ワイルド・シングの夢と毒~放浪者のBorn to Run~/大仁田厚【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第120回 ワイルド・シングの夢と毒~放浪者のBorn to Run~/大仁田厚



「あいつは危険なんだ。大仁田のプロレスに勝ち負けは関係ねえんだから。負けたって、終わってみれば会場は大仁田の世界になっている。自分から『俺は弱い』だの『強さを求めていない』だのって…最初から勝負論を必要としない人間と試合したら新日本プロレスがやってきたことを否定することになるだろ。試合で負けたって、あいつの世界は崩れることはない。だから、大仁田の存在感を消すのは不可能なんだ」

かつて"邪道"大仁田厚が新日本プロレスに参戦する際に、当時のオーナー・アントニオ猪木はこう言って反対したという。

「天龍源一郎、大仁田厚、前田日明…この三人はジャイアント馬場とアントニオ猪木とは違う価値観で新興勢力的なブランドとして同じ位置にいたと思うんです」

"世界一性格の悪い男"鈴木みのるはこう評したことがある。

「自分もたまに邪道さん、外道さんから昔の大仁田厚の話をよく聞くことがありますけど、スゲーなって思うこともありますよ。ちょっとぶっ飛んでいるというか、アクの強い人なんだろうなって。プロレス界でそういうカリスマ的なものを持っている人は、逸話に事欠かない人だなって思いますね。大仁田厚にまつわる色々な話を聞くとエポックメイキング的なものを起こせるマンパワーを感じるし、バイタリティーが凄いんですよね。言い方に語弊があるかもしれないけど、人間的にある程度、、まともではない部分で、自分にとってはものすごくハードルが高いです」

WWEに移籍した"キング・オブ・ストロングスタイル"中邑真輔はこう語る。

大仁田厚はプロレスという枠を超えて時代の寵児となったプロレスラーだ。
そしてあのアントニオ猪木から"危険人物"と一目置かれるほどの存在感を持つ男。
ジャイアント馬場の付き人から始まった男のプロレス人生。
デスマッチの教祖、涙のカリスマ、邪道、インディーの帝王、ミスターライアー…。
数々の異名とデスマッチで負った幾多の傷は男の生きた歴史。
今回は日本プロレス界でカリスマとなった男の物語である。

大仁田は1957年10月25日長崎県長崎市に生まれた。
実家は風呂敷の製造業だった。
子供の頃から好奇心と冒険心が旺盛だった大仁田は高校を中退すると徒歩で日本一周を目指すという無謀な旅を試みたことがある。
結果は神戸までしか行けなかったが、この旅は地元の新聞で取り上げれたという。

1973年10月、16歳の誕生日を直前に大仁田は全日本プロレスに入門する。
全日本プロレス新弟子第1号として、ジャイアント馬場の付き人となる。
1974年4月14日の佐藤昭雄戦でデビューを果たした。
大仁田は馬場にとても可愛がられ、「馬場家の養子にしたい」という声があがるほどの寵愛を受けた。
だが、体格的には恵まれなかった大仁田は前座戦線から抜け出せなかった。
同期の渕正信とは前座で好勝負を展開していたものの、その活躍はなかなか日の目を見なかった。

