ズレてるサボテン~アブナイ男の猟奇的プロレス~/ミック・フォーリー【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第107回 ズレてるサボテン~アブナイ男の猟奇的プロレス~/ミック・フォーリー



あれは1983年10月のニューヨーク。
会場はマジソン・スクウェア・ガーデン。
ニューヨークの古くからのプロレスファンはこの試合を忘れないという。

"スーパーフライ"ジミー・スヌーカVSドン・ムラコの金網マッチ。
場外に先にエスケープした方が勝利というルールだ。

試合はムラコが場外にエスケープして勝利するが、伝説のシーンは試合後に起こった。スヌーカがムラコをリング内に戻し、なんと金網の上から得意のスーパーフライを決めたのだ。場外は大興奮に包まれた。
このシーンをリングサイドを見つめる青年がいた。
青年の名は当時大学一年生のミック・フォーリー。

ミックはこの試合が見たくて、大学寮から半日かけてヒッチハイクで会場までやってきた。ミックはスヌーカのファンだった。憧れのスヌーカの金網ダイブは今でもミックの永遠のメモリーだ。
そんな青年がやがて自らもプロレスラーとなり、伝説の男となった。
今回はプロレスに魅せられた男の物語である。

ミックは1965年6月7日アメリカ・インディアナ州ブルーミントンに生まれ、ニューヨークで育った。
少年時代からプロレスファンだった。
家族が寝静まった後の深夜に音を消して一人でプロレスのビデオを見て、プロレスの虜になっていった。

ミックは体育会系ではなく文科系の男だった。
だからプロレス入りする前に確固たるスポーツ歴があるわけではない。
高校時代には自主製作の映画を二本製作し、主演をした。
またプロレスラーになる前はリング屋のバイトもしていたという。

ミックは大学に進学すると、元プロレスラーのドミニク・デヌーチのトレーニングを受け、プロレスラーを目指す道を選んだ。
周囲の学生は大学で成績優秀なミックのプロレスラー志望に驚いていた。
ミックがプロレスラーを志した理由はあのスヌーカの金網ダイブの影響が大きい。
どうしてもプロレスラーになって、高い所から飛び降りてみたかったのだ。
そのためにケガにも耐えられるように、受け身と肉体改造に励んだ。
だからミックはいつの間にか巨漢となっていた。

1986年6月24日、ミックはプロレスデビューを果たす。
同年9月に世界最大のプロレス団体WWE(当時WWF)にジョバーとして参戦する。
しかし、ここでの試合で顎を負傷し、さらにその影響で前歯も失った。
あのトレードマークの一つとなった歯抜け姿は新人時代に生まれたものだった。

188cm 130kgの巨体で、アラバマ、ダラス、テネシーなどあらゆるテリトリーを転戦したミック。
当時のリングネームはカクタス・ジャック。
カクタスとは英語でサボテンという意味である。
実はミックの父は高校のフットボールコーチをしていて、ニックネームがカクタスだったという。
ヒッピー系の長髪と無精ひげ姿から、一時期はアメリカの殺人鬼チャーリー・マンソンに肖って、カクタス・ジャック・マンソンを名乗っていた。
彼の代表的パフォーマンスである"バンバン!"という両手でのピストルポーズはこの頃に誕生した。
また、クレイジーバンプと呼ばれるどんな場所でも敢行する自殺的で危険な受け身も、エプロンから場外へのダイビング・エルボードロップも無名時代に生まれた。

1991年3月にミックは全日本プロレスで初来日を果たし、チャンピオン・カーニバルに出場した。結果は全敗だったが、ジャンボ鶴田の場外バックドロップを受けたり、クレイジー・バンプでインパクトを残した。

1991年9月にミックはカクタス・ジャックとしてWCWと契約する。
ヒールサイドで闘い、黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャーを師と仰ぎ、コンビを組んだり、抗争を展開したりして、存在感を発揮する。
また、ある試合ではチェーンソーをリングに持ち込んだり、いきなり奇声をあげクレイジー・レスラーとなり、スティングやロン・シモンズと抗争する。1993年にはベイダー(ビッグバン・ベイダー)との試合ではアクシデントで右耳の一部を失った。

