最終章 曙光 【緑の虎は死して神話を遺す・三沢光晴物語】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
最終章 曙光 



プロレス界のエースだった男・三沢光晴が逝去してから今年(2021年)で12年が経とうとしている。

たかが12年、されど12年…。

残された者達はそれぞれの人生を歩んでいる。彼らは各々のプロレス道を探究している。  


三沢の若手時代のライバルである越中詩郎はまだ現役である。

今年の三沢メモリアルナイトでも元気な姿を見せて侍健在をアピールした。

還暦を過ぎたど演歌ファイターは己が理想とした腕一本で生きていく職人レスラーとして会場を沸かせ続ける。  


三沢のよき兄貴的存在に天龍源一郎がいる。

天龍と三沢は共にジャイアント馬場をピンフォールした日本人レスラーである。



またよき飲み仲間だったという話は有名である。彼は三沢を本当に可愛がった。  

天龍は三沢が亡くなった後にこうコメントしている。

「俺は三沢と本当にお腹いっぱいになるまで一緒に過ごしてきたから、悲しくないんだ…」 

64歳になった風雲昇り龍。

腰部脊柱管狭窄症という難病を乗り越えた伝説の男は2015年に65歳で引退し、タレントとして活躍している。小脳梗塞という大病と闘い、現在は杖で歩行している天龍は今日を生き抜いている。


三沢と長年タッグを組んだ小川良成はノア所属として今日もリングに立つ。

三沢も一目置いていたテクニックはノアでも際立つ。

小川は日本マット界でも珍しいクラシカルスタイルである。

彼の技術は埋没されずに後世に継がれていく必要がある。


2019年グローバルJr.タッグリーグ戦を鈴木鼓太郎とのコンビで優勝した小川。優勝したその日は三沢の命日だった。彼は珍しくリング上でマイクで語りかけた。


「三沢さんを知っているファン、知らなかったファン、みんなにお願いがあります。三沢光晴というプロレスラーを忘れないでください」


三沢と初代GHC王座を争った高山善廣はさすがに三沢逝去には涙を流したという。

高山がPRIDE出陣を前提としてフリー転向を後押ししたのは、快く送り出した三沢だった。

そして脳梗塞からの復帰戦を組んだのも三沢だった。 


高山はこう語る。

「俺は今まで誰が死んでも泣かなかったけど今回だけは我慢できなかった。

三沢光晴というボスがいるから、俺は今いろんな挑戦ができている。

そういう人に先立たれてしまい本当に無念で悲しくてならない。」 


高山は今年9月で55歳になった。

動きは全盛期を過ぎても彼はリングに立ち続けてきた。三沢が命がけで守ろうとしたプロレスの灯を消さないために、身を粉にして戦い続けているのだ。


だが、2016年に試合中の事故により、頚髄完全損傷という大怪我を負い現在は懸命にリハビリに励んでいる。もう試合はできないかもしれない。でももう一度リングに上がってけじめをつけたいという一心で彼は自分の体調と闘っている。そこには「絶対にあきらめない」という三沢光晴の魂が宿っているのかもしれない。


三沢のことを兄のように慕ったライバル小橋建太は2013年5月に引退をした。

生涯プロレスに殉じる覚悟を決めていた男が引退した理由。

それは三沢の事故があった。

もうこんなことを起こしたくないと思い身を引く決断をしたのだ。 


小橋は現在はタレント、テレビ解説者、トレーニングジムのオーナーとして忙しい日々を生きている。彼にとってプロレスは人生だった。だからこそプロレスに恩返しするためにあらゆる 現場でプロレスを伝承している。その姿を天国の三沢もきっと静かに見守っていることだろう。


三沢光晴の遺伝子を最も受け継いだ男は丸藤正道である。

彼は三沢逝去後の新体制で副社長となり、全方位外交を展開し、自ら広告塔&外貨稼ぎのためリングに立った。

それは個人というより団体として生き残るための手段だった。 


新日本との交流、鈴木軍との対抗戦で団体を盛り上げたが、やはりその一方で「ノアらしさ」という一種の概念に向き合ってきた。「こんなノアなら見たくない」「ノアが嫌になった」と離れるファンや選手。さまざまな事情があるだろうが、次々と別の道に進む者たちを彼は幾度も見送ってきた。


