伝承 平川健太郎アナ編【緑の虎は死して神話を遺す】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ





緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語

伝承 平川健太郎アナ編

~「三沢光晴のプロレス」と格闘した至高の名実況アナウンサー物語~






全日本プロレス中継で活躍した名実況アナ若林さんが放送席から離れた時期。

日本テレビの実況陣はやや迷走していた。

メインの福沢アナはプロレス実況以外も仕事が多忙で、若手がカバーしていたが、そのレベルは幾多の実況アナの域までには達していなかった。そんな中、1996年にプロレス班に配属されたのが平川健太郎アナだった。


彼は配属直後の武道館大会でいきなり川田利明VSゲーリー・オブライトの実況担当となる。そこで我々が耳にしたのは、川田VSオブライトのややシュートスタイル(UWF)な試合に対応し、的確に実況した平川さんの冷静沈着な実況だった。プロレスというジャンルが好きなのか、仕事として実況しているのかは一度でもその実況者の声を聞けば大体は判別できるのがプロレスファンである。

平川さんは紛れもなくプロレスファンだった。少年時代からのプロレスファンで、若林さん同様にプロレス実況がしたいがために日本テレビに入社したのだ。


平川さんはその後、実力を開花し、メインイベント、三冠戦の実況を任されることが多くなる。あの三沢光晴VS小橋健太の三冠戦の実況も担当した。あのジャイアント馬場さんが放送席で涙を流した時も、となりには平川さんがいた。その実況スタイルは堅実で落ち着いた実況である。また、非常に間をとった絶妙な実況は視聴者の受けもよく、解説者の話が生きるスタイルである。日本テレビが全日本からノアに中継枠が移行しても平川さんはメイン実況として活躍する。


そんな平川さんの実況における最高傑作と言えるのは2005年7月の三沢光晴VS川田利明である。この試合の彼の実況は冷静沈着な部分と二人の人生を描写する平川実況は、我々の心に深く刻んだ。


「その背中に5年間守り抜いた全日本の看板はもうありません。今はただその目に焼き付けた三沢光晴の姿を思い浮かべます。長い花道の向こうに三沢との再会の場が見えた!川田利明!たった一言、運命という言葉のみが川田をノアのリングへと足を向かわせます。そして、たった一言では片付けられない26年に及ぶ歴史の最後の扉が開きます。足利工大付属高校の丸いマットで出会ってから始まった三沢を追い求める川田の闘い。坊主頭の15の春から川田の前には常に三沢の背中がありました。そして、今。川田の目の前にあるのは緑色の三沢の創ったノアのリング。ノアのリングに川田利明登場!」

「聞いたことのないピアノの旋律が川田の耳に流れます。今、川田には三沢のどんな表情が浮かんだか。そして今、5年の時を経て、川田にとって聞き慣れた三沢コールのシャワーを浴びます。これまで何度も三沢コールをエネルギーに変えてきました。あの時が帰ってきた!川田が永遠に追い求める男、三沢光晴!5年前、二人の別れは突然やってきました。理想を求めた三沢。信念を曲げなかった川田。出会ってから初めて違う道を進んだ2人が今宵、運命という名の同じ花道を歩みます。誰よりも川田をかわいがったからこそ、リング上では徹底的に川田を叩き潰しました。命を削り合った闘いだからこそ二人にもう次はありません!三沢と川田、この二人が同じリングに立ちました。」

「看板は捨てた!しかし歩むのは俺だけの王道!川田利明!」

「区切りでも節目でもない。これは男のけじめの闘い!三沢光晴!」

「馬場さんのプロレスを守るためにノアを立ち上げた三沢。馬場さんが築いた城を守るために全日本に残った川田。どちらが偉いとか、尊いとか、かっこいいとか、そんなことは問題ではありません!これは二人の男の生き様です!」

「男の生き様です。そして26年に及ぶ二人の闘いにけじめをつける一戦。我々はもう三沢対川田を二度と見ることはできないかもしれない…」


そして「目に焼き付けろ!三沢対川田を!」と言った後に平川さんは驚きの行動に出た。二人の激しい打撃戦を敢えて一切言葉を発さず、無言で実況して見せた。二人の息使い、打撃音、叫び声、ファンの歓声… その声をダイレクトに伝えることにより、この一戦は他の闘いとの違いを表現し、一区切りした瞬間に「これが三沢対川田!」と発した。


試合中、実況アナが数十秒も無音でいることがいかに特別かつ勇気がいることか…
間のあけすぎはラジオとかでは放送事故と取られる。
それを恐れず平川アナは二人の攻防を無音で伝えて、最後に「これが三沢対川田!」と締めたのだ!