1976年に元大相撲前頭筆頭・天龍源一郎がプロレス転向をし、特別待遇をされると大仁田は社会の矛盾を感じた。

「俺よりも後輩なのに、いくら相撲で実績があるからっていきなりグリーン車に乗れるのかよ!?」

大仁田は師匠・馬場にこう直訴したという。

「プロレスをやめて、僕はフランス料理のコックになります」

大仁田は当時、料理の世界に興味があったというが、馬場にこう言われて思いとどまった。

「大仁田、お前はフランス料理と俺のどっちをとるんだ!?」

大仁田に転機が訪れたのはプロレスデビューから7年後の1981年の海外遠征だった。
ドイツ、プエルトリコ、アメリカと各地を転戦した。

プロレスライターの小佐野景浩氏は大仁田の海外遠征時代についてこう語っている。

「私は大学生のときから『ゴング』で仕事をしていたんですけど。1981年、アメリカのテリトリーを3週間回って、その途中のテネシーで大仁田さんと渕正信さんに出会ったんです。テネシーは反日感情が凄かった土地なんです。昔から芳の里さん、ヤマハ・ブラザーズ(星野勘太郎、山本小鉄)、ヒロ・マツダ、猪木さんら、多くの日本人レスラーが試合をしていて。あの2人もヒールとして活躍してて、当時で週1200ドルは稼いでいたのかな。2人はAWA南部タッグチャンピオンだったんですよ。その日は彼らのアパートに泊めてもらって、翌日はケンタッキー州のルイビルで試合だったのかな。行動を共にしたのは2日間だけでしたけど。僕は番組を録音したカセットテープをアメリカに持って行ってたんだけど、ホームシックの大仁田さんにあげたんですよその頃、日本ではツービートとかが出ていた『THE MANZAI』が流行っていて。そのときの大仁田さんは23歳くらいかなあ。凄くホームシックになっていてね(笑)。車を運転していても『この景色は日本の◯◯に似ている……』とボヤいてるんですよ」

海外遠征時の1982年3月のノースカロライナ州シャーロットにて大仁田はチャボ・ゲレロを破り、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得した。
この王座獲得に小佐野氏曰く、こんなエピソードがあったという。

「アメリカでチャボ・ゲレロの王座に挑戦させるのは『大仁田か、渕か?』という選択になったとき、テリー・ファンクが大仁田さんを選んだんですけど。それはなぜかというと、客を惹きつけける力が大仁田さんにはあったとテリーは判断したと思うんです。プロレスって技術や強さで客は見ないところもあるじゃないですか。そこは言葉には言い表されない魅力に尽きると思うんですよね。アメリカでチャボ・ゲレロに勝ったときも、日本から来ていた倉持隆夫アナウンサーがインタビューしたら『社長、社長~っ!!!!!』とリングサイドにいた馬場さんに向かって泣き叫んで、馬場さんも苦笑いという(笑)。倉持さんが『これで日本に帰れるよ!!』と向けたら『バンザ~イ!!』と叫んでね。あの天然のリアクションは魅力的ですよ。すべての感情をさらけ出すという」

こうして1982年6月に大仁田は凱旋帰国を果たす。
全日本プロレスのジュニアヘビー級を牽引するアイドルレスラーとして…。
当時、ライバル団体の新日本プロレスでは初代タイガーマスクが爆発的人気を誇っていた時代。大仁田はタイガーマスクのような四次元殺法はできなかったが、感情むき出しの泥臭いプロレスで"炎の稲妻"という異名を持ち人気レスラーとなる。
当時の得意技はジャーマン・スープレックス・ホールド、ブロックバスター・ホールド、サンダーファイヤー(カナディアンバックブリーカーから後方に倒れる落下技)だった。

だが、1983年4月20日のヘクター・ゲレロ戦の試合後、リングに降りる際に着地に失敗し、左膝蓋骨粉砕骨折という重傷を負い長期欠場に追い込まれた。
その後復帰するものの、1984年12月にマイティ井上と引退を賭けて闘うも敗れ、引退に追い込まれた。
1985年1月3日、後楽園ホール大会で大仁田の引退セレモニーが行われた。
ちなみに川田利明によると馬場元子氏はこの引退に号泣していたという。

「もう一度プロレスをやろうなんていう気持ちはまったくないよ。一度辞めたら上がるリングがない頃だもん。実際問題、もう左足が動かなかった。俺が井上さんに挑戦した田園コロシアムでは三沢光晴がタイガーマスクとしてデビューしたし、俺の役目は終わったのかなっていう気持ちもあったのかな」

