ある兄弟の隠されたプロレスへの執念/木戸修【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第92回 ある兄弟の隠されたプロレスへの執念/木戸修



応援団を作るきっかけになったのは、今からおよそ10数年前の旧UWFのビデオを見てからでした。

旧UWFのエグイ試合をビデオで見ていたのですが、我々は気がつくと木戸信者になっていました。

札幌で新日本プロレスの試合が見れるのは年二回(2月と7月)は毎年恒例でした。

毎回、精一杯の声援を送り続けていましたが、当時の新日本は選手層も厚く、札幌はそこそこのビッグマッチ会場でしたので、木戸さんのカードが組まれない大会もありました。

何故!どうして?と、我々は言いようのない不満を抱えたまま家に帰り、時には藤波社長宛に抗議文を送ったこともありました。
しかしこのような状況ではこれ以上どうしていいかわからず、我々もタップ寸前になりかけていました。

基本に忠実なファイトスタイル、芸術的とも言えるサブミッション、決して多くを語らないクールな人間性、どれをとっても木戸さんはやはりいぶし銀です。
(木戸修非公認札幌応援団ブログ/木戸修非公認札幌応援団ができるまで

木戸修は「札幌男」と呼ばれるほど、札幌の地で異常なまでの人気を誇った。
180cm 105kgの技巧派。
神奈川出身の彼が何のゆかりもない札幌で私設応援団が結成された。
何故、彼は「札幌男」と呼ばれるようになったのか?

思えば木戸修は「いぶし銀」、「職人」という異名を持ち、通好みのプロレスラーだった。
今回は、いぶし銀の知られざる波乱万丈に満ちたレスラー人生を追う。

木戸修は1950年2月2日神奈川県川崎市に生まれる。
小学生の時から柔道を始め、中学1年の時には初段を獲得する。
寡黙な青年だった。
木戸修には兄がいる。

木戸時夫。
弟である修と同じく柔道に熱中し、バスケットボールに汗を流した青年。
運動神経がよかった兄・時夫は1963年、15歳の時に日本プロレスに入門する。
将来はプロレスラーとして大成することを夢見て飛び込んだ四角いジャングルの世界。

しかし、そんな彼を待ち受けていたのは悪夢だった。
デビュー直前の受け身の練習中、兄・時夫は受け身を失敗する。

頚椎損傷。
兄・時夫はレスラーになる夢は断たれ、下半身の自由を奪われ、寝たきり生活になってしまう。
将来有望な青年に突き付けられた辛い現実。
時夫を支えたのは家族だった。

弟・修は兄・時夫を献身的に看病し続けた。
時夫の夢だった「プロレスラー」になることを内に秘めて志すようになる。
高校一年で中退し、父が経営する工務店で働きながら、密かにトレーニングを重ねた。

修はある日、両親に直訴する。

「父さん、母さん、俺、プロレスラーになるから」

両親は驚いた。
反対したが、それも無駄だった。
この時、修は日本プロレスに入門することが決まっていたのだ。

「両親が反対しても絶対兄の無念を晴らすためにプロレスラーになる」

修にとって、プロレスラーになることは兄・時夫の夢を自分が叶えることだった。
いぶし銀の隠された真実。

1968年10月、修は日本プロレスに入門する。

修が日本プロレスの道場に入ると、そこにいたのは当時、日本プロレスのコーチとして、日本に在住していたカール・ゴッチがいた。

"プロレスの神様"カール・ゴッチ。
ヨーロッパでレスリングの数々の実績を挙げ、カナダ、アメリカに移住すると実力者として世界王者から恐れられるも、主要タイトルを獲得することができず、無冠の帝王と呼ばれた男。
アメリカン・プロレスに馴染めなかったシューターに目をつけたのは日本のプロレス界だった。
1967年11月に日本に移住し、日本プロレス選手強化コーチに就任し、数々の選手を鍛え育て上げた。
「ゴッチ教室」と呼ばれたコーチで頭角を現したのが若き日のアントニオ猪木だった。

ゴッチは木戸修との初めての出会いについてこう語っている。

「(日本プロレス時代に)彼が始めてジムに来た日を今でも覚えている。帽子を被った小柄な父親の隣に静かに立っていた。昔気質な人らしく私に息子を託してくれたんだ。『息子を預けます』といった感じにね」

