祭りのあと~やりすぎは粋な心意気~/澤宗紀【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第106回 祭りのあと~やりすぎは粋な心意気~/澤宗紀





情けない男で御免よ
愚にもつかない俺だけど…
(祭りのあと/桑田佳祐)

思えば彼のレスラー人生は8年という短い期間だった。
嵐のようにインディーマット界に現れ、風のようにマット界を去っていった男。
174cm 80kgのレガース姿で、シリアス、コメディ、路上プロレス、ロボットとの対戦という独自の振り幅を持っていた男。
本来は利口なのに、バカになることに全てを注いだ男。
己の存在意義としてあらゆる団体に出場しながら、敢えて一つの団体に殉じる事にレスラー人生を捧げた男。

君は知っているか?
澤宗紀というプロレスラーがいた時代を…。

1979年4月20日東京都杉並区に生まれた澤。
彼が少年時代にはまったのは、香港映画だった。

「ジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウの映画を子供の時から見ていました」

そんなある日、地上波テレビの深夜放送で彼はプロレスに出会った。
その映像に映っていたのは、新日本プロレスに参戦していたサブゥーだった。

「サブゥーって自分で痛いことをやって痛がるじゃないですか。それを見て、『うわぁ、すげぇー!』って思って。ジャッキー・チェンで育ったんですけど、ジャッキーも自分で痛い技をよくやるじゃないですか。だからサブゥーはジャッキーに通ずるものがあって、これは面白いなと」

それからプロレスを見るようになった澤は高校に進学するとレスリング部に入部した。
プロレスを見るようになると彼の心を捉えたのは、格闘探偵団バトラーツというプロレス団体だった。

バチバチと呼ばれる、激しい、痛みを伝えるスタイル。とにかく殴り合い、蹴り合い、投げ合う。その為、通常のプロレスルールとは違い、スリーカウント、タップアウトがなく、ボクシング同様ダウンを取って10カウント以内に立ち上がらないと、負けとなる。また後にバトラーツルールと呼ばれる試合形式を確立。 フリーダウン制、ラウンドなし、場外戦なし、3カウントフォールなし、決着はKO、ギブアップ、タップアウト、レフェリーストップによるものとされた。(格闘探偵団バトラーツ/wikipedia)

「バトラーツを初めて見たときにジャッキーっぽいなと感じたんです。プロレスで足りない部分を香港映画のテイストで自分は継ぎ足していたんです」

高校を卒業し、大学に進学すると澤はアマチュア・バトラーツに入門する。
そこでバトラーツが主催したアマチュア大会で澤はベストファイター賞を受賞する。

その時にバトラーツ代表の石川雄規は澤にこう声を掛けたという。

「何か、お前とは数年後にタッグを組んでいるような気がするな」

当時、プロの格闘家が一般人対象に指導をする時代ではなかったが、澤はバトラーツの選手達の指導を受けた。
どのレスラーも親切に教えてくれた。
澤にとって、バトラーツのレスラー達は近所のお兄さんみたいな存在だった。

大学時代の澤は保育のアルバイトや演劇活動もしていたが、アマチュア・バトラーツの方はお世話になっていた指導者がフェードアウトしたため、やがて澤も離れていった。
2000年に澤は元UWFインターの宮戸優光や"伝説のプロレスラー"ビル・ロビンソンが指導するUWFスネークピットジャパンに入門する。

大学卒業直前に澤はマスクマンとしてどインディー団体でプロレスをしていたという。大学卒業後、CM制作会社に就職するも、二週間で辞めた。

過酷な勤務体系で、練習する時間もなかった。
やっぱりプロレスやりたい…。
澤はここで上司にこう嘘をついて辞めた。

「すいません僕、ゼロワンに上がることになりましたので辞めさせていただきます」

大学時代に上がっていた団体がゼロワンと対抗戦をするかもしれないという一瞬で立ち消えした話を膨らませたものだったが、上司は唖然として困惑していたという。

2002年9月にキングダム・エルガイツで総合格闘技デビューをし、2003年8月31日にTAMAというプロレス団体で正式にプロレスデビューを果たした。

プロレス一本で生活するのはなかなか厳しい。
あらゆるどインディー団体で3000円のギャラで試合をする日々、ショーパブにマットを敷き詰めた特設会場で非公式試合で小銭を稼いでいた。