引退後、大仁田はタレント活動、事業家になるも経営に失敗し、借金まみれとなり、工事現場で肉体労働、トラック運転手などをこなしながら日々の生活費を稼いでいた。
そんなある日、土木工事現場で声をかけられた。

「大仁田さんですよね?」

それは一人のプロレスファンだった。
作業着姿でプロレスファンにサインした大仁田。
こんな姿は見られたくなかっただろう。

「俺は何をやっているんだ!?」

1988年夏、大仁田はジャパン女子プロレスから、コーチ兼営業マンとして働いてほしいと声をかけられた。また同時期にコーチに就任したグラン浜田と因縁が生じ、現役に復帰する。
大仁田復帰の仕掛け人はかつて新日本プロレスの営業本部長で、ジャパン女子最高顧問だった新間寿氏。新間氏は「格闘技連合」なる組織を結成し、第二次UWFに挑戦状をたたきつけた。
大仁田は新間氏の代理人として第二次UWFの大阪大会に表すも、神新二社長にこう言われて追い返された。

「チケット持ってますか!?」

この発言に大仁田の心に火をつけた。

「あの時の神の発言に俺個人の火をつけたことはあるよ。あの言葉は俺を人間として傷つけたからな」

1989年、大仁田はパイオニア戦志で剛竜馬と対戦し、格闘技の祭典では誠心会館の空手家・青柳政司と壮絶な激闘を演じた。

ここで大仁田は勝負に出る。
1989年10月に全財産5万円を元手にして、新団体FMW(フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング)を旗揚げした。
ちなみにこの団体の名付け親は元週刊ゴング編集人の竹内宏介氏だという。

「重要なのはFMWの始まりはデスマッチじゃなかったってことなんだよ。本来は総合格闘技団体だから。もちろん大前提にあるのはプロレスだから"総合格闘技をプロレス流にやったらUWFじゃなくてこうなるよ"っていうものだったんだよ。俺はUWFも同じプロレスの仲間だと思っていたけど、あの神の発言で"こいつらは違うんだな"と思ったんだよ。だったら対極のものを創ってやろうと思ったよ」

大仁田の根底には蛇のような執着心がある。
この執着心がFMWという団体を産み落としたと言えるかもしれない。

FMWには本当に金がなかった。
たった八坪のプレハブ作りの事務所、机とイスと電話しかなかった。
事務員と二人で一人前の焼肉定食を分け合って食べたこともあるほどの極貧ぶり。
それでも大仁田には再びプロレスの仕事ができていることに幸せを感じていた。

1989年10月の後楽園ホール大会で青柳を破った大仁田はファンにこう語り涙した。

「命懸けで頑張ります。このプロレス界で生きさせてください!」

大仁田はFMWをアメリカWWE(当時WWF)やテネシー、プエルトリコのプロレスにヒントを得て、ハチャメチャなおもちゃ箱のようなプロレス団体にしたいと思うようになる。

「プロレスは流血もあれば、反則もある。格闘技戦があれば、デスマッチだってあるし、女子もいるし、ミゼットもいる。見世物小屋のような何でもあり」

1989年12月10日の後楽園大会で大仁田はプエルトリコで行われた試合形式である有刺鉄線デスマッチを敢行している。(カードは大仁田厚&ターザン後藤VS松永光弘&ジェシー・フリン)

「関節技が実際にどれだけ痛いのかなんて、普通の人にはわからない。でも、有刺鉄線に引っかかれば痛いというのは誰でもわかるじゃん? その痛み、流れる血ほどリアリティーのあるものはないよね。ある種、デスマッチ路線はプロレスのリアリティーの追求としてスタートしたんだよ。プロレスっていうのはさ、昔から八百長だ何だって言われることとの闘いだったよね。デスマッチはそれに対抗する手段だった」

