私とプロレス はやしげさんの場合 「第2回 ノア全盛期が僕の青春だった」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。


記念すべき初回のゲストは、"ノアの語り部"としてSNSで活動をされているはやしげさんです。はやしげさんは自身のnoteでプロレスに対して冷静沈着で鋭い見方と熱い思いを織り混ぜた独特の記事を書かれています。自身が愛するプロレスリング・ノアのファンの皆さんからすると有名人かもしれません。


【はやしげさんのプロフィール】

プロレスリングノアが好きです(拳王&中嶋&矢野安崇)。最近全日本も回帰中(宮原&芦野)。それ以外だと佐久間一彦さんのファン

プロレス以外ではランニング、FC東京、アメフトも好きです。



はやしげさんのTwitter 

https://twitter.com/monmontokyo


はやしげさんのnote    


"ノアの語り部"はやしげさんは、どのようなきっかけでプロレスに出逢ったのでしょうか?そしてプロレスに対してどのような考え方をされているのでしょうか? はやしげさんにあらゆる角度から質問して、インタビューさせていただきました。



「私とプロレス はやしげさんの場合」第2回は、2000年代のノア全盛期についてはやしげさんに語っていただきました!


私とプロレス はやしげさんの場合

第2回 「ノア全盛期が僕の青春だった」





小橋建太の凄さとは?


ーー2000年6月に全日本プロレスは当時社長だった三沢光晴さんが辞任して、彼を筆頭に小橋建太さん、秋山準さん、田上明さんといったとしたトップレスラーを含む多くの選手26名、練習生1名、大半の職員が離脱し、新団体「プロレスリング・ノア」を旗揚げします。全日本に残ったのは川田利明さん、渕正信さん、レフェリーの和田京平さん、リングアナウンサーの木原文人さん、広報1名、オーナーの馬場元子さんの6名と外国人レスラーのみでした。はやしげさんは全日本分裂後はノアを追いかけるようになったのですか?


はやしげさん そうですね。全日本も見てはいましたけど、三沢さんや小橋さんが好きだったので、そのままスライドしてノアファンになりましたね。



ーーはやしげさんは三沢さんと共に小橋さんのファンですよね。小橋さんの魅力について語っていただけませんでしょうか。


はやしげさん 小橋さんのデカい外国人をパワーで打ち勝つスタイルが好きだったんですよ。あと、これは今、思えばなんですけど、「生命力」の強さですね。小橋さんは困難があってちゃんと生きて帰ってきたんですよ。怪我とか病気とか激闘とかあっても最後は両足でリングを降りて引退されました。でも、三沢さんはリング上の事故もあってそれができなかった。だからこそ小橋さんの生きる力は本当に凄いと思うんです。


ーーはやしげさんが好きになった頃の小橋さんはヒザがボロボロでしたよね。


はやしげさん そうですね。ムーンサルト・プレスもほとんどやってなくて。確か一年くらいヒザの手術とリハビリで欠場して、2002年2月17日の日本武道館大会で復帰するんですけど、またヒザを怪我しちゃってまた欠場しちゃうんですよ。あれはショックでしたね。


ーー小橋さんは三沢さんとコンビを組んで、秋山さんと新日本プロレスの永田裕志さんと対戦したんですよ。試合中盤にロープに飛んで攻撃しようとした小橋さんに永田さんがカウンターで左インローを入れたんですよ。それで小橋さんのヒザがガクッときちゃって、左膝前十字靱帯不完全断裂という怪我を負ってしまったんです。


はやしげさん それで再欠場して、5ヶ月くらい休んでから復帰戦(2002年7月5日・後楽園ホール大会 小橋健太&鈴木鼓太郎VS井上雅央&金丸義信)でジャンピングリングインしたんですよ。本当に小橋さんの怪我に立ち向かう姿勢には惹かれましたね。小橋さんがGHC王者として長期防衛をされていた時期が僕が大学生で一番プロレスを見る機会が多かったので、やっぱり思い入れが強いですね。



大学時代に訪れたノア全盛期



ーーはやしげさんが大学生だった頃って、ノアは全盛期だったんじゃないですか。


はやしげさん そうですね。2002年に大学に入って、4年生の時は二度目の東京ドーム大会(2005年7月18日)があって、三沢さんと川田さんのシングルマッチも生観戦しているんですよ。


ーーということは、東京ドーム大会も開催して、新日本に代わりプロレス界の盟主となったノア全盛期がはやしげさんにとって青春時代だったのかもしれないですね。あの頃のノアについてどのようにご覧になっていましたか?


