同時に最大の転換点となった試合がある。



1961年6月30日、イリノイ州シカゴ、コミスキー・パーク(MLBシカゴ・ホワイトソックスの本拠地)。

この日、NWA世界ヘビー級王者パット・オコーナーは、挑戦者バディ・ロジャースを迎え、防衛戦を行った。


挑戦者のバディ・ロジャース――「ネイチャー・ボーイ(Nature Boy)」と呼ばれた男。


 金髪の金獅子のような髪型、自信に満ち溢れた不敵な笑み、観客を激怒させる卑劣な反則攻撃と、圧倒的なマイクパフォーマンス。プロレス界における「史上最高のヒール(悪役スター)」として、全米の話題を独占していた男である。


正統派の極致である王者パット・オコーナーと、悪徳の限りを尽くす挑戦者バディ・ロジャース。 


「善と悪」「正統と邪道」「静と動」。 これ以上ないコントラストを描く二人の対決に、シカゴの街は熱狂の渦に包まれた。


コミスキー・パークに詰めかけた観客の数は、実に41,432人。 当時のプロレス界における史上最多観客動員記録であり、興行収入は148,000ドル(現在の通貨価値に換算すれば数億円規模)という、信じられないような世界記録を打ち立てた。


野球場を埋め尽くした超満員の観客が見守る中、運命のゴングが鳴った。


試合は3本勝負で行われた。 1本目、ロジャースのラフ攻撃と巧みな反則に苦しみながらも、オコーナーは圧倒的なレスリング技術で応戦。しかし、ロジャースが放った渾身の足4の字固め(ボディシザースからの変形)の前に、オコーナーは1本目を先取される。


2本目、後がなくなったオコーナーは猛反撃を開始。自慢の「スカイロケット」ドロップキックを連発し、ロジャースをコーナーへと追い詰めると、鮮やかなフォールで1本を取り返し、勝負は1対1のイーブンへ。



そして運命の3本目。 両者スタミナを限界まで消費し、汗と血にまみれた死闘が繰り広げられた。 オコーナーが試合を決めんと、ロジャースをロープに振って起死回生のドロップキックを放つ! しかし、百戦錬磨の悪党ロジャースは、ロープにしがみついて間一髪でこれを回避。

空を切ったオコーナーは、そのまま背中からマットへ激しく落下の衝撃を受ける。 その隙を見逃さなかったロジャースは、ダメージを負って倒れ込むオコーナーの上にかぶさり、体固め!


1、2、3……!


レフェリーの手が3回マットを叩いた瞬間、コミスキー・パークに大歓声と大悲鳴が渦巻いた。


 2年5か月にわたってNWAの頂点に君臨し続けた正統派王者パット・オコーナーが、ついに敗れたのだ。


新王者、バディ・ロジャース。


この試合は、単なる一王座の移動にとどまらない、プロレス史における「構造的転換点」であった。


 それまでのプロレス界は、ルー・テーズやパット・オコーナーに代表される「正統派の強い実力者」が王者として君臨し、興行の信用を守るという時代であった。 


しかし、バディ・ロジャースの王座戴冠により、プロレス界は「派手なキャラクターとストーリー性を持つヒールが王者となり、ビジネスを大爆発させる」という、エンターテインメント重視の新しい時代へと舵を切ることになったのである。


オコーナーはこの試合で敗れ、世界王者のベルトを失った。 しかし、4万1千人を超える大観衆を集め、歴史に残る名勝負を作り上げた彼の功績は、プロレス史に永久に刻まれることとなったのである。


