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俺達のプロレスラーDX
第319
回 ルチャ革命の狂える炎〜華麗なるサラブレッド破壊児/フベントゥ・ゲレーラ









1990年代半ば、世界最大のプロレスマーケットであったアメリカのマット界に、突如として未曽有の「地殻変動」が巻き起こった。



重厚な巨漢レスラーたちが力とパワーをぶつけ合っていた四角いジャングルに、目にも留まらぬスピードで宙を舞い、物理法則を無視するかのようなアクロバティックな空中殺法を繰り広げる覆面レスラーたちが雪崩れ込んだのである。



いわゆる「ルチャ・レボリューション(ルチャリブレ革命)」。



そのムーブメントの最前線に立ち、世界中のファンを熱狂の渦に巻き込んだ二人の天才児がいた。



 一人は、現在も「ルチャリブレの象徴」として世界的なリスペクトを集めるレイ・ミステリオ・ジュニア(現レイ・ミステリオ)。


そして、もう一人――ミステリオの最大のライバルであり、その天才的な身体能力と溢れ出るエゴ、そして破天荒な生き様でマット界を激震させ続けた男がいた。



フベントゥ・ゲレーラ。


リングネームが意味するのは、スペイン語で「若き戦士(ゲレーラの青春)」。


165cm、79kgの肉体なら放たれるコーナー最上段から鮮やかな弧を描く「450°スプラッシュ(ドロップ・450)」、相手の脳天を垂直に突き刺す必殺の「フービー・ドライバー」。


そして、一度マイクを握れば、あまりの自意識過剰ぶりと自己主張の強さで会場全体を爆笑と怒号の坩堝へと巻き込んだ。



彼は単なる「技の華麗なルチャドール」にとどまらなかった。 


父親であるメキシコマットの伝説フェルサ・ゲレーラの血を引くサラブレッドでありながら、伝統的なルチャリブレの枠組みをことごとく破壊。


ECW、WCW、WWE、TNA、そして日本のプロレスリングNOAHに至るまで、世界中のメジャー団体を渡り歩き、その先々で衝撃的な名勝負と、それに負けないほどの強烈なトラブルを巻き起こしていった。


「レイ・ミステリオが光なら、フベントゥ・ゲレーラは狂乱の炎であった」 


    

なぜ、この男はルチャリブレの概念を塗り替えることができたのか。


なぜ、その類まれなる才能を持ちながら、常に波乱と背中合わせのプロレス人生を歩むことになったのか。


今回は、メキシコからアメリカ、そして世界へとルチャリブレの魅力を知らしめた狂気の天才、フベントゥ・ゲレーラの波乱に満ちた軌跡を、正確な史実とともに考察していきたい。





★サラブレッドの宿命と誕生――フェルサ・ゲレーラの遺伝子と「若き戦士」の覚醒



1974年11月23日、メキシコのマザーシティであるメキシコシティ。 プロレスリングの歴史において最も過激で、最も悪名高きルチャドールの一人が家庭に男児を授かった。


その父親の名は、フエルサ・ゲレーラ。


1980年代からメキシコのメジャー団体EMLL(現在のCMLL)やAAAでトップヒール(ルード)として君臨し、鋭いインサイドワークと容赦なきラフファイトで観客の憎悪を一身に集めていた「ルチャリブレ界の巨星」である。



本名エドゥアルド・アニバル・ゴンザレス・ヘルナンデスとして生まれた少年は、物心がつく頃には、日常的に父の試合を観て育った。


 自宅の部屋には父親が奪い取った数々のマスクやベルトが転がり、週末になれば数万人を集めるアレナ・メヒコの大歓声と怒号が耳に焼き付いていた。


少年がプロレスラーを志すのは、必然であった。


しかし、父フエルサ・ゲレーラは、息子に対して甘い顔を一切見せなかった。ルチャリブレがいかに過客で、怪我と隣り合わせの厳しい世界であるかを知り尽くしていた父は、息子に地獄のような基礎トレーニングを課した。