ここで大仁田は「インディペンデント(インディー)」というアイデンティティーを作り上げている。
小佐野氏はこう語っている。

「彼が頭がいいのは"インディペンデント"を名乗り始めるんです。日本のプロレスのメジャー、インディーという線引きは、メジャー側から生まれた言葉ではなくて、大仁田さんが"FMWは大きな団体とは違いますよ!"と自ら区別するために言い出したたことなんです。こうして大仁田さんは”俺たちは新日本や全日本、UWFとも違う。インディペンデントなんだ!"というイメージを作り上げていったんですよね」

大仁田は日本プロレス界においてインディーの開祖だったのだ。
あえて自分自身を下位概念に置くことで、存在感を際立たせようとしたのである。
そんな大仁田がプロレス界全体に轟く試合を行った。

1990年8月4日、汐留大会で行われたターザン後藤との「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」である。
大仁田は特撮や東宝系映画作品で特殊効果を担当している小川誠氏に協力を依頼した。
小川氏からは「小型爆弾を使ってみては」とアドバイスをしたという。
ロープは外れ、四方に有刺鉄線が張り巡らされ、120個の小型爆弾が設置され、有刺鉄線に触れると200ボルトの電流が流れて周辺の爆弾が破裂するという前代未聞のデスマッチである。

耳をつんざくような爆破音、全身が血だらけになる両者に観客からこんな声があがった。

「もうわかったから、終わらせてくれ!」

この試合で大仁田はブレイクし、同年のプロレス大賞ではベストバウトを獲得し、またプロレス大賞MVPに輝いた。馬場・猪木が健在のこの時代にインディーの大仁田がMVPになったのは快挙だった。

「その頃のFMWは表面的には好調に見えただろうけど、そういうものを考えつくぐらい実際には切羽詰まっていた。ぶっつけ本番だから、どんなショックがわかんないんだから、そこは怖かったよ。電流爆破の時に、雑誌のフライデーが『涙のカリスマ』って書いたんだと思う。それから、その言葉が日本中に広まったんだ」

大仁田の人気とともにどんどんエスカレートしていく電流爆破デスマッチ。
金網、時限爆弾、地雷爆破…。
それでも大仁田はこう語る。

「俺は残酷ショーを見せるためにデスマッチを始めたわけではない。リアリティーの追求でもあるけど、ヒューマニズムが存在しないと意味がないと思うんだ。あの電流爆破のリングに立った時にどんな人間模様や人間ドラマができあがるのか、レスラーそれぞれの人生が透けて見えるかが重要なんだよ。俺はFMWの頃に天下を獲ったと思った瞬間はないよ。ただね、旗揚げする時には"何とか生きる場所をつくらなきゃいけない"と思っていて、始めてからは"生き抜いていかなきゃ"って必死だったけど、それがいつしか"夢を見てもいいんじゃないか"に変わっていったのは確かだよ」

大仁田はFMWを旗揚げした頃からテーマ曲に使用したのが映画「メジャーリーグ」のサントラに使用された「ワイルドシング」。
この曲が流れるとファンは花道に現れた大仁田に群がり、熱狂的な「大仁田」コールが起こる。試合では血まみれのデスマッチを展開し、試合後には「俺はFMWを絶対に潰さん!」と叫び、リングサイドに集結したファンはキャンパスを叩きながら、「大仁田」コールを送り、大仁田は返礼として口に水を含んでファンに吹きかける"聖水パフォーマンス"を展開する。
挫折して這い上がる男にファンは己を顧みて、大仁田に夢を見ていた。
そして、いつしか崇める対象へ…。
大仁田信者と呼ばれる熱狂的なファンを生み出す光景はまるで"宗教"。大仁田は熱狂的空間を生み出す"教祖"だった。
大仁田のプロレスには夢もあれば、その一方で中毒性を生む"毒"があった。

「人生って選ばれたヤツばっかりじゃないし、機会やチャンスが来るやつばっかりじゃないと思う。成功者の陰には敗者がいる。高収入のヤツがいれば低収入のヤツもいる。だけど、もがき苦しむことを苦と思うか、もがき苦しんで何かをつかむことが快感だと思うかっていう世でさ」

