俺達のプロレスラーDX
第264回 悲運の女神に愛された切ない美男子/トム・ジンク
プロレスという名の壮大な大河ドラマにおいて、「美男子」という属性は、時に最大の武器となり、時に最も残酷な呪縛となる。
端正なルックス、彫刻のように磨き上げられた肉体、そしてリング上を華麗に舞うスピード。それらを持ち合わせた男は、一瞬にして時代の寵児となり、ファンの熱狂を一身に集める。
しかし、その華やかさの裏で、彼らが一人の「表現者」として、あるいは一人の「純粋なアスリート」として正当に評価されることは、驚くほど少ない。世間は彼らの内なる魂や確かな技術よりも、表面的な輝きばかりを消費しようとするからだ。
1980年代から1990年代にかけて、アメリカのWWF(現WWE)やWCW、そして日本の全日本プロレス、新日本プロレスのリングを股に掛け、世界のマット界を文字通り「旋風」のように駆け抜けた一人のレスラーがいた。
トム・ジンク。
185cm、100kgの彫刻のような肉体を誇り、ある時はリック・マーテルとの伝説的コンビ「カンナム・コネクション」として世界の頂点に肉薄し、またある時は「Zマン」としてWCWのニューウェーブとなった男。
日本においては「旋風戦士」のニックネームで親しまれ、そのあまりにも甘いマスクで多くの女性ファンを虜にした。
しかし、彼のレスラー人生の足跡を丹念に辿っていくと、そこに浮かび上がってくるのは、単なる「アイドルレスラー」の姿ではない。
それは、プロレス界という巨大なビジネスの濁流の中で、己のプライドと純情を守り抜こうと、孤独に、そして不器用にもがき続けた一人のプロフェッショナルの、誇り高き闘いの軌跡であった。
ミネアポリスの肉体美〜「ミスター・ミネソタ」から始まった奇跡〜
トーマス・アーウィン・ジンクは、1958年11月30日、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリスに生を受けた。
ミネソタという土地は、アメリカのプロレス歴史において特別な意味を持つ。バーン・ガニアが興したAWAの本拠地であり、リック・フレアー、カート・ヘニング(ミスター・パーフェクト)、ロード・ウォリアーズなど、数えきれないほどのレジェンドたちを輩出した「プロレスの聖地」である。
若き日のトム・ジンクが、この土地が持つ独特の空気感、そして肉体を鍛えることへの渇望に影響されたのは、ごく自然な流れであった。
高校時代からスポーツ万能だったジンクが、とりわけ熱中したのがボディビルであった。 彼は、ただ筋肉を肥大化させるだけでなく、シンメトリー(左右対称)の美しさと、アスリートとしての機能性を極限まで追求した。
その努力は実を結び、彼は地元の名誉あるコンテストで「ミスター・ミネソタ」の称号を獲得する。その彫刻のような肉体美は、すでに一般人の域を遥かに超えていた。
そんなある日、運命の出会いが訪れる。 ジンクが汗を流していたゴールドジムに、当時、世界のタッグ戦線を震撼させ始めていた「ロード・ウォリアーズ」のアニマル(ジョー・劳倫奈itis)が姿を現したのだ。アニマルは、ジンクの圧倒的な肉体美と、端正な顔立ちに目を留め、こう声をかけたという。
「おい、お前。その身体とルックスがあれば、プロレスの世界で大金をつかめるぞ。やってみないか?」
この一言が、一人の青年ボディビルダーを、プロレスという名の底なしのジャングルへと引きずり込む引き金となった。
ジンクはプロレス入りを決意し、ミネソタの伝説的なトレーナーであるエディ・シャーキー、そしてアマレスの猛者として知られるブラッド・レイガンズの門を叩く。
エディ・シャーキーの道場は、ロード・ウォリアーズやカート・ヘニングを育てたことで知られるが、その練習は文字通り地獄そのものだった。基礎的な受け身、ロープワーク、そしてアマレス仕込みのシビアな関節技の応酬。