マット上での受け身(モルタレス)、レスリングの基本フォルマ、そして肉体をいじめる筋力トレーニング。


父の厳しい指導に耐え抜いたエドゥアルドは、1992年12月、18歳の若さでプロデビューを飾る。


最初期は「カコノ」や「ヒホ・デ・フエルサ・ゲレーラ(フエルサ・ゲレーラの息子)」といったリングネームを名乗ることもあったが、アントニオ・ペーニャが設立した新生団体AAA(ルチャリブレAAAワールドワイド)への参戦を機に、運命のリングネームが与えられる。


「フベントゥ・ゲレーラ」。



白、赤、黒、銀を基調とした洗練されたデザインの覆面を頭部に戴き、父譲りの勝負強さと、父を遥かに凌駕する圧倒的な跳躍力を武器に、フベントゥはルチャリブレ界の超新星として一躍脚光を浴びることとなった。


そして、この初期AAAのリングで、フベントゥの運命を永遠に変える「生涯のライバル」と遭遇する。


同い年であり、ティファナの街から現れた彗星、レイ・ミステリオ・ジュニアである。


フベントゥとミステリオ・ジュニアの二人は、リングに上がるやいなや、従来のメキシコプロレスの常識を遥かに超えるハイスピード&ハイフライヤーの攻防を展開した。 


トップロープからのスワンダイブ式フランクシュタイナー、リング外への命懸けのトペ・コンヒーロ、空中での目まぐるしい技の読み合い――。



二人が繰り広げる試合は、メキシコのファンのみならず、ビデオテープを通じてアメリカや日本のプロレス関係者、マニアたちの間でも「メキシコに凄まじい怪物たちがいる」と噂になり始めたのだ。



フベントゥ・ゲレーラという男の「才能の原点」は、まさにこのティーンエイジャー時代に、レイ・ミステリオ・ジュニアという唯一無二のライバルとしのぎを削る中で研ぎ澄まされていったのである。


★アメリカ上陸とルチャ・レボリューション――ECWからWCWへ吹き荒れた空中戦の嵐 



1990年代半ば、アメリカのプロレス界に「ルチャリブレ」という未知の劇薬を打ち込もうと画策した男がいた。 フィラデルフィアの過激団体ECWを主宰する過激なプロモーター、ポール・ヘイマン(ポール・E・デンジャラスリー)である。


1996年春、ポール・ヘイマンの招きにより、フベントゥ・ゲレーラはレイ・ミステリオ・ジュニア、シコシス、コナンらとともにECWのリングに上陸する。


当時のECWといえば、有刺鉄線やパイプ椅子、テーブルが飛び交うハードコア・プロレスの聖地であった。


殺伐とした空気が漂うアリーナに登場したメキシコの小柄な覆面レスラーたちに対し、最初は懐疑的だったハードコアな観客たちも、試合が始まった瞬間、言葉を失った。


フベントゥとミステリオ、シコシスらが魅せたのは、それまでの全米マットには存在しなかった「空中での舞踏」であった。


 コーナー最上段に登り、空中で360度縦回転しながら放つ「450°スプラッシュ(ドロップ・450)」。


フベントゥがこの技をアメリカのテレビ画面で披露した時、全米のファンは文字通り度肝を抜かれた。



「人間は、あんな動きができるのか――」



ECWでの大反響を、指をくわえて見ているわけがない男がいた。 当時、ビンス・マクマホンのWWFに対抗するため、あらゆるプロレススタイルを飲み込もうとしていたWCWの副社長、エリック・ビショフである。



