彼がいた時代~血の一滴になっても俺はプロレスラーだ!~/福田雅一【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第147回 彼がいた時代~血の一滴になっても俺はプロレスラーだ!~/福田雅一



最近ふと思うのだ。
そう言えば私は子供の頃、何になりたかったんだろう。
どんな人に、私はなりたかったんだろう。
最近こうも思うのだ。
例えばもし、今日私が突然死んだら、どうなるんだろうか。
でも、私が死んでこの世界からいなくなって、いったい誰が困るんだろうか。
多分家族は泣くだろう。他にも、涙を流してくれる人は何人かはいるはずだ。
でも仕事なんて、ちょっと困るのはせいぜい二、三日だ。
この席に違う人が座るだけのこと。
元々そう言う人生を歩んでこなかった、私が悪いのはわかっている。
例えば芸術家とかスポーツ選手とか、そんなんじゃなくても
ちゃんとしたその人じゃなきゃできない仕事をしている人は、
私みたいな気持ちにはならないのだろう。
それは誰のせいでもない社会のせいでもない、きっと私のせいなのだ
特別な才能もないし、何かにむかって死ぬ気で努力することもなく生きてきた私の。
【フジテレビ系列テレビドラマ「彼女たちの時代」第一話ナレーションより】

柴田勝頼はこの日、栃木県太田原にいた。
"彼"に近況報告をするために…。
柴田は毎年、"彼"に会いに行く。

「自分は今、何をしているのか?」
「自分は今、何を考えているのか?」

柴田にとっては生涯続く恒例行事になるはずだ。
"彼"の最期の相手が柴田だからだ…。

永田裕志は"彼"の帰還をリング上で待っていた。
スター集団・新日本プロレスで実力は認められながらもなかなかトップ戦線に浮上できてなかった永田にとって"彼"や中西学、吉江豊を加えたユニット「G-EGGS」結成は現状打破のための布石だった。
その初陣となった地方大会で"彼"は倒れた。
昏睡状態に陥った"彼"は懸命に闘っていた。
しかし、永田らレスラー達は巡業に旅立たなければならない。
悲しくてつらいが"彼"の闘いを見届けることなどできない。
ならば"彼"の回復を祈るプロレスを続けていくしかない。
永田は叫ぶ。

「俺達は待っている! ずっと…」

橋本真也は"彼"の最期の闘いを見届けてるために、宮城県気仙沼を訪れた。
"彼"は橋本の付き人を務めていた。
この時の橋本は小川直也に敗れ、引退に追い込まれどん底にいた。
"彼"が倒れた時も橋本は欠場していた。
だが皮肉にもこの状況だからこそ"彼""の最期の闘いを立ち会うことができた。
橋本の目の前には瀕死状態の"彼"がベッドにいた。
意識はない、昏睡状態に陥り、もう助かる見込みなどない。
それでも"彼"は懸命に闘っていた。
家族の呼びかけに無言で答え、なんとか持ちこたえていた。
橋本はあの小川戦後の、"彼"と食事に行ったときに「橋本さん、俺悔しいです!」と言って号泣していた"彼"の姿を思い出していた。
そういえば、橋本が小川に敗れた時も、リングサイドで"彼"は泣いていた。
"彼"は橋本を慕っていた。
橋本は理不尽でやんちゃなトンパチだが、その一方で後輩にも気軽に接することができる優しさを持っていた。
完全な縦割り社会で上下関係が厳しいプロレス界だからこそ"彼"は先輩である橋本からの「ありがとう」という言葉を忘れない。
橋本は病室での"彼"の奮闘ぶりをしてこう感じていたのかもしれない。

