リアル・アンダーボス~業界最恐と呼ばれた南海の暴君~/キング・ハク【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第164回 リアル・アンダーボス~業界最恐と呼ばれた南海の暴君~/キング・ハク





キング・ハクはもしかしたらかなり過小評価されているプロレスラーかもしれない。
もし、彼が日本プロレス界に長期参戦していたら間違いなく今以上のレジェンドになっていたはずである。

WWE(WWF)、WCW、AWA、全日本、新日本、SWS、WAR…。
あらゆる団体を渡り歩いた褐色の野生戦士。
185cm 125kgの強靭な肉体と打たれ強さ、空中殺法や怪力殺法、確かな受け身、相撲仕込みの格闘センスもあるオールラウンド・モンスター。
そしてハクといえばリングでの実力もさることながら、リングを離れて喧嘩強さも定評があった。
人は彼をこう呼ぶ。

「業界最恐の男」

今回は"南海の暴君"キング・ハクのレスラー人生を追う。
彼のレスラー人生を追うことで我々は気付くだろう。

「なぜ彼が業界最恐の男と呼ばれるのか」

キング・ハクは1959年2月3日トンガ王国・ヌクアロファに生まれた。
本名はウリウリ・フィフィタという。
ラグビーに汗を流していた彼が格闘技に出会うのは14歳の時である。

日本とトンガの友好関係の一環として、相撲好きのトンガ国王の命によって、日本に数名の若者を送り込み、角界入りさせるという話があがり、その一人に選ばれたのがまだ68kgしかなかったハクだった。
1974年末、ハクを含めたトンガ人の若者達は大相撲・朝日山部屋に入門する。
ハクの四股名は福ノ島。
ちなみにこの中には後にタッグパートナーとなる椰子ノ島(ザ・バーバリアン/シオネ・ヴァイラヒ)もいた。

異国の地・日本、角界での生活は怪物ハクの原点だ。
日本語と礼儀作法はこの角界での日々で養った産物だ。

「初めての事ばかりでしたね。床に座って一つの鍋で料理されたものをみんなで分け合って食べるとかね。稽古は厳しかったし、すぐに殴られるなども。でも、初めて飛行機にも乗れたし、私もまだ若かったから、見るものすべてが興味深かった。だんだん日本のことがわかってくると、素晴らしい文化や習慣だって思うようになりました。特に相撲の文化はね。先輩と後輩の関係など、トンガにはないものだったからビックリすることばかりでした。ちゃんこは大丈夫でした。だけど、ご飯は…。味がないでしょう。今は好きです。寿司も味噌汁もいいけど、一番好きなのはたくあん。ご飯には欠かせないですよね。あと熱いお茶、グリーンティーですね」

幕下27枚目に昇進し、十両が見えてきたハクにとって青天の霹靂のような出来事が…。

1976年10月14日に大相撲の朝日山部屋所属のトンガ人力士が当時の師匠(元小結・若二瀬)と先代師匠(元幕内・二瀬山)の未亡人との間の確執に巻き込まれて廃業に追い込まれた騒動であり、角界関係者の間では通称「トンガ騒動」と呼ばれている。
当時は外国人力士が珍しかったため6名は入門の時から注目され、廃業の際も騒ぎとなった。国会でも10月15日の衆議院文教委員会において三塚博が取り上げ、19日の文教委員会には参考人として日本相撲協会監事の伊勢ノ海(元幕内・柏戸秀剛)が出席して質疑がおこなわれている[1]。福ノ島(後のキング・ハク)と椰子ノ島は入門から2年で幕下まで昇進するなど才能の片鱗を既に見せており、廃業が惜しまれたという。これが国際問題に発展するのではないかと危惧もされたが、協会が伊勢ノ海らをトンガに派遣し、事情を説明したところ国王も納得したと言われている。
トンガ人力士廃業騒動)/wikipedia】

別の部屋に移るという道をあったが、角界を去ったハク。
そんなハクに部屋の後援者からこんな声がかかる。

「プロレスをやってみないか?」

このままでは終われない。
ハクはプロレス転向を決意する。
実はハク自身と当初、新日本プロレス入りを熱望していたが、後援者から勧められた全日本プロレスへ入団することになる。
1977年7月のことである。

プロレスは相撲とはもちろんあらゆる面で違った。

「まず姿勢が違いました。相撲は足の裏以外が土俵に着いたら負け。だから腰を落として、姿勢を低く構える。動くにしても摺り足ですしね。でも、プロレスは自分を大きく見せないといけない。だから背筋を伸ばして胸を張って構える。それにプロレスでは長く闘えるだけのスタミナが必要です。私はまだ若かったし、相撲での経験もプロレスに生かせました」

