ロシアの狼 魅惑と神秘のサガ~戦闘的関節技魔術の達人~/ヴォルク・ハン【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第193回 ロシアの狼 魅惑と神秘のサガ~戦闘的関節技魔術の達人~/ヴォルク・ハン

 


格闘技界には己の道を極めた者達がいる。

合気道の塩田剛三は演武で襲い掛かる複数の弟子の間をすり抜け、駆け抜け、ちぎっては投げちぎっては投げをする神業を披露している。向かってきた相手の手首を軽くつかんだだけで動きを封じ、制圧してしまう。「格闘技の神様」と評されている塩田のような者を人は、こう呼ぶ。

 

「達人」。

 

イギリス・ランカシャーレスリングの猛者であるスティーブ・ライトはプロレスの世界をまるで手品のように相手の手や足を絡めとることでレスリングを芸術にまで高める。モンキーフリップの掛け合い、リストの取り合いなどライトの試合には気品が溢れる。彼はプロレス界でこう呼ばれた。

 

「魔術師」。

 

塩田剛三のような格闘技の達人であり、スティーブ・ライトのようなリングの魔術師だった男。

それが今回取り上げるヴォルク・ハンである。

彼は厳密的に言うと純粋なプロレスラーではない、コマンドサンボを極めた格闘家である。そんな彼が一躍スターダムにのし上がったのが前田日明率いるリングスでの活躍。リングスが生んだ外国人スター…それがハンだった。

 

リングスとは…

 

プロレス団体の新生UWF(第二次UWF)の解散により、所属選手は藤原組、UWFインターナショナルに分かれ、前田日明はたった一人でリングスを立ち上げた。開局当初、新生UWFの中継をソフトの目玉とする予定だったWOWOWはネームバリューのある前田をバックアップ、リングスと放映契約を締結した。そのおかげで他派に比較するとリングスの資金は潤沢であったと言われるが、内実は、地上波とは比べようもない放映権料を元に、ネットワーク管理費と、日本人選手の安定数不在の為興行選手経費の増大に苦しめられた、波乱状態の経営だった。旗揚げにあたり前田は「ネットワーク構想」を打ち立て、全世界に道場を設立し選手を育成、日本で戦わせる事と、 ネットワーク参加国に対し、自主独立興業形態を約束しその実現に奔走した。これは、ひとえに総合格闘技の黎明期において、選手育成と世界組織創立の為の無謀なる経営的な実験とも言える物だった。 1991年のリングス・オランダを皮切りに活動停止までに10ヶ国に上った。日本国内では活動を停止したリングスだが、リトアニア、ロシア、オランダなど海外ではリングス・ネットワークの手により大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営するリングスKOKルールを採用した格闘技イベントZSTが開催されるなど、リングスの系譜は受け継がれている。
【リングスについて/リングスホームページ】
 
格闘プロレスUWFの流れを汲むリングスはアントニオ猪木の代名詞となった異種格闘技戦を一つのルールで統一された中で競い合うという斬新な団体だった。プロレス、空手、ボクシング、キックボクシング、サンボ、柔道、空手、ムエタイ、レスリング…。あらゆる格闘技の猛者が集結。
 
「世界最強の男はリングスが決める」
 
それがリングスのキャッチコピーに説得力を持たせ、我々を魅了してきたヴォルク・ハン。
この男の格闘人生を追う。
 
ヴォルク・ハンは1961年4月16日ソビエト連邦ダゲスタン共和国で生まれた。
本名はマゴメトハン・ガムザトハノフという。
 
実は元々ハンはサンボの選手ではなく、フリースタイル・レスリングが格闘家としてのスタートだった。大学に入って出会ったレスリングでソ連ジュニア選手権優勝している。1981年にサンボに転向し、あの数々の関節技を取得していく。1984年にモスクワの警察学校に入学し、一年後の1985年にサンボソ連大会無差別級大会を優勝する。サンボでソ連トップ選手の一人となった彼はその後、陸軍入隊し、空挺部隊に所属する。そこで彼はコマンドサンボ教官を務めた。
 
コマンドサンボはイタリアではコンバットサンボ、ロシアではバエヴォエサンボと呼ばれ、サンボの技術をより実戦に対応できるように改良した軍隊格闘術。自分が負傷させず、さまざまな相手を痛めつける技を駆使していくのがコマンドサンボの原理だ。訓練では、目をえぐり出すこと、髪の毛を引っ張ること、関節を外すこと、投げることなどが行われ、この格闘技修得者は、相手を投げ飛ばすと同時に、関節を外したり骨折させたりする技を持っている。後に前田日明が「戦場の殺人術」と称したのは大袈裟ではない。現在は総合格闘技のようなスポーツ化と護身術の両立を図っている。
 