いつしか彼は"アブナイ男"と呼ばれるようになった。プロレスのキャラではなく、マジでやばいヤツ…。それが当時のミックの印象だった。
スティングとのエニウェアマッチ、ベイダーとのテキサス・デスマッチでマニア層を唸らせる試合を見せるミックだが、WCWの評価は決して高くなかった。またレスラー達からも、彼のスタイルはなかかな理解されなかった。
WCWトップレスラーのリック・フレアーにはこう言われた。

「君がそんなことをしても誰も喜ばない」

ミックはWCWの体勢に嫌悪感を抱いていた。
WCWやレスラー達からするとミックはズレていたのかもしれない。

ミックはWCW所属でありながら、1994年にハードコアスタイルで一部マニアを熱狂させていたECWに参戦する。
そこで出会ったのが"インディー王子"サブゥーだった。
サブゥーに敗れたミックはこう語った。

「カクタス・ジャックが土産を持ってECWに帰って来たぞ!WCW世界タッグ王座だ。大切な王座だ。カクタス・ジャックが初めて獲得したベルトだ。とても愛おしく思う。(そう言うとベルトに唾を吐いて、投げ捨てる) だがもう違う!お前ら、俺にピッタリと思ったか?王座ベルトを持ちながら勝負に負けて帰ってくることが? 甘いぞ!バンバン!俺は今夜5年間守ってきた肩書を三つも失った。自虐的なレスラー、醜いレスラー、殺してやりたいレスラー…」

これがきっかけでミックとWCWの仲はさらに悪化し、ミックはWCWを離脱しECWに本格参戦していく。また日本のインディー団体のIWAジャパンにも参戦し、"生きる伝説"テリー・ファンクと抗争を繰り広げた。1995年8月の川崎球場大会でデスマッチ・トーナメントを制し、ミックは"キング・オブ・デスマッチ"となった。血だらけになりながら、ミックはアメリカと日本のインディー団体でカルト教祖と化し、ファンも増加していった。

ミックについて、プロレス関係者はこう語る。

元ECWスタッフ
「彼は天才的だ。彼のパフォーマンスは思いもよらないものばかりだ」

トミー・ドリーマー
「観客を笑わせたり、泣かせたり、感情を自在に操った。ミックは並外れた人物だ。だからこそ歯抜けの奇妙な男があれだけ愛されたのだ」

インディーの大物となったミックは1996年、WWEに移籍する。
ここでミックは"怪奇派"マンカインドに変身し、茶色の革マスクを着用し、アンダーテイカーのライバルとなった。
WWEでミックは多重人格者というキャラクターに目覚める。

ある時は、マンカインド。
ある時は、ヒッピー系キャラクターのデュード・ラブ。
ある時は、デスマッチ王のカクタス・ジャック。

三つの顔を巧みに使いながら彼はWWEのスターとなっていった。
彼はWWEで伝説を残している。
アンダーテイカーとの"ヘル・イン・ア・セル"と呼ばれる金網マッチで、ミックは地上6mの金網の上からリングサイドの実況席に転落したのだ。
ファン、関係者、レスラー仲間にインパクトとセンセーションを巻き起こした伝説のクレイジー・バンプを披露したのだ。
この件について、ミックは後にこう振り返っている。