★日本プロレス界との深遠なる絆――力道山、そしてジャイアント馬場




パット・オコーナーの生涯を語る上で、決して外すことができないのが「日本プロレス界との深い関わり」である。



オコーナーが初めて日本の土を踏んだのは、1963年(昭和38年)3月。 日本プロレスが開催した「第5回ワールド大リーグ戦」の特別参戦レスラーとしてであった。



当時の日本は、力道山率いる日本プロレスが国民的フィーバーを巻き起こしていた時代である。


 元NWA世界王者として来日したオコーナーは、その圧倒的なテクニックと紳士的なマナーで、日本のファンや関係者を一瞬で魅了した。


1963年4月24日、大阪府立体育館。


オコーナーは、力道山が保持する至高のベルト「インターナショナル・ヘビー級王座」に挑戦した。 この試合は、昭和プロレス史に残る名勝負として語り継がれている。


60分3本勝負で行われたタイトルマッチ。1本目は力道山が巧みなグラウンドからエビ固めでオコーナーをフォール(13分18秒)。2本目はオコーナーがアマレス仕込みの足への集中攻撃から、得意のトーホールド(足首固め)で力道山からギブアップを奪う(9分58秒)。3本目は熱狂する超満員の観客の中、力道山が怒涛の空手チョップを叩き込み、最後はフォール勝ち(3分01秒)。



オコーナーは2対1で力道山に敗れたものの、その試合内容は力道山の力任せな空手チョップを極限まで引き立てつつ、自らの「マットの魔術師」たる関節技の凄みを存分に見せつけるという、完璧なものであった。力道山自身も試合後、「オコーナーの技のキレと足腰の強さは本物だ」と絶賛したという。



そして、この初来日において、オコーナーと「未来のプロレス界の巨人」との間に、運命的な出会いが生まれる。 当時、日本プロレスの若手精鋭としてアメリカ武者修行から帰国しつつあった、ジャイアント馬場である。



馬場は、オコーナーのリング上での立ち振る舞い、一切の無駄がない技の組み立て、そしてリングを降りた後の知的で紳士的な態度に深い感銘を受けた。 


オコーナーもまた、200センチを超える恵まれた体躯を持ちながら、素直で学ぶ意欲に満ちた馬場の才能を見抜き、彼に様々なアドバイスを送った。



馬場が後に自身の代名詞となる必殺技「ランニング・ネックブリーカー・ドロップ」を考案・完成させた背景には、オコーナーからの強力な示唆とアドバイスがあったとされる。


「馬場、君のような長いリーチと高い身長を持つレスラーは、走り込んで相手の首に腕を巻きつけ、自分の体重をかけてマットに叩きつける技を使えば、誰も返せない決定打になる」



オコーナーのこの助言がなければ、日本のプロレス史を彩った馬場のあの豪快なネックブリーカーは誕生していなかったかもしれないのだ。



1972年、ジャイアント馬場が日本プロレスから独立し、「全日本プロレス」を旗揚げした際、オコーナーは馬場の強力な後ろ盾となった。 


馬場が全日本プロレスの最高峰ベルトとなる「PWF世界ヘビー級王座」を制定するために行った「世界ヘビー級争覇戦」(1972年10月〜1973年1月)において、当時すでに40代半ばを過ぎていたオコーナーは、馬場からの要請を受けて快く来日。8人の強豪レスラーの一人としてリングに上がり、新団体・全日本の威信を高めるために一肌脱いだのである。



さらに時代が下り、1986年(昭和61年)。 


大相撲の第54代横綱・輪島大士が電撃的にプロレス転向を果たし、全日本プロレスに入団した際、馬場が輪島の「プロレスの師匠」として全幅の信頼を寄せてトレーニングを託した人物こそが、アメリカのモニュメント・パット・オコーナーであった。



オコーナーは、全日本プロレスのオフィシャル・アドバイザーとして、また馬場の生涯の盟友として、全日本プロレスの黄金期を陰で支え続けた。 

馬場がオコーナーに寄せた敬意は、生涯変わることはなかった。


それを象徴するのが、1974年12月のNWA世界ヘビー級王座初戴冠の瞬間である。アジア人初の快挙を成し遂げ、世界中のメディアからマイクを向けられた馬場が、興奮冷めやらぬ控室で開口一番に放ったのは、己の栄誉を誇る言葉ではなかった。


「これでようやく、オコーナーに良い報告ができます」


自分が世界の頂点に立ってもなお、真っ先に浮かんだのは若き日の自分を導いてくれた恩師の顔だった。


その後、馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、オコーナーはオフィシャル・アドバイザーとして組織を支える存在となる。