はやしげさん 当時はK-1やPRIDEといった格闘技ブームがありました。大学の同級生とかでも格闘技を見ている人が多かったので、プロレスファンとして肩身の狭かったですね。でも、勢いが凄かった格闘技に負けない試合を展開していたのが当時のノアだったんですよ。だからあの時にもうちょっと世間に取り上げてもらってもよかったなと思いますよ。あそこが起爆剤となってノアはもっと色々なことができたかもしれないんですよ。それが諸々の事情で出来なかったのでしょうけど。


ーー2000年代のノアが全盛期だった頃は、逆にプロレス界は冬の時代に突入していくんですよね。


はやしげさん 僕と 同世代のプロレスファンが、格闘技ファンにスライドしていくんですよ。



2003年3月1日・ノア日本武道館大会

三沢光晴VS小橋建太



ーー2003年3月1日に三つの団体で興行合戦になりまして、K-1は有明コロシアム(K-1WORLD MAX2003日本代表決定トーナメント)、新団体WJプロレスが横浜アリーナで旗揚げ戦、そしてはノアが日本武道館大会を開催して、三沢光晴VS小橋建太のGHCヘビー級選手権試合が実現しました。


はやしげさん あの日のノア武道館大会を現地に行ってました。


ーーあの三沢VS小橋は伝説の名勝負となりましたが、実際に現地で観戦してみていかがでしたか?


はやしげさん 三沢さんの断崖式タイガー・スープレックスが生で見れたのがいい思い出で、会場の熱気が凄かったです。生で見た最初で最後の三沢VS小橋で、名勝負を見届けることができて嬉しかったです。とにかく観客のボルテージが違いました。あと解説の高山善廣さんが「今日は色々なところで大会をやっているけど、この会場にいないヤツはバカだな」と言っていたんですよね。あれは、WJやK-1を選んだファンだけではなく、WJに参戦したノーフィアーの元・パートナーで、ノアを退団した大森隆男さんに対してのコメントだったのかなと思ったりしましたね。


ーー確かあの日のノア武道館大会は、三沢VS小橋だけで勝負して超満員になったんですよ。他の試合でタイトルマッチとか組まなかったんですよね。


はやしげさん そうなんですよ。あの三沢VS小橋のインパクトが凄くて…。


ーー三沢VS小橋の試合後に「ノア」コールが起こったんですよね。


はやしげさん ありましたね!ノア武道館大会は何度も見に行ってましたが、「ノア」コールはなかったんですよ。


ーー全日本の四天王プロレス時代は「全日本」コールって多かったじゃないですか。ノアで行われた三沢VS小橋で「ノア」コールが起こった。これはファンが試合に対する感謝とマッチメイクした団体に対して「ありがとう」という気持ちがコールとなって現れて、その光景も含めて、あの日の三沢VS小橋は四天王プロレス時代を再現したのかなと思いますね。ここからノアはさらに上昇しますよね。


はやしげさん はい。2003年に三沢VS小橋があって、2004年と2005年に東京ドーム大会が開催されて、ノアの全盛期を自由に時間を使える時期に見れて、よりハマったという感じでしたね。




2004年と2005年に開催したノア東京ドーム大会



ーー東京ドームの話が出ましたのでお聞きしますが、2004年7月10日に初めて東京ドーム大会を開催しました。現場にはいらっしゃったんですか?