「もしかしたらこれがあいつのベストバウトかもしれない…」

長州力はこの日、横浜アリーナのメインイベントに登場した。
数年前に現役を引退した長州だったが、インディーの教祖・大仁田厚からの執拗な対戦要求に答え、現役復帰を決めたのだ。
大仁田の土俵であるノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチのリングに上がる長州の右手には"彼"の遺影が抱えられていた。
"彼"は長州に可愛がられていた。
だからこそ"彼"の事故は長州にとっては大きな傷となった。

「俺があの世に行ったら、今度は俺があいつの付き人をやる」

それは長州にとって"彼"が単なる愛弟子ではなく、特別な存在だったことを示していた。

"彼"の名は福田雅一という。
わずか4年に満たないレスラー人生を生き、志半ばでこの世を去った有望株。
もう彼の名は忘れ去られたのかもしれないし、忘れ去られていないかもしれない。
だが、この事実は日本プロレス史にしっかりと刻まれている。

「日本人男子レスラー初のリング渦犠牲者」

試合中の事故が原因で亡くなった初の日本人男性レスラーとなったのが福田だった。
しかし、彼のレスラー人生はそれだけで語っていいのだろうかという疑念を私は長年持ち続けていた。
ならば福田のレスラー人生を知る者が彼の足跡を後世に伝えていかなければならない。
それが彼のレスラー人生を見ている者達の使命ではないだろうか。

今こそ、福田雅一のレスラー人生に触れてほしい。

福田雅一は1972年5月17日栃木県大田原市に生まれた。
少年時代は野球と相撲で汗を流した。
相撲では中学時代に関東大会で後の大横綱・貴乃花と対戦している。
足利工大付属高校に進学すると、福田はレスリング部に入部する。
このレスリング部は谷津嘉章、三沢光晴、川田利明といったレスリングでも活躍し、プロレス転向を果たした猛者を生んだ名門だった。
レスリングの才能に目覚めた福田はインターハイベスト8という実績を引っ提げて、日本大学に進学し、レスリング部に入部する。
1994年には国体フリースタイル82kg級準優勝を果たした。

大学を卒業後、福田が選んだのはプロの世界だった。
1995年に前田日明率いるリングスに入団する。
だが、怪我に見舞われ、福田は早々に退団してしまう。

「こんなはずじゃなかった」

恐らく福田はそう思っていたのかもしれない。
厳しい練習を乗り越えて、華々しいスター街道が待っていたはずだった。
失意の福田は故郷に戻った。
悶々とした日々の中で福田に募るある想い。

「プロの世界で一旗あげたい」

福田は足利工大付属高校レスリング部先輩の神風(現・KAMIKAZE)を頼り、インディープロレス団体・レッスル夢ファクトリーに入門する道を選んだ。
レッスル夢ファクトリーは元新日本&全日本の仲野信市やスーパーJカップやスーパージュニアにも参戦した茂木正淑、神風(現:KAMIKAZE)といったレスリングに自信のある実力者が揃っていた。練習も新日本式でインディー団体でありながら、練習量はメジャーに負けていなかった。

1995年5月、レッスル夢ファクトリー代表・高田龍は福田のレスリング時代の経歴を見てこんな質問を投げかけた。

「なぜ、うちにきたの?」

高田からすると福田のような経歴の持ち主ならメジャー団体でも通用すると考えていたのかもしれない。

福田はこう答えたという。

「自分はプロレスで飯を食うと決めていますが、怪我とはいえ一度挫折をしましたから、次は失敗したくありません。社会は人間関係も難しい、団体もそうだと思います。ここには先輩も居ますし少しでもやり易いかなと…それでここでお世話になろうかと…」

高田は少し失望していた。
福田の素材は申し分ないが、その心構えにガッカリしたのだ。

「福田君、人生はそれ自体が苦難の連続だと俺は思う、普通に生きるだけでも大変なのに、プロのレスラーとして生きていこうとなると、何倍も辛いことが待っていると思う、確かに少しでも効率のいい生き方を選択する事は賢明な生き方なのかもしれない、でも俺は、これから自分の夢に向かって船出しようとする青年の心構えとしては甚だ情け無い様な気がするよ。若者らしく、人生に体当たりして欲しいし、そんな小技を最初から使うのはどうかと思うし、夢なんか掴めないと思うよ。よく考えなさい」