なぜ、彼のパフォーマンスは人の心を引きつけるのか?
かつて大仁田と電流爆破デスマッチで対戦したことがある蝶野正洋はこう語っている。

「大仁田のしゃべりってのは一流なんだよ。アレは俺にも真似できない。彼がテレビカメラに向かってアピールしている時に、よく見てみたらいいよ。大仁田はカメラのレンズの少し先を見るようにして訴えてるから。アレは観ている人間に物凄く届くんだよ。カメラに向かってじゃなくて、カメラの向こうにいる視聴者に向かっているから。俳優になったWWEのロディ・パイパーなんかと同じだよ。大仁田は役者だよ」

地上波のテレビ番組で大仁田が出演する機会が増え、馬場・猪木に次ぐ知名度も得た。
地位も名誉も大金も得た。
邪道はいつしかカリスマとなり、FMWの神様となっていた。
ワンマン社長として君臨していた大仁田は社員にこう語っていたという。

「俺がいなくなったら、日本のプロレスは地盤沈下する。俺が抜けたらこんな団体はお前らだけでうまくいくはずがないだろう」

そんな大仁田はデスマッチ以外で一度死にかけたことがある。
1993年2月に急性扁桃炎で入院した時のことである。

「喉に穴を開けて気管を広げて人工呼吸器を付けたり、膿を出すチューブを入れるために鎖骨の上を切開してさ。最初の9日間は麻酔で眠っていた。抗生物質が効かなくて、多臓器不全になる寸前だったらしいよ。危篤になって家族が呼ばれたときはシベリアで白熊と闘っている夢を見てた」

危篤状態から生還した大仁田は二度目の引退について考えるようになる。

「いくらなんでもデスマッチで死んでしまうことは絶対にあってはならないことだ」

1994月5月5日の川崎球場で天龍源一郎との電流爆破デスマッチに敗れ、一年後の引退を宣言する。引退記念ツアーで一年間、彼は日本全国を回った。
そして、1995年5月5日の川崎球場でハヤブサとの電流爆破デスマッチを最後に、大仁田は二度目の引退。
涙のカリスマのレスラー人生はこれで終わったかに見えた。

だが…。

引退後にタレントとなった大仁田だったが、やはり海千山千の芸能界で生き残るのは容易なことではなかった。

近年、地上波テレビに出演する機会が多い"暴走キングコング"真壁刀義はこう語っている。

「俺にはプロレスラーという肩書きがあって、それで食レポをやっている。俺が現役プロレスラーだからこそ、食レポをやることにも意味がある。『プロレス辞めたら食レポやればいいじゃん、タレントやればいいじゃん』と言われるが、それは違う」

大仁田が絶対的なカリスマにいられるのはやはりプロレスしかないのだ。
1996年12月、大仁田は一試合限定という建前で復帰を果たす。
ライバルであるミスター・ポーゴ引退試合という舞台で。
半年前から大仁田復帰のアングルは動いていた。
リング復帰を狙う大仁田はポーゴに引退させて、引退試合のパートナーとして自分を選ばせるというプランを考えた。
そして、引退するポーゴの懇願という口実を利用して大仁田は復帰した。ちなみにポーゴは引退から半年後に大日本プロレスで復帰している。
大仁田には夢と同時に猛毒がある。
その裏の一面が垣間見えるエピソードだ。

FMWでプロレス復帰するものの、大仁田は現場サイドとの溝は深まっていた。
脱デスマッチ路線を掲げていた新生FMWにいつしか彼の居場所はなくなっていった。

「FMWから手を引いてほしい」

FMWの選手・スタッフの総意によって、1998年11月に大仁田はFMWから追放された。
大仁田にとっては飼い犬に手を噛まれる心境だっただろう。
そして、大仁田が求めた生き場所は新日本プロレスだった…。

「長州力と電流爆破デスマッチで闘いたい」

同年1月に引退していた新日本プロレスの現場監督・長州力と闘いたいという無謀な要求。
新日本には「大仁田が参戦したら、会社を辞めます」という社員もいたが、それでも新日本は大仁田を上げることを決断する。
何故か?

