敢えて、闇になる~男が背負う「生と死」の十字架~/齋藤彰俊【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第85回 敢えて、闇になる~男が背負う「生と死」の十字架~/齋藤彰俊



「プロレスを舐め腐った男」

新日本プロレスVS誠心会館の異種格闘技戦で、次から次への新日本レスラーをKO勝ちを収めた齋藤彰俊はテレビ中継でこのように形容された。
元来、プロレスが大好きだった齋藤にとっては不本意な部分もあったかもしれないが、これほど当時の彼を言い表したキャッチフレーズはない。
しかし、その一方でテレビ中継では齋藤の紆余曲折の経歴が紹介されている。

「なんと彼の前職は愛知県の公務員でした。夫人の猛反対を押し切って、プロ転向を果たしました」

彼には守るべき家族がいた。
それでもプロレスへの夢を諦めなかった。
齋藤彰俊、当時26歳。彼はリングで"必死"に輝いていた。
今回は、「プロレスを舐め腐った男」と呼ばれたプロレス大好き人間が歩んだ波乱万丈のレスラー人生を追う。

齋藤彰俊は1965年8月8日、宮城県仙台市に生まれた。
少年時代から水泳に熱中し、中学の時には平泳ぎで全国大会三位という成績を収め、スカウトで中京高校に入学する。
高校時代に彼は一人の男に出会う。

松永光弘。
後に日本のインディーマットで大活躍するミスター・デンジャーである。
高校時代、松永は相撲部だった。共にプロレスファンだった二人は意気投合する。

1983年のインターハイに出場した二人。齋藤は水泳個人戦で優勝、松永は相撲東西勝ち抜き戦で10人抜きを果たして見せた。
ちなみにこの頃から齋藤は水泳と並行して地元の誠心会館で空手を始めている。

高校卒業後、二人とも中京大学に進学した。齋藤は水泳で大活躍する。1986年の全日本選手権平泳ぎ100m優勝し、オリンピック強化選手となった。
齋藤は紛れもなくスポーツ・アスリートだった。
彼の肺活量の数値は8000ccにも及ぶという。
一方の松永は相撲を辞め、齋藤が通っている誠心会館で空手の鍛錬を積むことになった。

大学卒業後、愛知県スポーツ振興財団に就職。
安定した公務員生活。だが何かが満たされなかった。
その頃、彼は自分は格闘家が天職では思い始めていた。

公務員生活に別れを告げると、1989年12月に誠心会館の青柳政司館長が上がっていたインディープロレス団体FMWで空手の試合を行い、1990年12月20日、剛竜馬率いるパイオニア戦志というプロレス団体でプロレスラーとしてデビューする。
ちなみに同級生の松永もFMWで白い道着姿でリングに上がっていた。

1991年8月に新団体W★INGの旗揚げに参加。徳田光輝、木村浩一郎とともに「格闘3兄弟」として活躍するも、第一次W★INGは崩壊し、齋藤は活躍する場所を失った。
その頃、誠心会館の青柳館長と松永は新日本プロレスに参戦していた。

そんなある日の事。
1991年12月8日、新日本・後楽園ホール大会である騒動が勃発する。
青柳館長の門下生の態度やドアの閉め方が原因などあらゆる説があるが、新日本の小林邦昭がブチ切れ、いきなり門下生をぶん殴ったのだ。
門下生は小林の拳を食らい、口をざっくり切り、13針を縫う大ケガを負った。
これに激怒したのが齋藤だった。

当時の齋藤は誠心会館のエース。
しかも大ケガを負った門下生は齋藤の友人だった。

齋藤は青柳館長に詰め寄った。

「館長!弟子が殴られて黙っているんですか!」

青柳館長は新日本との関係を大切にしたかった。
彼もプロレスが好きである。
それ以上に、空手道場を運営していくために外資が必要だったのだ。

「俺は今、新日本の契約選手だし、何も言えない。我慢してくれ」

齋藤にはどうしても我慢が出来なかった。
当時の現場監督である長州力にも直接抗議もした。
そして、齋藤は動いた。
なんと会場入りしようとしていた小林を齋藤は誠心会館の同僚達と襲撃したのだ。
小林はこの襲撃によって、口をざっくり切り、頭部外傷で救急車で運ばれた。
青柳館長は騒動の中で板挟みとなる。