1996年夏、WCWはフベントゥ・ゲレーラをはじめとするメキシコの優秀なルチャドールたちと一括で大型契約を締結。


WCWのTV番組『マンデー・ナイトロ』やPPV大会において、新設された「WCW世界クルーザー級王座」を中心とするクルーザー級部門がスタートした。


ここから、歴史に残る「WCWクルーザー級黄金時代」が幕を開ける。



WCWのリングには、フベントゥ・ゲレーラ、レイ・ミステリオ・ジュニア、シコシス、シコデリコ・ジュニアといったメキシコ勢に加え、日本から参戦したウルティモ・ドラゴン、ディーン・マレンコ、クリス・ジェリコ、エディ・ゲレロといった世界最高峰の技術者たちが集結した。



番組の冒頭、ヘビー級の巨大な男たちが登場する前に、彼らクルーザー級のレスラーたちが目まぐるしいハイスピードマッチを展開し、会場の熱気を一気に爆発させる。その中心で最も華やかに舞っていたのが、フベントゥ・ゲレーラであった。



フベントゥは1998年1月8日、ルチャリブレの同胞であるウルティモ・ドラゴンを破り、第10代WCW世界クルーザー級王座を奪取。 ついに全米メジャー団体の頂点の一つへと上り詰めたのである。



彼の放つ450°スプラッシュは、WCWのファンにとっても「最も観たい必殺技」の一つとなり、フベントゥの名は「世界最高峰のハイフライヤー」として世界中に轟いたのであった。


★1998年の惨劇と「ザ・ジュース」の覚醒――マスクを脱いだ天才の自己変貌


だが、プロレスリングの歴史において、ルチャドールにとって「マスク(覆面)」とは単なるコスチュームではない。それはレスラーの尊厳であり、誇りであり、魂そのものである。


その魂が奪われる悲劇の夜が訪れる。


1998年2月22日、カリフォルニア州サンフランシスコのコウ・パレスで開催されたWCWのPPV『SuperBrawl VIII』。


フベントゥ・ゲレーラは、宿敵であるクリス・ジェリコとの「Title vs. Mask(王座 vs マスク)」マッチに臨んだ。


フベントゥが負ければマスクを脱がなければならず、ジェリコが負ければクルーザー級王座を失うという過酷な完全決着ルールである。



超満員の観客が見守る中、両者は持てる技術を全て叩きつける壮絶な攻防を展開。しかし試合終盤、ジェリコの狡猾なインサイドワークと必殺の「ライオンテイマー(逆エビ固め)」に捕まったフベントゥは、無念のタップアウトを喫してしまう。



敗北が決まった瞬間、リング上で膝をついたフベントゥ。 自らの手でマスクの紐をほどき、ゆっくりと顔を覆っていた布を剥ぎ取った。


スクリーンに映し出されたのは、長髪をなびかせた、どこか甘く、同時に不敵で挑発的な笑みを浮かべた一人の青年の素顔であった。


多くのルチャドールは、マスクを失うと人気の陰りやアイデンティティの喪失に苦しむことが多い。 


しかし、フベントゥ・ゲレーラという規格外の男にとって、マスクを脱ぎ捨てたことは「悲劇」ではなく、内に秘めていた強烈な自我とエゴを解放する「覚醒のきっかけ」に過ぎなかった。



素顔になったフベントゥは、自らを「ザ・ジュース」と名乗り始めた。




さらに彼は、当時WWFで爆発的な人気を誇っていたザ・ロック(ドウェイン・ジョンソン)のマイクパフォーマンスや仕草をあからさまにパロディ化・オマージュしたパフォーマンスを展開。 マイクを握れば、自分のことを三人称で「ザ・ジュースが言わせていただく!」と叫び、眉毛を吊り上げ、ロックの決めゼリフをモジった「If you smell what The Juice is cookin'!」をアリーナで怒鳴り散らしたのだ。


