悪のプロフェッショナル 狂人ヒールの流儀/マッドドッグ・バション【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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第97回 悪のプロフェッショナル 狂人ヒールの流儀/マッドドッグ・バション



「プロフェッショナルとはファンを圧倒し、選手を圧倒し、圧倒的な結果を残す、ということです」

かつてNHKで放映されているドキュメンタリー番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」にて、メジャーリーガーのイチロー選手が語った言葉である。

プロフェッショナルとは何か?
各々のプロには定義があり、信念がある。

観る者を圧倒するのがプロフェッショナルとするなら、プロレス界においてその役割を担うのは悪役レスラー、いわゆるヒールだ。

プロレスにおけるヒール(Heel)とは、プロレス興行のギミック上、悪役として振舞うプロレスラーのこと。悪役、悪玉、悪党派などとも呼ばれる。通常、ヒールは反則を多用したラフファイトを展開する。金的への攻撃、凶器の使用といった反則はもちろん、レフェリーへの暴行、挑発行為、観客席での場外乱闘、果ては他者の試合への乱入なども行う。ヒールの対義語としてはベビーフェイス(善玉、正統派)が存在する。

ヒールは、元々はアメリカのプロレス業界で用いられていたスラングである。日本では元々「悪玉」、「善玉」という日本語の表現が用いられていたが、現在では日本のプロレス業界でも一般的な単語になっており、プロレス以外のスポーツや一般社会や創作物の中でも、敵役的なイメージの人物をヒールと呼ぶことがある
(wikipediaより)

今回、取り上げるマッドドッグ・バションはまさしく悪のプロフェッショナルといえるヒールである。
ヒールにはさまざまな種類があるが、彼の場合は「狂人ヒール」という風にカテゴライズされる。

狂人ヒールとは、ギミック上、正常とは思えないような凶暴な行動やラフファイトでベビーフェイスを攻撃し、観客の反感を買うことを主眼としたキャラクター。アブドーラ・ザ・ブッチャーやタイガー・ジェット・シン、ザ・シーク、マーク・ルーイン、ジョージ・スティールなどのほか、WWEに所属していたブライアン・ピルマン、サイコ・シッド、ジョン・ハイデンライク、ケイン、ランディ・オートン、2005年にヒールターンしたあとのエディ・ゲレロや、極悪同盟、全日本プロレスに参戦していたVOODOO-MURDERS、新日本プロレスのCHAOSや旧G・B・Hのメンバーなどがこれにあたる。
(wikipediaより)

狂人ヒールに徹したマッドドッグ・バションが歩んだレスラー人生を追う。

マッドドッグ・バションは1929年9月1日、カナダ・モントリオールで生まれた。
本名はモーリス・バション。
13人兄弟の長男だった。
父親は地元の警察部隊に勤務する腕っ節の強い男だった。
弟、妹も後にプロレスラーに転身した者もいた。

バションは10代からレスリングで頭角を現す。
13歳で学校を退学し、レスリングと職を転々とする日々を過ごした。
カナダでは79kgで敵なしの実力だったバションは1948年のロンドン・オリンピック・レスリング・フリースタイルカナダ代表に選ばれた。
結果、7位に終わった。

彼には兄弟が多く、生活費を養うためにお金が必要だった。
バーやレストランの用心棒でお金を稼ぐ日々。
それにはアマチュア・レスリングを続けるよりも、プロレスラーになりたかった。

1950年にプロレス入りしたバション。
当初は本名で活動し、地元モントリオールが主戦場。
オリンピック出身テクニック主体の正統派レスラーとして売り出された。
髪型はフサフサだった。

1954年、モントリオールからアメリカ・テキサスに本拠地を移した。
しかし、なかなかブレイクすることはなかった。

転機となったのは1958年。
カナダ・カルガリーで転戦した時のことだ。
プロモーターのスチュ・ハートがバションと彼の弟であるポール(ブッチャー・バション)でヒールの兄弟コンビを結成させたのだ。
ここでバションは丸坊主となり、顎ヒゲをたくわえるようになった。
アメリカ南部でタッグ王座を獲得した経験がある。

ヒールに転向しても、本名で活動していたバションが「マッドドッグ・バション」に改名したきっかけとは?