苦しい同時期を過ごした仲間に日本インディー界のスターとなった木高イサミがいる。
彼はこう語る。

「僕と宮本裕向、澤宗紀…。僕らはプロレスの"底辺"を知っている」

武藤敬司のオマージュレスラー・ランジェリー武藤としてどインディー団体で活動している中で、一本の電話がかかってきた。
バトラーツの石川雄規からだった。

「今、何やってるんだ?」

澤はこう答えた。

「プロレスみたいなことをやっています」

澤はここで石川にお願いする。

「もう一度レスリングを教えてください」

石川とのスパーリングで澤は延々極められた。
そして、石川は澤にこう言った。

「お前もへんなところでデビューしやがって…。俺が教えてやるからもう一回バトラーツで再デビューしろよ」

こうして澤はバトラーツに入門し、2005年8月の関本大介戦で再デビューした。
澤は素顔とランジェリー武藤の二人の人格でプロレス界で活躍するようになった。
最初にプロレス界で名を知れたのはランジェリー武藤だった。
かつて会社を辞めた理由として挙がったゼロワンに参戦するようになってブレイクする。
一方の澤としては、2006年のインディーサミットやゼロワン代表として新日本との対抗戦で頭角を現した。
得意技はお卍固め(卍固め)、シャイニング・ウィザード、野球のピッチングフォームで放つ伊良部パンチだった。

澤にとってのプロレスを続けるライフワークは所属するバトラーツを大きくする事と元バトラーツの選手達と試合をする事だった。
ゼロワンでは元バトラーツの日高郁人との相棒タッグでNWAインターナショナルライトタッグ王座、NWAインターコンチネンタルタッグ王座を獲得した。

野暮でイナたい人生を照れることなく語ろう
悪さしながら 男なら 粋で優しい馬鹿でいろ
(祭りのあと/桑田佳祐)

「僕は50,60になってもプロレスを続けるつもりはないんで。僕は立っているだけで風格やオーラでプロレスができるというのは不可能なので、今の動きができなくなったら続けるつもりはないです」

澤は頭角を現した頃から己のレスラー人生が短いものだと悟っていた。
実は30才になる頃には頸椎ヘルニアを患っていた。
肉体はボロボロだった。
しかし、それをバカになることで、バカ騒ぎすることで彼は悲壮感をひた隠しにした。

「みんなが一般的にかっこいいと思うものにかっこいいと思わない。形が崩れた不完全なものに魅力を感じる」

彼の生き方を具現化したアイデンティティーこそが「やりすぎくらいがちょうどイイ!」なのだ。

「やりすぎくらいがちょうどイイって最初から先に謝っているようなものですから。何かすごいことやバカなことをやって、『おい!』と言われた時のための保険だったんです」

澤宗紀の名を大きく轟かせたのは2009年6月28日。
澤は昼にゼロワンの福島・郡山大会に出場した。
そして、数日前のオファーで夜にDDT後楽園大会のメインイベントで高木三四郎と対戦した。
実はDDT後楽園大会のメインは高木VS飯伏幸太だったのだが、飯伏が直前に急性咽頭炎で欠場し、澤が代打指名されたのだ。
澤は高木と後楽園を熱狂させてみせた。

試合途中に澤は右手を切って流血してもなお、その右手で伊良部パンチを放ち続けた。
試合後、敗れた澤への賞賛と歓声が飛び交った。
「澤」コールが木魂するリング上で高木は試合後、澤に同年8月に開催した初の両国国技館大会への参戦をアドリブでオファーをした。
それは澤の心意気に胸を打たれた男の決断だった。