それは当時の新日本の政治背景にある。
同年4月にアントニオ猪木が引退し、新団体UFOを立ち上げた。
猪木は当時の新日本のオーナーである。
猪木の発言力が新日本内部で強くなりつつある状況下で、坂口征二社長・長州力現場監督・永島勝司取締役という体制が猪木に対抗できる策として、毒である猪木に負けない毒としてぶつけたのが大仁田だった。

1998年11月の新日本・京都大会に突如乱入した大仁田は革ジャン姿で現れた。

「おい、俺は大仁田厚だ!! いいか! 新日本プロレスにあいさつに参ったぞ! おい、俺を上げるのか!? イェスかノーか、ここで返答しろ!」

大仁田の乱入に、なんと長州が姿を現し、大仁田をボコボコにする異常事態。
これで既成事実ができた。
大仁田の新日本参戦が決まった。

1999年1月4日の東京ドーム大会。
大仁田の新日本初参戦の相手は佐々木健介。
当時は長州力の後継者と言える新日本の番人である。
大仁田は入場時になんとタバコを吸いながら現れた。
場内は圧倒的な大ブーイング。
「殺せ」コールが起こる物騒な試合会場。
試合は健介の顔に大仁田が火を放ち反則負けとなった。
場内は物が飛び交っていた。
実は大仁田はこの日、セコンドをつけずに現れたので、万が一の有事に備えて、コスチュームの下になんとジャックナイフを忍ばせていたという。
やっぱりこの男は煮ても焼いても食えない男なのだ。

大仁田の新日本参戦は、彼の化身であるグレート・ニタも含めると5戦。
2000年7月31日の横浜アリーナ大会では引退していた長州力を引きずり出し、電流爆破のリングで闘った。
テレビ朝日の真鍋油アナウンサーとのやり取りは「大仁田劇場」と呼ばれ、「ワールド・プロレスリング」の視聴率に貢献した。
大仁田の野望は成就した。

実は大仁田には実現させたい試合が他にもあった。
アントニオ猪木戦とジャイアント馬場戦である。
どちらも自らの土俵である電流爆破のリングである。
猪木戦は1994年には実現のために交渉のテーブルに着いたが、結局実現せず。
馬場戦は馬場が大仁田に「三沢とジャンボが反対するよ」と一蹴したという。
やはり馬場と猪木の壁はいくら邪道でも厚かったようである。

その後、参議院議員となった大仁田はあらゆるプロレス団体を参戦し、3度目の引退をして、すぐに復帰したりとプロレス裏街道をさすらった。
どうやら彼は6度も引退したといわれている。

そんな大仁田だが、近年ゼロワンと組んでの超花火シリーズや復活したFMWでの活躍により、プロレス界で再びクローズアップされている。
一部では現在の日本プロレス界で一強と言われている新日本プロレスに唯一、対抗しているともいわれている。
2014年にはプロレス大賞敢闘賞、2015年には長与千種とのコンビでプロレス大賞最優秀タッグチーム賞を受賞した。
大仁田厚は今年(2016年)デビュー42年。
本人は還暦に電流爆破で闘い、引退したいと語っているという。

「もう俺にはそんなにできる期間がない。デスマッチでこれだけ駆け上がってくると、体が持つわけない。ヒザも悪いし。『電流爆破をやり過ぎている』と言われるが、地方には見たこともない人がたくさんいる。生きざまを届けられたら最高だろ? でも還暦で電流爆破は終わりだと思っている。A面が王道プロレス、ストロングスタイルだとしたら、電流爆破はB面として未来永劫生き続けることができる。還暦まで自分の最大の武器である電流爆破を全国に届けたい。それが悪いのか? 自分の意思を貫けなくて、何が自分の人生なんじゃ。俺は自分の思った道を行くだけじゃ」

