私とプロレス 加藤弘士さんの場合「第1回 NOW」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 

今回のゲストは、今年、大ヒット野球ノンフィクション『砂まみれの名将』の著者でスポーツ報知デジタル編集デスクの加藤弘士さんです。






(画像は本人提供です)

加藤弘士(かとう・ひろし)1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスクを経て、現在はスポーツ報知デジタル編集デスク。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のメインMCも務める。



(画像は本人提供です)


『砂まみれの名将』(新潮社) 阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在6刷とヒット中。




著名な野球記者であり、スポーツ報知デジタル編集デスクという役職につく加藤さんですが、実は大のプロレスファンなのです。そこでこの「私とプロレス」という企画で加藤さんに思う存分にプロレスについて熱く語ってほしいと直接オファーさせていただいたところ、快く了解をいただきました。

インタビューは加藤さんが大好きなサニーデイ・サービスの話題で盛り上がりました。実は私もサニーデイ好きなのです(笑)。

サニーデイ・サービスからプロレスの話題に移ると加藤さんからは熱くて面白い言霊が飛び出してきました。

「これは絶対に面白いインタビューになる!」

そう確信した私はプロレス脳をフル回転させて、加藤さんのインタビューに挑みました。  

 

収録時間はなんと3時間!

加藤さんの情熱溢れるプロレス話をサニーデイ・サービスの名曲と共に堪能してください! 


私とプロレス 加藤弘士さんの場合「第1回 NOW」

 

加藤さんがプロレスを好きになったきっかけとは?  


ーー加藤さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます!今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。


加藤さん よろしくお願いいたします!


ーーまず、加藤さんがプロレスを好きになるきっかけを教えてください。


加藤さん 僕は1974年生まれなんですが、プロレスは生まれながらに、そこにあるものとして育ってきたんですよ。当時、『全日本プロレス中継』(日本テレビ系)が毎週土曜日17時半から、『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)は毎週金曜日20時から放映されていました。うちの親父は際立ったプロレスマニアではなかったのですが、仕事終わりにはテレビのプロレス中継やプロ野球の巨人戦を見ながら、ビールを飲むが日常だったんです。だから幼稚園の頃からテレビでプロレスを見てましたね。


ーー随分、早いですね。


加藤さん 幼稚園の頃は身体が弱く、すぐ熱を出して病院に通っていました。だから強いレスラーに憧れたのかもしれません。完全にプロレスに魅了されまして、幼稚園を卒業して、小学校入学前の1981年4月2日茨城県・水戸市体育館で行われた全日本プロレス『チャンピオン・カーニバル』開幕戦を母親にお願いして3000円のリングサイド席を購入しまして、観に行きました。これが会場でのプロレス初観戦でした。 


初観戦の全日本・水戸大会で目撃したブロディの秒殺劇! 


ーー初観戦は全日本プロレス!


加藤さん 実は僕の実家は、大学生を対象とした下宿屋を営んでまして、親ではなく、茨城大学の大学生に連れて行ってもらって一緒に観戦しました。この『チャンピオン・カーニバル』水戸大会のメインイベントがジャイアント馬場VSジャンボ鶴田だったんですよ。


ーーおお!師弟対決じゃないですか!


加藤さん そうなんですよ!馬場VS鶴田は30分フルタイムドローで終わったんですけど、この大会で一番印象に残っているのが、ブルーザー・ブロディがウェイン・ファリスというレスラーに僅か16秒、キングコング・二―ドロップでピンフォール勝ちしてるんですよ(笑)。


ーー昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさんからその試合は聞いたことがあります。確か、ウェイン・ファリスは後にWWFでホンキートンクマンというリングネームで偽エルビス・プレスリーに扮してブレイクするんですよね。


加藤さん 「16秒で決まるのか!」というのが衝撃で(笑)。ブロディの秒殺と馬場VS鶴田、何より日本テレビのブラウン管の中の映像じゃなくて、会場で聞く蹴魂しいゴングの音、相手をロープに振ってのチョップの音、リング場での豪快に受け身を取る男たち…生で聞くプロレスの音色が凄かったんですよ。そこから僕はずっとプロレスの虜で、「大好きなものベストテン」不動の1位がプロレスなんですよ。      



脳内でプロレス巡業を組んでいた少年時代

     

ーー加藤さんは野球記者として有名ですが、野球よりもプロレスが先にハマった感じですか?