経営は厳しかった。リストラもあった。観客動員数に苦しんでいた日々が続く。2016年に体制が変わったことにより新日本との関係も消滅したことにより、さらに苦しくなった。


怪我も重なり苦しい日々が続いた。


でも丸藤はギブアップしなかった。とにかく体制が変わっても、オーナーが変わっても、ノアの看板だけは守ってきた。そこには団体愛もあるだろうが、三沢光晴の遺産を守って伝えていくという思いもあったのではないだろうか。持ち前のポジティブシンキングで乗り越えてきた。


2020年にITメジャー企業のCyberAgentがオーナーとなり、DDT、ガンバレ☆プロレス、東京女子プロレスと共にサイバーファイトという企業の傘下となり、流転の末に取り敢えず経営基盤を安定することに成功した。


丸藤を中心としたノアの執念が実った結果である。これで新日本に次ぐグループを含めてナンバー2となったサイバーファイトの副社長となった丸藤は生き生きとまるで水を得た魚のように、変幻自在にプロレスで躍動している。


プロレスをリアルでやるテレビゲームのようなものだと捉えた彼の独創的プロレスは異彩を放っている。今後、ますます丸藤から目を離せない。 


丸藤はこう語る。

「僕は三沢さんにはなれないし、なりたいと思っているわけではない。丸藤オリジナルとして、いつか三沢さんに並ぶような存在になりたい。ファンが憧れを感じるような存在になりたい。かつて僕が三沢さんに憧れたように」


三沢の高校時代の1年後輩である川田利明。彼は三沢を追い求めたプロレス人生を生きてきた。

それは団体を離れても同様だった。

彼にとって三沢光晴の存在はプロレスをやるためのモチベーションだった。

三沢逝去後、川田のプロレスへの気力は低下していく… 。


川田は2010年から居酒屋を開店した。

それ以降プロレスから遠ざかっている。ただし引退表明はしていない。

それは「俺がプロレス辞める時は『引退』ではなく『休業』ということにしてくれ」という川田の美学だった。彼は新しい人生の花道を俺らしく歩く。





三沢光晴の壁に挑んだ第3世代の旗手秋山準は三沢逝去後体調不良もありもがき苦しんだ。

しかし、彼は全日本に参戦をきっかけに再び浮上。

全日本のエース諏訪魔を破り、三冠ヘビー級王座を獲得した。

そして、ノア内部ゴタゴタもあり2012年末ノアを離脱し、全日本に移籍した。 

2014年に秋山は全日本プロレスの新社長に就任した。

彼は今の現状を過去最低の状況下のスタートと位置付けをし、全日本再生に向けてその身を捧げてきた。一時期は経営難に直面したが、見事に復活をさせてみせた。これぞ秋山の底力である。


だが、秋山全日本にも新しい波が来てしまい、社長交代、全日本退団と居場所を失ってしまった。2021年にDDTに移籍し、ヘッドコーチに就任。今後はDDTで己が歩んだプロレスの本道を伝承していく。50歳を越えた智将は、DDTの頂点であるKO-D無差別級王者として最前線で生きている。



三沢光晴が未来を託した男・潮崎豪。

彼は三沢逝去後にGHC王座に二度戴冠し、ノアの若きエースとして活躍した。

しかし秋山同様にノア内部のゴタゴタがあり2012年末にノアを退団し、

秋山とともに全日本に移籍した。 


潮崎はこう語る。

「プロレスなんてくだらないという人でも一回でも俺の試合を見てくれたら、また会場にいきたいといわせる自信がある」


全日本で三冠ヘビー級王者になるも、経営難となった団体に留まらずに退団。その後フリーとしてノアに出戻り。当初はブーイングを浴びて歓迎されなかったが、試合で結果を出すことでノア再入団を果たす。


そして2020年、覚醒が期待されていた潮崎はGHCヘビー級王者となると次々と名勝負を展開していくことで、プロレス界MVP級の活躍を見せてくれた。コロナ禍で喘ぐ日本列島に潮崎のプロレスは多くの人たちに感動と勇気を与えてきた。 


