悪のジェントルマン~流血大王は不気味に噴火する/キラー・トーア・カマタ【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ


 
俺達のプロレスラーDX
第184回 悪のジェントルマン~流血大王は不気味に噴火する~/キラー・トーア・カマタ
 

 
「トーア・カマタ男」
 
フジテレビ系で放映された人気バラエティー番組「とんねるずのみなさんのおかげです」の看板コントコーナーが木梨憲武が扮する仮面ノリダーと石橋貴明が扮する敵役である"地球政府を企む組織・ジョッカーの怪人"と闘う「仮面ノリダー」である。この人気コントのある回に登場した怪人が「トーア・カマタ男」だった。
 
元々プロレスファンである石橋が扮する「トーア・カマタ男」は何故か、ブルーザー・ブロディの入場テーマ曲である「移民の歌」に乗って登場し、ブロディシャウトをしながら、栓抜きや鉄球付きのチェーンを振り回す。リング上では延髄斬り、ジャンピング・ニーパット、地獄突きで暴れ回り、最終的にノリダーに敗れるも、視聴者に強烈な印象を与えたキャラクターとなった。
 
オールドファンなら、この「トーア・カマタ男」のモデルはあの男だということは分かるだろう。
 
"流血大王"キラー・トーア・カマタ。
 
アブドーラ・ザ・ブッチャーが世間に名の知れた大ヒールレスラーだった時代に敢えて、カマタをモデルにしたあたりはプロレスファンの石橋らしいセンスかもしれない。
 
それでは怪人「トーア・カマタ男」のモデルとなった悪役キラー・トーア・カマタのレスラー人生を追っていくことにしよう。
 
カマタは1937年3月9日アメリカ・ハワイ州ホノルルで生まれた。
本名はマクロナルド・カマカという。
リングネームが"カマタ"なので、日本人や日系だと言われることが多いが、日本人の血は入っていない。
 
学生時代はアマチュア・レスリングで活動しながら、ハワイのナイトクラブで用心棒を務めていたという。アメリカ空軍を除隊後の1959年にハワイの名プロモーターであるエド・フランシスにスカウトされ、プロレス入り。キング・イヤウケア、マーク・ルーイン、若手だったニック・ボックウィンクルのコーチを受けてデビューを果たす。
 
元々は本名で活動していたが、1965年にテネシーを主戦場にすると"トーア・カマタ"と名乗り、日経人レスラーのトージョー・ヤマモトとのコンビでNWA南部タッグ王者に輝いた。
 
ちなみにリングネームである"トーア・カマタ"の"トーア"はスペイン異端審問で知られるトマス・デ・トルケマダをもじって名付けられたとも言われたり、「東亜(東アジア)」からとったとも言われてたり、「巨大な岩山」という意味にあるとさまざまな説がある。"カマタ"は本名である"カマタ"をもじり、アジア人に似ていたため、日本人名である"カマタ"となったという。嘘のような本当の話だが、ハワイアンのカマタは日本人、韓国人、フィリピン人だという説が流れていたという。
 
また、AWA入りすると日系人レスラー"ドクター・モト"となり、ミツ・アラカワとコンビを結成。1967年に日本では"ブルクラ"として恐れられた最恐コンビのディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーからWWA世界タッグ王座を、ウイルバー・スナイダー&パット・オコーナーからAWA世界タッグ王座を奪取する。
 
ちなみにアメリカに遠征にいっていた坂口征二にとって、カマタは恩人だという。
 
「私をカンザス地区へと誘ったパット・オコーナーから"ユーとタッグを組む男だ"と紹介された奇怪な選手。それはキラー・トーア・カマタさんだった。東洋系にもハワイアンにも見える不思議な風貌。上背こそないが、ややポッチャリとした風貌が、アブドーラ・ザ・ブッチャーにも似ているし、明治大の先輩、サンダー杉山さんにも似ている。とにかく不気味だ。だがカマタさんはニッコリと満面の笑みで握手を求めてくる。その奇怪な風貌とは正反対に、実に気持ちのいい"好漢"と呼ぶのがピッタリな先輩レスラーだった。カマタさんはハワイ出身。奥さんが日本人で、日本人に特別な親しみを抱いている様子だった。日曜日には、私と利子を自宅に招いて食事をごちそうしてくれたり、アマリロと比べて格段に治安が悪いカンザスで、何かと親身になって力になってくれたものだ」
【東京スポーツ/2009年9月16日】
 
1969年に"トーア・カマタ"に戻ると、よりジャパニーズ・ヒール路線を強調するために派手な着物を身にまとうようになる。カナダ・カルガリーでは北米ヘビー級王座を何度も獲得し、大ヒールとして活躍。"呪術師"アブドーラ・ザ・ブッチャーを血ダルマにしたという評判は日本にも伝わるようになった。また、ラダーマッチを世界で初めて闘ったのはカマタだった。ドリー・ファンク・ジュニアが保持するNWA世界ヘビー級王座にも挑戦したこともあった。
 