「1962年にドン・オーエンのオレゴン地区に入った時だ。試合が終わったあと、観客が私に向かって殴りかかってきたから、思わず突き飛ばしたんだ。警官が数人走ってきて私を取り囲み、そのままパトカーに乗せられてイン・ジェイル(収監)さ(笑)。翌日ドン・オーエンが私を引き取りに来た。警察署長に向かって、『このモーリス・バションはリングに上がるとマッドドッグ(狂犬)に変身してしまう。今回だけは勘弁してください。二度とこのようなトラブルを起こさないよう、彼には厳重注意しますから』と謝罪していたので、『マッドドッグ・バションか! 面白いリングネームだな』と閃いたんだ。その夜からリングネームが変わったというわけさ」

こうして悪役レスラー「マッドドッグ・バション」は誕生した。

悪役に転向したバションは五輪レスラーから狂人ヒールに変貌を遂げた。
178cm(実際は169cmだったという説もある)、110kgの肉体。
レスリングテクニックは封印し、街の喧嘩の延長のような狂乱ファイトで対戦相手やファンを恐怖に誘う。
パンチ、ストンピング、噛みつき、クロー攻撃、かきむしりといったシンプルな攻撃で試合を組み立て、最後はパイルドライバーで仕留めるのがバションのスタイルだった。
またタイトルマッチではそのテクニックを小出しに披露し、コブラクラッチなどでギブアップ勝ちを収めたこともある。

1964年、NWAからAWAに主戦場としたバションは"AWAの帝王"バーン・ガニアの最大のライバルとして頭角を現す。
同年5月にはガニアを破り、AWA世界ヘビー級王座を獲得した。

ロンドン・オリンピック・レスリングフリースタイルアメリカ代表に選ばれた正統派テクニシャンのガニアとロンドン・オリンピック・レスリングフリースタイルカナダ代表である悪役レスラーのバションとの対戦はAWAの名勝負数え歌だった。
ガニアにとってバションとは「最も苦手な相手」だったという…。
バションはただの荒くれ者ではなく、テクニックを持った喧嘩屋だったからだ。

バションと対戦経験のある元国際プロレスのマイティ井上はこう語る。

「バションは生粋のフレンチ・カナディアン(フランス系カナダ人)。フレンチ・カナディアンっていうのは本当に気が荒いというか性格が粗暴というかね。私が知っている限り、一番プロレスラーに向いている人種じゃないかと思いますよ。バションはモントリオールが地元ですから、人気ありましたよ。酒場での喧嘩もしょっちゅうありましたね。実際に何度か見ましたが、半端じゃなかったですよ。体格のいい素人が余りにもしつこく絡んできたもんだから、そいつの目玉に指を突っ込んで、眼球から血を噴出させたこともあったらしいです。そこまでやるのはバションくらいでしょう。心底、喧嘩が好きなんですよね。それでいて私生活は穏やかなもんです」

かつてAWAにも在籍していたビル・ロビンソンはこう語る。

「我々が現役だった時代にMMAが存在したら、バションは出場するたびに、間違いなく毎回、優勝しただろう。ただし、バションは相手にケガをさせるだけではすまないストリートファイターだ。冗談ではなく死人が出ただろう」

バションは喧嘩が好きだが、リング上の暴れっぷりとは対照的に、素顔は温厚な人格者だったという。しかし、レスラー仲間からは怒らせたら怖く喧嘩には滅法強かったので、一目置かれていた。

ちなみに彼のプライドとしてリング外の喧嘩においては刃物は使わず、素手で相手をぶちのめしていたという。

「喧嘩で病院送りになったことはない。病院に行ったのは常に相手の方だよ。ただ警察が介入してきて、ブタ箱(留置場)入りはしょっちゅうだった」

1968年、日本プロレスに初来日を果たす。この時、彼は39歳になっていた。
しかし、彼の狂乱ファイトはますます拍車がかかるのである。

リック・フレアーは、バションを喧嘩の強さではプロレス界の五本指に入る男だと語った。
ビル・ロビンソンは、自身が対戦相手の中でもベストレスラーの一人だと称えた。
ジャイアント馬場は、小柄だがタフで基礎がしっかりしている超一流レスラーと賞賛した。

プロレス界伝説の男達からもバションの評価が高かったのだ。

1971年2月にバションは国際プロレスに来日する。
国際プロレスに参戦するようになると、バションの本領が発揮される。
常連選手として定着すると、外国人エースの座を獲得する。
当時は「キ〇ガイ犬」という異名だった。

