俺達のプロレスラーDX
第14回 新日本に尽くした超竜/スコット・ノートン
あれは2006年3月、新日本プロレス両国大会は熱気には程遠く、
乾ききった空気の中で試合が行われていた。
当時の新日本は今の新日本とは違いリングに熱気はなく観客も空席が目立ち、
暗いどんよりした空気が漂っていた。
その中でスコット・ノートンが入場する。
新日本最強外国人ノートンの相手は2006年1月から新日本に参戦している暴走機関車ジャイアント・バーナード。外国人エースの座を狙う怪物。
二人はお互いの意地をかけて激しくぶつかった。
途中ノートンの顔面が変形してしまうほどハードな攻防。
壮絶な試合なのに会場はやはり乾いていた…
もし今の時代や90年代なら間違いなく名勝負と言われてもおかしくない内容なのに、会場には伝わらない。これが当時の新日本だった。
ノートンはバーナードの呑まれて敗れた。
しかし、最後まで新日魂を貫いてみせた。
ノートンは1990年に初来日し、16年間新日本の常連だった。
2002年には過去を含めた最優秀外国人選手にも選ばれるほどの新日本外国人エースだった。
黄金期から転落期まで見届けた彼はどこまでも新日本に尽くした。
190cm160kgの巨漢。
ベンチプレス358kg、元腕相撲世界王者、シルベスター・スターローンと共演…
数々の逸話をもつノートンはその怪物性を新日本で発揮、
また日本でプロレス頭を学び成長を遂げた男だった。
ノートンはあまりにも練習するためにオーバーワークになり怪我が耐えない男だった。
腕やわき腹などテーピングをよくまいて試合をしていた。
しかし彼はそれを耐え抜いて新日本最強外国人となる。
人は彼を超竜と呼んだ。
かつて武藤と戦ったノートンは武藤の徹底的な腕殺しにより内出血するまでのダメージを負っても大逆転で勝利したことがある。
ただの怪物ではない。
根性があり人間味もある怪物だった。
そんなノートン人気は日本で高かった。
最強外国人ノートン。
しかしIWGP王座を巻くまでには実に8年もかかった。
それだけ苦労もしていた。
途中新日本と業務提携中のWCWに参戦しても前座扱いでnWo入りしても変わらなかった。
アメリカではなく日本向きのレスラーだったのだ。
彼にとって新日本とはプロレス人生の全てを注ぎ込んだホームリングだったに違いない。
だから彼は新日本からのオファーを一度も断ったことがないという。
自らが愛したリングにはとことん尽くすが超竜ノートンの流儀だった。
しかし徐々に新日本は当初参戦していた黄金期ではなくなり迷走をし続ける。
社長が次々と変わり、格闘技路線にいくのかと思えば別路線と何がしたいのか伝わらない低迷期に入る。
それでもノートンは新日本を離れなかった。
体制が変わり給料が下がっても応じた。
新日本で戦いたかったからだ。
しかし、2006年をもって彼は離れた。
その後、上井駅やハッスル、全日本に上がるもパッとせず、遂には日本への来日も途絶えてしまった…
今年53歳のノートンは現在自動車関係の企業で働いているという。
まだレスラーは正式には引退していない。
日本に愛され新日本に尽くした男。
若き棚橋弘至や中邑真輔の壁として立ちはだかった男。
彼の功績は偉大である。
ノートンが去った新日本はバーナードが外国人エースとなり、低迷期を脱した。
そして新たにカール・アンダーソン、プリンス・デヴィット、AJスタイルズなど多く外国人スターも誕生した。今、新日本は再び黄金期に向けて歩き始めている。
私は思う。
もし実現可能ならノートンは新日本で引退させてあげてほしい。
引退試合やセレモニーを今の新日本が取り仕切るのだ。
おそらくノートンにとっても新日本で終われたら本望と思っているのかもしれない…