ジンクは、ただの「見せる筋肉」を、リング上で闘うための「動ける筋肉」へと変えるため、泥にまみれ、血を吐くような特訓に耐え抜いた。
1984年4月2日、ルイジアナを拠点とするミッドサウス・レスリング(MSW)のリングで、トム・ジンクはついにプロデビューを果たす。
デビュー戦でジェリー・グレイを相手にフォール勝ちを収めた若きジンクは、その直後から各地のプロモーターの間で引っ張りだことなった。
彼は地元ミネソタのAWAや、パシフィック・ノースウエスト(PNW)地区へと転戦。PNWではパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座やタッグ王座を獲得し、瞬く間にトップインディーレスラーとしての地位を確立していく。
彼の武器は、ボディビル仕込みの肉体から放たれる、驚異的な打点の高さを誇るドロップキックだった。その美しく、かつ正確無比な一撃は、彼の代名詞として世界中のファンに記憶されることになる。
WWF入団〜カンナム・コネクションの栄光と挫折〜
1980年代半ば、アメリカのプロレス界は、ビンス・マクマホン・ジュニア率いるWWF(現WWE)による「全米侵攻」の真っ只中にあった。
全米の有能なレスラーを次々と引き抜き、エンターテインメントの巨大帝国を築き上げようとしていたビンスの目に、地方マットで爆発的な人気を獲得しつつあったトム・ジンクの存在が留まらないはずがなかった。
1986年後半、WWFはジンクをスカウトする。しかし、ビンスが用意したプランは、単なるシングルレスラーとしてのデビューではなかった。当時、元AWA世界ヘビー級王者であり、圧倒的な実力と爽やかなファイトスタイルで絶大な人気を誇っていたケベック出身のフランス系カナダ人、リック・マーテルとのタッグ結成であった。
「カンナム・コネクション」
カナダのマーテルと、アメリカのジンク。二人の国境を越えた若き美男子コンビは、結成と同時にWWFのタッグ戦線に凄まじい地殻変動を起こした。
白を基調とした爽やかなコスチュームに身を包み、大歓声の中でリングに飛び込んでいく二人。彼らのファイトは、スピードと完璧なタッチワーク、そして何よりもお互いへの信頼感に満ちあふれていた。
1987年3月29日、ミシガン州ポンティアック・シルバードームで開催された歴史的ビッグイベント『レッスルマニアIII』。9万3千人という空前絶後の大観衆が詰めかけたその大会の、記念すべき第1試合(オープニングマッチ)を任されたのが、カンナム・コネクションであった。
彼らはドン・ムラコ&ボブ・オートン・ジュニア組と対戦。ジンクがムラコを肩車し、そこへマーテルがトップロープからクロスボディを敢行するという華麗な連携技で見事な勝利を収めた。
シルバードームを揺るがした大歓声。誰もが、彼らが当時のWWF世界タッグ王者であるハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)を破り、帝国の頂点に立つのは時間の問題だと確信していた。
しかし、栄光の絶頂にあったその夏、事件は唐突に起きる。 トム・ジンクが、突如としてWWFを電撃離脱したのだ。
タッグパートナーであるリック・マーテルにすら事前の相談をせず、着替えと荷物をまとめて会場から姿を消したジンク。このあまりにも突然のボイコット劇は、当時のマット界に大きな衝撃を与え、様々な憶測を呼んだ。
後年、ジンク自身が明かしたところによると、その原因は「深刻なギャラ(報酬)の格差」と「過酷なスケジュールへの不満」、そして何よりも「ビンス・マクマホンという独裁者への不信感」であった。