当時、団体の一大巨頭であり、周囲から「社長」と畏怖されていた馬場だったが、オコーナーが来日するとその態度は一変した。


会場やホテルの部屋にオコーナーが現れると、馬場は必ず椅子から立ち上がり、直立不動で「サー(Sir)」と迎えたという。

その徹底した礼儀正しさは、全日本の若手レスラーやスタッフたちに「パット・オコーナーこそが、我々のボスが世界で最も敬意を払う人物なのだ」と無言で知らしめるのに十分だった。


★セントルイスのフィクサー――サム・マソニックの右腕にしてNWAの知性


プロレスラー・パット・オコーナーの真恐ろしさは、現役時代のリング上の実績だけにとどまらない。 むしろ、彼がプロレス史において最も大きな影響力を発揮したのは、リングを下りた「バックステージ(裏方)」においてであった。


1960年代半ばから、オコーナーは現役レスラーとしてリングに上がり続ける傍ら、「全米プロレスの首都」と呼ばれたミズーリ州セントルイスの巨大団体「セントルイス・レスリング・クラブ(KWR)」において、権力の中枢へと参画していく。



セントルイスのプロモーターは、NWAの顔役であり、全米プロレス界の絶対的総帥であったサム・マソニック。


 マソニックは、オコーナーの優れた知性、冷静な判断力、そして全米のプロモーターやレスラーからの厚い信頼に目をつけ、彼を自身の「右腕」として抜擢した。


オコーナーに与えられた役職は、「ブッカー(マッチメイカー)」。


 すなわち、誰と誰を戦わせ、どのようなストーリーを展開し、どのレスラーを売り出すかという、興行の成否を握るすべての決定権を持つ「演出責任者」である。


オコーナーのブッキング(マッチメイク)は、完璧であった。 彼はセントルイスの総本山である「キール・オーディトリアム」の定期戦において、観客の心理を精密に計算した対戦カードを組み続けた。


正統派のレスリングを見せる第1試合から、激しい因縁を生む中盤戦、そしてNWA世界ヘビー級王座が懸かったメインイベントまで。 オコーナーの作るアングル(展開)には破綻がなく、観客は常に興奮の絶頂で帰路についた。


さらにオコーナーは、「レスラーのスカウトと育成」においても天才的な手腕を発揮した。 若き日のハーリー・レイス、ボブ・ガイゲル、テッド・デビアス、リック・フレアーといった、後のプロレス界を背負って立つビッグスターたちは、オコーナーの厳しい指導と緻密なアドバイスによって、一流のレスラーへと育っていったのである。


特にハーリー・レイスは、オコーナーから「プロレスとは何か、王者とはどうあるべきか」を叩き込まれ、後に第52代NWA世界ヘビー級王者として君臨することになる。レイスは後年、こう語っている。


「パット・オコーナーこそが、俺にプロレスのすべてを教えてくれた親父のような存在だった。彼が作っていたセントルイスのリングは、世界で最も気品があり、最も過酷で、最も素晴らしい場所だった」


1982年1月、長年にわたってNWAのトップに君臨したサム・マソニックが引退を表明した際、セントルイスの興行権とプロモート権を引き継いだのは、オコーナー、ボブ・ガイゲル、ハーリー・レイス、そしてバーン・ガニアらの連合体であった。


オコーナーは、名実ともにNWAの「黒幕」「最高幹部」として、全米のテリトリーシステムをコントロールする存在となったのである。


レスラーとして世界王者となり、ブッカーとして興行を大成功させ、プロモーターとして団体を所有する。 パット・オコーナーという男は、プロレスビジネスにおけるすべての頂点を極めた「完全なるプロレス人」であったのだ。



★栄光のリングと歴史の忘却の彼方に――「俺達のパット・オコーナー」



しかし、時代の波は容赦なくプロレス界を飲み込んでいく。


1980年代に入ると、ビンス・マクマホン・ジュニア率いるWWF(現WWE)が全国進出を開始。 テレビの全米ネットワークを駆使し、ポップカルチャーと融合した「スポーツ・エンターテインメント」路線で全米のテリトリーを次々と買収・破壊していった。


NWAが守り続けてきた「各地区のプロモーターが協調し、伝統的なレスリングで客を呼ぶ」という旧来のテリトリーシステムは、WWFの圧倒的な資本力と派手なエンターテインメントの前に、崩壊の危機に直面する。