「今日の興業がちゃんとやれたのは、澤君、君のおかげです。本当にありがとう」

その後、高木と澤は「チーム変態大社長」というタッグチームを結成する。
2010年2月にKODタッグ王座を獲得すると、ありとあらゆる対戦相手と防衛戦を重ねた。
鉄工所、公園、バッティングセンター、商店街、廃屋…。
リングがない路上プロレスで彼らはとことんバカなことを続けた。
実は高木はこの頃に金銭的なトラブルに巻き込まれて、会社を畳むことを考えていたという。
しかし、それを防いだのは澤とのタッグだった。

高木は語る。

「2009年のDDT両国前の後楽園大会。KOD次期挑戦者決定戦で飯伏が体調不良で欠場。澤君は二日前のオファーにも関わらずオッケーしてくれて俺様と闘い、両国前の後楽園大会を締めてくれた。あの試合で澤宗紀という男を知り、組みたいと思った。それがチーム変態大社長が結成されるきっかけである。チーム変態大社長は俺様にとってエキサイティング吉田のあんちゃん以来のベストタッグチームだったんだよ。コミカルもシリアスも路上もどちらもできる最高のタッグチームだと思っている」

人気もある、実力もある、メジャー団体でも通用できる技量もある。
まさにこれからという時に澤は2011年8月に引退を発表した。

「僕がプロレスをやっている意義はバトラーツという会社を大きくすることでした。20代半ばから30代前半まで毎日をその時間につぎ込みました。結果的にクローズしてしまいますけど。僕はプロレスありきのバトラーツではなくバトラーツという自分が大好きな団体ありきのプロレスだったのでバトラーツが終わった後のことは、例えばどこか他の団体に入ったりだとかそういうことは全く自分でイメージがつきません。あと毎試合毎試合引退試合のつもりでやりすぎくらがちょうどいい闘いをと公言してきましたがやっぱりやりすぎたかなと。その辺を含めまして、バトラーツ11月5日新宿大会解散興行。これを絶対成功させてその数日後に僕も引退しようと思います。本当は11月5日バトラーツと一緒に引退しようかと思ったんですけどそうするとやっぱり11月5日のテーマが解散なので僕の引退も入るとちょっと焦点がぶれてしまうので。ジムを見送り、石川屋(石川が経営していた焼き鳥屋)を見送り、吉川祐太を見送り、及川千尋を見送り、矢野啓太も退団して、みんな一人ひとり見送ってきました。最後に、格闘探偵団バトラーツという、僕の大好きだった団体を見送って、選手生命を終わろうと思います」

バトラーツが解散することになったことを機に澤は引退を決断した。
早すぎる引退。
誰もが惜しんだ引退。
そして、肉体も限界だった。
だから澤は覚悟を決めた。

「引退試合までの残り期間、すべてのオファーを引き受ける」

澤はプロアマ問わずあらゆる団体のオファーを受けて、試合を続けた。
引退するからといってブレーキを踏むのではなく、逆にアクセルを踏んで走り続けた。
その一方、バトラーツの解散興業に元メンバーを集結させるために奔走した。

パートナーの日高は涙ながらにこう語ったことがあった。

「ほんとに、こいつ、体がボロボロなんですよ」

2011年9月にゼロワンの天下一ジュニアトーナメントを悲願の初優勝を果たした。
決勝戦の相手はみちのくプロレスのフジタ”Jr”ハヤトだった。
試合後、ハヤトはこう語った。

「あの人と出会って、自分のスタイルが出来上がった。オレが澤さんの『やりすぎぐらいがちょうどいい』を受け継いで、みちのくでも、ゼロワンでも、新日本でもそれでやっていきます」