三沢光晴と小橋建太のプロレスを継承する男はこう語る。


「三沢さんだけじゃなくて小橋さんもおっしゃっていたことは、『自分に嘘を付きたくない』っていうことでした。逃げることはしたくないという気持ちが常にあって、そこに嘘は付きたくないっていう信念を貫かないと、あれほどの闘いにはならないと思います。もちろん、プロレスラーは凄い、どんな技を受けても大丈夫なんだ、ということを見せる意味もあったとは思います。ただ、それ以上に『逃げることだけはしたくない』『嘘は付きたくない』と思ってそれをリングで貫いたんだと思います」

「正直、どんな技でも逃げて受けたくないですよ(笑)。だけど、そこを耐えるからこそ、凄ぇなってなる。三沢さんは首、膝…と大きなケガを背負っても相手の技をすべて完璧に逃げずに受けた。小橋さんも逃げずに受けた。そういう方たちが自分の前にいたので、今もその背中を追っています」

潮崎豪はノアのリングで今日も対戦相手だけではなく、三沢や小橋といった偉大なる先人と闘っている。


三沢光晴のプロレスが大好きでプロレスラーとなった清宮海斗。彼は三沢逝去後のノアでプロレスラーとなり、三沢と同じくエメラルドカラーを背負い、三沢の得意技であるタイガー・スープレックス・ホールドをフィニッシャーにしている。彼のひたむきで爽やかなプロレスに若き日の三沢と重ねる日とも多いだろう。


22歳の若さでGHCヘビー級王者となった清宮は一年間ライバルと死闘を繰り広げてきて、タイトルを守ってきた。


2019年、三沢光晴メモリアル興行で杉浦貴を破り、王座を防衛した清宮はこのように語っている。


「(子供のころから)三沢さんに憧れて、僕はノアに入りました。今日という日は、見に来てくれた皆さんにとっても特別な日だと思っている。今日勝てた意味はとてつもなく大きい。これからも僕がノアを守っていく。輝かしい、明るい未来をファンの皆さんに見せたい。新しい風景は僕がつくります」




そして三沢光晴の最後の対戦相手であり、事故の当事者となった齋藤彰俊。

結果的に彼が放ったバックドロップによって三沢は天に召されてしまう。

彼はこの事故に向き合い戦い続けた。

当初は引退、あるいはそれ以上のことを考えたこともあったという。 

しかし彼は逃げなかった。


「どんな重い十字架でも背負う。リングに上がり続けることが社長への恩返し」

として現役続行を決意する。


しかし、ノア内部のゴタゴタもあり、2011年末をもってフリー契約となる。

それでも彼はノアを離れなかった。 


2014年の三沢メモリアルナイトのメインイベントには悲壮な覚悟を持った齋藤がいた。

対戦相手の丸藤は齋藤の気持ちを受け止めた。


そして丸藤は勝利後に齋藤に語りかける。

「再びノアの齋藤彰俊として俺たちとこのリングを守ってください」 

齋藤はマイクを叫んだ。

「温かい言葉をありがとうございます。

俺はあの日以来、コスチュームも変えてなくて…常に心はノアでした!

もし、ノアの皆さんが、副社長が、社長が、三沢社長が、みんなが許してくださるなら…

俺はノアで戦います」




こうして齋藤はノアに再入団した。

丸藤は試合後に「三沢さんはどういう気持ちでこの話を聞いていると思いますか?」

と記者に聞かれてこう答えた。

「ニコッて笑っていると思うよ(笑)」


三沢光晴は死してもいまだにそれぞれの心の中で生きている。

プロレス界は新日本を中心にして黄金期到来に向けて奔走している。

コロナ禍で大変な世の中でも、プロレスはあらゆるハードルはあっても立ち止まることはなかった。


プロレスの夜明け、コロナ禍の終息が訪れることを信じてプロレスに関わる全ての者達が戦い続けている。


プロレスをメジャーに、世間に誇る素晴らしいジャンルだと認知された時にこそ、三沢光晴への最大の供養になるのでないだろうか… 。

(最終章 曙光 完)