「齋藤達の気持ちが分かるが、新日本との関係も大切にしたい…」

1992年1月4日の東京ドーム大会。
齋藤を中心とした誠心会館勢がリングに現れた。新日本プロレスへの宣戦布告をするためである。
場内はブーイングとヤジに包まれた。

1992年1月30日新日本・大田区大会でメインイベント終了後の番外編として齋藤と小林は対決した。
齋藤も小林も血まみれ、両陣営もいきりたち、大乱闘に発展。最終的には小林の血が止まらないため、齋藤のレフェリーストップ勝ち。
そこにあったのは「これぞ他流試合」という殺伐とした空間だった。
プロレス専門誌の表紙にはこのような見出しが躍った。

「プロレスが空手に負けた!」

当時はプロレス最強論が根強かった時代。
どんなルールでも別ジャンルの格闘家にプロレスラーが敗れるとそれだけで事件なり大ニュースとなったのだ。

2月8日、札幌大会で若手の小原道由を血だるまにし、KO勝ちをし、勢いに乗った。
そんな中で、この抗争に新たな登場人物が現れる。

越中詩郎。
"ド演歌ファイター"と呼ばれる熱血漢は、かつてUWFとの対抗戦で名を馳せたプロレスラー。
実は小林も越中も当時の新日本では窓際族だった。

「(小林さんが敗れた時)ひどい話でみんな上の選手が帰っちゃってね。小林さんを介抱していたら、長州さんが来ていきなり言うわけですよ。『次はお前だ!準備しておけ!』って。」

越中は2月11日の名古屋大会で小林と組んで、齋藤&田尻茂一と異種格闘技タッグマッチで対戦し、勝利するも、翌日(2月12日)の大阪大会で齋藤の打撃に屈した。
齋藤は小林、小原、越中と新日本レスラーを破り一躍、時の人となる。
試合後、青柳館長がリングに上がり、齋藤達の気持ちに遂に応え、新日本を敵回す決意を固める。

3月9日京都大会は異様な盛り上がりを見せた。
目玉カードは越中詩郎&小林邦昭 VS 青柳政司&齋藤彰俊の異種格闘技タッグマッチだった。
四人の男がリングに対峙すると緊張感と殺伐とした空気が充満し、試合が始まるとまるで喧嘩のような攻防が続いた。
その中で小林の膝蹴りと顔面蹴りが齋藤の眼球をとらえた。
齋藤は目を押さえて動きが止まった。
齋藤のレフェリーストップ負け、その後、齋藤と別選手を入れ替えて再試合を行ったが、誠心会館は敗れた。

試合後、齋藤はマイクで叫んだ!

「まだ死んでいない!こんな目くれてやる!」

齋藤の悲壮なる決意。
彼はリングに上がった時から「生と死」を意識していたのかもしれない。

 必死に生きる。

これを当時の新日本プロレスで誰よりも体現していたのはこの四人だったのではないだろうか。

プロレスVS空手、新日本プロレスVS誠心会館の対抗戦、つぶし合いだったのにも関わらず、ファンはいつしか四人の男達の生き様に魅入られていた。新日本側の声援が多いが、一部からは敵方の青柳や齋藤にも声援が飛ぶようになった。

最終決着戦の舞台は決まった。越中と小林は新日本プロレス退団、青柳と齋藤は誠心会館の看板を賭けて闘うことになった。

4月30日、齋藤と小林が一騎打ちする。小林の打撃と頭突きで齋藤は血まみれ、齋藤は執念で粘るも最後はチキンウイング・アームロックで無念のギブアップ負けを喫した。
左腕を押さえながら、泣き崩れる齋藤の目の前には、誠心会館の看板を掲げる新日本の小林の姿があった。

翌日(5月1日)の千葉大会で越中が青柳に死闘の末、KO勝ちを収めた。青柳は看板を奪還できなかった。

試合後、思わぬ展開が待っていた。
現場監督の長州力が越中と小林に看板を返してくることを指示する。
敗れたにも関わらず戻ってきた看板を受け取ることは出来ない。
ダメージの濃い青柳の代わりに齋藤が新日本の控室に訪れた。
齋藤の額は包帯でグルグル巻き、左腕は三角巾でつるされた痛々しい姿だった。

