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俺達のプロレスラーDX
第261回 偉大なる血統 静かに燃えたいぶし銀の軌跡/ケンドール・ウィンダム





プロレスという名の四角いジャングルにおいて、「血統」が持つ意味はあまりにも大きい。
   
ファンは新しく現れた若きレスラーの姿に、かつて一世を風靡したその父親の面影を重ね合わせる。ダイナミックなファイトスタイル、受け継がれた得意技、そしてリング上で醸し出す特有の佇まい。血は争えない――その言葉通り、偉大なDNAは時として、凡百の努力を嘲笑うかのような極上の輝きを瞬時に放つことがある。

しかし、その輝きが強ければ強いほど、その血統に連なる「もう一人の男」に投げかけられる影は、深く、そして冷たいものになっていく。

1980年代から1990年代にかけて、アメリカのマット界に燦然と輝く名門が存在した。 その始祖の名は、ブラックジャック・マリガン(ボブ・ウィンダム)。

200センチの巨体から繰り出されるブレーン・クローで世界を震撼させ、日本でも「黒い猛牛」として恐れられたテキサスの大物である。

そして、そのマリガンの遺伝子を最も純粋に、かつ天才的な形で爆発させたのが、長男のバリー・ウィンダムだった。

198cmの長身でありながら、クルーザーウェイト並みの軽快な身のこなしと華麗なドロップキックを放ち、「テキサスの若き天才」としてリック・フレアーらと世界最高峰の闘いを展開。伝説のユニット「フォー・ホースメン」の一員としても世界の頂点に君臨した、誰もが認めるスーパースターである。

父は歴史に名を残す怪獣、兄は時代を創った不世出の天才。

そんな、プロレス界で最も分厚く、最も偉大な壁に囲まれた家庭に、次男として生まれた男がいた。 196cm、118kgという、兄にも劣らない見事なヘビー級の肉体とブロンドヘア。

そして、ウィンダム家特有の端正なマスクを兼ね備えながらも、常に「バリー・ウィンダムの弟」という視線と闘い続け、自らのレスラー人生を「名脇役」として全うした男。

彼の名は、ケンドール・ウィンダム。

ある時は、フロリダの海風の中で将来を嘱望された期待の星として。

ある時は、兄の背中を追ってメジャー団体の荒波に揉まれるミッドカーダーとして。 

そしてまたある時は、混沌とする日本の全日本プロレスのリングに、名門のプライドを携えてやってきた「頼れる職人」として。

今回は、偉大すぎる家族の狭間で決して腐ることなく、自らのレスラーとしての職人魂を磨き続けたケンドール・ウィンダムの、光と影に満ちた確かな足跡を、今ここに考察していきたい。  

テキサスの荒野に生まれた純血種〜ブラックジャック・マリガンの血、ヒロ・マツダの教え〜


1967年12月15日、アメリカ合衆国テキサス州スウィートウォーター。この乾いた風が吹くテキサスの地に、ケンドール・ウィンダムは生を受けた。

家庭環境は、まさにプロレス一色だった。物心がつく前から、自宅には父ブラックジャック・マリガンの巨大な背中があり、テレビをつければ父が世界中の大物たちと血みどろの抗争を繰り広げている。

さらに、7歳年上の兄バリーは、ケンドールが少年時代を過ごしている1979年にはすでにプロレスラーとしてデビューを果たし、瞬く間にテキサスやフロリダのファンを熱狂させるスターへと駆け上がっていた。

義理の兄には、のちにWWEなどで活躍するマイク・ロトンドがおり、後年その血筋からは甥にあたるブレイ・ワイアット(ウィンダム・ロタンダ)やボー・ダラス(テイラー・ロタンダ)といった現代のスターたちも輩出されることになる。

文字通り、アメリカン・プロレスの歴史そのものを形成する最強のロイヤルファミリー。その中で、ケンドールがプロレスの道を志すのは、必然を通り越した「宿命」であった。

しかし、ウィンダム家における「プロレス」は、決して甘やかされた特権ではなかった。

父マリガンは、自身のプロレスキャリアだけでなく、時に波乱に満ちた家庭環境(1981年の家庭を揺るがした法的なトラブルなど)を抱えており、息子たちに対しては常に自立と強靭さを求めた。