福田は「有難うございました、よく考えます」と答え、事務所を去った。
高田はこう思っていた。

「彼はそのうち、メジャー団体からデビューするだろう。私が言うのも可笑しいが、うちでは勿体ない。生きるステージが違うのだ」

しかし、その二か月後、福田は再び、レッスル夢ファクトリーの事務所に現れた。
福田は自動車免許を取得していた。
下働きでもなんでもするという男の覚悟だった。
こうして福田はレッスル夢ファクトリーに入門した。

練習、掃除、洗濯、チャンコ番、営業の手伝い、買い出し…福田は一人で雑務をこなし、プロレスラーになるための試練に立ち向かっていた。
性格的にも人がいい福田には「松吉」というニックネームがつき、皆に可愛がられていた。
高田は福田についてこう振り返っている。

「身体能力は、初めから他を圧倒していた様だった。しかし別に驕るような処もなく、先輩達とは良い関係を保っていたと想う。と云うよりも彼はその人柄故か、みんなに好かれていた。いつもニコニコと云う訳ではないが、比較的もの静かな割には、暗さのない好青年で、優等生と云う言葉がぴったりの男だった。その彼に私は、レスラーとしての才能もさることながら、経営者としての資質を見出していた、人員の統率力や管理能力は多分、経験を積むことに依って、かなり力を発揮したのではないかと思う、その思いは今も変わらない」
【高田龍の夢か現か/福田雅一の名残】

高田はこの頃からデビューすらしていない福田を団体のエースだけでなく、次の代表候補として考えるようになった。

1996年3月20日の後楽園ホール大会にて福田は仲野信市と組んで、ワンナイトタッグトーナメントにエントリー。一回戦で婆沙羅&ザ・ウルフ戦でデビューを果たし、準決勝では神風&スペル…クレイジー組に敗れた。

188cm 100kgの恵まれた肉体と確かなレスリング技術と勤勉さを持つインディーの枠を越えた大型新人レスラーの誕生である。

その後、福田は先輩の神風と「足利エクスプレス」を結成し、WARや全日本プロレスにも参戦した。ちなみに福田の才能を見抜いていた全日本のジャイアント馬場は福田さえよければ入団許可を出していたという。またWARでは小坪弘良と組んでWAR認定IJタッグ王座を獲得したこともあった。

高田はプロレスラー福田の強みをこう語る。

「彼は所謂、プロレス頭の有る男だった、観客の視線を意識しながらの、特殊性がプロレスには有る、いくら身体をビルドアップさせて力任せに暴れ回ったとしても、それだけでは一流のプロレスラーなる条件は満たせない。福田にはそれがあった。大スターに成ったかどうかは判らないが、少なくても『一流』と呼ばれる選ばれし者達の陣列に彼が並ぶ事だけは確かだったと想う」

日本でも活動以外にもヨーロッパにも参戦した福田はクラシックなランカシャーレスリングに傾倒していった。その過程で藤波辰爾率いるクラシカルなプロレススタイル「無我」に参戦し、西村修と好勝負を残したこともあった。

そんな福田にとって転機となったのは新日本プロレスとの邂逅だろう。
レッスル夢ファクトリーのリングで新日本ジュニアの盟主・獣神サンダー・ライガーと好勝負を展開した福田は1998年の「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」に参戦し、大谷晋二郎と名勝負を残した。また高岩竜一を破る大金星も上げた。
このシリーズで爆発したのは福田の二段式ジャーマン・スープレックス・ホールド(一部では福田スペシャル・ジャーマンと呼ばれていた)。
後に佐藤耕平や本田多聞が使用するジャーマンに似ているのだが、バックをとって持ち上げて、溜めをつくった後に一気に叩きつけるのが彼のジャーマンだ。
またバッグを取る両手のグリップも、互いの指を摑んでグリップする通常のジャーマンとは違い、片方の手首をもう片方の指で掴むというものだった。