はやしげさん 観戦してました。2004年の東京ドーム大会は「お祭り」というよりも、日本武道館でやっているパッケージを少しデカくした興行だったなという印象があります。


ーー確かにそうですね。GHC4大タイトルマッチを軸にして、残りの試合はタッグマッチが中心に組まれていましたね。あと新日本のIWGPタッグ戦(高山善廣&鈴木みのるVS森嶋猛&力皇猛)はありましたが…。


はやしげさん 逆に2005年7月18日の東京ドーム大会は「お祭り」でしたね。メインイベントが三沢さんと川田さんの一騎打ちで、セミファイナルが小橋さんと佐々木健介さんの初対決だったんです。力皇さんがGHC王者で、下の方でタイトルマッチをやってたんですよ(対戦相手は新日本の棚橋弘至)。ドームを埋めるには「お祭り」にしないといけないのかなと。マッチメイクは難しいですね。今思えばあそこでメインにGHCをもっていけなかったのは色んな意味でノアが無理をしていたのかもしれないです。


ーーあの頃の仲田龍さん(リングアナウンサーで、当時は取締役渉外部長)がとにかく銀行の話ばかりするんですよ。「銀行が貸してくれる」とか「銀行からの信用」という言葉がよくインタビューに出てきて、ドーム興行開催も銀行絡みが要因だったようですよ。


はやしげさん 新日本が経営が悪くなっても1月4日・東京ドーム大会を辞められなかったのは、赤字でもドーム大会を開催しているという信用と何万人の興行収益というキャッシュが入るのは大きかったと思いますよ。


ーー同感です。新日本は暗黒期でも東京ドーム大会を年に3回やっていたこともありましたから。一発逆転を狙うにはドーム大会はマストだったのでしょうね。


はやしげさん 僕としては2004年のドーム大会が理想形でしたね。三沢さんと武藤敬司さんのドリームマッチがGHCタッグ戦で実現して、その後に小橋さんと秋山さんでGHC戦という流れでした。ただ2005年のドーム大会は「お祭り」になったということは、ノアは定期的に開催していた日本武道館大会との差別化を測ったのかもしれませんね。


ーーあと日本テレビへの配慮もあったのかもしれないですね。だから目玉カードを組んで中継の視聴率を獲得しないといけなかったと思うんです。確か2005年のドーム大会は、即日深夜で3時間くらい放送しているんですよ。


はやしげさん そうですね。


ーーだから、はやしげさんと話している内容は今のノアファンからすると新鮮に感じるかもしれないですよ。


はやしげさん 2005年のドーム大会は丸藤正道と鈴木みのるがタッグ王者で防衛戦をやっているので(相手は秋山準&橋誠)、「この二人がタッグを組んでいたの?」と思うかもしれないですよね。今の鈴木みのるは鈴木軍のイメージしかないですから。


ーーノアを追うようになってから、好きなレスラーは変わりましたか?


はやしげさん やっぱり小橋さんと三沢さんが好きでしたね。あと丸藤や力皇も出始めた頃だったので、応援してましたね。



丸藤正道の凄さとは?



ーー丸藤正道選手の名前が出ましたが、彼は「ノアの天才」と呼ばれていて、20代前半から他団体に参戦したり、縦横無尽に活躍していました。はやしげさんがご覧になって、丸藤正道選手の凄いところは何だと思いますか?


はやしげさん 自分のスタイルを変えることに躊躇がないところですね。GHCジュニアヘビー王座を獲った20代前半の時もそうだし、ヘビー級に挑戦してGHCグランドスラムを達成した時もそうだし…。怪我も増えて出来ないことが増えてくる中で、自身の丸い円を、歳を重ねていくと小さい円にするのはなく、その丸い円を三角や四角に形を変えて面積を変えないでやりくりしているのが丸藤の凄さだと思います。


ーー丸藤選手はプロレスもそうですし、人間としてもそうなのですが、多角的な視点があって、はやしげさんがおっしゃっているように「こういう形にすれば自分のプロレススタイルを保てる」「これができないなら、こうすればできる」という思考の柔軟性が凄い方だなと思いますよ。


