奇想概念を生む"坂井脳"~プロレスのすきまを突く異才~/マッスル坂井【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第125回 奇想概念を生む"坂井脳"~プロレスのすきまを突く異才~/マッスル坂井



マッスル坂井は21世紀のプロレス界に現れた最大の異端児である。
自らプロレスが苦手と公言しているプロレスラーは彼くらいだろう。
だがこの男こそ、新しいプロレスのカタチを示した稀代のクリエイターである。

「マッスル坂井の根源的な才能は、松本人志や松尾スズキや宮藤官九郎レベルで語るべき。モノが違う」(お笑い芸人・水道橋博士)

「この仕事を始めて15年ぐらいは生き延びてこれてて、色んなジャンルの色んな人と会ってきたけど、死ぬまで死ぬほど頑張ってもこの人に追いつけないかもしれないって思った人が3人だけいる。テレビの演出家と、ラジオのディレクターと、あと一人がマッスル坂井。この3人にはまだ勝ててない」(放送作家・相沢直)

「マッスル坂井は、プロレスに新しいエンターテイメントの風を送り続ける天才」(お笑い芸人・山里亮太)

坂井の才能はエンタメ業界でも評価が高い。
何しろプロレスラーでありながら大喜利の大会に出場し、お笑い芸人を打ち負かしたのも坂井ぐらいだろう。
その事実は何よりも代えがたい坂井の勲章だ。

ずっと前からマッスル坂井という男を見続けていた。
坂井の歩みをリアルタイムでファンとして見届けてきた。
ずっと前からこの「俺達のプロレスラーDX」でマッスル坂井を取り上げたかった。
ただ何をテーマにすればいいのかなかなか浮かばなかった。
すると坂井について考えるにつれてある疑念が沸いてきた。

「この人の頭の中はどんな風になっているのだろう…」

彼が主催したプロレスイベント「マッスル」を筆頭に自分自身がインスパイヤされたものを落とし込み、次から次へとプロレス界に斬新な新機軸を持ち込んだのが坂井の実績だ。

「デスノート」、「三国志」、「欽ちゃんの仮想大賞」、「どっきり番組」、「ぐるぐるバットゲーム」、「笑点」、「フィギュアスケート」、「爆笑レッドカーペット」、「キング・オブ・コント」、「笑ってはいけないシリーズ」…。

これらのテレビ番組や作品も坂井にかかれば、プロレス表現のための格好の材料となるのだ。
一時期、坂井は模倣の天才と呼ばれたこともあった。
私はいつしかこう思うようになった。

「マッスル坂井の頭の中、つまり"坂井脳"を解明してみたい。これをテーマにして彼について書いてみよう」

明智光秀の子孫で「本能寺の変 431年目の真実」の著者である明智憲三郎氏が以前、戦国武将・織田信長についてこのようなことを記したことがある。

戦国の世、尾張の片隅に生を得て天下統一という大事業に乗り出した織田信長。稀代の天才、カリスマなどと言われていますが、果たして信長が何を考えて決断・行動していたのかを現代人はどこまで理解できているでしょうか。
(中略)
現実に存在する証拠の分析やそれに基づく推理を抜きにして、「信長はこう考えたはずだ」という仮定を出発点にしたのでは正しい答には至りません。なぜならば、将棋の名人戦と同様に、戦国のプロの「次の一手」を現代の素人が読むのは至難の業だからです。そのことをご理解いただくためには、信長の決断の拠り所であった彼の「知識・論理」をより明快にするしかないと気付きました。
(光秀の子孫が恩讐を超えて解明した信長の真実!! 年末年始 連載(1) プロローグ 信長脳を歴史捜査せよ! 明智 憲三郎)

明智氏は「織田信長の行動を読み解くには"信長脳"を理解しなければいけない」と論じている。
それはこの天才・坂井についても同様である。
今回、マッスル坂井の歩みを追うことで、彼特有の"坂井脳"のある種の正体について考察していきたい。

マッスル坂井こと坂井良宏は1977年11月5日新潟県新潟市に生まれた。
実家は知っている人も多いだろうが、地元の金型工場「坂井精機」。
彼は学生時代はどんな子供だったのだろうか?