ハンは後にこう語る。
 
「私は旧ソ連軍でも最も厳しいパラシュート部隊にいた男だよ。国家警察軍としてコマンドサンボを使わざるをえないような、危険な目にもあっているんだ。 私は喧嘩をするために生れてきたような男だからね(笑)。私は子どもの頃から喧嘩をすることに大きな喜びを感じていた」
【ヴォルク・ハン/RINGS格闘家列伝】
 
コマンドサンボ教官となり、多くの兵士に護身術を教え、その一方でサンボでは国際大会優勝を果たすサンビストだったハン。だが、ペレストロイカの波が押し寄せる。社会主義から資本主義に移行していく。ソ連は崩壊していく。ハンは拠点としていたモスクワはロシア連邦の首都となった。格闘技やスポーツ選手達の生活が苦しくなっていった。ソ連の選手達を支えていたスポーツマスター制度が崩壊。年金がなくなり、裏稼業に手を染めるしかなかった者が続出していた。そんな時にモスクワを訪れたのが、リングスの前田日明だった。
 
新たな強豪格闘家獲得のためにモスクワに来た前田はサンボ大会を視察する。その大会で前田の目に止まったのがハンだった。全然見たことがない関節技や動きを次々と披露する姿を見た前田はハンをスカウトし、リングス参戦が決まった。実はハンは前田が視察することを事前に知っていた。だから前田へのアピールのために目立つ大技を連発したという。
 
1991年12月7日リングス・有明コロシアム大会。初来日のハンはいきなりメインイベントで前田と対戦する。リングネームとなった「ヴォルク」はロシア語で狼を意味する。まさしくハンは狼の如く、前田に襲いかかった。

 

初登場したハンの戦いぶりに観客は度肝を抜かれる。手首を掴みに行き、合気道のごとく投げては極め、また立ったままでも関節を極めてしまい、対戦相手を務める前田はきりきり舞いに。後にRINGSでメジャーとなるクロスヒールホールドを日本へ紹介したのも、この日のハンである。最後は大逆転の膝固めで何とか勝利を拾った前田だが、のちにハンとの対談でこんなコメントを残している。
「やられる技、やられる技、初めての技ばっかりで。俺、ロープエスケープがなかったら秒殺だよ。秒殺。1分もたずにやられちゃってるよ」
【前田日明による“ひとりぼっちの船出”! 格闘技ブームの源流となった団体「RINGS」/exciteニュース 2016年3月16日】

 

前田戦で一躍スターとなったハンの凄さは目の肥えた日本のプロレス・格闘技ファンから見ても衝撃だった。

 

ハンのなによりの"凄さ"は、関節技の多彩さにある。それまで藤原喜明らの活躍によって目の肥えはじめていた日本のファンであっても、ハンの関節技には呆気にとられた。新しい"文化"を知ったようなここちよいショックがあった。ハンの手や足はタコのようにグニャグニャと動き、見たこともない方向から関節技を仕掛けてくる。(中略)このハンの衝撃は、カール・ゴッチ、ビル・ロビンソン以来の衝撃と言っていい。くしくも三人ともヨーロッパ系のレスラーであり、極上ともいえるテクニックだけでファンを酔わせることができる。ゴッチのジャーマンスープレックス、ロビンソンのダブルアームスープレックスは、当時だれも真似ることのできない未知の"必殺技"であった。ハンにはこうした"固有名詞"のついた技はないが、それはつけようにもつけられないからだ。ハンの場合、未知の関節技がつぎからつぎへとくり出される。としていちいち名前をつけられないのだが、そこにハンがファンの尊敬を集め、神秘性を高める秘密があるのだ。

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リングス参戦以降、ハンの人生は変わった。
 
「当時の私は喧嘩が好き!お金が欲しい!違ったルールで戦ってみたい!そして外国に行ったことがなかったので行ってみたかった。そういう私の願望がリングスに出ることで全て叶えられたんだ」
 