はやしげさん 丸藤の場合はスタイルチェンジを繰り返しているので、年齢の衰えが見えないんです。例え衰えたとしても、それを感じさせない技法が丸藤にはあるのかなと。


ーー丸藤選手は自分の体調に合わせてスタイルを変えても、「丸藤正道のプロレス」を表現し続けているのかもしれないですね。


はやしげさん 恐らく三沢さんは「三沢光晴」という像を最後まで変えられなかったと思うんです。色々な理由もあるでしょうけど。丸藤はそんな三沢さんを見ているからこそ、「出来ないのなら無理にこだわる必要はない」「できないのなら自分に合ったスタイルに変えていけばいい」という思考になったのかもしれないですね。


ーーもしかしたら丸藤選手は教訓にしたのかもしれないですね。


はやしげさん 三沢さんは最後まで「三沢光晴」を貫いたけど、あれが本当に正しかったのか、会社がそうしないと成り立たなかったという理由があったても、ソフトランディングできたんじゃないのかというのが過る中で、「俺はそうはしないよ」というのが丸藤にはあったんじゃないかなと。2006年10月29日・日本武道館で行われた丸藤とKENTAのGHC戦のようなスタイルをずっとやっていたら、身体がもたなくて、もう現役を辞めていたかもしれないですね。


ーーあの丸藤VS KENTAはジュニアヘビー級の攻防がミックスされて、形を変えた四天王プロレスでしたよね。三沢さんは「この二人の試合は俺にはできない」って言ってましたよ。


はやしげさん 確かにそうですね。あのままスタイルを変えなかったら、何らかの事故とかもあったり、肉体が悲鳴を挙げて現役を退いていたかもしれないけど、スタイルを変える勇気があったからこそ、丸藤は今もトップレスラーとして活躍しているんじゃないかなと思います。


ーー変化を恐れない…言われてみるとそうかもしれないですね。


はやしげさん 自分のスタイルはなかなか変えられないと思うんですよ。これで支持されてきたわけですから。でも、丸藤はスタイルを変えることができた。これはなかなか凄いことですよ。あと丸藤VS KENTAのスタイルって、後に2010年代後半に新日本でオカダ・カズチカやケニー・オメガがアレンジしたりスケールアップしてやったスタイルの原型になっているのかもしれないですね。



小橋建太、腎臓ガンから奇跡の復活



ーーそうかもしれないですね。丸藤VS KENTAは21世紀のプロレスの流れを変えた試合だったと思いますよ。話が変わりますが、2006年に小橋さんが腎臓ガンで欠場という事態になりました。小橋さん好きのはやしげさんはあの時、どのように感じていましたか?


はやしげさん ガンという言葉が重くて…。復帰できるのかな、生きて帰ってこれるのかなと心配だったんですけど、幾度も怪我を乗り越えている人なので、なんとか帰ってきてほしい、きっと帰ってくるという思いがありましたね。


ーー当時のノアは人間ドックをしていたこともあって、小橋さんのガンは早期発見だったのが、苦しかったと思いますが、不幸中の幸いだったのかもしれないですね。2007年12月2日・日本武道館大会で小橋さんは奇跡の復帰戦を行いました。この試合について語っていただけますか?


はやしげさん 入場ゲート付近に入院中に届いた折り鶴が並んでいたりとか、ファンが泣いていて、本当に重たい試合でしたね…。凄いなぁって。小橋さんは腎臓ガンになって、腎臓に負担をかけてはいけないからタンパク質もなかなか取れなくて、身体作りをしてプロレスラーとして復帰したので、これはプロレス界だけではなく、スポーツ界としても特異な出来事だったと思います。

(第2回終了)



さて次回は、一時期は新日本に代わるプロレス界の盟主に君臨していたノアですが、2000年代終盤から人気が陰りが見え始めます。そこに地上波中継打ち切り、創設者三沢光晴さん急逝、主力選手離脱、団体の迷走…次々と負のスパイラルが襲いかかり、やがて経営難に陥るノア。だがリデットやサイバーエージェントという救世主の存在によって復活するノア。紆余曲折の2010年代から現在に至るノアについてはやしげさんに語っていただきました。お楽しみに!