当時、爆発的な人気を誇っていたにもかかわらず、彼らに支払われる報酬は、一部のトップスターに比べて極めて低く抑えられていたという。また、年間300日を超える巡業の中で、肉体も精神も限界を迎えていた。
「俺たちは使い捨ての駒じゃない。自分の価値に見合ったリスペクトが受けられない場所に、一秒たりとも留まるつもりはなかった」
この離脱劇は、ジンクの「頑固なまでのプライド」と「純情さ」を物語っている。
ビジネスとして割り切ることができず、自らの尊厳が傷つけられたと感じた瞬間、彼は巨万の富を約束されたWWFのトップスターという地位を、あっさりとドブに捨ててみせたのだ。
しかし、この潔すぎる決断は、アメリカのメジャーマットにおいて彼に「扱いにくいレスラー」というレッテルを貼らせる原因ともなってしまう。光が強ければ強いほど、その影もまた深くなるのが、メジャーの鉄則であった。
全日本プロレスのリングに吹いた旋風
WWFを離脱したトム・ジンクが、次なる新天地として選んだのは、太平洋を越えた日本のリングであった。彼を招いたのは、ジャイアント馬場率いる全日本プロレス。
実は、ジンクはWWFでの本格ブレイク直前である1986年11月、すでに全日本プロレスの『世界最強タッグ決定リーグ戦』にリック・マーテルとのコンビで初来日を果たしていた。
日本のファンは、彼らの洗練されたタッグワークと、ジンクの放つ超一流のドロップキックに一瞬で魅了され、彼を「旋風戦士」と呼んで歓迎した。
ジンクはその後も常連外国人として何度も来日を果たす。 1987年の世界最強タッグ決定リーグ戦にはザ・ターミネーターとのコンビで参戦。
さらに1989年4月18日には、大田区体育館において、ダニー・クロファット(のちのカンナム・エクスプレス)とのコンビで、当時サムソン冬木&川田利明が保持していたアジアタッグ王座に挑戦している。
このアジアタッグ戦は、13分17秒、川田の執念の回転十字固めにクロファットがフォール負けを喫するという結末を迎えたが、ジンクが見せたドロップキックの軌道の美しさは、当時の全日本前座・中堅戦線において一際まばゆい光を放っていた。
AWA復帰〜団体最大の希望〜
ジンクは1988年には古巣のAWAに復帰。当時のマット界やファンから「団体の救世主となり得るトップ・ベビーフェイス」として非常に高い評価と期待を寄せられていた。
当時の過渡期にあったAWAにおけるジンクには 崩壊危機の団体における「最大の希望」だった。また当時のAWAは、WWFへの人材流出や観客動員数の減少により、深刻な財政難と地盤沈下に苦しんでいた。
その中で、全米ネットのWWFでイケメンタッグとして大ブレイクし、知名度抜群のまま戻ってきたジンクは、「AWA復帰組の中で最もフレッシュで、華のあるスター」としてファンから熱狂的に迎え入れられた。全盛期の勢いを残す彼の存在は、衰退するAWAにとって数少ない明るい材料だった。
1989年2月7日、ミネソタ州セントポールで行われた「空位となったAWA世界ヘビー級王座決定20人バトルロイヤル」に出場。サージェント・スローターやケン・パテラといった名だたる強豪が脱落する中、ジンクはなんと最後の2人まで生き残るも、決勝戦で大ベテランのラリー・ズビスコと激突。惜しくもオーバー・ザ・トップロープで敗れ、最高峰のベルト戴冠は果たせなかった。
WWFや全日本プロレスでの経験を経て復帰したジンクは「試合を組み立て、相手の良さも引き出せる確かな技術を持ったレスラー」へと進化していた。端正なルックスによる女性人気の高さだけでなく、プロレスの本質的な実力においてもトップ戦線で通用することが、このAWA復帰時代に完全に証明されたのである。
Zマンの逆襲〜WCW、ブライアン・ピルマンとの青春の闘い〜