大仁田は東京スポーツ紙面でプロレス界全体に爆弾要求をしている。

「(引退と定める)還暦電流爆破まで2年を切って、今日こうして旗揚げの地に戻ってきた。来年は俺がやってきた証しを示すために、今まで上がってきた全団体に電流爆破の挑戦状を送らせてもらう。これは戦争じゃない。40年貢献したんだから、少しは俺に敬意を払ってほしい」

この発言には大仁田の人間性を象徴している。

「俺に敬意を払ってほしい」

コンプレックスを持つ屈折した目立ちたがり屋である大仁田が欲したものは業界全体からの"リスペクト"だったのかもしれない。
自分で敬意を払ってほしいと言えるというのは図々しい神経を持つ大仁田らしい。

作家の内館牧子氏は大仁田をこう評している。

「彼の根幹は『虚無』だと思う。彼は『目立ちたがり屋の野心家で自分を売り出すことにかけてはピカ一』と言われている。そして、その野心が派手な行動の原動力になっているように言われている。おそらくそれは違う。彼は基本的なところで虚無的なのではないか。つまり、あらゆることに実はあまり価値を見ていなくて、だからこそ好き放題に動ける。あくまでも私の独断だが、長期にわたる電流爆破が彼の心を荒らした。荒ませた。電流爆破はやはり人間の許容範囲を越えている。それを続ければ人心は荒む。それが『虚無』へと行きり着いたのではないだろうか。そして、それを埋めるのはナルシズムしかない」

そういえば大仁田がかつてこんなことを語っていたことがある。

「俺は何をやっても満たされないんだよ」

この発言の根源にブラックホールのような大仁田の虚無感にあるのかもしれない。

アメリカのロックシンガーのブルース・スプリングスティーンの名曲「Born To Run」という曲がある。(邦題は「明日なき暴走」)
この曲にはこんな歌詞がある。

ハイウエイは、最後のあがきをする夢やぶれたヒーローたちで混雑している。
 みんなも今夜飛び出してきたんだろうが、隠れる場所はない。
(中略)
 いつになるのだろうか、あの場所にいつ到達できるかわからない。
 あの場所とは、俺たちが本当にいきたいと思っている場所、太陽の当たる場所。
 でもその時まで、俺たちのような放浪者は、突っ走るしかないんだ。

これは大仁田の生き方を表現しているような気がするのだ。
そもそも電流爆破も、己の生き方もプロレス界のアンチテーゼ。
アンチテーゼであることで、誰よりも輝くことを目指した男。
それが大仁田厚だったように思える。

「40年、40年、40年だ。オレだって痛えんだよ。ああ、痛え。オレが40年もプロレスをやってこれたのは、やってこれたのは、やってこれたのは、プロレスが好きだからだ!! 一生にいっぺんくらい、一生にいっぺんくらい、一生にいっぺんくらい、自分の好きなもんを思いっきりやってみろ!!」

好きなことをやってきた。
自分が大好きで自分しか興味がない。
死んでも生き返るという生き様。

大仁田厚のプロレスにある夢と毒。
これに魅せられて、酔わされて、侵されて、大仁田中毒者ともいえるファンや関係者達が今後とも絶えることはないかもしれない。

最後に大仁田が「ワイルドシング」というテーマ曲を選んだのには理由があった。
弱小野球チームが一致団結した優勝を目指す映画「メジャーリーグ」の選手たちに自分自身を重ねていたのだ。

「人生は何度でもやり直せるんだ。そして、底辺から成り上がるのが快感なんだ」

この映画のラストシーンはリーグ優勝を果たしたチームのキャプテンと恋人が抱擁して、チーム全員で喜びを分かち合うという感動的なものだった。
大仁田厚という作品のエンディングはどんなシーンが見られるのだろうか。
決して満たされないコンプレックスだらけの放浪者は、朽ち果てるまで最後の最後まで突っ走り続けるしかないのだ。