齋藤が新日本の控室に現れると、対応したのは現場監督の長州だった。
長州は齋藤にこう声をかけた。

「お前、素晴らしい格闘家だな。お前達には、こっちも教えられることが多かった」

齋藤は泣いた。
実は齋藤にとって長州は憧れのプロレスラーだったのだ。
最後は互いに敬意を表して、頭を下げた。

しかし、越中に敗れた青柳は収まらなかった。
もう一度、越中と小林と闘いたかった。

「自分はどうしても小林さん、越中さんとの試合をやらせてくれと何度も新日本に頼んだんですよ。でも駄目だと。土下座をしても駄目だったんです。だったら新日本を首になってもいいから、自分のところで興業を打って小林さん、越中さんに看板をかけて来てもらおうと思ったんです」

小林と越中は新日本からの反対を押し切って、誠心会館の自主興行に姿を現した。真の意味での最終決着戦として青柳と小林が対戦し、両者レフェリーストップで痛み分けで終わった。
試合後、小林は頭を下げてこう言った。

「館長、これ(看板)を受け取ってくれ!」

青柳は看板を受け取ると、抱きしめながら泣きじゃくった。
セコンドの齋藤も泣いていた。
青柳は後にこのように語っている。

「普通の空手団体にすぎない誠心会館が大きなプロレス団体に飛び込んでいった。溺れ死にしようがなんであろうが大海の真ん中に飛び込んだ。対抗戦をやることになって、長州さんに言われた言葉を覚えています。『お前ら空手はできるかもしれんけどな、プロレスはできない。だけど受け身の練習をしっかりやっとかんとお前ら殺されるぞ』と。だから受け身の練習をガンガンやりました。一発もらうたびに痛がっていたら試合になりませんから。あの対抗戦がなければ、僕だって齋藤だって、ここまでやってこれなかっただろうと思う。特に齋藤のプロレスの原点はあの対抗戦ですよ。齋藤はプロレスで飯が食えるなんて思っていなかったと思いますよ。対抗戦のおかげで自身がついた」

会社に許可を得ないで、誠心会館の自主興行に参戦した小林と越中は選手会から追放された。
小林が胃がんで倒れたため、ひとりぼっちとなった越中は一人で新日本に立ち向かった。
そんな彼の姿に心を打たれ、協力を申し出たのが誠心会館の青柳と齋藤だった。
この三人に木村健悟を加えたメンバーで結成されたのが「反選手会同盟」、後の「平成維震軍」だった。

「平成維震軍」にはスター選手などいなかった。
中堅レスラーの寄せ集め集団。
それでも彼らは1990年代の新日本プロレスを立派に生き抜いた。
すぐ潰れるだろうと目されていた「平成維震軍」は実に6年半もの長い期間、活躍して見せた。

「平成維震軍」のリーダーだった越中はこのように語る。

「小林さんから始まったんだから小林さんが戻ってくるまでは辞められない、守らなきゃいけないっていうのはあったんです。だって続くとは思わないじゃん!当時の新日本には、長州、藤波、三銃士、馳、健介と粒が揃っていてさあ、ひょんなキッカケから始まったけど、これが続くなんて一回も自信持ったことなかったよ。明日ダメになっちゃうかもしれないって、そればっかり。」

「矛盾するように聞こえるかもしれないけど、謙虚だったからやれたんだろうね。小林さんにしても木村さんにしても、みんな集まってきた人間が『これがいつまでも続くとは思ってないよ』って謙虚な気持ちを根底に持っていたから」

越中は「平成維震軍」のリーダーとして常に悲壮感を漂わせていた。
特に彼が厳しい目で見守り、叱り飛ばしたのが齋藤だった。

齋藤は新日本での闘いで、ことごとくやられ続けた。
佐々木健介にはラリアットで記憶を飛ばされ、武藤敬司には空手道着で身動きが取れず蹂躙され、馳浩には試合後に強烈なダメ出しを食らったこともあった。越中には齋藤に当たる理由があった。

「ハッキリ言って、青柳、彰俊(齋藤)はド素人なんだよ。彼らには申し訳ないけど、受け身一つちゃんと取れなかったんだから。俺は彰俊とかにいつも怒っていたんだよね。『引くような試合するな、チンタラやってるな』とか『なんで前へ出ていかないんだ、この野郎!』って。維震軍が終わったらみんな食っていけなくなるんだよってこと。そうやって俺がピリピリしている中で、今思うと彰俊なんかはよく頑張ってくれたなあって思うよ」

