俺達のプロレスラーDX
第44回 奇人流浪記~「死命感」と「狂気性」に翻弄された異端児~/船木誠勝
1973年に公開され世界中で大ヒットしたブルース・リー主演の香港カンフー映画「燃えよドラゴン」。
日本でも上映され、ブルース・りーブームが起こるほどのインパクトだった。
その映画をビデオではなく映画館で見たひとりの幼稚園児がいた。
男の名は船木優治。
後に日本プロレス界や格闘技界で大活躍する船木誠勝である。
この映画館での記憶を船木は鮮明に覚えているという。
「燃えよドラゴン」に出会い、ブルース・リーに憧れるようになった。
今回は、あらゆる団体や戦場を漂流し続けた異端児が歩んだ格闘ロードを追う。
船木は1969年3月13日、青森に生を受けた。
父は金を競輪につぎ込むギャンブル生活におぼれ、母は内職をして生活を支えた。
そんな家庭環境の中で船木はやんちゃに育った。
しかし、生活苦で貧乏だった。
親に「何か買って」と言っても聞き入れられない。
遂には万引きをしてしまう。
この時、船木は「俺、万引きをしてしまった。死なねば駄目!」と母に告白をしたという。
良くも悪くも船木という男はバカ正直で極端な性格なのである。
中学生となり、両親が離婚し、母親についていくことになった船木はエキスパンダーや鉄アレイなどとつかった自己流のトレーニングに打ち込んだ。
ブルース・リー、ジャッキー・チェン、シルベスター・スターローン、松田優作といったスター達のアクション映画が好きだったため、俳優になることも考えたが、初代タイガーマスクに憧れるようになるとプロレスラーになりたいと志すようになる。
目標が決まれば一心不乱にトレーニングをした。スクワットは500回まで最終的にできるようになり、電柱に座布団を巻いて蹴りの練習に励んだ。陸上部だったが、マットで友人相手にバックドロップを放ち、よく泣かしていたという。
14歳の時、彼は決断する。
「東京に出て、新日本プロレスに入る」
反対する母に船木はこう訴えた。
「もしも人生が2回あるなら高校に行きます。でも人生は1回だけしかない。だからプロレスをやらしてください。そのかわりに生まれ変わってきて、また母さんの息子になったら言うことをきいて高校へ行きます。」
最終的に家族の了解を得た船木は新日本の入門テストを受けたが、落ちてしまう。
船木は後日、山本子鉄に入門を直談判し、1984年4月新日本入団が認められた。
15歳の新弟子の同期には武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也、野上彰(AKIRA)がいた。
柔道経験者の武藤にスパーリングで極められ続ける日々。
しかし、関節技の鬼と呼ばれた道場番長・藤原喜明に目をかけられた。
ある日、がむしゃらに向かっていったスパーリング後に藤原にこう言われた。
「坊主、やるじゃねぇか。それでいいんだ。技なんかあとでなんとかなるもんだからな。」
1985年3月3日、当時の日本プロレス界史上最年少レスラーとして15歳11か月でデビューを果たす。
一度は新日本を離れ、UWFに移籍した藤原とのスパーリングもデビューしてから1年後にUWFが新日本に参戦するようになり、再開する。
しかし、経験を積み、自分なり工夫して関節技を学んでいた船木は1時間のスパーリングの中で藤原に前半の30分は極められることはなかった。
船木は強くなっていた。
船木は兄貴分の山田恵一とともに強さを手に入れるため、骨法を学ぶようになる。
UWFスタイルに対応するためだった。
当時新日本の副社長だった坂口征二はこの船木に将来のエース候補として期待をしていたという。
しかし、船木はヨーロッパ遠征から帰国後の1989年、UWFに移籍する。
UWFとは船木にとって何だったのだろうか?
船木はもし、UWFがプロレスという枠からはみ出て、格闘技の世界に完全に踏み越えようとしているのなら、踏み込むべきだと考えていた。
しかし、UWF代表・前田日明はこう言った。
「あと3年待ってほしい。お客さんがいるんだから、そこまで格闘技にいっても駄目なんだよ。」
前田にはUWFというプロレススタイルで格闘技の面白さや技術の攻防を丁寧に伝えてきたという自負があった。その感覚があったから、船木にまだ踏み込むのは早いと諭したのだ。
しかし、内部分裂により、UWFは三派に分かれた。
船木は藤原を慕い、藤原組に参加する。
しかし、紆余曲折の末、船木は藤原を袂を分かち、独立した。
新日本時代からの盟友の鈴木みのるを始め、ほとんどの若手は船木についていった。
団体名は師匠カール・ゴッチが古代ギリシャ格闘技からとって、「パンクラス」と命名。
船木は団体旗揚げ会見でこのように語る。
「リング上は完全実力主義です。その時、一番強い者が勝ち残っていくリングにしたいと思っています。このスタイルを世界最強の格闘技にするため、あらゆる分野から技術を学び進化していきたいと考えています。」
これは船木自身が目指した格闘技の世界に踏み込んだ進化型UWFだった。
1993年9月21日の旗揚げ戦は全5試合すべて短時間決着、秒殺の連続だった。
これが伝説と言われている真剣勝負だけのプロレスが行われた歴史的な興業と言われている。
しかし、ここから船木にはどこか悲壮感と帯びるようになる。
「死命感」と「狂気性」という魔物でありナイフに翻弄される日々が始まる。
月一で開催される興業は、毎回超満員。
しかし、過激な闘いが続き、けが人が相次いだ。
UFCが誕生し、黒船グレイシーの存在が日増しに強くなる。
育てた外国人選手が引き抜かれもした。
他団体から喧嘩を売られたこともあった。
格闘技側からもプロレス出身だからという理由で叩かれたこともあった。
この頃の船木は他を受け付けなかった。