190cm 107kgのバランスが取れた肉体を持つハンが繰り出す関節技は本当に独創的だ。代表的なのはクロス・ヒールホールド。相手の両腕をロックした状態で首を締め上げる変形のフロントスリーパーは通称「首極め腕卍」と呼ばれる。サンボのビクトル投げからヒザを固める「ビクトル式ヒザ十字固め」。相手が腕を取ってきたときのカウンターや後方への投げにもあらゆるバリエーションに派生していく立った状態での腕を固める「スタンディング・アームロック」。足を同時に挟み込んでの腕十字「足取り腕ひしぎ十字固め」。相手の頭を股に挟み込み、そのまま相手を前屈で折りたたむようにヒザを極める「首極め膝十字固め」。リバースSTFのように固める足がらみスリーパーである「フィッシュ・ストレッチ・スリーパー」など、その数は無限大である。その風貌と超絶テクニックから、「ロシアの狼」、「魔術師」、「リングスが生んだ最高傑作」と呼ばれるようになった。また、コマンドサンボを世に広く知らしめた実績、独特の風貌から多くの架空のサンビストのモデルになり。漫画『高校鉄拳伝タフ』の鬼川平蔵、ゲーム『バトルクロード』のウルフ教官などのモデルとなったといわれている。

 

ハンがリングスで心掛けていたことがある。それは試合に勝つことよりも、試合でファンを楽しませることだった。そのアティチュードはまさしくプロレスラーそのものだった。

 

「自分の技術を駆使して、いかにファンを楽しませるかということにプライオリティーを置いていたんだ。観客は我々の試合を見るために時間を割いて会場に足を運び、お金を払ってくれる。彼らは私たちを尊敬してくれているんだ。その尊敬に対して試合で尊敬を返せなかったら、尊敬してくれる彼らのことを考えないようでは『プロ』とは言えないじゃないか」
【ヴォルク・ハン/RINGS格闘家列伝】

 

リングス最強決定戦である「メガバトルトーナメント」を1995年と1997年に二度優勝し、人気実力と共にトップファイターとして君臨した。ちなみにハンは手品が得意で、バラエティー番組に出演した際は実際に手品を披露している。ちなみにB'z稲葉浩志はハンの大ファンだったという。冷静沈着なリング上とは裏腹に普段は温厚で優しい男だった。

 

そして、プロレスラーではなく格闘家であるハンが漂う凄さ、神秘性にはかつて日本プロレス界を彩ってきた多くの外国人レスラー達が身にまとっていた"それ"だった。「鉄の爪」(フリック・フォン・エリック)、「人間発電所」(ブルーノ・サンマルチノ)、「黒い魔神」(ボボ・ブラジル)、「荒法師」(ジン・キニスキー)、「鉄人」(ルー・テーズ)、「白覆面の魔王」(ザ・デストロイヤー)、「プロレスの神様」(カール・ゴッチ)、「人間風車」(ビル・ロビンソン)…。伝説を残してきた異人レスラー達のオーラをハンは持っていたのだ。幻想と現実が交差していた1990年代の中で、ハンの存在は際立っていた。

 

ハンはコマンドサンボという戦闘用格闘技のマスターであり、戦争の実戦部隊の教官をやっていた。"戦場の殺し屋"がマットに上がるということで、ファンに与える衝撃は大きかった。(中略)このレスラーがリングスのマットから生まれたことは興味深い。これが、新日本のマットであったら、ヴォルク・ハンというレスラーのよさが生きていたかどうかわからない。というのは、新日本のマットはストロングスタイルとはいっても、プロレス色が強く、プロレスに同化させようという力が強いからである。(中略)その点、ヴォルク・ハンはプロレスをほとんど意識することがなかった。リングスというマットで、コマンドサンボのテクニックを見せつけた。プロレスに同化しなかったからこそ、"未知の魅力"をアピールし、スターになりえたのだ。それは、リングスという実験的なマットだからはじめてできたことなのかもしれない。

【マニアが唸るプロレス名勝負の読み方 ミスターX/ポケットブック社】

 

だが時代は変わる。グレイシー柔術という黒船襲来によって、リングスもその渦に巻き込まれていく。元々はUWFルールを原型としたフリーファイトと呼ばれるものだったのが、遂にはKOKルールと呼ばれるオープンフィンガーグローブ着用の変則的MMAルールに移行していった。(※KOKルールはオープンフィンガーグローブ着用の顔面パンチが認められたが、グラウンドでのパウンド(顔面へのマウントパンチ)は認めなかった)

 

リングスが生んだ最高傑作のハンもKOKルールに挑むことになる。この時、39歳。年齢的にも肉体的にもベテラン、衰えを感じてもおかしくない年代に突入していた。ハンの決断は敢えて、荒波に立ち向かうことだった。彼はこう語る。

 