このあまりにも自意識過剰で、図々しくも愛嬌のあるキャラクター転換は、全米のファンに大受けした。


華麗な空中技を繰り出す超一流のアスリートでありながら、マイクを握らせれば誰も止められない自惚れ屋――。 


素顔のフベントゥ・ゲレーラは、従来のメキシカン・レスラーのイメージを完全に打ち破り、アメリカのエンターテインメント・プロレスの波に完全に乗ってみせたのだ。



1998年後半には、エディ・ゲレロが立ち上げたラテン系レスラーのユニット「LWo(ラテン・ワールド・オーダー)」に参戦。


 さらに2000年には、素顔となった盟友レイ・ミステリオ・ジュニアとのタッグで、ヴァンピーロ&ザ・グレート・ムタ(武藤敬司)組を破り、WCW世界タッグ王座を獲得。シングルのみならずタッグ戦線でもその実力を証明した。


★栄光の裏の暗雲と波乱万丈の流浪――豪州でのトラブルとNOAH参戦



しかし、光が強くなればなるほど、その影もまた深く濃くなっていくのが、フベントゥ・ゲレーラのプロレス人生の宿命であった。


天才的な素質と全米での大成功は、若きフベントゥの自我を肥大化させ、バックステージにおける横暴な振る舞いや、プライベートでのトラブルとなって芽を吹き始めた。


決定的な事件が起きたのは、2000年10月、WCWのオーストラリア・ツアー中のことであった。


滞在先のホテルにおいて、薬物とアルコールの影響下にあったフベントゥは、全裸でホテルの廊下を徘徊し、駆けつけた現地警察官に対して激しく抵抗・暴行を働くという大不祥事を起こして逮捕されたのだ。



この事件は全米のプロレスニュースで大きく報じられ、WCW上層部は即座にフベントゥ・ゲレーラとの解雇を発表。


 全米最高峰の団体で浮名を流した「ザ・ジュース」は、自らの過ちによって一瞬にしてメジャーの舞台から追放されることとなった。



WCWを解雇されたフベントゥは、メキシコのインディ団体やCMLL、アメリカのWWA、XPWEといった独立系団体を転々とする「流浪の旅」に出ることとなる。



だが、どれほどトラブルを起こそうとも、プロレスラーとしての彼の天才的な腕前を、世界中のプロモーターたちが放っておくはずはなかった。



2000年代初頭、プロレスリング・ノア(NOAH)のリングは世界中のハイフライヤーたちが憧れる「聖地」だった。


三沢光晴や小橋建太らが紡ぐ重厚なヘビー級の闘いの裏側で、もう一つの熱源が確実に発火しようとしていた。それが、のちに黄金期を迎える「GHCジュニアヘビー級」の黎明期である。


この激動の時代、方舟のマットに文字通り「世界基準」の風を吹き込み、若き至宝たちの加速装置となったのがフベントゥだった。


WCWやWWEといったアメリカのメガ団体でトップに登り詰めたフベントゥは、バックステージでの破天荒なエピソードから、時に「トラブルメーカー」として語られることが少なくない。


しかし、2001年にNOAHのリングに降り立った彼が見せたのは、そんな悪名とは真逆の、極めてストイックで気高い「プロフェッショナル」の姿だった。


彼のNOAHにおける最初の大きな足跡が、2001年6月に開催された「初代GHCジュニアヘビー級王座決定トーナメント」である。日本のジュニアヘビー級は、打撃の激しさ、緻密なグラウンド、そして一瞬の空中殺法が融合した世界屈指のハードスタイル。


フベントゥはメキシコ仕込みの華麗なルチャリブレをベースにしながらも、この日本式の激しいプロレスに見事に対応してみせた。


トーナメントでは並み居る強豪を破って決勝に進出。最後はNOAHジュニアの重鎮・金丸義信の前に惜しくも敗れたものの、その試合で見せた「450°スプラッシュ」や、相手のポテンシャルを最大限に引き出すレスリングIQは、日本のファンや関係者を唸らせるに十分なものだった。