兄バリーの背中を追いかけるようにしてリングを志したケンドールは、父からの基礎的なサイコロジーの手ほどきを受けた後、本格的なプロレスの技術を学ぶため、フロリダの地へと向かう。そこで彼を待っていたのは、世界で最も厳しく、そして確実な技術を叩き込むことで知られた伝説の日本人指導者、ヒロ・マツダの道場であった。

ハルク・ホーガンの足を折ったという逸話でも知られるマツダのトレーニングは、過酷そのものだった。

基礎体力の徹底的な追及、何百回ものスクワット、そして何より「極められたら逃げられない」リアルなサブミッションの基礎。

ケンドールは、ジミー・タナカやパット・タナカといった実力派のレスラーたちとも汗を流し、その196センチの大きな身体に、日本のストロング・スタイルにも通じる「確実なレスリングの骨組み」を染み込ませていった。

1984年6月11日、ケンドール・ウィンダムは、わずか16歳(17歳になる年)という異例の若さで、CWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロリダ)のリングでプロデビューを果たす。

リングに上がった若きケンドールは、瞬く間にファンの目を引いた。豊かなブロンドヘア、父や兄譲りの長い四肢、そして何より、マツダの道場で培われたテクニック。

彼は兄のバリーを彷彿とさせるフライング・クローズラインを使い、他にもフライング・ショルダーブロック、フライング・バックエルボーといった空中戦が得意だった。

フロリダのプロモーターたちは、この名門の次男坊を「次世代の純白のベビーフェイス」として大いに売り出した。

その期待に応えるように、ケンドールは頭角を現していく。1985年9月2日、NWAのビッグイベント『バトル・オブ・ザ・ベルツ』において、空位となっていたNWAフロリダ・ヘビー級王座を賭けてジャック・ハートと激突。見事にピンフォールを奪い、初の栄冠を手にしたのである。

その後、彼は1986年にかけて同王座をなんと通算5度も獲得。

ロバート・フラーとのコンビではNWAフロリダ・タッグ王座も手中に収め、フロリダのテリトリーにおいて、ケンドール・ウィンダムの名は「未来のNWA世界ヘビー級王者候補」として、確かに光り輝いていた。

「あの頃のフロリダは、毎日が勉強だった。マツダさんの教えは厳しかったけれど、あの基礎があったからこそ、俺は10代の若さでヘビー級のトップ戦線で闘うことができたんだ。父や兄の名前があったからチャンスをもらえたのは事実だけど、リングの上でそれを維持するのは、自分自身の技術だけだった」

若き純血種は、フロリダの青い空の下で、自らの輝かしい未来を確信していたに違いない。しかし、彼がフロリダというローカルな理想郷を出て、全米規模のメジャー団体の荒波へと足を踏み入れたとき、サラブレッドゆえの「終わりのない迷宮」が幕を開けることになる。

「天才」の兄と比較される日々〜サラブレッドの苦悩とNWA・WCWの荒波〜

1980年代後半、アメリカのプロレス界はテリトリー制度が崩壊し、ビンス・マクマホンのWWFと、ジム・クロケット・プロモーションズ(のちのWCW)による全国進出・2大メジャー時代へと突入していた。

ケンドールもまた、フロリダでの実績を引っ提げて、兄バリーが主戦場としていたジム・クロケット・プロモーションズ、そして初期のWCWへと主戦場を移す。

しかし、そこで待っていたのは、あまりにも巨大になりすぎていた「兄バリー・ウィンダム」という絶対的な幻影だった。

当時の兄バリーは、まさにレスラーとしての全盛期を迎えていた。1988年にはリック・フレアー、アーン・アンダーソン、バリー・ウインダム、タロー・ブランチャードという、プロレス史上最も華麗で危険なユニット「フォー・ホースメン」のメンバーとして世界を席巻。