「僕はスポーツも勉強も一番になったことがありません。新潟県の進学校に通っていまして、授業はそこそこ楽しかったけれど、毎日行くものでもないなと思ってましたし、友達とも新鮮さを保つためには毎日会わないほうがいいかなと、ひとりで過ごすことが多かったですね。ただ、剣道部に所属していて、部活は熱心にやってました。全国大会で上位に入る人がごろごろいたので、レギュラーにはなれても一番にはなれない。そういうポジションにずっといました。でも、一番になりたいともあまり思わなくて、どちらかといえば、一番になる人を見ていたいと思ってました。ともかく学校へは部活に行くくらいで、あとは映画館に通ってました。映画や漫画を読んでいることが多かったです」

スポーツも勉強も一番になったことがない。
自分は一番になる人を見てみたい。

この思考はクリエイター坂井の原点かもしれない。
ちなみに高校時代には漫画を投稿し、ビッグコミックスピリッツで努力賞をもらったこともあった。

奇才が揃っているともいわれている早稲田大学第二文学部に進学した坂井はシネマ研究会に在籍していた。しかし、坂井は映画を撮ることはなかったという。

「シネマ研究会以外にも映画サークルはたくさんあって、実際に映画を撮る人はいっぱいいました。それもプロ顔負けの機材を持って、上手に撮るんです。おませな大学生がたくさんいたわけですが、どうもそれに馴染めなかった。なんだか無自覚にものをつくる人たちが苦手でした。カメラの撮り方とか技術の問題なんてどうでもいい。実際、そういう人の撮った映画はつまらないから、説得力がなかった。だったら、そんなのやってもしょうがない」

そんな坂井はプロレスを題材にした作品を撮りたいという想いが強くなり、アニマル浜口ジムの練習生となる。
プロレスを撮りたいと思うきっかけとなったのは大仁田厚だった。

「プロレスと出会ったのは、たまたまテレビを見ていたら、大仁田厚さんの試合をやっていて、それまでプロレスはスポーツだと思っていたから、これは演劇だなと思ったわけです。マイクパフォーマンスで、『ぶっ潰す』とか言っていても、年間200日近く巡業して、一緒にバスや電車で移動するときは隣席に座っている人ですよ。その人に向かって、試合では『ぶっ潰す』と毎日言う。家族よりも時間を多く過ごしているのに。これはおかしいぞと思って見始めたら、キャラクターの造形やドラマがあることがわかった。そこで興味がわいたので、浅草のアニマル浜口ジムへ行って、一年間くらいトレーニングしました」

だがプロレスラーになろうとは思わなかった。
彼にとってアニマル浜口ジムでのトレーニングはフィットネス感覚だった。
大学を留年することになった坂井はこれはやばいと将来のことを考えるようになり、CS放送の制作会社にバイトとして働くようになった。ADとして番組制作に携わる中で、坂井はある番組に出会う。
それがインディー団体DDTプロレスリングの「DDTのプロレス NON-FIX」だった。
坂井はDDTの番組制作スタッフとしてプロレスに携わることになった。

「DDTの試合を撮影する人を探していると聞いたので、渋谷の100人くらい入るクラブでの試合を見に行きました。会場では、先週までの試合の流れとかバックステージの映像や音楽を流していて、それが新鮮でした。ほかにもスポーツ中継のバラエティやドラマの要素を加えた演出や、映像と音楽と寸劇(スキット)の要素もあって、これはおもしろいと思ったわけです。プロレスには演劇も音楽の要素もあることに気付いた。その頃、『自分はこの先何をやろうか』と思っていまして、スポーツは一流にはなれない。映像も好きなだけで何かできるわけでもない。だけど、いま見ているこの興行は、たった100人相手だけかもしれないけれど、すごい熱意がこもっている。演劇なら5、6回公演できる労力を1回の興行にかけていたし、その上、レスラーはほかに仕事を持っている人ばかりでした。制作会社に入ったらADを5年くらいやって、ディレクターになれても映像制作しかできない。大きいプロレス団体に入ったらプロレスしかできない。でも、DDTなら全部できる。そこで初めてプロレスに携わる仕事をしたいと思いました」