加藤さん そうですね。小学1年生からプロ野球も見るようになって、81年の巨人VS日本ハムの日本シリーズはよく覚えてます。親は美容院をやっていたので、母親が働いている間はずっと、当時発売されていたプロレス本を読んでましたね。


ーーどんな本を読まれていたのですか?


加藤さん 『ビッグレスラー』や『プロレス』(週刊プロレスの前身となった月刊誌)とかを読んでました。そこで「歴代NWA世界ヘビー級王者変遷」、「歴代AWA世界ヘビー級王者変遷」はこの時期に学びました(笑)。あと「ミズーリ州ヘビー級王座はNWA世界王者の登龍門になっている」「AWAの本拠地はミネソタ州ミネアポリス」といった知識も得ました。あと小学2年生になってよくやっていたのは、地図帳を見て脳内でプロレス巡業を組んでました(笑)。「もしも新日本と全日本が合同興行でシリーズを組んだら」というテーマで妄想シリーズを敢行してました(笑)。


ーーそれはめちゃくちゃ楽しそうです!


加藤さん 開幕戦は後楽園ホールで、次は横浜文化体育館、静岡産業館といった感じで地図帳とにらめっこしながら日程を考えてマッチメイクするのが最高の楽しみで(笑)。新日本や全日本のテレビ中継を見ると次期シリーズのスケジュールが出ているので、各都道府県の主要会場をそこで覚えちゃうわけですよ(笑)。しかも大体の箱のサイズ感も子供なりに感じていてましたね。


ーープロレス仕様となった全国の主要会場はどれくらい観客動員数が入るのかはなんとなく頭の中にあるわけですね。


加藤さん その通りです、だからデカい箱には、ビッグカードを組んで、そうではない会場の場合は消化試合や前哨戦を組んでました。「フルスロットルで見たいカードが全部実現するとシリーズはもたない」という感覚があったのか、地方興行では木戸修さんを入れて、フォールされたり、メインイベントに大熊元司さんを入れて敗れるとか(笑)。


ーーハハハ(笑)。


加藤さん 妄想マッチメーカーとして、興行のバランスは測って組んでました(笑)。


ーー加藤さん、プロレス興行のマッチメーカーになれますよ(笑)。


加藤さん 僕は元週刊プロレスの市瀬英俊さんと親しくさせていただいているのですが、市瀬さんが一時期、全日本プロレスのマッチメイクへの助言を行っていて、「それは僕の子供の頃の夢ですよ!羨ましいです!」と話すと、市瀬さんに「あれは結構、大変だったんだよ」と言われてましたね。


ーー市瀬さんはジャイアント馬場さんや馬場元子夫人にお伺いを立てながら、マッチメイクを提案していたそうですね。ブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)VSマレンコ兄弟のカードを提案して、実際に1989年1月28日の後楽園ホール大会で試合を組ませると名勝負になったので、そこから馬場夫妻の信頼を得たという話を聞いたことがありますよ。


加藤さん そうですよね。確かにあの頃の全日本はファン心理を突いたマッチメイクが多かったですよね。


ーー特にアジアタッグ戦線が日本人だけじゃなくて、カンナム・エクスプレス(ダニー・クロファット&ダグ・ファーナス)やザ・ファンタスティックス(ボビー・フルトン&トミー・ロジャース)、ジョー・ディートン&ビリー・ブラックといった外国人コンビを絡めることでより面白さが増すんですよね。


加藤さん 加熱するんですよね。話は逸れましたけど、茨城にはプロレスは年に一回くらいしか興行が来ないんですけど、1984年9月12日の水戸大会ではリック・フレアーVS天龍源一郎のNWA世界ヘビー級選手権試合が60分3本勝負で実現したり、1985年10月23日の水戸大会では、長州力&谷津嘉章VSリック・フレアー&リック・マーテルとか結構凄いカードが実現しているんですよ!