齋藤は「平成維震軍」時代についてこう振り返る。

「平成維震軍では自分が一番下でしたし、しょっちゅう先輩の方々に飲みに連れて行ってもらいました。自分は酒は好きな方なので楽しかったですよ。飲み始めると、一人で一升瓶2本は空にしていました。地方に巡業にいくと、毎日のように朝まで飲んで、昼間に試合会場に移動して、夜は試合。試合後はまた酒を飲む。プロレスラーはタフでないとやっていけない商売だと教わりました」

1998年末、齋藤は新日本プロレスを退団する。
レスラーとして恵まれた環境にいた齋藤だったが、その一方で新日本との対抗戦で見せたギラギラしたファイトスタイルは鳴りを潜めていた。
あの頃の齋藤に戻るため、彼は退路を断ち、地元愛知でショットバーを開店する。

2000年10月に全日本プロレスの社長だった三沢光晴が旗揚げした新団体プロレスリングノアに青柳とともに齋藤はフリーで参戦する。
その頃に齋藤はタトゥーを入れた。

「『そのうち背中にタトゥーを彫るから』と家族には伝えていたんですが、まさかここまで大きなものだとは想像していなかったらしくて…。最初に見せた時は、女房と息子は揃って絶句してましたね。息子は幼稚園の年長か、小学校に上がったばかりの年頃だったんですが、『今はプロレスラーだから入れ墨もいいと思うけど、引退した後のことを考えたらどうかと思うよ』とたしなめられて…。『申し訳ない』と素直に謝りました。いつ死んでも悔いがないように、プロレスに全力で打ち込んでいるんです。そして、死後、私の人生の評価を下す存在の死神に悔いのない状態で出会いたい。そういう気持ちで死神が手にする鎌のタトゥーを入れたんです」

齋藤はリングを降りると、物静かで礼儀正しい男だ。
周囲に細かな気遣いができ、偉ぶることもない。
死神と名乗っているが、それも彼の内面に潜んでいるものをプロレスで表現するために引っ張り出してきたアイデンティティーだったのだろう。

「リングにいる以上、激しい試合をする義務がある。思いっきり暴れるし、それも本当の自分です。ですが、リングを降りたら、礼節を尽くすべきだと考えています。年下であろうと、自分よりも先にノアで闘っている選手に対しては敬語を使いますし、人としての筋道を崩したくないんです」

ノアに参戦時の齋藤の体格は177cm 120kg、新日本との対抗戦に比べて体重は15kg~20kg以上増えていた。
フリーとして齋藤はノアに参戦し続ける中で、齋藤は一人の男のアンテナに引っかかる。

秋山準。
当時はノアの革命児と呼ばれ、その一挙手一投足がプロレス界全体に波及するほどのスター選手。
秋山は齋藤とのタッグ対決で、齋藤とは「この選手とは一緒にやれるかもしれない」という気持ちが沸いてきたという。
そして、2001年5月、秋山と齋藤はタッグを結成し、秋山率いるスターネス入りを果たす。
齋藤はプロレスラーとしての大チャンスを掴んだ。

秋山とのコンビで初代GHCタッグ王座決定トーナメント決勝戦に挑んだが、ベイダー&スコーピオの前に沈んだ。
そして2002年5月にワイルドⅡ(森嶋猛&力皇猛)が保持するGHCタッグ王座に秋山とのコンビで挑んだ齋藤だったが、力皇の変型DDTを食らい、胸骨が砕け、アバラが折れ、頸椎を損傷する大ケガを負った。試合に敗れた斎藤は病院直行、欠場に追い込まれる。

「首がバキバキと鳴った音が聞こえて、『これで半身不随になるかな』と思いました。でも多少しびれていたけど、手も足も動く。呼吸が苦しかったので、少しの間、場外に逃げたけど、そのまま最後まで試合を続けました」

それから4ヶ月後の2002年9月にワイルドⅡを破り、秋山と齋藤はGHCタッグ王者となった。
デビュー12年。
ようやくたどり着いた初のタイトルだった。

その後、齋藤はスターネスを離脱し、井上雅央、杉浦貴、バイソン・スミスらとダーク・エージェントを結成する。
2004年10月には小橋建太が保持するGHCヘビー級王座に挑戦し、死闘の末に敗退。
この試合で齋藤の評価は高まった。
また、この頃にはプロレスに集中するため、ショットバーを閉店している。