ジュニアヘビー級としては規格外の188cmの身長を誇った福田には「コードナンバー188」という異名もついていた。
そんな福田に目を付けたのが新日本プロレスだった。
福田は思い悩んだ。

レベルの高い新日本に入団したい気持ちは強いが、お世話になったレッスル夢ファイくとりーを見捨てることなど彼にはできなかった。
だが、そんな福田の想いを察していたのだろう。
ある日、代表の高田は時期代表候補に定めていた福田にこう通告する。

「私は今日付けで君を解雇する。明日、新日本に行こう」

高田にとっては苦渋の決断だったが、福田の未来を考えるとこれが最善だった。
こうして1999年1月、福田は新日本プロレスに移籍する。
しかも新弟子としてである。
福田はレスラー人生をリスタートさせた。

福田は新日本のレスラー達に可愛がられた。
橋本、長州、永田、中西、吉江、真壁刀義、藤田和之…。
誰も福田の悪口を言う者がいなかった。
それだけ福田は人格者であり、愛されていた。

前座戦線で一ヤングライオンとして経験を積んでいた福田だったが、彼の脳には激戦の爪痕が刻まれていった。

試合中に頭部を強打し、脳内出血。
レスラーにとっての頭部へのダメージはレスラー生命も奪わるほどの致命傷だ。
それでも福田は諦めない。
そして、新日本プロレスは福田にチャンスを与え、近い将来には海外遠征に旅立させ、スターに育てる計画があったのかもしれない。
病院を変え、検査を行い、異常なしとの判断をもらい、リング復帰を果たした。

2000年4月。
永田裕志、中西学、吉江豊、福田雅一のゆ人で次世代ユニット「G-EGGS」が結成された。
福田にとって新日本移籍後にもらった初のチャンスだった。
だが、福田にとって復帰戦がリング渦の舞台になるとは誰も予想していなかった。

4月シリーズは実に4年ぶりに復活した「ヤングライオン杯」が開催されていた。
福田、鈴木健三(現・KENSO)、真壁伸也(現・真壁刀義)、井上亘、柴田勝頼、棚橋弘至がエントリーした若手最強リーグ戦。
福田は優勝候補筆頭だった…。

2000年4月14日宮城県気仙沼大会。
この日、格闘探偵団バトラーツ・田中稔は福田にこんな風に声をかけた。

「福田選手もう復帰しちゃってマジで大丈夫なんですか?」

福田は笑いながらこう答えた。

「大丈夫だから復帰するんですよ」

田中はその言葉を聞いて「これは大丈夫だな」と感じていた…。

福田と田中は同年代だ。
プロレスキャリアは田中の方が二年先輩だが、新日本への参戦は福田の方が先だった。
他団体ながら新日本へレギュラー参戦していた田中にとって福田は新日本のレスラー達を繋ぐ架け橋のような存在だった。
福田が間に入ってくれたから田中は新日本のレスラー達とコミュニケーションが取れたのだという。田中にとって福田は恩人なのだ。

この日、福田と対戦することになったのが当時19歳の柴田勝頼。
福田よりもキャリアは浅いが、新日本では福田の先輩である。
試合前、福田は柴田にこんな言葉を残した。

「柴田さん、遠慮はいらないからね。もう頭は大丈夫だから、遠慮だけはしないでね」

だが…。
試合が始まり、数分後に柴田のダイビング・エルボーアタックを食らった福田はリングに倒れ、痙攣をしてしまったのだ。そのまま柴田は福田をフォールし、試合は終わった。