木戸修はゴッチについてこう語っている。

「(ゴッチさんに)入門当時から練習を教えてもらって、幸せだったからな。日本プロレス当時はゴッチさんとマンツーマンみたいなときもあったから。ゴッチさんの練習はキツいからさ、上の選手なんかほとんど来ないんだよ。俺はゴッチさんの練習はキツいけど楽しかったからさ、誰よりも早く道場に来てたから。そうすると、ゴッチさんと二人っきりの間は、ずっとマンツーマンで教えてくれたんだよね。どんなスポーツの指導者でも、自分の下で一生懸命やっている選手はかわいくなるじゃん? それでゴッチさんも俺をかわいがってくれたんだと思うよ」

「(ゴッチさんの練習は)まずは基礎体力だよね。ストレッチから始まって、ヒンズースクワット、腕立て。バーベルとか、そういう器具はほとんど使わなかった。バーベルを使うときはブリッジしながら持ち上げるとか、そういうときだね。それで新日本ができたときなんかは、コシティ作ったりとかさ。ゴッチさんは世界中の格闘技のトレーニングを研究していたからさ。その中でゴッチさんがいいと思った器具とか、トレーニング方法をやっていたよね」

1969年2月21日、北沢幹之戦でデビューを果たした木戸修。
彼はゴッチから「マイ・サン(息子)」と呼ばれるほど可愛がられた。
ゴッチが日本プロレス時代にコーチとして日本に滞在していた期間、木戸は一番コーチを受けた男となった。

ゴッチは木戸を一目置くきっかけがあった。

「(木戸は)素直でひたむきな子だった。決して私に口答えしなかったね。なぜ彼を『息子』よ呼ぶか。彼は柔道出身で襟首をつかむことに慣れていた。でもレスリングでは顔面を攻める。下半身の攻撃には突き上げて応じた。拳で顔面を突いてやるんだ。彼は歯でよく口を切っていた。ところがある日、彼は前歯を全部直してしまったよ。情熱がなければとれない行動だよ」

ちなみにゴッチは木戸の実家にも訪れたり、家族ぐるみの付き合いがあったという。
ゴッチが後年、外国人選手達にも木戸のことを「マイ・サン」、「ムスコ」と紹介していたという。
ゴッチが認めた男、ゴッチに息子と言わしめた男…それが木戸修だった。

1972年3月にアントニオ猪木が旗揚げした新日本プロレスに参加した木戸修。
その後、藤波辰巳(藤波辰爾)とともに、西ドイツ遠征に旅ち、アメリカ・フロリダにあるカール・ゴッチ道場の門を叩き、再びゴッチの薫陶を受けた。

「(アメリカ・フロリダには)藤波と一緒に行ったんだけど、3~4ヶ月いたかな。ゴッチさんの近くにアパートを借りて、毎日、ゴッチさんの家に通って練習してたんだよね。朝、空中(正三)さんが迎えに来て、二人でゴッチさんのところに行って。それで練習して。終わったら奥さんが飯を作ってくれて、三人でワインをガーッって飲んで。それで夜帰る生活ですね。練習と同じくらい話しが好きだったよな。それもレスリングとか、トレーニングの話ばかりでね」

1976年2月に木戸は日本に帰国する。
練習の虫、カール・ゴッチが一目置く男である木戸に対するアントニオ猪木を始めとする新日本首脳陣の期待は大きかった。
しかし地味な性格とファイトスタイルが災いして前座に甘んじることになる。

そんな時に木戸に訃報が届く。
1977年7月20日、長年に渡り闘病生活を送っていた兄・時夫がこの世を去ったのである。
実は兄・時夫は弟・修と"関節技の鬼"藤原喜明との試合を評価していたという。
木戸修は兄への想い、プロレスへの想いをひた隠しをしながら黙々と試合を続けた。

木戸に転機が訪れたのは34歳の時。
1984年9月に新日本プロレスを離脱し、第一次UWFに移籍することになる。
木戸が移籍をするきっかけとなったのは顧問としてUWFに参加していたゴッチだった。