「俺達はそんな闘い(対抗戦)は避けます。より強い団体にしていくことのほうが有意義です。他のプロレス団体とも一切、関わり合いを避けたいです。」
そんな船木は団体最高峰のタイトルであるキング・オブ・パンクラスを目指すようになる。
目標を設定すると、バカ正直に邁進する船木は1996年9月7日、遂にタイトルマッチにこぎつけた。
王者はパンクラス最強外国人の”オランダの飛獣”バス・ルッテン。
船木は自分を追い込む過ぎたのだろう。
パンクラスの尾崎社長にこの試合が終わったら引退するといったという。
トップのプレッシャーから解放されたかったのかもしれない。
試合は壮絶だった。ルッテンの掌底や打撃が船木の顔面を捉え、顔面が変形してしまう。それでも何度も何度も倒されても船木は立ち上がって見せた。
試合は5回のダウンとエスケープによるTKOで船木は敗れた。
試合後、船木は己の感情をマイクでさらけ出した。
「自分がどうなっても良いんだよ、一生懸命生きればね。諦めなければ結果は絶対にウソつかないから。結果は絶対ウソつかない。これがオレの結果だよ。今、闘った後思ってる事は、悔いはなかったって事です。だけどオレまだね、やり残したこといっぱいあんだよ!こんなとこで辞めてられえねぇよ!明日から、明日からまた、生きるぞ!」
船木コールに包まれる中で、顔がクシャクシャになった男の姿には後光が差していた。
そして、この時、バーリ・トゥードをやりたいという気持ちになったという。
かつては否定していた何でもアリの世界に飛び込みたいという方針転換。
己の性と理想に従順な生き方。
彼は「何を考えているのかわからない」という魅力と脆さを抱えた奇人だったのかもしれない。
そして、2000年5月26日。
東京ドーム。
格闘技界の夢のカードがバーリトゥードで実現する。
パンクラスのエース船木誠勝VS400戦無敗の男ヒクソン・グレイシー。
船木はパンチでヒクソンの左眼窩底を骨折させるも、チョークスリーパーで失神負けしてしまう。
完全なる敗北。
そして、男はマイクを握って叫んだ。
「15年間、ありがとうございました!」
突然の引退宣言だった。
船木はかつてこんなことを語ったことがある。
「俺は生きる事より死ぬことを考えていた。人間の命は一つしかない。だから自分の命を縮めるのはいけない。もしかしたら現役中には『死』というものに追われていたのかもしれない。それに追いつかれまいと必死で走ったレスラー人生だった。」
引退後、船木は俳優に転身する。
しかし、成功することはなかった。
生活するために建設現場で働いたこともあった。
死を意識しながらレスラー人生を歩んだ男が社会で味わう生きるという重みと大変さ。
2007年12月に現役復帰を果たす。
そして、2009年に全日本プロレスに参戦し、プロレスに復帰する。
船木は純プロレス復帰についてこう語る。
「自分の人生なんで、死ぬまでに1回やっておきたいという気持ちがありました。できるだろうなと思っていたんですけど、だけどやってみたら全然違って、進化していてビックリしました。」
船木はプロレスを突き詰めた形として、パンクラスというリングを創造したが、プロレスも船木が離れていた間に、劇的な進化を遂げていた。
なかなかプロレスに順応できなかった。
強さの部分を強調しすぎて、観客からブーイングを浴びたこともあった。
そんな船木をプロレスラーとして覚醒させた男がいた。
盟友であり、犬猿の仲となっていた鈴木みのるである。
2010年3月、鈴木は船木と金網デスマッチで対戦する。
互いの感情と技術がぶつかる中で、血に染まった船木はどこか不気味に笑っていた。
全てを金網で清算した船木はこの日、プロレスラーとして再誕したのかもしれない。
鈴木を破った船木は試合後にこのように語った。
「リングの上で正面向いて思いっきりやってくる時の顔が、昔の鈴木みのると同じ顔してました。なんかアイツが俺に訴えたいことが、少しからだで教えられたような気がします。そういう意味では感謝しています。金網っていうのはものすごく、お互いの感情が一番伝わりやすいというか。外にはどうかわからないですけれど、中に入っている選手にとっては正面に相手しかいないので、一番集中しやすいシチュエーションだと思いました。今日という日の決着はつけたので、気分的には多少複雑ではありますけれど、やっと次に進めるなという気持ちになりました。」
船木はその後、秋山準を破り、三冠ヘビー級王座を獲得するも、団体内のゴタゴタに巻き込まれて、全日本を離脱し、WRESTLE-1に移籍した。
船木は今後について語る。
「いろんなことをやってみたいなと思うんですけど、それは多分、自分が思っているだけで、ファンが観ていてしっくりくることをやるのが一番いいなと思います。あとやっぱり自分が持っている根っこの部分の技術を残したいですね。今のWRESTLE-1はエンターテイメント色が強いので、ちょっと種をまきたいなと。やっぱり『VS』と付く以上、プロレスは闘いです。」
2015年6月30日、船木は契約満了につきWRESTLE-1を退団し、フリーとなった。
「どこかでファイターとしての死に場所を探してる。それにふさわしい場所、相手に巡り会いたい。サイドブレーキに手をかけたレスラー人生はもう終わりです」
「これから先は自由に最後の踏ん張りで。最後の挑戦を、限定で期限つけて。50まであと4年(2019年で船木は50歳になる。)、本当に踏ん張りたいと思います。」
船木はプロレスラーとして最後の大勝負に打って出たのである。
あらゆる世界や団体を流浪の果てにたどり着いた純プロレスの世界で、船木誠勝はかつて翻弄された「死命感」と「狂気性」というナイフを己の武器として懐に忍ばせながらこれからも異彩を放ち続ける。