そんな坂井にとって、心の転機となったのは2000年11月のこと。
DDTが京都で地方興行を行った際、元ボクサーの鴨居長太郎が選手バスに乗らないで、ヒットハイクで横浜の自宅から京都の会場までたどり着くかというバラエティー番組のような企画を行った。坂井はこの記録を残すために鴨居長太郎に同行することになる。
坂井は後日、この記録をドキュメント作品として昇華させ、番組で放映した。
そんな坂井にあるオファーが舞い降りる。

「週刊プロレスからの道中記を書いてみないか」

打診したのは当時週刊プロレスに在籍していたプロレスライターの鈴木健氏だった。
鈴木氏はこの時のことをよく覚えている。

「私は坂井に『週刊プロレスで同行記を書いてみないか』と打診した。この話をした時に、坂井は心の底から喜んでいた。なんていうか、映像に限らず文章でもなんでも自己表現できる幸せを感じていた気がする。数日後、坂井は180行ほどの文章を書いてきた。この頃は、まだ手書きの原稿用紙だったかもしれない。直す部分はほとんどなかった。時系列に沿って、エピソードがしっかりと拾われているのだ」

鈴木氏は坂井の原点は「表現できる喜び」にあると考えている。

「ドキュメントに不可欠な人間味をドラマティックに表現できる感性としっかり拾う悪意。あの頃の坂井良宏を見ているからこそ、マッスル坂井の原点は何かを表現できる喜びにあるのだという見方は今後も変えるつもりは、ない」

何かを表現すること…それは坂井のアイデンティティーといってもいい。
ただし、プロレスラーとしてではなくクリエイターとしてである。

そんな坂井だが、元々肉体に恵まれていたため、DDTの創始者・高木三四郎は坂井に目をつけ、プロレスラーにさせようとする。そして、坂井はあくまでプロレス番組の制作者としてジレンマもあってプロレスラーになることを決意する。

「レスラーに『ここで口論になって、ちょっとドタバタがあって、それから試合に流れ込んでください』といっても、『そういう台詞は言えない』とか、こちらの思惑通りにやってくれない。プロレスラーはプロレスラーの言うことしか聞かないんです。これは悔しいと思って、説得力を持たせるためにプロレスラーになったほうが早いと思ったんです。それで最初は練習生として参加していたら、言うことを聞いてくれるようになった」

2002年6月20日にダークマッチでデビューすると、練習生として200試合をこなした。
当時は186cm 120kgの肉体と風貌で「和製ブロック・レスナー」と呼ばれていた。
早稲田大学を中退した坂井は2004年7月31日に正式にプロデビューを果たす。
坂井は「マッスル坂井」に改名し、同年10月13日に自身のプロデュース興業を開催する。
それが「ファイティング・オーディション マッスル」である。

マッスルは、DDTプロレスリングの別ブランドとして行われる全く新しいスタイルのプロレス興行。「行こうよ! プロレスの向こう側!」というキャッチコピーに象徴されるように、一般的なプロレスという枠をはみ出したところで興行を成立させている点が最大の特徴である。プロレスとしてのファイトを見せるシーンをはさみつつも、「プロレスを考えるプロレス」を題目に掲げたり、鶴見プロデューサーに扮した俳優・今林久弥の存在、更に舞台仕立ての興行(マッスルに参加している俳優・酒井一圭は自身のブログで「プロレスというより舞台」と指摘したこともある)など、他団体からの影響も見せつつも、一味違った演出を持ち味としている。
(wikipedia)