シングルプレイヤーとしての確固たる評価を得たフベントゥが、タッグとしてNOAHマットに究極の傑作を残したのが、2003年11月1日の日本武道館大会だった。


この日、フベントゥは超絶的な身体能力を持つ同胞リッキー・マルビンとタッグを組み、当時「絶対王者」として君臨していた丸藤正道&KENTA組の持つGHCジュニアヘビー級タッグ王座に挑戦したのである。


この試合は、日本のプロレス史、ひいては世界のジュニアタッグ史において今なお語り継がれる伝説のキャッチアップ(スポットフェスト)となった。


序盤から中盤にかけての緻密な試合組み立てから一転、終盤10分間の攻防は、まさに観客の思考が追いつかないほどのハイスピードバトルへと突入する。丸藤とKENTAの冷徹かつキレ味鋭いコンビネーションに対し、フベントゥとマルビンは破天荒な空中殺法と息の合ったカットプレーで応戦。


フベントゥが放つ世界基準のムーブは、若き王座組の「光」をこれ以上ないほどに引き出してみせた。結果として王座奪取には至らなかったものの、試合終了のゴングが鳴った瞬間、日本武道館は地鳴りのような大歓声と惜しみない拍手に包まれた。


日本のファンは、彼が単なる破天荒なレスラーではなく、リング上を完全に支配し、極上の空間を作り上げる「本物のプロフェッショナル」であることを再認識したのである。



フベントゥ・ゲレーラがNOAHのマットに上がった期間は、彼の長いキャリアから見れば限定的なものだったかもしれない。


しかし、彼が残したインパクトは、数字や在籍期間以上の重みを持っている。方舟の緑のマットの上で、初代王座を争い、そして2003年の武道館で丸藤やKENTAという日本の至宝たちと歴史的名勝負を繰り広げたフベントゥ。


彼が日本のリングに持ち込んだ「世界基準のプロフェッショナリズム」は、今もなお、あの時代を目撃したファンの記憶の中で眩しく輝き続けている。



また、2004年にはアメリカの新興団体TNA(Total Nonstop Action Wrestling)に参戦。 TNAの名物企画であった「World X-Cup」において、フベントゥはチーム・メキシコのキャプテン(リーダー)としてチームを牽引。アメリカ、日本、カナダのジュニア勢と熾烈な国別対抗戦を繰り広げ、チーム・メキシコを優勝へと導く大活躍を見せた。



どんなに打ちのめされ、マット界から追放されようとも、リングに上がれば誰よりも輝く――。それが「ザ・ジュース」の真骨頂であった。


★WWE参戦と「メキシクールズ」――世界最高峰の舞台での挑戦と挫折


2005年、プロレス界に再び激震が走る。 世界最大のエンターテインメント団体WWE(World Wrestling Entertainment)が、フベントゥ・ゲレーラとの電撃契約を発表したのだ。



WCW解雇から5年。幾多のトラブルを乗り越え、ついにビンス・マクマホン率いる世界最高峰の舞台へと足を踏み入れたフベントゥ。



WWE上層部が彼に与えたギミックは、プロレス史においても異彩を放つ個性的なユニットであった。



フベントゥ・ゲレーラ、スペル・クレイジー、シコシス(2代目)の三人で結成された「メキシクールズ」である。


彼らは、アメリカ社会においてメキシコ系移民が庭師や清掃員として働かされているステレオタイプを、逆手取ってあざ笑うという極めて過激で斬新なキャラクターであった。


 胸に「Mexicools」とプリントされた迷彩柄の作業着を着込み、入場時には本物の乗用芝刈り機(John Deereの芝刈り機を模したもの)に乗ってアリーナに乗り込んでくる。



そして、マイクを握ると「俺たちはただ庭を刈るだけのメキシカンじゃない!リングの上でお前たちを刈り取ってやる!」と叫び、圧倒的な空中戦で相手を叩きのめすのだ。



この「メキシクールズ」は、登場するやいなやファンから爆発的な人気を獲得した。



ユニットのリーダー格となったフベントゥは、シングルとしても結果を残す。 


2005年10月9日、テキサス州ヒューストンで開催されたPPV『No Mercy 2005』において、フベントゥはナンジオを破り、念願のWWEクルーザー級王座を戴冠した。