1975年5月、カマタは国際プロレスに初来日する。
 
「日本マットへの初登場時の衝撃度ランキングというのを作るとするならば、このトーア・カマタは文句なくベスト5には入る。1975年5月26日、後楽園ホールでラッシャー木村のIWA王座に挑んだカマタは1本目、2本目とも木村を血ダルマにしての反則負け…。東京12チャンネル(現・テレビ東京)が生中継したが、さすがにカルガリー地区でブッチャーを半殺しにした実力者、との迫力は十分に感じられた」
【超一流になれなかった男たち 流智美/ベースボールマガジン社】
 
183cm 140kgの巨体、残忍かつ凄まじい凶悪ファイトで、エース・ラッシャー木村とのIWA世界ヘビー級戦で一気に名を馳せ、国際プロレスのトップ外国人レスラーにのしあがる。「流血大王」という異名通り、ブラッドマッチに強烈な強さとインパクトを残していった。
 
「そのファイトスタイルは反則暴走を繰り返しながらもどこか明るさがあって、他のヒールのような陰湿さを感じさせない。舌を出してペロペロと口の周りを舐め顔をしかめる、そんな表情はどこかユーモラスで、大物感こそはなかったものの攻めっぷりもやられっぷりも潔く、敵役としては“丁度いい具合”の選手でした」(プロレスライター)
 
体型的にはブッチャーよりひと回り小さく、その点でのインパクトは薄かったが、その分“動けた”のがカマタの強味。奇声とともにその場で跳び上がって放つジャンピング・トーキックに、フィニッシュホールドはロープ最上段からのフライングソーセージ(ボディープレス)。片足跳びのドロップキックなど、当時のあんこ型の選手には珍しく空中戦をこなし、またロープワークも軽快だった。
【俺達のプロレスTHEレジェンド 第48R 愛すべき名悪役の名脇役〈キラー・トーア・カマタ〉/週刊実話】
 
日本では国際プロレスで活躍するカマタはアメリカでは1976年にWWWF(現・WWE)に参戦し、反則と暴走を繰り返したという。,地元のハワイではNWAハワイ・ヘビー級王者に輝いた。
 
1978年5月、カマタは全日本プロレスに移籍する。実はこれは円満移籍だったと彼は語る。
 
「ジャイアント馬場さんと吉原功さん(国際プロレス代表)はグッド・フレンドだし、私の移籍時もトラブルはありませんでした。もちろん、馬場さんからのオファーの方が上でしたが、私は最終決定を吉原さんに委ねたんです。吉原さんはてっきり"ノー"というかと思ったら、あっさりと私を手離してくれました。しかも、全日本プロレスに参加する最初のシリーズにPWFタイトルへ挑戦させてくれるように条件をつけてくれたんです。こんなプロモーターは、世界中どこを探したっていませんよ。吉原さんは私にとって、いつまでも忘れられない恩人です」
【超一流になれなかった男たち 流智美/ベースボールマガジン社】
 
そして、同年6月1日秋田市立体育館で馬場を反則勝ちで破り、PWFヘビー級王者となった。当時、馬場は38度防衛という長期政権を樹立していた。だが、伏兵カマタに敗れたため、多くの憶測が飛び交った。
 

「国際で木村に負け続けだったカマタに対し、反則裁定とはいえ馬場が敗れるというのは全日の歴史上でも異例のことでしょう。馬場としては、待遇にうるさいブッチャーをけん制するため、似たタイプのカマタをトップの一角に組み込もうというもくろみもあったようですが」(同・ライター) 
 さらにいえば「国際崩壊よりも先に移籍してきた分、好待遇を得た」「PWF王座は外国人エース格だったビル・ロビンソンに渡すまでが規定路線で、馬場が直接ロビンソンに負けることを避けて一時的にカマタを王者とした」との説もある。
とはいえ、カマタもそうした扱いにふさわしいだけの実力を備えていた。
【俺達のプロレスTHEレジェンド 第48R 愛すべき名悪役の名脇役〈キラー・トーア・カマタ〉/週刊実話】
 
ちなみに全日本参戦時にカマタは内密にアメリカでタッグを組んでいた新日本プロレスの坂口と再会を果たしていたという。
 
「当時は秘密にしていたが、カマタさんが全日本プロレスに来日していた頃、馬場さんに許可をもらい、こっそりとホテルを訪ねて再会し、懐かしい思い出話に花を咲かせたものだ」
【東京スポーツ/2009年9月16日】