「プロレスの向こう側行こうぜ」をキャッチフレーズにスタートしたマッスル。彼らがすごいのは公然と“脚本・演出”を持ち込んでしまったこと。ラストに流すタイトルロールに“脚本・演出”をクレジットしたり、実際に総合演出家という役回りが登場して選手たちを振り回すし、舞台裏まで見せた映像でリング上との人間関係や物語を際立たせているし、劇的シーンではスローモーションになり(観客もスローモーションで呼応するノリのよさ)、ストップモーションで心のつぶやきを聞かせたり、紙吹雪まで舞う。下北沢のタウンホールで産声を上げ、すでに数回、格闘技の聖地・後楽園ホールにも進出。最近ではプロレス団体のなかでもここを満員にできるところは少なくなってきた。にも関わらず、「マッスル」は販売開始直後にチケットが完売するという人気ぶりだ。
(シアターガイド/マッスル坂井インタビュー)

「マッスル」は何かを表現できる喜びに満ちたマッスル坂井にとって青春の結晶だった。
だから喜びと共に現実というほろ苦さも伴う。
夢は日本武道館大会を開くこと。
総合演出家・鶴見亜門はまさしくマッスル坂井の分身だった。
坂井の心の内を代弁するのが亜門だったといっていい。
閉鎖的なプロレス界で部外者ともいえる演劇役者が受け入れられたという事実は衝撃だった。
彼はプロレスが下手でも、プロレスを変えたのである。

オーディションとしてスタートした「マッスル」はいつしか独自の世界を構築し、今までのプロレスファン以外のサブカルチャー層にまで届くことになる。
2007年の日経エンタテイメントの「日本を動かすヒットメーカー100人 演劇部門」で坂井は三谷幸喜や野田秀樹といった演劇界の奇才と共に名を連ねた。
その一方でその斬新すぎる手法は既存のプロレスマスコミやプロレスファンから敬遠された部分もあった。

「これはプロレスとして捉えていいのか?」

しかし、坂井はこう語る。

「スローモーションをやったり、いろいろと既存のプロレスではやってはいけないことをしていますが、だいたいプロレス業界でサクセスしてきた人は、周囲の言うことを聞いてこなかった人が多い。有刺鉄線や凶器を使った過剰な演出も、その人たちの先輩達からはプロレスじゃないって言われていたはずなんです。僕らのやっていることは、ゆるいと思われるかもしれない。プロレスが冗談で芝居だと思うかもしれない。でも、プロレスを演劇的に見せる方法がなかっただけの話なんです」

「僕はプロレスというのはスポーツのドラマティックな、感動する部分を極端に肥大化させたもので、ものすごくサイコロジカルだと思っているんです。一流のレスラーの試合というのは、観客の心を手に取るようにつかんで試合を組み立てていますから。それができないから、せりふや映像を使っているわけで。僕がプロレスにこだわっている以上、同じことでは一流レスラーを超えられませんからね。当初はいろんな方面からお叱りは受けましたけど(苦笑)。人気が出て来てプレッシャーもありますけど、結局はその時その時に自分の中にあるものをやってるだけなんです。やりたいことなんですよ」

時には「マッスル」の舞台で当時三冠ヘビー級王者・鈴木みのるとスローモーションなしでシングルマッチで対戦したり、飯伏幸太や大谷晋二郎と熱い試合をすることで"プロレスラー マッスル坂井"としての意地と自我を見せつけたこともあった。
坂井の才能は地上波テレビ局にも届き、一時期、フジテレビの人気バラエティー番組『めちゃ×2イケてるッ!』の色取り忍者で徳川綱引役として出演した。また大喜利日本一決定戦「ダイナマイト関西」では大喜利で芸人と対等に渡り合った。

ファンに「マッスル」は笑えて楽しいエンターテインメントだという固定観念で出来上がると、時に坂井は問題提議やシリアスでへヴィーな話や普通のプロレスをすることで、彼らの頭の中にある観念を壊しにかかった。
何が飛び出すかわからない。
台本があったとしても、何が起こるのかわからない。