澤の心意気は若きスターに受け継がれていった。

2011年11月5日バトラーツ解散興業、そこにはかつてのバトラーツメンバーが集結した。

日高は語る。

「バトラーツ解散興業で澤は頑張って元メンバーを集めた。あの仲の悪かった先輩達の笑顔で会話しているのを見れて嬉しかった。その笑顔を生んだのは澤なんですよ」

2011年11月9日、ゼロワン後楽園大会。
澤はこの大会で引退試合を行った。
相手は相棒の日高だった。

二人をとことん殴り合い蹴り合った。
最後は日高の野良犬ハイキックを食らい澤は10カウントを聞いた。

介錯人の日高は最後、こう語りかけた。

「もういいか? もういいか!」

澤はこう語った。

「もういい!やりすぎた…」

試合後、リング上で澤は語り始めた。

「本当にたくさんのご来場、誠に、誠にありがとうございました。あ~、やりすぎたぁ!(笑)。あ~、面白かった! そう思えるプロレス人生でした。そして周りの人に恵まれたプロレス人生でした。今日はお祭り騒ぎに付き合っていただきありがとうございました。澤宗紀、やりすぎぐらいが~と言ったら、大きな声でちょうどいいと叫んでください。いくぞー! やりすぎぐらいが~ちょうどいい! ありがとうございました!」

10カウントゴング、ラストコール、選手達の胴上げの中で澤はリングを去った。
しかし、引退試合はこれだけで終わらなかった。
場内のスクリーンにはバックステージの映像が流れる。
選手達の輪の中心には澤がいた。

「せっかくなんで歌って終わりにしましょう。よく知っている歌ですよ」

ここで彼が歌ったのがドリフターズの「いい湯だな」の替え歌だった。

「ババンババンバンバン×4 ♪
いいもんだ♪ 
プロレスは♪
さよならす~るのはつらいけど♪
決めたこと♪  
仕方ない♪
やりすぎくらいが、ちょうどイイ♪ 」

そして彼は最後にこう言ってプロレス界から去っていった。

「また来週!(周囲から『来週はねぇ!』と突っ込まれる)…ごきげんよう」

澤宗紀は笑顔とバカ騒ぎを貫いて引退した。
澤はこの年の活躍が評価されて2011年度日本インディー大賞MVPを受賞した。

「プロレスをやってよかったことは巡業で各地を回って、いろいろな人と繋がりができたことです。この仕事の醍醐味ですよね。でも、いろいろな土地に行きましたが、その土地の体育館しか知りません(笑)、観光地に行ってないんですよね。そして、東北の被災地に巡業に行ったときのことなんですが、ある被災者の方で震災のショックで声が出なくなってしまった人がいらっしゃったんです。しかし、その方が僕のランジェリー武藤の姿を見て声をだして笑ったということ後から聞きました。それは、もうプロレスやってて良かったと思いましたね!」

「僕はプロレスもあまりうまくないっていうか…。基礎も分からないし、リングの仕組みもわからないままでした。ずっとアクセル踏んで走っていたつもりが、そもそも免許を持っていなかった(笑) 僕はプロレスファン代表でプロレス巡りをしてきた感じでした。だからこれからもプロレスファンに戻って、友達を誘ってプロレスを見に行きたいと思います」

「プロレスラーって儚い職業だなって。人間の生き方もそうだと思うんですけど、赤ちゃんとして生まれて、最後は赤ちゃんのように動けなくなったり喋れなくなったりして死んでいくじゃないですか。こういうパーッと咲いてパッと萎んでいくのが最高だなって。プロレスっていうのは儚い商売。バトラーツでいうところのUTG=宴ですよ」

澤は現在、サラリーマンとして一般社会でやりすぎな人生を送っている。
やりすぎとは男の粋な心意気。
「死ぬ間際までバカなことをやって死んでいきたい」と語る彼のレスラー人生こそ宴であり、祭りだったのだ。

胸に残る祭りのあとで 花火は燃え尽きた
(祭りのあと/桑田佳祐)

お祭り男・澤宗紀。
彼がいる周辺はいつも「ワッショイ!」と盛り上がり、そして彼がいなくなった世界は寂しさと切なさと侘しさに包まれるのだ。

祭りは永遠には続かない、終わりはある。
だから彼は命ある限り、この世で生きている限り、「やりすぎくらいがちょうどイイ!」とバカ騒ぎを続けるのだ…。