その後、一度は王座を失うものの、イギリス・シェフィールドで開催された『SmackDown!』の海外公演で再びナンジオを破り、2度目のWWEクルーザー級王座戴冠を果たす。



ついにWWEの頂点に立ったフベントゥ・ゲレーラ。しかし、栄光の時間は長くは続かなかった。

WWEのバックステージにおいて、フベントゥの「自己主張の強さ」と「技の危険性」が再び問題視され始めたのだ。 


特に、彼がフィニッシャーとして使用していた「フービー・ドライバー(相手を前かがみに抱え上げ、頭部からキャンバスに落とす危険な変型ドライバー)」や「450°スプラッシュ」に対し、安全面を最優先するWWE上層部から使用制限の指示が出されたものの、フベントゥがそれに反発したと言われている。



さらに、バックステージでの他の選手やスタッフとの摩擦も重なり、2006年1月6日、WWEはフベントゥ・ゲレーラとの契約解除を正式に発表した。



WWE在籍期間はわずか半年余り。 またしても、彼のあり余る才能と破天荒な自意識が、世界最高峰の舞台での成功を自ら手放させる結果となってしまったのである。


★2021年AEWでの奇跡の再会――現在も燃え続ける「ルチャ・レボリューション」の残り火


WWEを離脱した後のフベントゥ・ゲレーラは、故郷メキシコのAAAへと復帰。 


ペロ・アグアヨ・ジュニアが率いる伝説的悪役ユニット「ロス・ペロス・デル・マル」のメンバーとして暗躍し、メキシコマット界のトップルードとして君臨した。


年齢を重ね、膝や腰に痛みを抱えながらも、彼は自らのブランドである「The Juice」を誇り高く掲げ、独立系団体やヨーロッパ、南米のインディマットを精力的に駆け巡った。



そして、彼が46歳となった2021年夏。全米のプロレスファンを歓喜させる「奇跡の瞬間」が訪れる。



WWEに対抗する全米第2のメジャー団体AEW(All Elite Wrestling)のTV番組『AEW Dynamite』(2021年8月4日放送)のリング。



当時、クリス・ジェリコが直面していた試練のストーリーライン「5 Labors of Jericho(ジェリコ5つの試練)」。その第3の刺客として、かつてWCWで激闘を繰り広げた宿敵、フベントゥ・ゲレーラが突如として召喚されたのだ。



実に約20年ぶりとなる全米メジャー団体のゴールデンタイムへの登場。



テーマ曲とともに姿を現したフベントゥは、かつてと変わらぬ引き締まった肉体と、長髪をなびかせた「ザ・ジュース」の佇まいを保っていた。



試合は、1990年代のWCWクルーザー級黄金時代を彷彿とさせる、怒涛の技の読み合いとなった。 フベントゥはトップロープからのダイビング・フランクシュタイナー、さらには渾身のトップロープからのフービー・ドライバーを炸裂させ、ジェリコをあと一歩のところまで追い詰めた。


最後はジェリコのトップロープからのジューダ・エフェクトを受け敗れたものの、試合後に二人が見せた健闘の抱擁に、世界中のプロレスファンが涙した。


ネット上には「フベントゥ・ゲレーラは少しも衰えていない!」「これぞ本物のルチャ・レボリューションだ!」という絶賛の声が溢れかえったのである。


2020年代に入っても、フベントゥの情熱は衰えない。 実の父親であるフエルサ・ゲレーラとともにリングに上がり、父の現役引退ロードをサポートしながら、自らも「ルチャリブレの生きる伝説」として後進のルチャドールたちに技術とスピリットを伝え続けている。