ーーフレアーとマーテルということはNWA&AWA世界ヘビー級王座ダブルタイトルマッチが組まれたシリーズということですね。


加藤さん そうです。1985年10月21日に両国国技館で二人のダブルタイトルマッチが実現しているので、水戸大会でのタッグマッチは二日後ですね。水戸でプロレス観戦もいいのですが、やっぱり東京でのビッグマッチが見たいんですよ。だから子供の時の一番の目標は、「東京に行ってプロレスのビッグマッチを観戦すること」でした(笑)。


ーーシリーズの目玉カードはどうしても首都圏で組まれるケースが多いですよね、


加藤さん 1990年に高校に進学すると、全日本の日本武道館大会はよく観に行ってましたね。『世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦は仲間と4人で一緒に行って、観戦してました。会場でのウェーブが凄いんですよ。


ーー1990年代に入るとプロレス界にもウェーブ文化が到来するんですよね。確か引退が発表された巨人の中畑清さんが1989年10月6日にリーグ優勝を決める一戦で二塁打を打って、球場内でウェーブが発生したんですよね(笑)。


加藤さん ハハハ(笑)。高校1年の時に全日本の武道館大会を観戦すると、場内が凄い熱気なんですよ。だから絶対に東京の大学に進学しようと思いましたね。それが青春時代の大きなモチベーションになってました。


新日本と全日本は味わいが違うけど、どちらも愛してました


ーー今の話をお伺いすると、加藤さんは全日本をメインにプロレスをご覧になっていたのですか?


加藤さん 全日本は好きでしたね。リック・フレアーやニック・ボックウィンクルといった外国人レスラーのゴージャスな華やかさ、あとジャンボ鶴田さんのスケールの大きなプロレスが好きだったので全日本好きになりました。『ビッグレスラー』とか読むと、「ジャンボ鶴田は善戦マン」と書いていて、伊東四朗のデンセンマンをもじってね(笑)。


ーー『電線音頭』でお馴染みのベンジャミン伊東ですね(笑)。


加藤さん そうですよ(笑)。でも鶴田さんがNWA世界王者を取れないのは政治力だから、彼が悪いわけじゃないのに。でも『ビッグレスラー』では善戦マンと書かれているので、僕の見方は変なのかなと思ったりしましたね。プロレスを扱う活字メディアは、全日本よりは猪木さん率いる新日本の方に寄せている印象がありました。


ーーマスコミの操縦は、新日本はうまくて、営業本部長にあの新間寿さんがいますからね(笑)。


加藤さん 確かに!飴と鞭でメディアをコントロールして、新間さんは丁寧にやってましたよね。そこは全日本は無頓着だった印象があります。


ーーそれは言えてますね。


加藤さん でも、父親と母親のどっちが好きなんて選べない。僕にとっての新日本と全日本はそういうものです。新日本のカール・ゴッチを神様と仰ぐ道場論はもちろん魅力的でした。ダブルスタンダードで申し訳ないですけど(笑)。藤原喜明さんとか実力もさることながら男の色気があって大好きでした。殺伐としたストロングスタイルの前座の攻防とかも楽しんで見てましたし、強さを追い求めている猪木・新日本は魅了されてました。新日本も全日本も味わいが違うんですが、やっぱりどっちも愛していましたね。


ーー私も新日本と全日本の両方見て育ちましたので、そのお気持ちは分かりますよ。


加藤さん 新日本の一派が抜けて第1次UWFが旗揚げするじゃないですか。僕はその時、麻疹にかかっちゃって40℃近い熱も出ちゃって毎晩うなされてました。そこで親が「何かほしいものある?」と聞かれたんですよ。恐らく親はアイスとか言うと思ったはずですが、僕は「最新刊の『週刊プロレス』を買ってきてほしい」と(笑)。


ーーハハハ(笑)。加藤さん、最高です!


加藤さん 麻疹にかかった時に見た『週刊プロレス』には、「前田日明がアメリカでWWFインターナショナル・ヘビー級ベルトを奪取した」という内容の記事があるんですよ。しかも表紙と巻頭カラーで。しかもそのベルトは「UWF」の文字がある。子供なので、ストーリーラインを読み解く力がないから、困惑しちゃって(笑)。WWFインター王座といえば、新日本で藤波辰爾さんと長州力さんが熾烈な争いを繰り広げて、当時は藤波さんが巻いていたはずなのに、前田さんが同じタイトル名のベルトを獲得している。熱にうなされながら、「俺は何を見てるんだ!?」という心境になりましたね。


ーー確かに!幻かと思いますよね。


加藤さん 大人になると政治的事情とか、新間さんがクーデターで新日本を追われたとか、UWFという第二の新日本計画があったとか色々と分かってくるけど、当時はそんな事情は知らないですからね。しかも第1次UWF旗揚げ戦ポスターには猪木さん、ハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアントとかスーパースター集団がいて、真ん中にドカンと新間さんがマイクを持っている写真があって、「新間寿、復活宣言。私はプロレス界に万里の長城を築く」「私は既に数十人のレスラーを確保した」という文言が並んでいて(笑)。これが衝撃が強すぎましたね(笑)。