これは平川さんにしかできない感動的な超絶実況だった。

試合は三沢が勝利した後にも平川実況は冴えわたる。


「まるで仲のいい兄弟のように二人が仰向けにこのリングに倒れています」

「過去20回、シングルマッチを闘いました。追いかける立場の川田は、常に三沢の背中を追う立場でありました。しかし、空白の5年間、二人はお互いの信念を曲げることはありませんでした。これまで5年間の長きに渡って二人が離れていたことはありませんでした。しかし、それぞれが信じる道を歩むとき、自ずと道は分かれていきました。ただ二人が同じリングに立ったとき、ぶつけ合う気持ちは26年の時を経ても、空白の5年間があっても変わることはありませんでした。」


そして平川さんは最後にこう締めた。


「我々はこの闘いがいつ最後になってもいいよう激しい闘いを見ました。三沢は川田を、川田は三沢を常に追いかけます。」


まるで二人のその後を予見するような美しい実況でのエピローグだった。


三沢が初代GHC王者になった瞬間も、若手の高き壁として立ちはだかったときも平川さんは「三沢光晴のプロレス」を放送席で語り続けた。恐らく、三沢の試合実況を最も長きに渡って務めたのは、平川さんである。三沢光晴の歴史の半分は平川さんの名実況によって綴られてきた。


2009年6月22日。三沢光晴急死後の後楽園大会。全試合終了後に三沢のテーマ曲のスパルタンXが流れる。自然と三沢コールに包まれる会場。その中で実況したのもやはり平川さんだった。その時の彼の実況は伝説となった。

「その姿は目に見えなくてもファンが叫び続ける中大歓声の中で三沢光晴は生き続けます!花道を歩いてセカンドロープをスルッと飛び越える瞬間を思い出しているでしょうか?」

「或いはリングに上がって大歓声を受ける姿が目に浮かぶでしょうか?選手コールを受けて右腕を上げる姿でしょうか?試合序盤に出すエルボーでしょうか?試合終盤に出す額の汗を指で弾く姿でしょうか?」

「いろんな姿が皆さんの瞼に浮かんでいると思います。後楽園ホールのグリーンのマットにこれまでのプロレスの歴史の中でも数えきれないくらいほどの紙テープが投げ込まれています。そして誰もが三沢コールです。」
「後楽園に埋め尽くしたファンの皆さんだけではありません。全国のファン、ノアファン、三沢ファンの中に恐らく三沢コールが響いていることでしょう。あの曲を聴けば三沢光晴が蘇ります。」

「ノアはこの年(2009年)旗揚げ10年目を迎えます。自らの信念のもとにこの緑のマットを作り上げました。三沢光晴はプロレスの宝、そして俺達の誇りです!」
「まだ三沢コールが聞こえてきます。誰も辞めたくありません、このコール。恐らく三沢本人は照れているでしょう。どこかニヤッと笑う三沢のそんな表情が見えます。」
「もう試合は終盤です。左右のエルボーが入ったでしょうか?ローリングエルボーか、ランニングエルボーか、やはり最後も右ひじでした。今日も三沢が勝ちました…」


これほど愛と尊敬に満ちた実況を聞いたことがない…

三沢の死は当然長年彼の試合を中継してきた日本テレビ関係者にもショックを与えた。

平川さんも同様である。三沢の数々の名勝負には彼の実況があった。

見えない天国の三沢の雄姿を見事に描写した彼の実況を忘れない…


「三沢光晴のプロレス」を伝え続けた平川健太郎さん。2015年でプロレス実況20年目を迎えた。現在はプロレス実況から離れているが、今もその実況は我々の心に響いている…。