全日本プロレスに入り、合宿所に住み込みで修業をしたハクは1977年12月にアメリカ・テキサス州アマリロのファンク道場に旅立った。
翌年の1978年7月7日にアメリカ・ロサンゼルスでプロデビューを果たす。
リングネームはプリンス・トンガ。
当時は110kgで全盛期の125kgに比べると筋肉質でしなやかな肉体だった。
その後、フロリダ、テネシー、テキサスを転戦し、テネシー地区版のNWA世界6人タッグ王座やNWAハワイ・ヘビー級王座といったタイトルを獲得する。

1980年7月11日に日本デビュー戦でリック・デビッドソンに勝利を収めた。その時に見せた綺麗なドロップキックは師匠の馬場も太鼓判を押すほどだった。

全日本修業時代を知る"王道の番人"渕正信はハクについてこう語る。

「すごくいい子だったよ。合宿所では俺達と仲良くやっていたよ。力がすごく強くなった。地力というか、若いからなのか、バーべルを上げるとき最初は苦労していたけど、コツを覚えたらドンドン重たいものも上げられるようになって。もう、あっという間に追い抜かれたよ。ウェイトトレーニングで力をつけることに関してはね」

その後、全日本プロレスの若手レスラーとして、トップレスラーと次々と対戦し、経験を積み重ねていく。シングル最強決定戦「チャンピオン・カーニバル」にも二度出場している。

1982年6月にハクは再びアメリカに渡り、プエルトリコでキング・トンガに改名し、ヒールに転向する。WWCプエルトリコヘビー級王座やカナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座などを体感し、アメリカAWAでは反米軍団の一員として活躍している。

母国トンガを離れ、第二の故郷・日本を離れ、アメリカで己の居場所を確保したハクは1986年にWWE入りを果たす。

「(WWE入りのコンタクトについて)最初はペドロ・モラレスでした。まだプエルトリコにいた頃で、新人だからという理由で断りました。ルージョー・ブラザーズの父ジャック・ルージョー・シニアが、モントリオールのテリトリーをビンス・マクマホンに売却した時に誘われました。ルージョーの二人の息子(ジャック&レイモンド)とディノ・ブラボーと一緒に。最初はシングルで、そのうちリッキー・スティムボートとタッグを組むようになったんです。それからリングネームをハクに変えて、タマ(トンガ・キッド)と組むことになりました」

トンガ・キッドとのジ・アイランダーズでタッグ戦線を活動。その後、シングルプレーヤーとなったハクは1988年6月に""ミスター・プロレス"ハーリー・レイスが名乗っていた"キング"の称号を賭けたバトルロイヤルを制する。後にレイスにも勝利し、正式に"キング・ハク"を名乗ることになった。

15歳で日本に夢を求めたプリンスはいつしかキングと呼ばれるほどのスーパースターへとブレイクしていった。
WWEでのハクの功績といえば忘れられないのが"大巨人"アンドレ・ザ・ジャイアントとのコンビでWWE世界タッグ王座を獲得したコロッサル・コネクションであろう。
当時のアンドレは全盛期を過ぎ、動きや体調の悪さが目立つ中でハクは豪快な受けと攻めで試合を組み立てる姿が印象に残った。
恐らく、怪物的な強さがありながら、バイプレーヤーに徹することができることがハクの強みであり、凄さだったのかもしれない。

その後、WWEでは長年マネージャーを務めたボビー・ヒーナン率いる"ヒーナン軍団"の一味として、悪党街道を歩む。角界時代からの盟友であるザ・バーバリアンとのコンビで活動もしたこともあった。

シングル王座には縁がなかったがWWEでレスラーとしてステップアップできたハクは離脱を考えるようになったが、ビンス・マクマホンからこう言われた。

「ちょっと待て。日本からオファーが来ている。天龍源一郎をサポートしてほしい」

当時、WWEは1990年に旗揚げした新団体SWSと業務提携をし、毎シリーズ事に選手を派遣していた。ハクはその中心メンバーに選ばれた。
ハクの対角線にはSWSのエースであり、角界&全日本時代の先輩である天龍源一郎がいた。
天龍とハクはタフマッチを展開していく。
ある時、逆上したハクはうがい用のビール瓶(中身の液体が入っていてさらに重くなっている!!)で頭部を殴打し、大流血に追いこんだ。ちなみにこのビール瓶での一撃が原因で天龍は頭部にビール瓶の破片が残り、行為所に苦しみ医者から引退勧告を受けるほどの大ダメージを負っている。
ハクにとって最強のレスラーは天龍だったという。