ーーそれは食あたりを起こしそうなほどの衝撃ですね。


加藤さん 僕の小学生生活であれほどの衝撃はなかったです。  



昭和の新日本プロレスの凄さと魅力

    


ーーありがとうございます。ここからは加藤さんの好きなプロレス団体の話になります。まずは昭和の新日本プロレスの凄さと魅力について


加藤さん 先ほど言及しましたけど、道場です。道場には自分の青春を捨てて、頭を丸めてプロレスラーになるために入門するわけじゃないですか。絶対的な縦社会で、理不尽なこともある中で、強さを磨く。そんなことは僕にはできないですよ。人を超人にさせるシステムが道場で、もちろん脱落する人も多いですけど、そこで生き残った人だけがリングに立てるという尊さがあるんですよ。


ーー同感です!


加藤さん あと最強という概念ですよ。異種格闘技戦では、「プロレスは最強」を証明するためにボクシング、マーシャルアーツ、柔道といった格闘技の猛者と相対する猪木さんの志には子供ながら共鳴してました。


ーー猪木さんと異種格闘技戦を闘った選手たちは、モハメド・アリは違いますけど、本業は格闘家じゃなくて、一般職で働いているケースが多くて、ウィリー・ウィリアムスもバスの運転手が本業だったそうですから。あとまだあまり知られていない頃にヒクソン・グレイシーが国会議員時代の猪木さんに挑戦状を送っていたらしいですよ。


加藤さん そうなんですね!興業会社として、闘いを最大限にお金に換金できる場所が当時の新日本プロレスだったと思います。やはり新間さんという稀代の名プロデューサーと猪木さんのタッグが凄いんですよ。だから子供の時から新間さんが気になってましたよ(笑)。


ーーハハハ(笑)。


加藤さん なんでこの人、リングに上がってマイクを握っているんだろうと(笑)。当時のプロレスメディアには新間さんが主語になった情報や記事は掲載されてましたね。「新日本プロレスが面白いのはリング上だけじゃないんだよ」ということを新間さんは伝えたかったのかも(笑)。でもそうこうすると、『週刊プロレス』では新日本で営業部長だった大塚直樹さんの連載が始まったり(笑)。大塚さんが新日本クーデターの真相とか語っていて、小学生時代はそれを日々、熟読してましたよ。


『週刊プロレス』を中心に一週間が回っていた高校時代


ーー大塚さんは後に新日本プロレス興行(後のジャパン・プロレス)を設立して社長になりますよね。少年時代に『週刊プロレス』の読者になると、確実にませますね。


加藤さん そうですね。だって母親に「伏魔殿ってどういう意味?」「業務提携はどういうこと?」とか聞いてましたね。活字慣れしているから漢字は強くなりましたよ。


ーー「刹那」という単語を覚えたりとか(笑)。


加藤さん ハハハ(笑)。僕の言語戦術というのは『ビッグレスラー』や『週刊プロレス』のターザン山本さんや市瀬さんの記事を読んで培われたものが根底にあると思いますね。 

   


ーーやはり活字プロレスの影響を多分に受けていたんですね。


加藤さん 高校時代の三年間は、『週刊プロレス』を中心に一週間が回ってましたよ。水曜日の深夜に茨城大学前のセブンイレブンに行って、『週刊プロレス』最新号を積んだトラックが深夜12時半に来て、雑誌がトラックからお店についたすぐにビニールを開けてもらって、出来立ての『週刊プロレス』を買ってました。勝ってからすぐに熟読して、木曜はひたすら眠いという高校三年間でした(笑)。


ーー『週刊プロレス』読者の鏡ですね!ちなみに試合結果を聞くために編集部のダイヤルサービスに電話してましたか?


加藤さん やってましたね(笑)。あのサービス、なかなか繋がらないんですよ。ようやく繋がると「両国国技館大会の結果です」と流れる音声を聞いて楽しんでました。あとFAXも送ってました。


ーーFAX通信ですね!


加藤さん そうです!僕が書いたFAXが誌面に載ると凄い嬉しかったですよ。家にFAXがないので、学校に行く途中にあるコンビニでFAXを送ってました。



僕のプロレス観は案外、宮戸優光さんに近いかも


ーー素晴らしいですね!