2006年1月に齋藤はフリーからノア所属の選手となった。
ノア所属選手になっても齋藤は第一線で活躍する。
特にノアで毎年恒例となっているクリスマス興行などの特別大会で、齋藤はシリアスな姿とは裏腹に弾けてしまい、その年の流行語や話題の人物を模写したキャラクターに扮した余興を行ったりすることで有名となった。

2008年の第一回グローバル・タッグリーグ戦にバイソン・スミスとのコンビで優勝を果たし、5月には丸藤正道&杉浦貴を破り、GHCタッグ王者となった。

その翌年(2009年)の6月13日の広島大会でバイソンと保持するGHCタッグ王座を賭けて、三沢光晴&潮崎豪と対戦した齋藤だったのだが…。

13日午後8時半すぎ、広島市中区の広島県立総合体育館で、プロレスラー三沢光晴選手(46)が試合中に相手の技をかけられて頭を強打。病院に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。広島県警は試合関係者らから事情を聴き、当時の状況を調べている。県警や主催したプロレス団体「ノア」によると、三沢選手は同8時10分ごろ、メーンイベントのタッグマッチに出場。約25分後、背後から抱え上げ、後ろに倒れ込むバックドロップをかけられ、リングに倒れた。試合はレフェリーストップで相手方が勝った。目の前で観戦していた市内の会社員の男性(32)によると、倒れてから救急車で運ばれるまで10分以上、仲間のレスラーや救急隊員が心臓マッサージや自動体外式除細動器(AED)を使い蘇生(そせい)措置を施したが、三沢選手は全く動かなかった。この間、リングサイドのファンから「ミサワ、ミサワ」とコールが上がり、搬送後も約2300人の観客で埋まった会場は騒然とした状態が続いたという。男性は「僕らにとって中学時代からの永遠のスター。間違いなく日本ナンバーワンレスラーで、超ショックです」とうなだれた。 三沢選手は埼玉県越谷市出身。1981年にデビューし、2代目タイガーマスクとして活躍。90年代に全日本プロレスの中心選手となり、その後、ノアを立ち上げた。
(ノア三沢光晴さん急死、試合中に頭を強打・2009年6月14日・日刊スポーツ)

プロレス史上最悪のリング渦が起こった原因となってしまったのは齋藤が三沢に放ったバックドロップだった。
それが運命を変えた。

プロレス界の盟主と呼ばれた男の命を奪ったプロレスラー。
傷心の彼に対して「齋藤、頑張れ!」と多くのファンは気遣ったが、一部から非難や嫌がらせを受け続けた。
後に彼はこのようなことを語っている。

「私のバックドロップで三沢さんは亡くなった。それは永遠に消えることのない事実です。罪悪感も感じています。しかし、そのことから逃げるつもりも、隠れるつもりもない。責任逃れをするつもりは一切ありません。亡くなったと聞いた瞬間は、頭が真っ白になりました。その場で泣き崩れましたが、心のどこかで、これは現実だ、冷静になれと言っている自分もいました」

「正直、ノアを辞めようとか、消えようか(自殺)と思いました。当日、どんな状況だろうが、引き金を自分が引いたのは間違いない。自分の頭の中には『人殺し』という言葉がある。翌日の博多大会の試合前までいろいろ考えました。実は名古屋の実家は電話とか、通りすがりの人に『三沢を殺した』とか言われるらしいです。当事者の自分は何を言われても覚悟しているが、第三者には迷惑をかけてます」

レスラーを廃業する。
自らの死を持って償う。

脳裏に浮かぶ数々の責任の取り方。

齋藤は三沢の遺体と一晩、付き添った。
亡くなった三沢がそれで生き返ることはない。
齋藤は事件性がない事故とはいえ、自らが結果的に犯してしまった"罪"を背負うことになった。

一睡もしないで翌日を迎えた齋藤。
ノアはこの日、博多大会を控えていた。
ホテルに戻るまでの道中、駅の売店には「三沢、死す」というスポーツ新聞の見出しが嫌でも目についた。
現実逃避なんて出来ない。
齋藤は橋の上から川を見つめていた。

「どうすればいいのか?どう責任を取るべきか?」

団体を去る。
レスラーを廃業する。
人間を辞める。

己に問いかける責任の取り方。
それが本当に自分が果たすべき責任の取り方なのだろうか?