「僕にとっての、あの一戦のあの瞬間というのは、バットマンを演じて一躍有名になった俳優の、アダム・ウェストとバットマンの関係みたいに思える。彼はバットマンで売れた後でもほかの仕事を数多くこなしてきたのに、結局バットマンの俳優というイメージから逃げられなかった。僕の場合だって、ほかに語り継がれるべき試合をいくつも残したのに、あのセル戦ばかりを話題にされるってことさ。いつもこの話題でうんざりさせられると同時に、受け入れるべきだと考える自分もいるよ。金網の上に登るという発想はテリー・ファンクのアイデアさ。ショーン・マイケルズとアンダーテイカーがやった、最初のヘル・イン・ザ・セルを見て、テリーに『俺、どう闘えばいいのかね?』って聞いたよ。僕はケージ・マッチをうまくこなせる方じゃなかったから。素早く金網を登れるような奴じゃないだろ。マイケルズのような動きは全然できないもの。マイケルズとアンダーテイカーが、最初のセル戦で見せたレベル以上の内容にできると思えなかった。テリーは、その事についてしばらく考えこむと、『確かに難しいよなあ。じゃあ、いきなりセルの頂上に登って、そこから試合を始めるってのはどうだ?』なんて言い始めてね。しかも、『おい、もしかしたら、頂上から投げ飛ばされて、落っこちてしまうかもな』なんて、笑いながら言ってくれたのさ。僕は『ああ、俺ならばやれるさ』と、ふざけながら相づちを打ったけれど、あの時だったな。僕の頭のどこかに、やり遂げてみたいという気持ちが芽生え、その情景が浮かんだよ」

ミックはマンカインドとして1998年12月29日、ザ・ロックを破り、WWE世界ヘビー級王座を獲得する。
デビューして12年。あのスヌーカの金網ダイブを目撃してから15年。
彼は自分の道を貫いて、頂点に立った。
仲間達に肩車されベルトを掲げた彼は輝いていた。

だが、ミックの肉体は限界を迎えていた。
八度に及ぶ脳震盪による入院、二か所の椎間板ヘルニア、右ヒザ半月板損傷、右脇筋損傷、右肩完全脱臼、左肩挫傷、五か所のアバラ骨骨折、左足つま先骨折、ほお骨骨折、鼻骨骨折、全身325針縫合、前歯は4本折れて、左耳の一部はちぎれ落ちた…。

ミックがクリエイトした猟奇的なプロレスは観客の虜にした。しかし、それを引き換えにして、彼は命と肉体を削っていたのだ。
彼には妻もいた。
子供もいた。

「立って歩けるうちにリングを下りてほしい」

ミックの妻はそう願っていた。

そして、ミック自身もそう考えるようになった。
だが、このままではリングを下りることは出来ない。
自分が残して足跡を形にしたい。
だから彼は自伝を書くことにした。

会場までの移動中、ホテルの部屋で彼はタイプライターや手書きの便箋にゴーストライターを使わずに書き続けた。
原稿は実に760ページに及んだ。

こうして生まれたミックの自伝が「Have a Nice Day:A Tale of Blood and Sweatsocks」である。
Have a Nice Day(ごきげんよう、よい一日を)はミックがこの頃に多用していた締めの言葉で、A Tale of Blood and Sweatsocksは血と汗臭いソックスの物語という意味である。

この本はベストセラーとなった。
アメリカの書籍売上ノンフィクション部門1位に輝いた。

ミックは自伝の大ヒットを機にリングは離れ、2000年4月に現役を引退する。
そのリングに立っていたのはカクタス・ジャックでも、マンカインドでも、デュード・ラブでもない素顔のミック・フォーリーだった。
ミックは執念で己の猟奇的プロレスでも、喜ぶ人達がいることを証明して見せたのだ。

引退したミックは作家に転身し、数々の作品を発表した。
また自分のペースでリング上がったりもしている。

2013年、ミックはWWE殿堂入りを果たした。
彼は文字通り、伝説の男になったのだ。

「ミック・フォーリーはプロレスのリングにシュールレアリズム(超現実主義)を持ち込んだ特異な存在で、アスリートというよりアーティストと形容したほうがよりその実像に近い」

プロレスライターの斎藤文彦氏はミックをこう評する。

笑い、怒り、悲しみ、痛み、苦しみ、楽しさといった感情をミックは観客やレスラー達に揺さぶり続けた。
その表現方法が猟奇的プロレスやクレイジー・バンプに繋がった。
誰にも理解されなくても、冷笑や失笑を浴びたとしても、ミック・フォーリーは刺さると虜になってしまう中毒性のあるトゲを持つ"ズレてるサボテン”になることにレスラー人生を捧げた。
そして、彼が伝説となり、彼のプロレスで熱狂し、虜になった時、我々はミック・フォーリーの偉大さをようやく気付いたのかもしれない…。