加藤さん 僕は『週刊プロレス』を中心に送る生活をする中で、1991年に旗揚げしたUWFインターナショナル(Uインター)が気になるようになりました。やはり「最強」の旗印にして、「プロレスラーは強くなければいけない」という志が好きで、髙田延彦さんが繰り広げた元プロボクシング世界ヘビー級王者のトレバー・バービックや元大相撲横綱・北尾光司さんとの異種格闘技戦を見ると「これが僕が求めたものだ!」というのがありました。高校卒業後に上京して大学生になってからは首都圏で行われたUインターの興行は全部、観戦してましたよ。


ーーそうなんですね!完全なUインターファンですね。ちなみに1993年12月5日の神宮球場大会も観戦されたんですか?


加藤さん もちろんです!髙田延彦VSスーパー・ベイダーのプロレスリング世界ヘビー級選手権試合がメインイベントでしたね。まぁ、寒かったですね!


ーー真冬に開催してますからね。この大会はTBSが中継していて、解説を務めたのが宮戸優光さんだったんですよ。髙田VSベイダーの試合途中で、髙田さんがピンチになると急に放送席を離れてリングサイドに駆け寄ってアドバイスを送るようになって、代わりに当時新人だった高山善廣さんが解説席に座るという謎展開がありましたよ(笑)。


加藤さん ハハハ(笑)。僕のプロレス観って案外、宮戸さんに近いのかなと思うことがあるんですよ(笑)。


ーーおお!あの「Uインターの頭脳」「Uの新間寿」と形容された宮戸さんですか!


加藤さん 「プロレスは強くないといけない」というアントニオ猪木原理主義とルー・テーズ、ダニー・ホッジ、ビル・ロビンソンが立会人として出てきて古き良き黄金期のプロレスのエッセンスを混ぜて、さらにテーズベルトを復活させて、髙田さんをプロレスリング世界ヘビー級王者に君臨するという宮戸さんとUインターの世界観がとにかく好きでしたね。


ーー「最強」路線に、オールドタイマーを巻き込んでいくUインターに加藤さんはハマった感じですか?


加藤さん そうですね。当然、藤原組もリングスも見てましたけど。僕が上京して初めて観戦したUインターの日本武道館大会(1993年5月6日)の目玉カードがスーパー・ベイダーVS中野龍雄だったんですよ。どんなに倒れても立ち上がる中野さんの姿が眩しくてね…。


ーーベイダーがUインターに参戦することが発表されてから、当時の『週刊プロレス』が宍倉清則次長を中心にベイダーの初戦の対戦相手として中野を推したんですよ。宍倉さんは記事の見出しで「見たい!」って付けてましたよ。


加藤さん ハハハ(笑)。確か中野さんは『週刊プロレス』表紙をゲットしてましたね(笑)。プロレスファンは日の当たらないレスラーが檜舞台に立つと嬉しいじゃないですか。苦労人がスターダムにのし上がったりとか。



『週刊プロレス』の主観記事が好きだった


ーー確かにそれはありますね。


加藤さん 今、宍倉さんの話が出ましたけど、『週刊プロレス』の主観を込めた記事が好きだったんですよ。山本さん、宍倉さん、市瀬さん、佐藤正行さん、小島和宏さん…。彼らはちゃんと「私は〇〇だと思う」「私は〇〇が見たい」という意思表示を記事で書くから、面白いんです。客観的報道や冷静沈着な報道もジャーナリズムとして大事で必要。でもああやって夢中になって熱くなって、何かを伝えたり、推していく。熱狂の中に自分の体を委ねていくという伝え方や推し方は、プロレスファン時代に学んで、スポーツ報知の記者になって活用してますね。


ーー加藤さんは著書『砂まみれの名将』(新潮社)では熱いストレートな文章を書かれていますが、あの世界観は小島さんのクレイジーな熱い文章に通ずるものがあったんですよ。


加藤さん 『砂まみれの名将』の追い込み時、ビジネスホテルにカンヅメになりながら、どうしても我慢できなくて小島さんの「WING本」を熟読してしまい、執筆に支障が出ました(笑)。


ーー山本さんはアバンギャルドで、宍倉さんはトリッキーで、市瀬さんは大人で、佐藤さんがやや青くて、鈴木健さんがオールマイティーといった感じで、『週刊プロレス』の記者さんはそれぞれに強烈な個性が溢れた文章の世界観があるんですよ。


