俺達のプロレスラーDX
第18回 無念の巨大戦艦/力皇猛
2011年11月27日、プロレスリングノア有明コロシアム大会。
この日、一人のレスラーが引退した。
男の名は力皇猛。
まだ38歳の若さでの引退だった。
191cm 125kgの巨体には似合わずに彼は風のように現役を退いていった…
力皇とはどんなレスラーだったのか?
私は思う。
彼は天龍源一郎以来の大相撲出身のプロレス界のスターになれる可能性があった男だったと。
太く短くプロレス界で生きた力皇のレスラー人生を追った。
元大相撲前頭4枚目という肩書を引っ提げて1999年、力皇は全日本プロレスに入門した。
当時力皇の体重は160kgだったが、小橋健太の指導の下、肉体改造に挑み、2000年5月にデビューするときには130kgに絞った。
プロレスデビューから1か月後にノア旗揚げに参加した。
力皇は新人ながら自己主張する。
旗揚げ興業のメイン・小橋建太VS秋山準の試合終了後、勝利した秋山は小橋に攻撃をやめない。
そこに秋山を踏みつけ、助けに入ったのが力皇だった。
自由と信念というスローガンを掲げるノアのリングでは主張をしなければ生き残れない。
彼はそんな思いがあったのだろう。
力皇は小橋のパートナーとなり、連日秋山陣営と激しい戦いを繰り広げる。
小橋欠場後は、秋山陣営にいた森嶋猛とWILDⅡを結成した。
WILD IIはノアでの下剋上のために立ち上がったユニット。
彼らの下剋上は早速実る。
2002年2月、伝説のタッグチームである大森隆男&高山善廣のノーフィアーを破り、
GHCタッグ王座を奪取したのだ。
デビューから僅か2年の快挙だった。
ノーフィアーを破る大金星を挙げたとき、力皇はベルトに顔をうずめて泣いていた…
彼は角界で苦労し、プロレスに人生を懸けて転身したのだ。
その苦労が報われたのだ。
その後も止まることなく次代を担う実力者としてノアで活躍した。
そして2005年3月、当時絶対王者と呼ばれた小橋建太を破り、悲願のGHC王座を獲得した。
当時32歳の力皇。
まさしく順風満帆。
しかし、ここからが彼の苦悩が始まる。
プロレスとは例え頂点に立ってもエースにはなれないジャンルなのである。
4月に齋藤彰俊との初防衛戦は試合内容が悪くブーイングを食らい、
7月の東京ドームでの棚橋弘至とのV2戦ではメインでは組まれず、内容もイマイチに終わってしまう。
9月にはエース三沢を破りV3を果たすも、時代を変えるまでには至らない。
結局、力皇は11月に田上に敗れて王座を転落した。
小橋を破り、GHCを8か月守った実績が評価され2005年プロレス大賞殊勲賞を獲得した。
しかし、周囲の期待に応えられた政権ではなかった。
プロレスとはやはり奥が深いのである。
その後、力皇は怪我と戦うことになる。
秋山とのコンビでGHCタッグ王座を獲得するも、頸椎損傷のため王座を返上し長期欠場した。
復帰後目立った活躍ができなかった。
その後現状打破のためモハメド・ヨネとディスオベイを結成する。
しかしヨネとのタッグは絆はあるのだろうが、タッグチームとしては噛み合わせが悪かった。
さらにディスオベイはヒール軍団でありながら、徹底されていない中途半端さも相まってブレイクすることはなかった。
力皇はまたしても頚椎を痛めて長期欠場することになる。
重度の頚椎ヘルニアだった。
箸が持てない。
首が痛くて眠れない。
もはや日常生活にも支障が出るレベルの悪さだった。
悩みに悩んだ結果、2011年11月に引退を発表した。
引退した力皇は新潟県燕市のラーメン店「潤 燕総本店」に弟子入りしてラーメン修行を積み、
2013年12月地元奈良県でラーメン店「麺場 力皇」をオープンさせた。
第三の人生として選んだ舞台はラーメン屋だった。
力皇猛は、プロレス界に無念と強さという幻想を残して去った。
現在はGHCタイトル管理委員としてノアを見守っている。
もし怪我さえなければ彼のスタイルは円熟味を増し開花していたはずだ。
改めて惜しいレスラーだった。