俺が死んで誰が喜ぶんだ?
三沢さんが喜ぶわけがない!
ファンは俺が死んでも喜ぶわけがない!
齋藤は決意する。

「俺はリングに上がり続ける。リングに上がり続けることで責任を果たす。何を言われても、どんなことをされても…もし自分がいなくなったら、ファンの怒りを向ける矛先がなくなるじゃないか!」

6月14日の朝、齋藤は三沢夫人と対面する。
齋藤は霊安室に入ると、三沢夫人にこう言って頭を下げた。

「自分が、最後に三沢さんを投げた齋藤彰俊です。本当に申し訳ありませんでした…」

三沢夫人は齋藤に声を掛けた。

「決してあなたのせいではないので、気になさらないでください。これから大変だと思うけど、ぜひあなたも頑張って…」

齋藤の涙は止まらなかった…。

あれは女子プロレスが起こったリング渦がワイドショーで取り上げられた頃の話だ。
三沢夫人はかつて存命中の三沢に尋ねたことがある。

「もし事故の当事者になってしまった場合はどうする?」

三沢はこう答えた。

「俺は謝らない。謝ったら相手に失礼になる。謝ってしまえば、そのプロレスラーは技を受け切れなかったことになる」

三沢夫人は後にこのように語っている。

「齋藤さんもたまたま事故の現場に居合わせて、たまたまそうなってしまった。あれは事故です。齋藤さんのことが頭をかすめるたびに齋藤さん、そのご家族もああいうことさえなければつらい思いをしたり、悲しい思いをしたりしなくて済んだのではと思います。だから齋藤さんも私も、もう心にしまうものはしまって笑顔で少しずつ歩いて行かなければいけないのかなと思っています」

6月14日、博多大会の試合後、齋藤は三沢の遺影に向かい泣きながら土下座をした。ファンは齋藤の姿に泣いていた。

「社長だって、まだまだやりたいことがいっぱいあったのに…。今日は”お前が責任を取れ”っていう意味でお客さんは応援してくれたと思っています。今日は温かかったけど、いろいろな罵声もあるでしょう。そういうものも真正面から受け止めて、全部背負っていくことが一番つらいことでしょうし…。いずれは自分も天命が来れば向こうの世界にいくので、そのときに謝ってけじめをつけます」

この現実から逃げない。
彼は毎日、般若心境を唱えることに日課にするようになったという。

2011年末を持って齋藤はノアからフリーとなった。
これに齋藤以上に怒りを現した男がいた。
秋山準だった。

2012年1月に齋藤とのコンビでGHCタッグ王座を奪還した秋山は試合後、ノアに対して怒りをぶちまけた。

「何でこんなにノアのためにやってる人間がフリーに切られて、なんでこのタイトルマッチに出てんだよ! (机を激しく叩きながら)いい加減にしろ! ちゃんとやれよ!! ちゃんとやれよ、全部! 普通にやれよ!! なんだよ!! 選手の気持ち考えろ!!!」

後日、秋山は真意を明かした。

「会社が『齋藤さんと秋山に(タイトル戦を)任せる』と言った後に、齋藤さんが『フリーですよ』って言われた。自分からフリーになった人と、された人間は違う。俺からすれば、タイトルマッチか絡む人間は「会社の中心選手じゃないの?」って思う。フリーにされるというのは、なかば『必要ないよ』ってことなんじゃないの。タイトル戦に行く前に齋藤さんに確認を取ってあげてもいいんじゃないか。『今回、こういうことになるけど、行ってもらえますか?』って。俺は(12月に)自分が契約した後に知ったから、何もできなくて、すごく昨年末から嫌だった。齋藤さんの気持ちを考えるといたたまれないよね。『秋山さんと齋藤さんで頑張ってください』っていうのが丸藤正道(副社長)で、齋藤さんのフリーを考えたのが執行部。それもまた(意見が)違う。中枢なんだから、連携してくれないと。これじゃあ『選手と社員が一丸となって』と言っても難しいよね」

それでも齋藤は怒りを表すことなく、その後もフリーとしてノアに参戦した。
パートナーだったバイソン・スミスがこの世を去った。
三沢のパートナーだった潮崎は2012年末で、ノアを去った。
あのリング渦の当事者でノアで闘っているのは齋藤しかいなくなった。