誰も思いつかないことを発想した上でやってのける"奇想天外な発想力"から生まれる演劇をフォーマットにした喜怒哀楽のプロレス…それが「マッスル」だった。

その一方でDDTの映像班として仕事は全うした。
映像会社DDTテック(現TEC)の社長となり、雑誌やモバイルサイトの連載を持つようになり多忙を極める。

だがファンやマスコミの期待値、イベント人気の急上昇、仕事が多忙になるにつれて坂井の頭の中からはアイデアが浮かばなくなっていく。心が壊れていく…。
坂井はその苦悩をリングでさらけ出したことがある。
2007年9月7日の「マッスル15~最終日~」でのことだ。

「なんで俺はプロレスなんかやろうとするのだろう。マッスルをやると褒められるんだ。もうダメだ。何をしたらいいのかわからない。もう…書けない。俺なんていなくなっちゃえばいいんだ。マッスルなんてなくなればいいんだ」

これは坂井の心の叫びだった。
天才的な頭脳と発想力を持ちながらも、心は決して強くはない。
ネガティブでコンプレックスの塊な自分と周囲の状況に解離が生じ始めていた。

次第に2009年当たりからの「マッスル」のイベント内容にはそんな坂井の迷い、心の不調ぶりが目立つようになり、賛否両論が起こる。

DDTが2009年8月に両国国技館に進出することになると、坂井は映像班に専念し、裏方に徹した。
メインイベントのHARASHIMA VS 飯伏幸太の煽りVTRを制作することになった坂井は何かの題材を模倣するのではなく、オリジナル作品を作った。
その映像の中にDDT,そして坂井自身の決意を示した。

「限界とは人間が作り出した最大の欠陥品である。二人に限界はない。DDTに限界はない!」

実はこの大会に向けてVTR作成する中で、映像スタッフに加わっていたディレクター古武直樹氏が制作した蝶野正洋VSポイズン澤田JULIEの煽りVTRにかなり触発を受けていた。
古武氏は今回、坂井が制作した映像に何度もダメ出しをした。
そんな中で坂井の頭の中で浮かんだのが"限界"という単語だった。

「お客さんがキョトンとしていようと、リングと同じで常識や限界なんて思って…」

しかし、坂井は2010年に実家の金型工場を継ぐために引退を発表する。
同年10月6日の「マッスルハウス9」はマッスル坂井引退興行となった。
誰もが坂井の引退を惜しんだ。
もう「マッスル」が見れないことを惜しんだ。
だが、奇想概念を持つ坂井はここでもファンの観念をいい意味で壊した。
坂井は鈴木みのるとの最終試合で結婚と子供が生まれることを発表し、あの鈴木をスローモーションを世界に引き込んだ末に、敗れた後マイクでこう語りかけた。

「皆さん、僕から提案するのも何なんですが・・・結婚して、子供を作ってください。今いる人数が3倍、4倍になって、ネズミ算式に。今日は2000人弱入っていますが、約1万人弱になるとおのずと日本武道館は入ると思うんです。次回の興業は20年後の2030年10月6日に『マッスルハウス11』をやるんで、みんなのジュニアたちでもう一度、この後楽園ホールで再会したいと思います。一応、チケットは会場の売店でご用意しておりますので。初回は皆さんには僕らと一緒に武道館に行こうという約束を守れなかったので、ご招待という形でお配りさせていただきます」

フィナーレは壮大なプロローグに繋ぐことで、観客をハッピーエンドに導いた坂井。
これも異才・坂井らしい引退興行だった。
総合演出家の鶴見亜門はDDTのGMに就任し、プロレス業界で生活する道を選んだ。
もはやマッスル坂井の代弁者だけでは収まらない域にまで達していたのだ。
DDTは「マッスル」で培った新たなるプロレスの可能性を追求し、インディー団体から日本プロレス界の上位クラスにまで成り上がっていく途中である。
マッスル坂井が残した遺産はあまりにも大きかった。