試合後、全く動かない福田は昏睡状態に陥っていた。
控室では現場監督の長州力の怒号が響く。

「おい!行ける選手はとにかく全員リング行け!」

試合に関係のないほとんどの選手がリングに集まった。その中にはバトラーツの田中の姿もあった。動かない福田をリングから運び、そのまま地元の病院に搬送された。
意識不明の福田に皆、愕然としていた。

小川直也に敗れ引退に追い込まれた橋本真也は「福田、危篤」の一報を聞くと、気仙沼に向かった。可愛い弟分に逢いたくて…。

橋本は福田の病室での最後の闘いを見届けた。
右脳、左脳、小脳、延髄がやられ、死んでいっても福田の脈は強く打ち続けた。
見まいに駆け付けた家族や友人の声に励まされ、福田は生き続けていた。
一日、二日、三日…。
福田は生き続けた。
脳死状態になっても福田の生命は尽きなかった。
血圧が一ケタになろうが、福田は生き続けた。
これが男の生きることへの執念、プロレスラーとしての執念、底力だった。

だが、その力はさすがに限界があった。

2000年4月19日 午前3時28分、福田は急性硬膜下血腫のためこの世を去った。
実は5日間にも及ぶ激闘の果ての壮絶な最期だった。
享年27歳。
あまりにも若すぎる若きスター候補の死だった。

福田の命との闘いを最後を看取った橋本はこう語る。

「アイツは血の一滴になるまで闘っていた。プロレスラーとして闘った.ありがとう,よくやったって気持ちになりました」

それはどんな状況でも、例え死の淵に追いやられたとしても「俺はプロレスラーなんだ」という福田の叫びだったのかもしれない。
例え、闘う場所がリングじゃなくても、福田は最後の最後に"プロレスラー"として立派に天国に旅立ったのだ。

その一方で福田を失った代償は大きかった。
長州、橋本、永田にとって気心が知れた可愛い後輩を失ったことは大きな損失だった。

2000年4月21日の告別式がおこなれ、棺には新日本のジャージが収められていた。
遺族を代表して挨拶したのは福田の婚約者だった。

「どうかプロレスラー・福田雅一がいたことを忘れないでください.これからも私たちはずっと一緒です」

その言葉に多くの参列者の涙を誘った。

福田の最期の対戦相手となった柴田勝頼は事故とはいえ「対戦相手を亡くした男」という嫌なレッテルがついてまわる。
それでも柴田は試合から逃げなかった。

「自分は取り返しのつかないことをしてしまった…」

柴田はひどく落ち込んだ。
食事にも喉が通らず、無理やり食べても試合前に吐いてしまうほどだった。
だが、男にはプロレスラーとしての矜持と意地があった。

「俺の居場所はあそこ(リング)しかねぇんだよ!」

柴田はこう叫んで泣いた。
柴田は決意した。
この罪を俺はプロレスラーとして一生に背負うと。

柴田はその後、福田のご家族に挨拶し、毎年墓参りを欠かさない。

「俺は新日本を辞めました」
「俺は総合格闘技をやることになりました」
「俺は新日本に戻ることになりました」

柴田は墓石の中にいる福田に毎年、近況報告を続けた。
そんな柴田に福田の母はこう語ったという。

「あなた無理しているでしょう? あのことがあったからって、無茶はしないでね。頑張っているのは私達もちゃんと見ていますから」

この言葉に柴田はスッと肩の荷が下りた気がしていた。
もしかしたら、福田の母の言葉は、柴田を天国で心配している福田雅一からの"言霊"だったのかもしれない。

福田の死後、引退に追い込まれていた橋本真也は現役復帰し、その後新日本を去り、新団体ゼロワンを旗揚げした。もしかしたら、橋本としては福田を所属選手として迎えたかったかもしれない。だが、橋本は5年後の2005年7月、脳幹出血のため急逝した。
今頃、天国の福田と仲良く語り合っているかもしれない。