オコーナーらが守ろうとしたセントルイスの「正統派プロレスの聖地」もまた、WWFの侵略と時代の変化の中で、徐々にその光を失っていった。



だが、オコーナーは最後まで自らのプロレス美学を捨てなかった。 彼は派手なショーマンシップに頼るWWFのスタイルを安易に真似ることなく、「リング上のレスリングの誇り」を守り続けようとした。


1980年代後半、オコーナーは現役を完全に退き、後進の指導とフロント業務に専念するようになった。 しかし、長年の過酷な巡業生活と重労働は、彼の身体を静かに蝕んでいた。



1990年8月16日。


ミズーリ州セントルイスの自宅において、パット・オコーナーは静かにその生涯を閉じた。 死因は、肝臓がん。62歳という、あまりにも早すぎる死であった。



世界中のプロレス関係者、そして彼を慕ったレスラーたちが深い悲しみに包まれた。



オコーナーの死から4か月後の1990年12月16日。 NWAの主力団体であったWCWは、ビッグイベント『スターケード1990』において、彼のアチーブメントを称える追悼大会を開催した。



その大会のメイン企画として行われたのが、「パット・オコーナー・メモリアル・インターナショナル・タッグチーム・トーナメント」である。

世界各国から代表タッグチームが集結したこのトーナメント。 アメリカ代表として出場したリック&スコットのスタイナー・ブラザーズと、日本代表として出場したグレート・ムタ&マサ斎藤が決勝戦で激突。激闘の末、スタイナー・ブラザーズが勝利を収め、オコーナーの霊前に優勝杯を捧げた。



オコーナーが残した遺産は、彼が世を去った後も途絶えることはなかった。



2016年4月2日、WWEはプロレス界への多大な貢献を称え、パット・オコーナーを「WWE殿堂」のレガシー部門に顕彰した。



かつてオコーナーらが守ろうとしたNWAの伝統を破壊し、全米を統一したWWEが、最終的にオコーナーの功績を認めざるを得なかったという事実は、彼が築き上げたレスラーとしての価値が、どのような時代になっても揺らぐことのない「真実」であったことを証明している。


★マットの魔術師が残した「真の強さ」の解体新書


今、改めてパット・オコーナーという男の生涯を振り返るとき、私たちはそこに何を読み取るべきなのだろうか。


彼は、現代のプロレスファンがYouTubeや映像ストリーミングサービスで手軽に見られるような、過激なハイフライヤーではない。 ソーシャルメディアで物議を醸すような、派手な発言をするパフォーマーでもない。


しかし、彼がリング上に刻んだ足跡は、プロレスというジャンルの「背骨」そのものであった。



ニュージーランドの羊牧場から大英帝国競技会のメダリストへと登りつめた「本物のアスリートの血統」。


相手の攻撃を無効化し、一瞬の隙を突いて完璧なフォールを奪う「マットの魔術師の技術」。


4万人を超える大観衆を集め、プロレスを巨大ビジネスへと引き上げた「絶対王者としての威厳」。


そして、セントルイスのリングから全米のプロレス界をコントロールした「知性溢れる黒幕としての手腕」。




オコーナーの生き様は、プロレス界における「強さ」とは単に相手を叩きのめすことではなく、「リング上のすべてを支配し、観客の心を掌握し、ビジネスとして成立させる総合力」であることを教えてくれる。



ジャイアント馬場が彼を深く愛し、ルー・テーズが彼を心から尊敬した理由。 それは、パット・オコーナーが「プロレスラーであることの誇りと品格」を、誰よりも高く掲げ続けた男だったからにほかならない。



彼が放った「スカイロケット」ドロップキックは、マットから大空へと高く舞い上がり、プロレスという小宇宙の中に永遠の輝きを残した。 彼が創始した「オコーナーズ・ロールアップ」は、今夜も世界中のどこかのリングで、若いレスラーたちによって繰り出されている。



時代がどれほど移り変わり、プロレスの形がどれほど変わろうとも、正統派の技術と品格を極めた男の記憶が消え去ることはない。



マットの魔術師、パット・オコーナー。 彼こそは、プロレス史という壮大な大河の中に輝く、永遠の「絶対王者」であり、「最高峰の知性」であったのだ。