「これからもプロレスのような人生を続けていけたらな。リングは降りますけど、プロレスは続けるつもりです」

この言葉を残して坂井はプロレス界を去った…はずだった。

地元に帰った坂井は坂井精機の専務として平日朝八時から夕方の五時まで、規則正しい生活を送った。最初は現場で金属の切削加工に携わった。現場で経験を積むと、坂井は経営を学ぼうと新潟大学大学院技術経営研究科に入学する。(2016年3月に大学院を卒業)
またローカルタレントしてレギュラー番組を持つようになった。

そんな坂井がプロレスと再び接点を持つのは時間がかからなかった。
2012年8月のDDT日本武道館大会にてマッスル提供ダークマッチで復活した。
その後、新潟プロレスにレフェリーとして参加し、いつの間にか坂井らしきスーパー・ササダンゴ・マシンというマスクマンが出現する。
するとこの情報がDDTに知れ渡り、ササダンゴは2013年夏以降からちょくちょく呼ばれるようになる。

「プロレスに戻るとは本当に思っていませんでした。1度は完全に諦めました。『絶対無理だ、もう二度とプロレスはできない』と。だからなんというか…『あきらめなければ夢は叶う』って言いますけど、私の場合、『あきらめても夢は叶う』という数少ない事例ですね。今はまわりが根負けした形で、『まあ専務はしょうがないや』みたいになっていますけど。引退して2年ぐらいは、東京の仲間たちも気を遣ってくれて、全く連絡を取ってなかったんです。けれど次第に『武道館大会をやるから、ちょっと観に来ないか』とか、『タイトルマッチやるから、応援に来ない?』とかやり取りをするようになりました。だんだん顔を出さなきゃいけない理由やシチュエーションを作ってくれたんですよね、何かと。本当に自然に。たまたまDDT48総選挙っていう人気投票にゲストに出たら、上位にランクインして。それで上位のメンバーだけでやる大会があるからって言われたら、それに出場しますよね。そこで遺恨が生まれたら、またその次も…ってどんどん続いていきました。本当は引退している人間だから、出ちゃいけないんですけどね。本当に私はもう、いつも『申し訳ない』と思いながらやっています。今、最高のプロレスラー余生を送っていますよ」

そんな坂井、いやササダンゴの名がネットを中心に拡散されたのが2014年6月の煽りパワーポイント事変だ。

プロレスに欠かせないのが相手レスラーを煽(あお)るマイクパフォーマンス。この煽りを「パワーポイント」を使ったプレゼン形式で行ったレスラーが登場して話題になっています。この「煽りパワポ」を披露したのが、DDT後楽園ホール大会に登場したスーパー・ササダンゴ・マシン選手。チャンピオンのHARASHIMA選手に挑戦するにあたり、「KO‐D 無差別級王者になりたい」という研究テーマでプレゼンを行ったのですが、その内容がやけに本格的なものなのです。アンゾフの成長マトリックスによって「チャンピオンに勝つためには新必殺技の開発が必要」と分析したスーパー・ササダンゴ・マシン選手。別の対戦で新技の「臨床実験」を実施した結果、1回の攻撃で相手の体力を35%減少させる効果があることが分かったそうです。これをグラフにすると2009年のリーマンショックで国内金型生産額が35%激減した現象と酷似していることから、新必殺技を「垂直落下式リーマンショック」と命名。「この技を3回成功させ、HARASHIMA選手の体力を105%減少させれば必ずHARASHIMA選手に勝てる」と結論を発表しました。覆面レスラーがリングサイドでPCを操作するという斬新な煽りに会場も大盛り上がり。ちなみにこの後の試合で、スーパー・ササダンゴ・マシン選手は見事に3回の垂直落下式リーマンショックを決めましたが、試合には負けたそうです。
(ねとらぼ)