「男の中の男。彼はもう、常にナンバーワン。額にシューズの紐の跡を何回もつけられましたよ。その分、私も思いっきりやり返しましたけど。それでも彼は絶対、音を上げない。すべてにおいてストロングでした。リングの中では激しくやりあったけど、リングを下りればベストフレンド。ビールをよく飲みました」

また、天龍の相棒である阿修羅・原とも壮絶な攻防を展開し、東京ドームの場内に響き合うほどの意地のヘッドバット合戦で会場をどよめかせた。

そんなハクにとって日本での実績となるはSWS時代の谷津嘉章とのナチュラル・パワーズではないだろうか。初代SWSタッグ王者にもなったSWS最強コンビは、あの天龍源一郎&阿修羅・原の龍原砲のライバルだった。
合体パワーボム(首折り式パワーボム)はSWSで猛威を振るった。
このコンビについて、そしてハクについて谷津嘉章はこう語る。

「ハクに一番驚いたのは、あんなに個性が強いわりにはタッグの真髄をよく心得ていたんだよ。わりと協調性もあって、相手を立てるタイプ。ハクは小細工をやらなくても、十分フィジカルチックな男だから。アイツがいるだけでよかった。コーナーでタッチしてハクが出てくる。その時、俺もすぐにコーナーに戻らないでちょっと一拍…10秒とか20秒間だけ一緒に技をするだけで、サマになるんだよね」

SWSに参戦し、定期的に日本でプロレスをするようになってようやく解放されていくハクの底力。この男は何でもできるのだ。
WWE時代にフィニッシュホールドにしていたトラースキック、胸板を真っ赤にさせるバックハンド・チョップ、手刀、頭突きでペースを握り、スリーパーやクローでスタミナを奪い、ダイビング・ボディープレスやダイビング・ヘッドバットといった飛び技もこなし、パワーボムやライガーボム(シットダウン・パワーボム)という大技で相手を仕留める。
また、ベンジュラム・バックブリーカーはグリップを外さずに三連発をこなう怪力ぶりを披露する。
それがオールラウンド・モンスターのナチュラルな実力だった。
またWWEの超大物アンダーテイカーが初来日を果たした時、真っ向から立ち向かい、日本のスタイルを示したのがハクだった。

日本のプロレススタイルについてハクはこう語る。

「私にとっては日本の方が合っています。私は日本でスタートしたから。最初に日本スタイルを叩きこまれたんで、アメリカでもそれを心掛けました。日本のレスラーは皆タフです。テクニックも素晴らしい。日本スタイルこそがいつまでもこの世界に残るものだと考えています。それを代々伝えている日本の育成方法も素晴らしいものです」

SWSは1992年に解散する。
ハクは天龍率いるWARに参戦する。1992年末にWWEを離脱しても、ハクはWAR常連外国人として参戦し続けた。1993年6月にジョン・テンタと共にWAR代表として新日本プロレスに初参戦を果たし、ヘルレイザーズ(ホーク&パワー)と対戦。そこでパワーとのパーテレ・ポジションからのヘッドバット合戦を展開し、強烈な印象を残した。

1994年にハクはミングの名前でアメリカWCWに登場。サングラスに黒スーツ姿で悪徳マネージャーのカーネル・ロバート・パーカーのボディーガード役を務める。
翌1995年からはトップヒールとして登場。日本育ちの武道家というスタイルに変身する。
アメリカ遠征中の中西学(クロサワ)とコンビを組むこともあった。
ちなみに中西やウルティモ・ドラゴン、永田裕志といったWCWに参戦した日本人レスラー達は皆、ハクのことを人格者、恩人としてリスペクトしているのだ。

そして、この頃からだろうか?ハクのこんな噂話がチラホラ上がっている。

「ハクがUFCにオファーをかけたらしいが、もし彼をUFCに上げたら、事件が起こるかもしれない」

都市伝説としてプロレス界で語られるようになったこの話。
当時のUFCはまさしく何でもありで、目潰し、噛みつき、金的以外は反則ではなかった。
言わば喧嘩の延長として捉えられていた初期UFCにハクはうってつけだったのかもしれない。
何故なら彼は業界最恐と呼ばれる喧嘩屋だったからだ。
プロレスの実力だけでなく、リング外の喧嘩強さでレスラーズから一目置かれる存在だったという。