加藤さん その通りですよ。そして、斎藤文彦さんは洗練されたおしゃれな文章なんですよね。


ーー斎藤さんは精神科医の香山リカさんと付き合って結婚するまでの過程を自身のコラムでおしゃれに書くんですよ(笑)。


加藤さん ハハハ(笑)。「記者は黒子で、主観を押し出すべきじゃない」という考えを持つ人もいて、それは否定しません。僕は『週刊プロレス』を読んで育ったので、その世界観で野球を書いた人なんていなかったので、読者として感じ取った僕なりの『週刊プロレス』イズムでやってやろうと思ったんですよ。


ーー僕は色々と考えていくにつれて『週刊プロレス』イズムと『週刊ゴング』イズムの違いというのが見えてきたんですよ。『週刊ゴング』はスポーツ・ジャーナリズムに則ってプロレスを書いているんです。竹内宏介さん、小佐野景浩さん、金沢克彦さんといった皆さんの書き方は割とオーソドックスだと思います。対する『週刊プロレス』は私小説や純文学の世界なんですよ。


加藤さん 確かにそうですよ。あと文学少年である山本さんの歩いてきた道程が見えますよね。純文学とか。山本さんの記事で覚えているのが、川崎球場でFMWの興行がある時に、川崎の駅から川崎球場まで歩いていることを試合レポートでひたすら書いているんですよ(笑)。


ーーハハハ(笑)。山本さんらしい話ですね。それにしても加藤さんの文章は『週刊プロレス』イズムを野球に導入していって、独自の世界観を構築したという印象があります。


加藤さん おっしゃる通りです!それは意識してやってましたよ。今、活字野球が盛んですよね。『文春野球』なんてもっと評価されていいのかなと思いますよ。


ーー『文春野球』の記事は面白いですよね、また書かれるライターも個性派でさまざまなジャンルから野球コラムを書くんですよね。


加藤さん 今は『文春野球』があることが当たり前になっているかもしれませんが、もしなくなったらみんな『文春野球』ロスになるんじゃないですか。書く人間としては腕試しの場なんですよ、『文春野球』は。初期UFCのような面白さがありますよ(笑)。初期UFCはリアル天下一武道会でしたよね。


ーー忍者や謎の武術家が出てきたりする素敵なバトルフィールドですね(笑)。


加藤さん ハハハ(笑)。僕の学生時代のバイト代はCD収集、ミュージシャンのライブ、プロレス観戦に消えてましたね。当時のプロレスファンはみんなそうだったと思うけど、リングスとW★INGという対極な団体を楽しんで見てましたね(笑)。


ーーその感覚はよく分かります!


加藤さん ジャストさん、当時は苦学生でしたけど、今思うと20歳の若者としては最高の金の使い方をしたと思ってますよ。どんなにテクノロジーが発達しても、1993年5月6日のUインター日本武道館大会で行われたベイダーVS中野の現場には立ち会うことはできないですから。


ーーしかもベイダーVS中野を見た後に、ゲーリー・オブライトVSデニス・カズラスキーも見てるわけですね!


加藤さん ハハハ(笑)。そうですよ!メインイベントの髙田延彦VSダン・スバーンも見れちゃう(笑)。プロレス興行も当たりもあれば、外れもあって、CDも当たりも外れもあるけど、身銭を切って観戦や視聴するからこそ、それが後に文章を書く時の原動力や引き出しになっていくんですよ。あと僕は新日本・北朝鮮大会も観戦するために平壌までツアーで行きましたよ。


ーー平壌ですか!それは猛者中の猛者ですよ(笑)。


加藤さん お金は旅行会社のツアーで行ったので30万円くらいはかかりましたけど、メーデースタジアムで観戦してよかったと思いますよ。19万人は入っていたと言いますからね。猪木さんがリック・フレアーにナックルパートをやった時は興奮しましたし、凄すぎる大歓声でしたね。


ーーアントニオ猪木VSリック・フレアーが北朝鮮で実現するなんて、蜃気楼か幻ですよね。これが現実なのかと。


加藤さん 幻ですよね。北朝鮮で興行をやって大赤字になって、東京ドームでのUインターとの対抗戦を借金を返すという新日本のダイナミズムも最高ですよ!


(第1回終了)