現在のフベントゥを語る上で欠かせないのが、自身がCEOを務めるプロレス団体兼ブランド「La Super X」の存在だ。


ここでは単なる一人のレジェンドレスラーとしてではなく、興行をゼロからプロデュースするプロデューサー、そして若手のポテンシャルを引き出す「生ける教科書」としてリングに君臨している。


現在もGPCW世界スーパーモンスター王座をはじめとする複数のベルトを腰に巻き、国内外のインディーマットからのオファーに応じて世界中を飛び回る日々だ。


「サラブレッド」の血脈は、次世代の破壊児へそして今、彼のプロレス人生は最もドラマチックな局面を迎えている。


2026年6月、彼の愛息であるフービー・ジュニアが、父の主宰する「La Super X」で待望のプロレスデビューを果たしたのだ。


かつて自身が父フエルサ・ゲレーラという偉大な壁を超えていったように、今度はフベントゥ自身が「超えるべき壁」となり、息子や次世代の二世レスラーたちを育成・競演させる「新時代」の確立に心血を注いでいる。


名門の血脈は、確実に次の世代へと受け継がれている。リングを超越する、50代のマルチクリエイター彼の「狂える炎」は、四角いリングの中だけには収まらない。


またフベントゥは、みずからヒップホップの作詞やエレクトロニック・ミュージックの制作を手掛ける「DJ」としても活動。お馴染みのマスクを被ってクラブのDJブースに立ち、オーディエンスをロックする顔も持つ。さらに、自身のライフスタイル番組のホストや、オリジナルアパレルブランドの運営など、その活動は極めて多角的だ。



★果てしなきルチャ・レボリューションの残光


プロレスリングというエンターテインメントにおいて、「完璧な優等生」だけが歴史に名を残すわけではない。


時には、その溢れ出る才能ゆえに周囲と衝突し、トラブルを起こし、栄光の頂から転がり落ちながらも、リングに立てば誰よりも眩い光を放つ――そんな「劇薬のような天才」が必要なのだ。


フベントゥ・ゲレーラとは、まさにプロレス界に現れた「孤高の劇薬」であった。



父フエルサ・ゲレーラの厳格な血統を受け継ぎながら、伝統を打ち破り、レイ・ミステリオ・ジュニアとともに世界中に「ルチャリブレ革命」の嵐を巻き起こした男。


マスクを脱がされても折れることなく、「ザ・ジュース」として自らを再定義し、全米を熱狂させた自己プロデュース力の塊。


彼の歩んだ道は、決して平坦なものではなかった。WCWでの解雇、WWEでの挫折、私生活での波乱――。


しかし、彼が空中で描いた450°スプラッシュの美しい軌跡と、マイクを握ってアリーナを嘲笑したあの不敵な笑みは、90年代から2000年代のプロレスを愛したすべてのファンの記憶に、消えることのない爪痕を残している。


「人生とは、レモンを与えられたなら、それで最高のジュースを作ることだ」


波乱万丈のレスラー人生の中で、フベントゥ・ゲレーラは常に己の肉体とエゴを絞り出し、濃厚で極上の「ジュース」を世界中に与え続けてきた。

男の名は、フベントゥ・ゲレーラ。 リング名、ザ・ジュース。


1990年代後半から世界のメジャーマットを席巻し、軽量級の概念を根底から覆したその軌跡は、まさに世界を焼き尽くした「ルチャ革命の狂える炎」そのものであった。


アメリカを、そして日本を震撼させたあの全盛期から時が流れても、彼の魂が放つ輝きは色褪せない。伝説の父・フェルサ・ゲレーラの血を引きながらも、親の七光りを圧倒的な身体能力で叩き潰し、50代を迎えた現在も息子と共に我が道を突き進むその生き様。彼こそが、プロレス界に唯一無二の爪痕を残し続ける「華麗なるサラブレッド破壊児」なのだ。