「私は前田の兵士なんだよ。将軍が決めたことに従うのが兵士の務めだ!」

「私はソ連軍でもっとも厳しいパラシュート部隊にいた男だよ。国家警察軍としてコマンドサンボを使わざるを得ないような危険な目にも何度もあっているし、最近だってチェチェン紛争のとき、私の故郷にも武力介入が及んでいたので、マシンガンを持って村を守ったぐらいだ。そんな私がリングを恐れることはないよ(笑)」

 

ハンにとって前田は人生を変えてくれた恩人だ。その恩人の命なら何でも従う。それがハンという男だった。そしてどんなにリングスが変わろうとも、自分がミスター・リングスなのだ。

 

KOKに出場を決めたハンは、「リングスで2回チャンピオンになっている私が無名のアマチュアみたいな選手に負けるわけにはいかない!」と、自らを鼓舞。そして戦闘集団「ヴォルク・ハン格闘術」を結成、故郷・トゥーラに道場を構える。そこではロシア中から才能ある若者を集め、「このルールで勝つにはレスリングと打撃が必要」と総合格闘技用の練習をすることになる。
【[格闘技]狼からの伝言!アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ&エメリヤーエンコ・ヒョードル&ヴォルク・ハンの巻/さよならテリー・ザ・キッド 2004/08/15】

 

2001年、リングスKOKトーナメントに出陣したハンは2001年準々決勝で、"柔術マジシャン"アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ(リングスではアントニオ・ロドリゴ・ノゲイラ)と激突する。後にPRIDE初代ヘビー級王者となり、世界のスーパースターとなるノゲイラは当時24歳の若武者でこのトーナメント優勝候補筆頭。ハンがコマンドサンボ熟練の達人なら、ノゲイラはブラジリアン柔術の若き達人。新旧達人対決は名勝負となった。試合は判定で敗れたハン。途中ノゲイラのヒザ十字固めに耐え続け意地を見せつけた。だが、ノゲイラのヒザ十字は極まっていなかったと後にハンは述懐している。

 

「私自身は今まで柔術家と戦ったことがなかった。それは自分にとって一番のマイナス・ポイントではないかと反省している。もっと前から彼らと戦ってみればよかったよ。私自身、ノゲイラと戦っていて非常に気持ちよかったよ。(ノゲイラが『タップしなかったのは理解できない』と語った膝十字について)私は彼を騙したんだよ。彼が足を取りに来るのがわかっていたから、左手をヒザの上に入れて、どんなに伸ばされても、脚が伸びきらない状態にしたんだ。ノゲイラにはそれがわからなかったはずだ」
【GONG(ゴング)格闘技 2013年4月号1/イースト・プレス】

 

ハンとノゲイラにはこんなエピソードがある。

 

2001年2月24日。そう、ノゲイラが見事KOKを制したあの日だ。
試合後の打ち上げパーティーでの話。ノゲイラはハンに挨拶に行き、なんと色紙にサインまで貰ったという。「やっぱりハンはカリスマ性のある偉大な選手だし、私自身、彼のファンであり、尊敬しているから」
とのこと。しかも、サイン色紙に書いたハンの言葉が実にしびれる文章なのである。
「狼からミノタウロへ
 優勝おめでとう。今日は君が最強の男だと認めよう。私は歳を取りすぎてしまったので、もう君と遭うことはないかもしれない。しかし私の魂を受け継いだ弟子たちが近い将来君を困らせるだろうから、その時はよろしく頼む 
 ロシアの狼 ヴォルク・ハン」
【[格闘技]狼からの伝言!アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ&エメリヤーエンコ・ヒョードル&ヴォルク・ハンの巻/さよならテリー・ザ・キッド 2004/08/15】

 

この狼の伝言から2年後の2003年3月にPRIDEのリングでノゲイラはハンのスパーリングパートナーを務めリングスKOKトーナメント最後の覇者となった"ロシアン・ラスト・エンペラー"エメリヤーエンコ・ヒョードルに敗れている。

 

ファイティング・ネットワーク・リングスは結局2002年2月に活動停止に陥る。最終興業にはハンはライバルのアンドレイ・コピィロフと旧リングスルールで対戦する。試合後、ハンはマイクでこう語った。

 

「尊敬するリングスの観客の皆さん、私の今日の成功はリングスのお陰です。リングス・ロシアの全選手を代表して言いたい。又、呼んでいただければ、我々は兵隊のようにいつでも帰って来ます!」

 

氷のように冷酷で、関節技という魔術を操るロシアの狼は実は炎のような情熱がある男気の持ち主だったのだ。リングス活動停止後、ハンは後進の指導とビジネス業に励んだ。

 