どのような相手であっても、バリーがリングに上がれば、観客の溜息を誘うような芸術的な名勝負が生まれた。プロレスマスコミやファンは、バリーを「テキサスが生んだ奇跡の天才」と称え、その一挙手一投足に熱狂していた。

そんな時代に、同じ「ウィンダム」の姓を名乗り、同じブロンドヘアで、同じように長いタイツを履いてリングに上がるケンドール。 観客やプロモーターの目は、どうしても残酷なものになった。

「確かにケンドールは良いレスラーだ。背も高いし、技術もしっかりしている。……だが、バリーほどの『天才的な閃き』がない」

プロレス界における「悪くない」という評価は、時に「特徴がない」という最大の弱点になり得る。

ケンドールは決して下手なレスラーではなかった。むしろ、ヒロ・マツダ仕込みの基礎があるため、試合の組み立ては非常に確実であり、対戦相手の技を引き出す受け身の技術は一流だった。

しかし、バリーが持っていたような、観客の感情を瞬時に爆発させる「カリスマ性」や、一発で試合の流れを変えるような「華」において、どうしても比較され、一歩劣るというレッテルを貼られてしまったのである。

1989年、ケンドールは現状を打破すべく、それまでのクリーンなベビーフェイスから、兄バリーと同じヒール(悪役)への転向を決意する。 

同年、彼はジム・クロケット・プロモーションズのリングで、一時的にリック・フレアーやアーン・アンダーソン、そして兄バリーらが形成するフォー・ホースメンの周辺ポジション、あるいは共闘関係に身を置くことになる。

兄弟によるテキサス・ヒールコンビの結成。それは、ケンドールにとって兄の横に並び、自らの存在感を全米にアピールする最大のチャンスであった。同年の6月27日には、タンパにてあのダスティ・ローデスの息子であるダスティン・ローデス(のちのゴールダスト)を破り、PWFフロリダ・ヘビー級王座も獲得。

さらにPWFカリビアン・ヘビー級王座も戴冠し、ヒールとしての格を上げようと必死の闘いを続けた。

しかし、当時のホースメンやWCWのトップ戦線は、フレアーやスティング、レックス・ルガー、そして兄バリーといった、アメリカン・プロレスの歴史そのものを動かすメガスターたちの政治闘争の場であった。

実力はあれど、キャラクターとしての決定打に欠けるケンドールは、次第にトップ戦線から一歩引いた「ミッドカード(中堅戦線)」のポジションへと押し込められていってしまう。

どれだけ激しい試合をしても、どれだけ正確な技を披露しても、聞こえてくるのは「バリーの弟にしては……」という声。

「兄貴と比較されるのは、いつだってタフなことだった。バリーは特別な存在だったし、彼がリング上でできることを俺がそのままやっても、それはただの模倣に過ぎない。俺は俺自身のプロレスを見つけなければならなかった。でも、メジャーのテレビショーでは、一度ついたイメージを覆すのは容易じゃなかったんだ」

1991年から1996年にかけて、ケンドールはWCWを離れ、プエルトリコのWWC(ワールド・レスリング・カウンシル)や、アメリカ各地のインディー団体を渡り歩く「職人」としての生活を選択する。

 しかし、このメジャーの喧騒から離れたインディー界での放浪の日々こそが、彼のレスリング技術をさらに研ぎ澄まし、どんな状況、どんな相手であっても試合を成立させる「本物の仕事人」としての実力を、水面下で完成させていくことになったのである。

1992年、全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」参戦

アメリカのインディー界で自らの腕を磨いていたケンドール・ウィンダムに、1992年の秋、ひとつの大きな転機、そして栄誉あるオファーが届く。 日本の、それもジャイアント馬場が率いる全日本プロレスからの来日要請であった。

当時の全日本プロレスは、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太らの「超世代軍」が台頭し、外国人勢ではスタン・ハンセン、スティーブ・ウイリアムス、テリー・ゴーディ、ダニー・スパイビーらが絶対的な壁として君臨する、世界で最も激しく、最も質の高いヘビー級レスリングが展開されている戦場であった。