「あの頃はいろいろゴタゴタがあって新日本を辞める人間が多かったけど、俺は一匹狼でやってたから、周りは関係なかった。別に新日本を辞める理由なんてなかったんだから。でも、俺がちょっと体調を崩して入院しているとき、ゴッチさんが病院まで訪ねてきて『来てくれ』って言うんだから。『俺にできることがあるんだったら行こう』って思って、UWFに行ったからね」

第一次UWFに参加すると、木戸は徐々に評価が高まり、職人肌のグラウンド・テクニックは「いぶし銀」と呼ばれるようになる。1985年に行なわれたUWFの日本選手で争われた格闘技ロード公式リーグ戦では優勝する。

1985年12月、第一次UWF崩壊後、新日本プロレスに復帰し、UWF戦士の一人として活躍する。
そんな彼が大仕事をやってのけた。

1986年8月、新日本の若大将コンビ・藤波辰巳&木村健悟が保持するIWGPタッグ王座にUWFの前田日明&藤原喜明が挑戦することが決まっていたが、藤原が急きょ欠場することになり、前田のパートナーとして出陣したのが木戸だった。

そして代打・木戸は小気味のいいテクニックを披露し観客を沸かせ、最後に誰も見たことがない丸め込みで木村を破り、第二代IWGPタッグ王座を奪取して見せた。
リング上では勝利後も飄々としていた木戸と両手を突き上げて喜びを爆発させた前田、二人のコントラクトが印象に残った。
ワキ固めの体勢から前転の要領で己の片腕で相手の片足を抱えてフォールした丸め込みは「キド・クラッチ」と名付けられた。
黙々と練習を重ね、リングで主張しないでプロレス道を歩んだ男が報われた瞬間だった。

木戸は前田をはじめとするUWF戦士たちが新日本を離脱しても「そこにゴッチさんがいないから」と第二次UWFに参加することなく、新日本に残留した。

彼は名人芸の切れ味を持つワキ固め、アキレス腱固めを始めとしたカール・ゴッチ直伝のサブミッションとクラシカルなプロレス・テクニックを武器に周りの状況がどんなに変わろうと、どんな試合でも対戦相手が誰であろうと自身のスタイルを貫き通した。

これこそ彼の生き方でありダンディズムだった。

全日本プロレスのジャンボ鶴田、WARの天龍源一郎といった他団体の看板レスラーが相手でも木戸は木戸であり続け、インパクトを残して見せた。

そんなある日の新日本・札幌大会のこと。
前座に出場した木戸への歓声が凄かったのだ。
どんな攻撃を仕掛けても札幌のファンは木戸への大歓声を送った。
1990年代当時の新日本は年に二回ほど、札幌でビッグマッチを開催していた。
そのビッグマッチで熱狂的声援を受けていたのが、長州力や藤波辰爾でも、闘魂三銃士でも獣神サンダー・ライガーでもない、前座に出場していた木戸修だった。
遂には札幌に木戸修非公認札幌私設応援団が誕生する。

何故、このような現象が起きたのか?

実は新日本の札幌大会はかつて、藤原喜明テロリスト事件や大物レスラーのドタキャンなどハプニングや事件が起こり、他の土地に比べると、しっかりとした試合が行われないケースが多かった。
事件に嫌気をさした札幌のファンは試合内容の安心性を求め、木戸人気が爆発したのではないのかと私は考えている。

木戸修非公認札幌私設応援団は特製のプラカードを作成し、特製のハッピを着て応援した。
そして駄目元で試合後に木戸本人にハッピを手渡しすることにした。

「木戸さん、受け取って下さい!」

「いいの?」と答えた木戸はそのハッピを受け取った。
そして、次の札幌大会でそのハッピを着て入場してきたのである。
木戸修は黒のショートタイツと銀色のシューズというコスチュームで、ガウンなど着用して入場したことはほとんどなかった。
そんな彼が札幌のファンのために見せた優しさと心配り。
それが木戸修という男だった。

現役時代からアパートを経営していた木戸。
プロレス道を黙々と歩む一方で、レスラーを引退した後のことも常に考えて生きていた。

若手選手に貯金額を訪ねると、散財することを自重することを諭していたという。

「そんなんじゃダメだ。レスラーは保障がないから」

影の実力者と呼ばれた寡黙な男は2001年11月2日、神奈川・横浜文化体育館にて引退興行が行われた。
アントニオ猪木が興業のチケットのもぎりをし、引退試合のパートナー長州力が後から入場する木戸のためにロープを引き上げ、対戦相手を務めたのは藤波と木村は木戸の実力が満天下に証明され、転機となったIWGPタッグ奪取時の若大将コンビ。木戸はワキ固めをかけながら、時間切れのゴングを聞いた。
引退セレモニーでは坂口征二が深々を頭を下げて敬意を表し、試合が終わったばかりの武藤敬司が木戸へ拍手を送っていた。