2014年6月13日の後楽園ホールでの「三沢光晴メモリアルナイト」。
メインイベントで齋藤は丸藤と対戦し、敗れた。
試合後、丸藤はマイクで齋藤に語りかけた。

「今日この時、このリングに立ってくれた齋藤さん、ありがとうございました。あまり口にはしないけど、おれが三沢さんから教わったものはプロレスの技術でも技でもない。大事なのは(胸を叩いて)ここだと思います。齋藤さんがこの緑のマットに、そして三沢さんに誰よりも一番熱い気持ちを持っているのはわかっています。矛盾だらけかもしれないけど、俺のお願いをひとつだけ聞いてほしい。齋藤さん、再びプロレスリング・ノアの齋藤彰俊として俺たちとこのリングを守ってください」

齋藤は丸藤の呼びかけに応えた。

「副社長、温かい言葉をありがとうございます。俺はあの日以来、コスチュームも変えてなくて…常に心はノアでした!!もし、ノアの皆さんが、副社長が、社長が、三沢社長が、みんなが許してくださるなら…俺はノアで戦います!!!」

こうして齋藤はノア再入団を果たした。

三沢光晴が亡くなってから一か月後の2009年7月。
齋藤の元に、三沢の友人から、「三沢光晴の伝言」としてこのようなメッセージが届いた。
もしもリング渦が発生した場合に備えて三沢は友人に伝言を託していたのだ。

「本来ならばこんなことがあってはいけないし、自分はそうなりたくないけど…。俺にもしものことがあっても、俺はお前を恨まない。そしてお前は絶対にリング上がり続けていてほしい」

そしてこのメッセージに結びにはこのような文面があったという。

「答えは自分で見つけなくてはならない」

このメッセージを何度も何度も反芻し続けてきた齋藤は語る。

「三沢さんの最後の相手が自分ではなくて、もっと一流のレスラーだったら、世間の人も納得しやすいかもしれない。でも最後の相手は自分でした。”三沢はあんな三流レスラーにやられたのか”と思われないために、三沢さんの価値を高めるために、自分が頑張らなくてはいけない。そのためにはこのクエスチョンから逃げないこと。このクエスチョンを解くことこそが、自分がこの世に生まれた意味であり、人生の課題なのかもしれない。だからこそ、答えは自分で探すんです」

「自分の生き方はずっと変わっていません。けれども、確かにあの日以降、人生が変わりました。すべてが変わりました。この消えない過去とともに歩み続ける毎日が始まり、背負ったものをどう変えていけるのか、新しい課題が始まりました。この経験を正にするのか負のするのか?それによって、三沢社長の死の意味も変わってくると思います。この経験をプラスに変えることができたら、三沢社長も喜んでくれると思います」

齋藤彰俊がノアに参戦した頃だった。
作家の内館牧子氏は齋藤をこのように評している。

「彼は今時の男には珍しく闇を抱えている雰囲気がある」

闇。
これこそ齋藤彰俊というプロレスラーそのものを表現している。
光とは対極の存在。

彼は新日本との対抗戦でも、他の選手とは違う殺気を放つことで闇となった。

ヒーローではなく、プロレスを敵対する完全な敵役。

平成維震軍時代には彼は埋没されそうな状況下で越中を支える闇であり続けた。

ノアに参戦すると死神と名乗り、自ら闇の住人であることでプロレス界で異彩を放った。

三沢光晴のリング渦の一件も、自らがすべての責任を背負うことで、この事故の闇を背負った。

彼は生きるために、自分が何者かを知るために、"敢えて"、闇の存在であり続ける。

プロレスが好きなのに生き残るために敢えて、プロレスと敵対した。

もっと個人を伸ばす道があったにも関わらず、プロレスに慣れるため、真の意味でプロレスラーになるために敢えて、一軍団員に殉じた。

本来は人が良くて、礼儀が正しい。それでもプロレスで生きるために、ヒールと名乗り、敢えて死神を名乗った。

あのリング禍の一件でどんなに天国の三沢が「もういいよ、謝らなくていいよ」と思ったとしても彼はこの世にいる限りこの罪を背負い敢えて、三沢に「申し訳ありませんでした」と頭を下げ続ける。

「生と死」の尊さも辛さも重さも知る男・齋藤彰俊。
現実の十字架を背負う彼はリングで天命を果たすまで、己に問い続ける答えが出るその日まで、どんなに苦しくても闘い続ける。

齋藤彰俊の生き方を貫くために、彼は敢えて、闇になる…。