1973年4月にはイワン・コロフとのコンビでストロング小林&グレート草津を破り、IWA世界タッグ王座を獲得し、1975年4月にはマイティ井上を破り、IWA世界ヘビー級王座を獲得したバションは、国際プロレスが誇る流血外国人レスラーの代表格だった。

彼が国際プロレスに連れてきたレスラーに"放浪の殺し屋"ジプシー・ジョーという男がいる。
パイプイズで叩かれても逆に壊れてしまうという驚異のタフガイ。
この二人が日本で一騎打ちをしたことがある。

1977年3月、第6回IWAワールドシリーズBブロック公式戦で対戦した二人はなんと、互いの顔面をグーパンチで何十発も殴り合い、場外乱闘に終始した。この試合でバションはプロレスラーとしてではなく、喧嘩屋としての強さを見せつけたのである。

AWAと国際プロレスの提携が終わり、バションは日本に来る機会はなくなった。

バションベビーフェースに転向し、宿敵ガニアとタッグを結成し、1979年にパット・パターソン&レイ・スティーブンスを破り、AWA世界タッグ王座を獲得した。
50代に突入してもバションに衰えは見られなかった。

その後、1984年にWWE(当時WWF)に入り、レスラーとして晩年を迎えたバションは1986年に引退した。
悪のプロフェッショナルとしてレスラー人生を送った男はいつの間にかカナダの愛すべき人気者になっていた。

1987年にアイオワ州デモインで散歩中にひき逃げ事故に遭遇し、右足を切断することになった。
それでもWWEのビッグイベントや番組にゲストとして度々登場し、元気な姿を披露した。
レスラーを引退してからはハンバーガーショップを経営していたという。

2010年、彼はWWE殿堂入りを果たした。

WWEでは彼の功績をこのように解説している。

スポーツエンターテイメント史上屈指の型破りキャラ、マッドドッグ・バションは40年にわたり対戦相手、レフェリー、ファンを恐怖に追い込み、壮絶な戦士、唯一無二の人物として功績を築いた。マッドドッグは狂気ゆえに観客の声援を誘う普及のスターに上り詰めていた。マッドドッグの功績は姪のルナ・バションにより引き継がれ、ブルーザー・ブロディやジョージ"ジ・アニマル"スティールのように荒れ狂ったスタイルを持つ打撃系レスラーとして名を馳せた。バションの影響はエクストリーム・チャンピオンシップ・レスリングの誕生に大きな影響を与え、いろいろな意味でWWEの"アティテュード・エラ"にもインスピレーションを与えた。このユニークな影響力、長期にわたる活躍、オリジナリティを持つモーリス"マッドドッグ"バションは、WWEホール・オブ・フェイムにふさわしいレジェンドとなった。
(WWEホームページ/ http://www.wwe.co.jp/superstar/89.html)


2013年11月21日、バションはネブラスカ州オマハにてこの世を去った。
享年84歳。
葬儀には8人の弟妹、息子や娘、13人の孫が列席し、故人を見送ったという。

晩年、彼はカナダのドキュメンタリー番組に出演した。
この番組のディレクターであるジョン・ドーリンはバションに衰えは感じなかったという。

「彼がキャラクターに入り込んで吠え出すと、異常に興奮している。そしてそれは依然としてパワフルだ。彼はまだまだ強い、強い男で、あの年になっても狂気じみたエネルギーを失っていない」

36年のレスラー人生、84年の生涯でバションは周囲をその実力と狂気で圧倒してきたのではないだろうか。
彼はあのイチローが語ったプロフェッショナルの流儀のように信念を貫いた道を生きたのではなかっただろうか。

悪のプロフェッショナル
狂人ヒールの流儀

彼にとってプロレスとは?
彼にとってヒールとは?
彼にとってマッドドッグ・バションとは?
彼にとってプロフェッショナルとは?

「このビジネス(プロレス界)は"ドッグ・イート・ドッグ"…犬が犬を食い殺す毎日さ。大きな犬と小さな犬が喧嘩して、血を流す場面は誰でも見たことがあるだろう。犬の喧嘩では、体の大きさは決め手にならない。狂ったように食らいつく本能が全てだ。つまり、犬の中で最強なのが、マッドドッグということだ」

マッドドッグ・バションは天国に旅立った今も、狂気の咆哮をあげている…。