日本での経験を経て、一回りも二回りもレスラーとしての深みを増したトム・ジンクは、1989年末、再びアメリカのメジャー舞台へと殴り込みをかける。彼が契約したのは、WWFの唯一無二の対抗馬であり、テッド・ターナーの資金力を背景に急成長を遂げていたWCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)であった。
WCWにおいて、ジンクはこれまでのイメージを一新する新たなギミックを与えられる。
「ザ・Zマン」
自らのイニシャルである「Z」を前面に押し出し、より現代的で、エネルギッシュなロックンロール・スタイルのベビーフェイスへと変貌を遂げたのだ。大音量のロックミュージックと共に、客席にハイタッチを交わしながら入場するZマンの姿は、WCWの若いファン、特にティーンエイジャーや女性層から圧倒的な支持を集めた。
WCWでのジンクのキャリアにおいて、最も美しく、そして最も激しい輝きを放ったのが、同じく驚異的な身体能力を持つ若き天才、ブライアン・ピルマンとのタッグ結成であった。
「ルース・キャノン(爆弾小僧)」の異名を持つ前の、まだ純粋なハイフライヤーだったピルマンと、ベテランの域に入りつつあったジンクのコンビは、まさに「ネオ・カンナム・コネクション」と呼ぶにふさわしい、瑞々しい魅力を放っていた。
1990年2月12日、ルイジアナ州ニューオーリンズで開催された大会で、ジンクとピルマンのコンビは、マイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン(ザ・ファビュラス・フリーバーズ)を破り、空位となっていたWCW・USタッグ王座を奪取する。
ジム・コルネット率いるミッドナイト・エクスプレス(ボビー・イートン&スタン・レーン)や、ドゥーム(ブッチ・リード&ロン・シモンズ)といった、一癖も二癖もある強豪タッグチームを相手に、ジンクとピルマンはノンストップのハイスピードバトルを展開。WCWのタッグ戦線の黄金期を創り出した。
さらに、ジンクの勢いはタッグだけにとどまらなかった。
1990年12月4日、ジョージア州アトランタでのTVマッチにおいて、ジンクは当時新進気鋭のヒールとして頭角を現していたアーン・アンダーソンを破り、NWA世界TV王座(のちのWCW世界TV王座)を獲得する。
アーン・アンダーソンという、マット界屈指の「仕事人」を相手に、自らのレスリング技術とスピードで真っ向から勝利を収めたこの一戦は、トム・ジンクというレスラーが、単なるルックス先行のアイドルではなく、シングルレスラーとしても世界のトップで闘える本物の実力者であることを証明した瞬間であった。
その後、WCWと新日本プロレスとの提携関係が深まる中で、ジンクは「Zマン」として日本のファンにもその健在ぶりをアピールすることになる。
1991年3月21日、新日本プロレスが開催した初の東京ドーム大会『スターケード in 闘強導夢』。 超満員の観衆が詰めかけた大舞台に、WCWの代表選手の一人として飛来したジンクは、ブライアン・ピルマン、ティム・ホーナーと組んで、越中詩郎、獣神サンダー・ライガー、木村健悟組と対戦した。
東京ドームの巨大な空間を切り裂くような、ジンクの美しいドロップキック。全日本時代の「旋風戦士」を知るファンも、WCWの「Zマン」として進化した彼の姿に、惜しみない拍手を送った。
しかし、WCWという組織もまた、激しい権力闘争と方針転換の渦中にあった。
1990年代中盤に入り、エリック・ビショフが副社長に就任し、ハルク・ホーガンをはじめとする元WWFの大物スターたちを大量に引き抜き始めると、ジンクのような「生え抜きのアスリート型レスラー」のポジションは、急速に失われていくことになる。