 
だがこの二人はリング上で再会する機会は遂に訪れなかった。
 
馬場から奪ったPWF王座はすぐにビル・ロビンソンに明け渡したが、凶悪ファイトで、全日本の常連外国人レスラーとして定着する。1978年と1980年には世界最強タッグ決定リーグ戦ではアブドーラ・ザ・ブッチャーとのコンビでエントリーしたカマタは制覇は果たせなかったが、最終戦まで優勝戦線に残った。
 
ディック・マードックとの大流血戦は、両者にとっての日本におけるベストバウトといわれるほどだ('80年3月、後楽園ホール)。
「結果はレフェリー・ジョー樋口への暴行による両者反則の無効試合となりましたが、試合はどちらも見せ場たっぷり。カマタは地獄突き、マードックはエルボー主体のいわゆるラフファイトなのですが、両者ともに技の合間に見せる表情や間の取り方が絶妙で、会場は大いに盛り上がりました」(プロレス記者)
【俺達のプロレスTHEレジェンド 第48R 愛すべき名悪役の名脇役〈キラー・トーア・カマタ〉/週刊実話】

 
プロレスマスコミのカマタの評価は高い。
 
竹内宏介(元ゴング編集人)
「ドクター・モトとしてミツ・アラカワと組んでAWA世界タッグ王者となって、カマタになった後にブッチャーを血ダルマにしたという評判がきて、どんなに凄いヤツかなと思ったら、これが凄いヤツで。一番印象に残ったのはあの馬力」
【不滅の国際プロレス DVD BOX/ポニーキャニオン・テレビ東京】
 
門馬忠雄(プロレス評論家)
「カマタというのは大物なんです。国際と全日本を股にかけてのご乱行と流血三昧をやったんですから。半端な外国人レスラーじゃないですよ」
【不滅の国際プロレス DVD BOX/ポニーキャニオン・テレビ東京】

 
カナダではブッチャーのライバルとして台頭したカマタだが、日本ではブッチャーの後塵を拝し、パートナーに徹した。それはカマタのブッチャーへの敬意があったという。
 
「アブドーラにライバル意識? とんでもないですよ。彼はあれだけの体でジャンボ鶴田と五分のスピードで動けるんだから大したものです。空手だって私より本格的です。私のは、レスラーになる前にホノルルで日雇い労働をしていた時分、ナカソネという日本人にほんの少し教えてもらっただけですから。私がやる技でアブドーラができないのは、多分トップロープからのフライング・ソーセージだけでしょう」
【超一流になれなかった男たち 流智美/ベースボールマガジン社】
 
だが、1980年前半になると心臓に持病を抱えることになり、レスラーとして低迷していく。フライング・ソーセージも使わなくなる。最後の来日となった1987年に引退。
 
引退後、カマタはハワイのスーパーマーケットへの卸問屋を営んでいたという。また、ビーズ細工やレース編みが趣味だった彼は貝殻を集めてアクセサリーを作って販売していたという。
 
そんな状況下で日本のテレビで誕生したのがコントキャラクター「トーア・カマタ男」だった。実はフジテレビはカマタをゲストとして招聘しようとしたというが、全日本関係者からこう進言されたという。
 
「当人の体調面(心臓疾患の容態)の心配や痩せ衰えた外見によりファンのイメージを損ねる恐れがある」
 
フジテレビはカマタのゲスト出演を諦め、カマタ本人と「トーア・カマタ男」の共演は幻となった。
 

引退から20年後の2007年7月23日、カナダ・サスカチュワン州サスカトゥーンにてカマタは心臓発作のためこの世を去った。享年70歳だった。
 
自ら主役も張るだけでなく、ブッチャーのパートナーなどでもしっかり仕事をこなす。
(中略)
そういう意味でも堂々、昭和の日本マット界を支えた名選手の一人として記憶されるべきレスラーといえるだろう。
【俺達のプロレスTHEレジェンド 第48R 愛すべき名悪役の名脇役〈キラー・トーア・カマタ〉/週刊実話】
 
「悪役は紳士じゃなければいけない」
 
かつて"平成のテロリスト"村上和成が残した名言を見事に体現したのがカマタだった。リング上では極悪非道で傍若無人に暴れ回るヒール、しかしリングを下りると物腰が柔らかく、静かなナイスガイ。これがカマタという男だった。普段は紳士で好感を持たれていたカマタはその人間性でプロモーターから重宝されていた。
 
だが、その紳士ぶりをリング上では一切感じさせなかった。彼は不気味で奇怪な"キワモノ"であり続けた。だから舌なめずりしながら、サイコパスな表情を貫いた。プロフェッショナルとしてカマタは一流だった。どこまでも不気味で、活火山の如く噴火するその暴れっぷりには実に痛快だった。
 
"悪のジェントルマン"キラー・トーア・カマタ。
「悪役はいい人が多い」という定説を体現する大ヒールは主役にも脇役にもなれる語り継がれるべき名優なのだ。