特に、毎年11月から12月にかけて開催される「世界最強タッグ決定リーグ戦」は、世界中のトップタッグチームが集結する、全日本プロレスの年間最大のクライマックス。その1992年大会のメンバーとして、ケンドールに白羽の矢が立ったのである。

彼に与えられたパートナーは、当時、全日本プロレスの外国人戦線でハンセン、ゴディ、ウィリアムスと共に外国人四天王と形容され、実力者として暴れ回っていた「黄金の荒鷲」ダニー・スパイビーであった。

1992年11月、ケンドール・ウィンダムは、初めて日本の土を踏む。 「92 REAL WORLD」の文字が躍るシリーズパンフレットやテレホンカードには、スパイビーの横で、名門ウィンダム家の誇りを称えた精悍なケンドールの姿が写し出されていた。

203cmのスパイビーと196cmのケンドールの長身コンビはビジュアル的にも全日本の大型プロレスに完璧にフィットしていた。

しかし、当時の最強タッグのリーグ戦は、文字通りの地獄絵図であった。 ウイリアムス&ゴーディの「殺人魚雷コンビ」による容赦のないパワー殺法。スタン・ハンセン&ジョニー・エース組の爆発力。そして、三沢&川田の超世代軍が見せる、限界を超えた意地とスピードの応酬。

初参戦のケンドールにとって、全日本のリングが要求する「ノンストップの激しさと、タフなスタミナ」は、それまでアメリカのインディーで経験してきたものとは全く異なる質の強烈な洗礼であった。

リーグ戦において、スパイビー&ケンドール組は苦戦を強いられることになる。 

11月14日のテリー・ゴーディ&スティーブ・ウイリアムス戦では、殺人魚雷の圧倒的なラッシュの前に沈み、その後も、ハンセン&エース組、さらには超世代軍や、ジャイアント馬場&小橋健太組といった、全日本のトップチームたちの高い壁に阻まれ続けた。 大会の終盤、12月4日の日本武道館大会では、ビリー・ブラック&ジョエル・ディートンという、同じくアメリカン・インディーからやってきた実力派タッグとも激突したが、14分27秒の激闘の末に敗北。

結果として、スパイビー&ケンドール組の獲得した勝ち点はわずか「4」(2勝)。リーグ戦の順位としては下位に沈む結果となった。

しかし、戦績こそ振るわなかったものの、日本の熱狂的なファンの目は、ケンドールが随所に見せた「職人技」を見逃さなかった。 

スパイビーがパワーで前線に立つ中、ケンドールは長い足を活かした正確なビッグブーツや、マツダ直伝の確実なスープレックスで試合をコントロール。

何より、ハンセンの強烈なウエスタン・ラリアットや、ウイリアムスのバックドロップを、その大きな身体で美しく、そして完璧に受け止める「受けの美学」は、玄人好みの全日本ファンから「さすがマリガンの息子、ウィンダムの血筋だ」と高い評価を得たのである。 

「全日本の最強タッグは、俺のレスラー人生の中でも最も過酷なシリーズの一つだった。ハンセンやウイリアムス、そして三沢や川田たちの攻撃は、本当に骨の髄まで響くほど激しかった。でも、あのリングで闘ったことで、俺はレスラーとしてもう一つ上の段階へ行けた気がしたんだ。結果は出せなかったけれど、日本のファンが俺の技術を認めてくれたことは、何よりも嬉しかった。」

初めての日本武道館、1万6千人を超える大観衆の中で浴びた歓声と、トップレスラーたちの強烈な打撃。それは、アメリカのメジャーでの評価に悩んでいたケンドールにとって、自らの持つ「技術の正確さ」が間違いなく世界レベルであるという自信を取り戻させる、極めて濃密な洗礼の冬となったのである。


ウエスト・テキサス・レッドネックスの狂騒曲〜WCWでの覚醒と兄弟の絆〜


日本でのタフな経験を経て、レスラーとしての渋みと確実性をさらに増したケンドール・ウィンダムに、1990年代後半、再びアメリカのメジャー団体からの復帰要請が届く。 彼が戻った場所は、当時、ハルク・ホーマン率いる「nWo」の爆発的なムーブメントによって、WWFを追い抜き世界最大のプロレス団体へと大躍進を遂げていたWCWであった。

