ジャスト日本です。
プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。
かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。
プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。
プロレスとは何か?
その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。
そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。
有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。
それが「私とプロレス」です。
UWFの魅力
──ここからは健さんの好きなプロレス団体について語っていただきます。まずはUWFです。
健さん 週刊プロレスの記者として深く関係性が持てた団体を5団体挙げました。UWFは自分がプロレスにのめり込むきっかけとなったのが第1次UWFなんです。UWFはテレビ中継がなくて知るとしたら専門誌しかないわけじゃないですか。UWFが誕生したから週刊プロレスを読むようになったんですよ。
──週刊プロレスとの出会いはUWFがきっかけだったんですね。
健さん 週刊プロレスでターザン山本さんが書く記事の影響でUWFが好きになっていくわけですよ。前田日明さん、佐山聡さん、藤原喜明さんとかが集まって先鋭的なことをやっていてすごく魅力的に映ったんです。最終興行となった1984年9月11日・後楽園ホール大会も観戦しました。理想があって面白いなと思ってたんですけど、なかなかうまくいかないところに惹かれましたね。いいものがあっても長続きはしないということは僕がプロレスを見る上で宿命になっていたのかもしれません。
──そうだったんですね。
健さん 第1次UWFの挫折があったからこそ、第2次UWFがあれだけ巨大なムーブメントになるんですよ。ネガティブとポジティブの落差をプロレスで味わっていくんですけど、僕の場合はその一発目がUWFでしたね。あとUWFを追いかけていったから週刊プロレスに入るきっかけになりました。第2次UWFの札幌中島体育センター大会を観るために鈍行列車で行ったことを山本さんが記事に書いて、そこから山本さんとの関係ができて、「編集部でアルバイトをしないか」と声をかけられて、週刊プロレスの人間になれました。だからUWFがなければ僕は週刊プロレスに入っていません。
FMWの魅力
──ありがとうございます。続いてFMWについて語ってください。
健さん 週刊プロレスに入って初めて担当になったのがFMWでした。UWFとは真逆の面白さがあって、自分に近い存在として常にあったような気がします。UWFも取材しましたけど、やっぱり雲の上のような存在なんです。UWFで普通にフランクに話せるのは当時一番の新人だった田村潔司選手くらいで,他のレスラーは皆さん業界の大先輩ですから。でもFMWは旗揚げからずっと取材してきて、若干ですが僕の方が業界のキャリアが上だったりしたので割といい距離感で取材はできたと思います。
──確かに健さんはFMWが崩壊するまで取材されてましたよね。
健さん 僕が一番原稿をたくさん書いたのはFMWでした。大仁田厚さんからハヤブサ選手の時代まで追い続けました。プロレスのスタイルがどうというより、思い入れの深さで追い続けたのがFMWなんですよ。
──健さんといえば、元FMW社長・荒井昌一さんの追悼本『翼をください〜FMW・荒井昌一さんの証〜』(ベースボール・マガジン社/週刊プロレス編集部編)を担当されていましたが、あの本は素晴らしかったです。荒井さんは亡くなる直前に著書『倒産!FMW カリスマ・インディー・プロレスはこうして潰滅した』(徳間書店)を出されていて、読んでマイナスな気持ちになったのが、健さんが関わった本を読んで、マイナスだけどやけにプラスに感じることができたんです。
健さん ありがとうございます。やっぱりプロレスはポジティブとネガティブの落差を味わうジャンルなんですよ。深く悲しいネガティブなものを持って行き方によってもポジティブに転換する場合があるのがプロレスのジャンル性があるのかもしれません。起こってしまったことはネガティブでも、荒井さんご自身はネガティブなわけじゃなくてポジティブな部分もあるわけですから。それを誰も触れないのではなく、誰かが触れて文献として残すことに『翼をください〜FMW・荒井昌一さんの証〜』を出した意義があったと思います。あとベースボール・マガジン社の理解があったことが大きかったです。要は売り物としては刺激性の強いネガティブな方が売れるはずだけど、ネガティブ性をウリとしない作品を出すことに了承していただいたのは本当にありがたかったです。
みちのくプロレスの魅力
──ありがとうございます。ではみちのくプロレスについて語ってください。
健さん みちのくプロレスはやっぱりザ・グレート・サスケ選手の存在が大きいですね。取材をするにあたってプロレスラーとの距離感の取り方を意識するんですよ。近づきすぎてもいけないし、離れすぎてもいけない。皆さん、魅力に溢れているわけですから、引きずり込まれてしまう。だから適切な距離感を持って取材してきました。その中でもどうしても思い入れを持ってしまう選手がいて、それがみちのくプロレスの場合はサスケ選手であり、新崎人生選手、フジタ“Jr”ハヤト選手なんです。