"喧嘩世界一"と言われていた当時のUFCが参戦を希望していたというのは事実。業界にとどろいていたハクの武勇伝を聞きつけてのものだった。なかでも”ナイトクラブファイト"は有名なエピソード。試合後に食事をしていりところで、アルコールが入って上機嫌の客が寄ってきた。はじめは相手にしてしなかったハクだが、あまりにしつこいものだから追い払おうとした。店内で大暴れして迷惑をかけてはいけないと配慮したのか、ハクはその酔客の胸ぐらをつかんで顔を近づけた。しかし、単なる威嚇ではなかった。そのまま鼻を嚙みちぎって肉片を床に吐き捨てると、何事もなかったのように食事を続けた。これは数多くのレスラー仲間がTVのトークショーで証言している。この一件から周りが「お前は鼻を噛みちぎられたいのか?」と言って、ハクに近づく厄介者を追い払ったという。
(中略)
ハクがWWF時代の1987年、ジェシー・バー(ジミー・ジャック・ファンク)と控室で乱闘に。「ハクがバーの目をえぐり取った」とまで伝えられた。バーが7か月後に引退したことも噂に拍車をかけたが、後にハクは否定。しかし、「(眼球を)取る準備はできていた」と明かしている。喧嘩の原因はリング内外のバーの態度にあったようだ。これらのエピソードが「怒ったら何をするかわからない」と伝わり、「ハクを怒らせるな」との風評となった。
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そして近年分かったことはハクにオファーをかけたのはUFCだけではなかった。
佐山聡が創設した修斗が主催した「バーリ・トゥード・ジャパン(VTJ)」が1995年4月のワンデートーナメントのメンバーにハクを上げようとしていたというのだ。
その時の状況について、VTJ1995準優勝の中井祐樹はこう語る。

「佐山(聡)先生から"プリンス・トンガ(ハクの旧リングネーム)になるかもしれない”って言われたんですよね。全日本プロレスのデビュー戦や、チャンピオンカーニバルの石川孝戦時間切れ引き分けも見てますからね。調べたらそのときキング・ハクはWCWにいたんです。結局バーリ・トゥードジャパンには来なかったんですけど、同じWCWにいたクレイグ・ピットマンに変わったと思うんですよね。どういうルートがあったかはわからないですけども。”キング・ハクより凄い奴がいる”ということだったと思うんですよ。ピットマンはレスリング世界選手権の決勝で、あのカレリンともやってますから」

だが結局、ハクの総合格闘技参戦は幻に終わり、都市伝説だけが残った。
ハクはその後、バーバリアンとWCWでフェイセズ・オブ・フィアーを結成し、タッグ戦線を活躍していく。

1999年に新日本プロレスに参戦した時にはなんと橋本真也、佐々木健介、中西学、永田裕志といった主力レスラー達がパートナーに名乗りに出るほどのモテモテぶりを見せた。
それだけ、彼の人間性と実力が高く評価されていたからだろう。

WCWでは師匠のテリー・ファンクを破り、WCWハードコア王者になったこともあったが、なかなかジョバーという立ち位置からは抜け出せずに、2001年1月にWWEに復帰する。
その後、WWEを離脱するとセミリタイア状態となるも、2008年から本格復帰すると、自分のペースでコンスタントに試合を続けている。

タマ・トンガ、タンガ・ロア、ヒクーレオという三人の息子をプロレス界に送り込み、暴君の遺伝子は今もリングで息づいている。

「相撲に感謝しています。廃業した時にプロレス入りをヘルプしてくれた後援者にも感謝してます。相撲のおかげで私の人生は大きく変わりました。いい人たちに恵まれて幸運だったし、神に感謝してます」

相撲から始まったキング・ハクの格闘ストーリー。
プロレス界で残してきた実績と武勇伝の果てに得た"業界最恐"という称号は南海の暴君と呼ばれる怪物にさらに幻想性を増していった。
そして、ハクはその幻想性と現実的な強さと職人レスラーとしてのプロフェッショナルぶりも兼ね備えた本当は偉大なレスラーなのだ。
我々は彼の偉大さに気が付いたのは遅かったのかもしれない。

現在、新日本プロレスを席巻し、息子達も在籍する"バレットクラブ"の怪物であるバッドラック・ファレは"ジ・アンダーボス”と呼ばれ恐れられているが、もしかしたらハクこそ、業界が誇る"リアル・アンダーボス"だったのかもしれない。
リング内外で一目を置かれ、恐れられ、尊敬もされたのだ。

幻想と伝説に包まれたキング・ハクのレスラー人生にはプロレスのすべてが詰まっているのかもしれない…。


【参考文献】
週刊プロレス NO.1889 アルバムシリーズ 72 キング・ハク(ベースボール・マガジン社)