1997年、WCWに復帰したケンドールは、当初はテレビショーのミッドカードで、若手の引き立て役や、実力派のジョバー(受け役)としての役割を忠実にこなしていた。どんな相手の技でも光らせることができる彼の確実なレスリングは、団体にとって極めて重宝される存在だった。しかし、一人のレスラーとして、このまま引き立て役で終わるわけにはいかない。

そんなケンドールに、レスラー人生最大の、そして最もカルト的な人気を博すことになる「奇跡の転機」が訪れた。 時は1999年。 

当時、WCWは人気ヒップホップアーティストであるマスター・Pを大金で招聘し、彼が率いるヒップホップ軍団「ノー・リミット・ソルジャーズ」を、最先端のベビーフェイスとして大々的に売り出そうとしていた。

 これに対するヒールユニットとして結成されたのが、アメリカ南部のカントリー・ミュージックを愛し、「ラップなんてクソ喰らえだ!」という思想を剥き出しにしたテキサスのカウボーイ軍団であった。 
  
ユニットの名は、「ウェストテキサス・レッドネックス」。

メンバーは、元WWFインターコンチネンタル王者のレジェンドであり、卓越したプロレスセンスを持つカート・ヘニング(ミスター・パーフェクト)。ケンドールの兄であり、復帰したバリー・ウィンダム。そして、同じく偉大な二世レスラーであるボビー・ダンカン・ジュニア(ボビー・ダンカンの息子)。 ここに、次男のケンドール・ウィンダムが加わったのである。

このユニットは、当初はマスター・Pらのヒップホップ軍団を引き立てるための悪役として用意されたものだった。

しかし、彼らがリリースしたオリジナル・カントリーソング『Rap is Crap(ラップはクソだ)』が、WCWの主要なマーケットであったアメリカ南部の保守的なファン、伝統的なカウボーイ・カルチャーを愛するオーディエンスの琴線に大爆発を起こしてしまう。
  
「ヒップホップなんて認めない。俺たちの音楽はカントリーだ!」と叫ぶヘニングやウィンダム兄弟に対し、会場のファンはヒールであるはずの彼らに大大歓声を送り、逆にベビーフェイスであるはずの「ノー・リミット・ソルジャーズ」に激しいブーイングを浴びせるという、前代未聞の「善悪逆転現象」が巻き起こったのである。

このレッドネックスの狂騒曲の中で、ケンドールはついに、兄バリーとのコンビでメジャーの頂点へと手をかけることになる。

1999年8月、レッドネックスの勢いに乗ったバリー&ケンドールの「ウィンダム・ブラザーズ」は、WCWのタッグ戦線の中心へと躍り出る。そして、当時のタッグ王者チームであったクリス・ベノワ&ペリー・サターン(あるいは当時の王者コンビ)らと激しい抗争を展開。テキサスの荒々しさと、カントリーのプライドを前面に押し出した兄弟は、見事なコンビネーションでWCWのリングを支配していった。 

そしてついに、バリー&ケンドール組は、WCW世界タッグ王座を獲得したのである。

ケンドールにとって、デビューから15年目にして初めて掴んだ、アメリカのメジャー団体における世界最高峰のベルト。それも、幼い頃からその背中を追い続け、常に比較され続けてきた最愛の兄、バリー・ウィンダムと並び立ち、共に腰に巻いた栄光のベルトであった。

さらに、彼らはプエルトリコのWWC(ワールド・レスリング・カウンシル)のリングにも遠征し、そこでもWWC世界タッグ王座を獲得。日米のプロレス界において、「ウィンダム・ブラザーズ」の名は、単なる名門の記号ではなく、現代のマット界で最も機能し、最もファンを熱狂させる「最強の兄弟タッグ」として、完全に覚醒したのである。