彼はジョニー・ガンとのタッグなどで戦線を維持しようとしたが、時代の潮流は、より派手で、過激なソープオペラ(愛憎劇)路線のプロレスへと傾いていた。ジンクの持つ「クラシカルな美しさと実直さ」は、nWoの台頭前夜の狂気の中に、徐々に埋もれていってしまったのだ。
リングを去った美男子の静寂〜2017年12月9日、永遠の旅立ち〜
1996年、トム・ジンクは38歳という、レスラーとしてはこれから脂が乗るはずの年齢で、現役引退を決意する。
彼の引退は、華々しい引退興行や、ファンに向けた感動的なスピーチとは無縁の、あまりにも静かなものだった。WCWの契約満了と共に、彼はそっとリングシューズを脱ぎ、プロレス界の表舞台から完全に姿を消したのである。
引退後のジンクは、多くの元レスラーたちが選ぶような、インディー団体のプロモートや、指導者としての道を選ばなかった。
彼は故郷のミネソタに戻り、通信関連の企業でビジネスマンとして働きながら、かつて自分をプロレス界へ導いたボディビルのトレーニングを、趣味として黙々と続ける生活を送った。
彼がプロレス界と完全に距離を置いた理由。
それは、やはり彼の中に残り続けていた「メジャーマットへの幻滅」があったからだと言われている。
後年、ファンやジャーナリストが彼にインタビューを試みた際、ジンクは当時のWWFやWCWの内部事情、ステロイドの蔓延、そしてレスラーの健康や権利を軽視するプロモーターたちの姿勢を、極めて辛辣な言葉で批判し続けた。
「プロレスは美しい芸術であり、最高のアスリートの闘いであるべきだ。しかし、あの場所は、人間の肉体と精神を食い潰すだけのモンスターだった」
彼は、プロレスという「競技」を誰よりも愛していたからこそ、それをビジネスの道具として汚し、レスラーを使い捨てにする業界の構造が許せなかったのだ。彼の隠遁生活は、プロレス界に対する、彼なりの最大の「抵抗」であり、自らの純情を守るための「砦」だったのかもしれない。
しかし、リングを去ってからも、過酷な現役時代に酷使した肉体の代償は、確実に彼の身体を蝕んでいた。
2017年12月9日、ミネソタ州ミネアポリスの病院で、トーマス・アーウィン・ジンクは、その生涯を閉じた。享年59。 死因は、長年の心臓疾患(動脈硬化性心疾患および心肥大)であった。
彼の訃報が流れたとき、世界のマット界は深い悲しみに包まれた。 かつての相棒であるリック・マーテルは、彼の早すぎる死を悼み、彼と共に世界の頂点を目指した「カンナム・コネクション」の日々が、自らのキャリアにおける最高の宝物であったと語った。日本のファンもまた、あの後楽園ホールや東京ドームで見た、気高く、美しい「旋風戦士」の姿を思い出し、涙した。
時代に消費されなかった男トム・ジンク
トム・ジンクというレスラーの人生を振り返るとき、私たちはそこに、ある種の「切なさ」を感じずにはいられない。
彼は、自分の美貌に溺れることなく、常にアマレスとボディビルで培った「本物の技術と肉体」を誇りとしていた。そして、その誇りが踏みにじられそうになったとき、どんなに巨大な富や名声が目の前にあろうとも、毅然として背を向け、去っていく強さを持っていた。
彼は時代に消費されることを拒み、己の純情を貫き通した。 プロレスという、時として嘘と虚飾にまみれた世界の中で、トム・ジンクが見せたドロップキックの軌道だけは、いつだって純粋で、一点の曇りもない本物の輝きを放っていた。
満員のスタジアムの大歓声の中に、全日本の地方巡業の熱気の中に、そして静かなる故郷の空の下に。 彼が流した汗と、その無骨なまでのプライドは、今も四角いリングのキャンバスの底に、確かに息づいている。
悲運の女神に愛され、しかし誰よりも気高く生きた旋風戦士。 トム・ジンク。 貴方がリングに吹かせたあの美しい風を、私たちはこれからも、決して忘れることはない。