リング上には師匠カール・ゴッチからのメッセージが流れた。

「修、私の息子よ。修が真のプロレス道の発展に貢献し、有終の日を迎えることができたことを心より嬉しく思います」

最後に木戸はマイクで一つ一つの言葉を噛みしめるように我々に語り始めた。

「昭和43年、日本プロレスに入門。昭和47年、新日本プロレス旗揚げ以来、33年の現役生活を引退します。兄が15歳でプロレスラーになり、練習中の事故により16歳で怪我をし、闘病生活をし…兄を意志を継いでプロレスラーになり、33年間、現役生活が出来、感無量です」

黙々とプロレス道を歩んだ男が明かした知られざる真実。
この時、我々は木戸修はプロレスラーになれなかった兄の意志を継いでプロレスラーになったという事実を知る。

「亡くなった兄貴も喜んでくれていると思います」

実はこの引退興行は木戸修だけの引退試合ではなく、木戸時夫の引退試合だった。
プロデビューすることなくリングを去った兄・時夫。
その兄の悔しさを晴らすためにプロレスの世界に飛び込んだ弟・修。
リングで闘っていたのは修だけではなく、亡き兄・時夫もずっと一緒に闘ってきたのだ。

木戸修のレスラー人生とはプロレスへの隠された尋常ならない執念を持った兄弟による魂の物語だったのかもしれない。
例え、兄・時夫がこの世を去っても、弟・修を支える魂の守護神であり続けた。
その兄弟を支えたのは家族であり、関係者であり、ファンだった。

「俺…お父さんやお母さん、妹がみんな病院に行って、助け合っているのを見てきたからね。だからいつも"俺が頑張らなきゃいけないな"と思っていました。33年間を振り返ると、一番頭に浮かぶのは試合より、兄弟、家族と頑張ってきたことなんですよ。兄の意志を継いで、プロレスラーになれて…。選手生活に悔いはないです」

2002年、新日本プロレスには中邑真輔、後藤洋央紀、田口隆祐、ヨシタツ(山本尚文)といった有望な若手が入門した黄金年となり、彼らを育て上げたのは木戸だった。彼らを課したトレーニングメニューはゴッチ式の過酷なものだった。
コーチ時代には千回単位のヒンズースクワットなどを無言で長時間、淡々とやるため、他選手は精神的プレッシャーになったという。

「俺が新日本プロレスの道場でコーチをしていた時に、入門してきた、中邑、後藤、田口たちがトップでやっているんだろ。俺は自分のやり方を押し付けることはしなかった。人それぞれに考え方はあるし、彼らの人生だしな。ただ『前向きの姿勢』は、教えたつもり。人生だから波がある。悪くなるのは簡単だけど、必ずいいこともやってくる。前を向いていればな」

2015年、木戸修は65歳となった。
師匠ゴッチは天国へと旅立った。(2007年逝去)
愛娘の木戸愛は現在、人気女子プロゴルファーとして活躍している。

神奈川・横須賀市の豪邸にポルシェ2台はじめ超高級車を保有、ゴッチ式のトレーニングは欠かすことはない。

「いくらゴッチさんが『ムスコ』って呼んでくれても、あんな立派な人にはなれないんだからさ。俺は自分のレスリング一筋で、素直に生きてきた。もちろん、ゴッチさんの影響っていうのは大きいんだけど、それは自分の中で感じていればいいっていうのが俺の考えだから。昔みたいに追い込んだ練習はしてないけど、レスラーが練習しなくなったら終わりだよ。それがゴッチさんの教えだからさ、これからもずっと続けていくのだろうなって思うよ」

今でもトレーニングを怠らない木戸修に、天国から兄の木戸時夫と師匠のカール・ゴッチは拍手を送っているのではないだろうか。
木戸修こそ、プロレスラーの鏡である。