長州力は福田の死後、現役復帰し、その後新日本を去り、新団体WJプロレスを旗揚げした。その旗揚げメンバーには福田を育てた高田龍がフロント入りしていた。

長州は高田と共に、福田の墓参りに行った。
のどかな田舎町にある杉林に囲まれた中に福田の墓はある。
墓の落ち葉を片付け、ビールを墓にかける長州は線香と花を手向け、静かに手を合わせた。

「福田、俺は新団体を旗揚げするぞ」

だが、ご存知の通り、WJプロレスは旗揚げからわずか一年で崩壊していった。
ある日、長州は酒の席でこんなことをつぶやいていたという。

「今、あいつがいてくれたらなぁ…」

それは哀愁に満ちた男のつぶやきだった。
それだけ長州にとって福田は愛すべき男だったのだ。

もし福田雅一が生きていれば、長州や橋本は新日本を去ったのだろうか!?残留したのだろうか!?
そして福田雅一は生きていれば、新日本を去ったのだろうか!?
新日本に残ってスター選手になったのだろうか!?
すべては迷宮の中へ…。

福田雅一のレスラー人生は4年にも満たない。
もし彼が生きていれば、どんなレスラーになっていたのか、どんな人生を歩んでいたのか。
その答えは分からない。

それでも言えることは、彼の存在がスーパースターとなった男達の運命を変えるほどの重要視されていたという事実は覆らない。
それだけでも福田という男はタダ者ではなかったということを証明している。

多分、人が生きていくのって……面白くないし格好悪いことだらけなんだ。
ドラマチックな出来事なんて、そんなにあるわけじゃない……
小さな小さな日常がずっと延々とつながっているだけなんだ。
でも今、私は思う……同じように悩んでいる人がいる……
同じように答えを出せずにいる人がいる、私だけじゃないんだ……
そう思えただけでよかったと思う。
それにきっと、きっと今こんなふうに
もがいていることは無駄じゃないはずだ。絶対、無駄じゃないはずだ。
そう思えることができたから、たとえ今の自分に何もなくても・・・。
【フジテレビ系列テレビドラマ「彼女たちの時代」 最終話ナレーションより】

例え短い生涯だったとしても、不本意な生涯だったとしても、満足できない、満たされない生涯だったとしても、人の行いに無駄などない。意義はあるのだ。いや、敢えて踏み込んで言うなら、無駄で退屈な世の中だからこそ、人は生きるための何らかの意義を見つけるのだ。
福田雅一の短い生涯も同様だ。

今回、冒頭と終盤に紹介したフジテレビ系列のテレビドラマ「彼女たちの時代」という作品は日々悩み、葛藤し、未来に向かって歩いていく人々の姿をリアルに描かれたある種"伝説のドラマ"だ。誰もが心の中に言いようのない閉塞感を抱えながら、自分の存在理由が揺らいでいる時代に生きる男女の物語だ。視聴率は10%ほどの当時では低視聴率番組だったが、その内容がドラマ通に受け、数々のテレビ情報誌のドラマ大賞を獲得した。

ドラマチックな展開もない、平凡でも、例え結果に結びつかなくても語り継がれる「彼女たちの時代」という作品があるように、例え輝かしい実績や結果を残せず、レスラー人生を終え、この世を去った福田雅一の時代があったような気がするのだ。

思えば福田は21世紀の夜明けを見ることなく、天国に旅立った。
福田がレスラーとして活動していたのは20世紀末で、ミレニアム(新千年紀)にさしかかっていた頃だ。

「20世紀末はどんな時代だっただろう」
「ミレニアムのプロレス界では何が起こったのだろう」

きっかけは何でもいい、些細なことでいい。できれば彼のことを思い出してほしい、知ってほしいと私は願う。

「福田雅一という"彼"がいた時代」

それはプロレスラーとして一旗あげたいと願い27年の生涯を送った彼とそんな彼を巡る男達の人間交差点…。