この煽りパワポ動画がyoutubeにアップされるとネット人気爆発する。
これがきっかけで地上波テレビドラマの番組宣伝や企業宣伝に引っ張りだことなり、しまいにはTBSの「水曜日のダウンタウン」にプレゼンターとして出演することになった。芸能活動も本格的となり、松竹芸能に所属し、プレゼンDVDはamazonの部門別ランキング上位に名を連ねる売り上げだという。
煽りパワポは坂井精機の専務取締役になり、大学院に通わなければ生まれてこなかった産物だ。時には湧き水のように溢れるアイデアや発想の渋滞を緩和し、自分の伝えたいことをキチンと抽出することができる行為がこの男にとっての煽りパワポなのだ。

この現象について水道橋博士はこう語っている。

「ようやく世間がマッスル坂井の才能に追いついた」

またマッスル坂井としてDDTの映画制作に携わり、「劇場版プロレスキャノンボール2015」で総監督を務め、収録風景をTwitterにアップすることでネット民を巻き込み、大々的なムーブメントを起こした。青春の「マッスル」時代から社会経験を積むことで円熟させた"坂井脳"に満ちた作品だった。また坂井本来の「人間味をドラマティックに表現できる感性としっかり拾う悪意」はしっかり表現されていた。

プロレス界が生んだ異才・マッスル坂井及びスーパー・ササダンゴ・マシンは世間とプロレスをしているの真っ只中なのだ。

マッスル坂井に存在する"坂井脳"を解明するために考察してみたが、この"坂井脳"の正体は底が丸見えの底なし沼と形容されるプロレスのすきま部分を絶妙のさじ加減で突く"奇想概念"ではないだろうか。

"奇想概念"は私の造語なのだが、普通の人が思いつかない考えで新たなコンセプトを打ち出すという意味だ。
彼にとってはテレビ番組に出ることも、煽りパワポも、大喜利も、金型工場も、経営学の勉強も、映像制作もすべてはプロレスなのだ。

見る側ややる側も「プロレスとはこうなんだ」という固定観念が生まれてくる中で、プロレスのすきまを突くことで、思考の限界を超えて、無限の可能性を開拓することで、新しいプロレスの見方を示してきたのがマッスル坂井の人生なのだ。
時にはその先鋭的な内容に周囲と乖離が生じたこともあったが、それでも坂井は継続することで、最後にはきちんと解決させて見せた。
坂井こそ、21世紀のプロレス界における開拓者であり、変革者なのだ。

「みんな、成功か失敗しか選択肢がないんです。でも、ハッピーという選択肢があったじゃないですか。ゴールのないマラソンもいいけど、底が丸見えの底なし沼もいいけど、批判されたり悪口を言われてもそれでもハッピーに終わらせるって、すっげえいいことなんじゃないかなって」

「マッスル」を継続することで、喜び、悲しみ、苦しみを味わった男だがらこそ気づかされた。是非を問う前に周囲を圧倒させるほどの納得力こそが坂井が見出だした境地なのだ。

起承転結のない作品などない。
成功でも失敗でも、多くの人々が腑に落ちるような落とし所を用意することが大人になったマッスル坂井の作品制作における一つの答えだったように思える。
「プロレスの向こう側」を目指した男が敢えて語るハッピーという単語には重みと説得力がある。

諦めても夢は叶うこともある。
どんな事象でも最終的にハッピーに導くことが作品を制作するクリエイターとしての構成力が彼にはある。
彼がまだプロレスラーになる前に週刊プロレスからの執筆オファーをもらったときに感じていた"何かを表現できる喜び"は現在は"表現することに生じる自由と責任"へと深化していった。

マッスル坂井の中にある"坂井脳"によって今後も誕生していく作品のエンディングはどうやらハッピーになるみたいである。
ただし、ハッピーに導くための表現は相変わらず"奇想概念"からプロレス界に、世間に新機軸が生まれていくのだろう。

マッスル坂井、やはりあなたは次元の違う異才なのだ。