「あのレッドネックスの時期は、俺のキャリアの中で一番楽しかった。ヘニングがいて、ボビーがいて、そして何よりバリーがいた。俺たちはただのビジネスとしてのタッグじゃなく、本物のカウボーイの絆で結ばれていたんだ。会場中が『Rap is Crap!』と大合唱する中を、兄貴と2人でベルトを掲げて入場したあの瞬間、俺は初めて、バリー・ウィンダムの弟としてではなく、ケンドール・ウィンダムという一人のレスラーとして、世界の頂点に立てたと実感できたんだ」 
  
偉大すぎる血統の影に隠れ、苦闘し続けた次男坊は、テキサスのカントリー・ミュージックという最高のガウンを羽織り、兄との深い絆によって、ついに自らのレスラー人生で最も美しく、最も熱い黄金の季節を掴み取ったのである。

「最後の来日」〜2000年、ウィンダム兄弟として~

しかし、WCWの繁栄は長くは続かなかった。

2000年に入ると、度重なる経営悪化とクリエイティブの混乱により、団体は崩壊の危機へと突き進んでいく。レッドネックスのユニットも解散を余儀なくされ、ウィンダム兄弟は再び、自らの力で闘う場所を求めなければならなくなった。

そんな混沌とする2000年の秋、遠く離れた日本のマット界から、再び彼らに向けて熱烈なSOSのサインが送られる。 それは、かつてケンドールが洗礼を浴びた、あの全日本プロレスからの要請であった。

当時の全日本プロレスは、まさに歴史的な大転換期、破滅の危機に直面していた。 2000年半ば、三沢光晴を中心に、所属レスラーのほぼ全員が離退職し、新団体「プロレスリング・ノア」を設立。全日本に残されたのは、川田利明、渕正信、そして団体の象徴であるジャイアント馬場(前年逝去)の妻・馬場元子社長ら、わずかな人数であった。

「全日本の看板を、ここで潰すわけにはいかない」

渕の決死の新日本プロレスへの宣戦布告などにより、日本人戦線は何とか持ち直したものの、伝統の全日本プロレスのもう一つの柱であった「強力な外国人レスラー」の戦線は、ノアへの大量離脱によって完全に崩壊していた。かつてのウイリアムスやゴーディ、ハンセンといった「世界の強豪が集う全日本」のブランドを取り戻すためには、ネームバリューがあり、なおかつ崩壊した全日本のリングを技術で支えられる、本物のトップレスラーの補強が急務であった。

この、ノア旗揚げによって大きく揺れる全日本のピンチに、名門のプライドを携えて駆けつけたのが、バリー・ウィンダム&ケンドール・ウィンダムの「ウィンダム・ブラザーズ」であった。

2000年11月、ケンドールにとって実に8年ぶり、2度目となる「世界最強タッグ決定リーグ戦」への出場。今回は、ダニー・スパイビーのサポート役ではなく、WCW世界タッグ王者としての実績を持つ、兄バリーとの完璧な「兄弟チーム」としての参戦であった。

シリーズが始まると、ウィンダム兄弟は全日本のリングで圧倒的な存在感を放った。 すでにベテランの域に達し、全盛期のようなスピードこそ衰えていたものの、兄バリーが放つパイルドライバーやエルボーアタックの重み、そして佇まいだけで観客を魅了するオーラは健在だった。 そして何より、そのバリーの動きを完璧に予測し、対戦相手の猛攻をその大きな肉体で受け止め、絶妙なタイミングでカットに入るケンドールの「職人技」が、全日本のリングでこれ以上ないほどに機能したのである。 

リーグ戦では、全日本を支える川田利明や、新たに参戦してきたスティーブ・ウイリアムス&マイク・ロトンド(ケンドールにとっては義兄にあたる親族コンビ)のバーシティ・クラブ、太陽ケア&ジョニー・スミス組といった強豪たちと激突。

12月9日、運命の日本武道館最終戦。ウィンダム兄弟は、全日本の未来を担う荒谷望誉&奥村茂雄組と対戦した。 

試合は、荒谷らの必死の抵抗を、ウィンダム兄弟がアメリカン・プロレスの王道とも言えるインサイドワークで翻弄。

最後は、11分10秒、ケンドール・ウィンダムが雪崩式のバックドロップという豪快な一撃を完璧に炸裂させ、奥村からカウント3を奪取。見事に日本武道館のメイン級の舞台で、ウィンダム家の強さと健在ぶりを日本のファンに見せつけたのである。