「カザフスタンの石油をウクライナを通じてトルコに輸出しています。石油関係のビジネスはよく儲かる。パートナーにも恵まれましたね。アルゼンチンからはニワトリの餌などを輸出しています。(中略)試合やビジネスの先を分析することは難しい。私は勝つことだけではなく、いかにお客さんを楽しませるかというところを腐心していました。その点はビジネスも同じ。常にお客さんのことを考えないといけませんからね」

【格闘技絶対王者列伝 布施鋼治/宝島社文庫】

 

格闘技界から離れていたハン。いつしかその名前も聞かなくなっていた。当時全日本プロレス社長・武藤敬司がハンに興味を示し、参戦させたいと考え、また元リングスの金原弘光が自主興行で鈴木みのるとの異次元対決をさせようとしていたが、いずれも実現することはなかった。

 

そんなハンが引退試合に選んだのは恩人がいるリングスだった。リングスは2008年からアマチュア興行から活動を再開していた。前田はリングスが生んだ最高傑作の引退試合を組むことを決意していた。対戦相手は当時全日本プロレスに所属し、リングスのライバル団体パンクラスのエースだった船木誠勝に決まった。UWF系ドリームマッチの実現である。

 

2012年12月16日リングス横浜文化体育館大会。ハンの引退試合が始まった。

 

ルールは15分1本勝負のリングスクラシックルール(レガース&ニーパットを着用。打撃は掌底による顔面攻撃のみが有効となり、ダウンまたはロープエスケープのどちらかが2度まで認められる)となる。
(中略)ゴングと同時に飛びかかったハンが寝技に引き込み、足を取りに行く。両者とも回転するようにして技を仕掛け、船木がバックを奪うとハンがアームロック、すぐにアキレス腱固め。船木のアキレス腱固めにハンがクロスヒールホールド。場内のファンからはどっと歓声が沸く。
(中略)スタンドで船木がローキックを連打し、ハンが寝技に引き込んだところで10分経過。ハンがアキレス腱固めでロープエスケープを奪い返してポイントをタイに持ち込む。残り時間1分、場内に起こる「ハンコール」。ハンは代名詞でもあるクロスヒールホールドを仕掛け、船木が膝十字で切り返す。ここで15分間が終了。引き分けとの裁定になった。
【リングス ヴォルク・ハン引退試合は船木誠勝とドロー/eFIGHT 2012/12/16】

 

試合後、前田はハンに感謝の言葉を捧げた。

 

「ハンのために(第1次リングス活動休止から)10年以上経つのに変わらぬ声援を送っていただきありがとうございます。ハンはリングスに恩義を感じていると言っていましたが、リングスもハンに助けられた。本当に長い間、リングスのために協力してくれたハンに感謝したいと思います」

 

そして、ハンからのラストメッセ―ジ。

 

「20年前に自分の格闘競技人生はこの横浜で始まりました。引退試合も横浜で行うことになりました。今日来てくださったお客様にとても感謝しています。そしてもちろん前田代表に感謝したいと思います。なぜなら自分の格闘技人生の幅を広げてくれたのが前田代表だからです。私はリング上で自分の持っている技を見せ、お客様に助けられてリング上で戦っていました。ありがとうございます。そして今日、私の引退試合でしたが、これからも若い人々がリングの上で活躍できるように願いたいと思います。もしかしたら、3年後に自分の息子(ジャマール=13歳にして身長187cm、体重72kg。つい最近に柔道とサンボでロシア王者になったという)がリングに立っているかもしれません。みなさん、応援ありがとうございました」

 

ロシアの狼は、息子に後を託し、リングに別れを告げていった。

 

決して純プロレス界の住人ではない。だが、誰よりもプロレスラーらしく生きた男。

格闘技の魔術師であり、神秘と魅惑の奥義を持つ達人でもあった男。

観客を楽しませることを考え、そのために変幻自在の関節技で一時代を作った男。

戦場の殺人術遣いでありながら、生粋のエンターテイナーだった男。

 

人々を魅了したい、恩人の期待に応え、団体を支えるというあらゆる性に忠実に生きようとしたロシアの狼の人生は格闘技で人生を変え、栄光を掴んだ偉大なるサガ(英雄伝説・歴史物語)だった。

 

ヴォルク・ハン。

この男の人生には魅惑と神秘に包まれている。

だが、そこには冷静と情熱の間にある男気と義侠心、そして戦場を生き抜く凄まじい人間力が内在されているのだ。