リーグ戦全体の優勝こそ、ウイリアムス&ロトンド組に譲ったものの、大量離脱によってガラガラになるかと思われた全日本のリングを、その卓越した試合巧者ぶりで盛り上げ、興行としてのクオリティを死守したウィンダム兄弟の功績は、馬場元子社長をはじめ、全日本の関係者、そして古き良き王道プロレスを愛する日本のファンから、深い感謝とともに称えられた。

かつて父親ブラックジャック・マリガンが日本のファンの度肝を抜き、兄バリーが数々の名勝負を繰り広げた、日本という特別な地。 

ケンドール・ウィンダムは、そのプロレス人生の終盤において、兄とともに全日本プロレスの歴史的危機を救うという、極めて重要な「仕事」を成し遂げた。それは、彼が長年磨き続けてきた「職人としてのレスリング」が、世界で最も厳しい目を持つ日本のファンに対しても、最高の形で証明された瞬間であった。

重圧から解き放たれた職人レスラーの現在

全日本プロレスでの劇的なシリーズを終えた後、アメリカのプロレス界はWCWがWWFに買収され、一強時代へと完全に移行していった。 

時代の変化、そして長年の激闘によって肉体に蓄積したダメージを考慮し、ケンドール・ウィンダムは2002年、静かに現役を引退することを決意する。

1984年のデビューから約18年、四角いジャングルに捧げたレスラー人生の幕引きであった。

引退後の彼の動向について、プロレス界の表舞台でその名前を聞く機会は少なくなった。

しかし、彼は決してプロレスの絆を失ったわけではない。2002年の引退後、ケンドールはフロリダ州ブランドンへと移り住んだ。 

そこで彼は、自らの第二の人生として、最も信頼するパートナーである兄のバリー・ウィンダムとともに、新たな事業を立ち上げることになる。その事業とは、レスラー時代のタフさと経験を活かした「セキュリティ事業(警備・セキュリティ会社の運営)」であった。

テキサスの荒野からフロリダの海風へ、そして世界中のリングを渡り歩いた兄弟は、今度はリング上ではなく、フロリダの市民の安全を守るビジネスの世界で、再び強固なタッグを組んで堅実な毎日を送っている。

2026年の現在に至るまで、彼はそのブランドンの地で、かつてのプロレス界の喧騒から離れ、一人の誠実なビジネスマンとして、静かで満ち足りたセカンドキャリアを歩み続けているという。
ケンドール・ウィンダムのレスラー人生とは、一体何であったのだろうか。

歴史の教科書を開けば、彼の名前は「ブラックジャック・マリガンの次男」「バリー・ウィンダムの弟」という、血統の解説の付属物として片付けられてしまうことが多いかもしれない。

世界ヘビー級王座を何度も巻いた兄に比べれば、彼の獲得したタイトルの多くはフロリダのローカル王座や、WCWでの短いタッグ王座に過ぎない。

しかし、プロレスラーの真の価値とは、巻いたベルトの数だけで決まるものではない。

父が怪物であり、兄が天才であるという、常人であればそのプレッシャーだけで押しつぶされてしまうような過酷な運命の狭間に生まれながら、ケンドールは一度も腐ることなく、リング上での職務を全うし続けた。

ヒロ・マツダから学んだ基礎を頑なに守り、対戦相手を引き立て、自らも196cmの巨体で美しく舞い、激しく受ける。

2世レスラーという重圧、偉大なる血統の陰で、静かに、しかし誰よりも確かに職人のプライドを燃やし続けたテキサスのいぶし銀。 

ケンドール・ウィンダムが残した確かな足跡と、兄とともに歩んだ栄光の軌跡は、目の肥えたプロレスファンの心の中に、今も色褪せることのない名脇役の美学として、深く、深く生き続けている。