──そうなんですね。
健さん あとはみちのくプロレスには感謝していて、1990年代に東北の行ったことも聞いたことがないような町や村の巡業を経験させてくれました。今はもう巡業とか行けないじゃないですか。みちのくプロレスがなかったら絶対に行けない町や村に行くことができたのはプロレス記者として財産になりました。新日本や全日本、FMWでも全国巡業はあってもビッグマッチや事件はそこでは起きにくいんですけど、みちのくプロレスは町の体育館でタイトルマッチが組まれたり、事件が起こるんです。
──言われると確かにそうですね。
健さん みちのくプロレスといえば、日中は町に人影を見かけないのに夜になるとどこからともなく、おじいちゃん、おばあちゃん、ちびっ子たちが集まって、ブルーシートに地べた座りで団扇を仰ぎながらプロレスを見て喜ぶという原風景が好きなんですよ。みちのくプロレスの巡業を石川一雄カメラマンと一緒に旅を出来たのは一生の財産ですね。その頃に見た情景を小説にしたのが「アンドレザ・小学生」(https://wanibooks-newscrunch.com/category/series-054)なので、ぜひ読んでいただきたいです。僕は2009年に週刊プロレスを辞めるんですけど、宇田川公延さん(当時はみちのくエンタテインメント取締役、現在は株式会社ミチプロ副社長)が「週刊プロレスを辞めても、健さんは顔パスですから」と言ってくれたんですよ。
──素晴らしいですね。
健さん 要はファミリーだということですね。だからといってそれで当たり前という姿勢は持たないでいますけど(笑)。今も他の団体も含めて継続的に取材させていただいていますが、そのような言葉で週刊プロレスを辞めた時に労ってくれたのはみちのくプロレスだけでした。サスケ選手はああいう感じで今も付き合ってくれているじゃないですか。サスケ選手には「面白い方が正しい」「真実以上に面白いものが出たらそれでいい」という価値観があって、そこに合わせるように面白い記事を書いてきました。サスケ選手も共感してくれているので感謝しかないですね。周りは「鈴木健がサスケのことをいじっている」と思うかもしれないし、それは承知でやっていますけど、本人が「いいね」という反応なんです。その関係性を築けているのがありがたいなと思います。
WWEの魅力
──ありがとうございます。次はWWEについて語ってください。
健さん 元々、アメリカンプロレスは門外漢だったんですが、2001年に初めてレッスルマニアの取材に行ったんですよ。後輩の鶴田倉朗記者がベースボール・マガジン社を退社してから、アメリカに渡って海外通信員をしていたことがありまして、鶴田記者から「こっちに来てアメリカンプロレスを見ないとプロレスの何たるかが分からない」といったことを言われたんです。当時はまだブームがきてなくて、日本ではJスポーツでしか放送されていないという状況で、日本で思われているアメリカンプロレスのイメージと現地での実情が全然違うと後輩から聞いたので、実際にレッスルマニアを観戦することにしたんです。
──そうだったんですね。
健さん そこでプロレスを産業の域にまで巨大ビジネス化させたWWEを目のあたりにするわけですよ。6~7万人の観衆の盛り上がりが尋常じゃなくて、何から何まで異文化なんです。WWEに凄く共感するのは歴史を大切にしているところですね。WWE殿堂のホール・オブ・フェームはその象徴です。積み重ねてきた歴史の価値を重視して、先人を尊敬する姿勢があって、今のプロレスも、先人たちが築いてきた礎の上でどんなにエンターテインメント化しても、古き良きプロレスのスタイルを継承しているのは素晴らしいと思います。
──同感です。
健さん WWEは見せ方が変わっていたり、色付けやデザインは変わっていたとしても、技が進化していても、リング上でやっている根本はモノクロテレビ時代よりはるか以前からのトラディショナルなプロレスから連なっていて、ちゃんと脈々と受け継がれているんです。あと歴史がちゃんとコンテンツとなって、レガシーになることを分かってますよね。歴史の大切さと偉大さを教えてくれたのがWWEの凄さです。
武藤全日本の魅力
──ありがとうございます。次は全日本プロレス(武藤敬司体制)の魅力についてお聞かせください。
健さん 僕が全日本の担当になった当時(2000年代)は記者として地方レポートに行かせていただける機会が多かったんです。武藤全日本が地方興行のスペシャリストでしたね。武藤敬司という絶対的なヒーローがいて、RO&DやVOODOO-MURDERSといった悪い人たちがいて、勧善懲悪の世界観が広がっていたんですよ。本当に地方のファンが喜ぶプロレスを体現していたのが武藤全日本でした。
──確かにそうですね。
健さん この頃、武藤さんがよく言ってましたけど、勧善懲悪、起承転結、喜怒哀楽を見事に表現していたプロレスが武藤全日本だったんです。それを全国津々浦々、年に1回しかプロレスが来ない場所に、地方のファンが見たいものを提供していく。シャイニング・ウィザードが見たいと期待しているファンに対して、武藤さんはちゃんとシャイニング・ウィザードを出すんです。地方にはマンネリズムの価値観がある。その上で、前回出さなかった技を今回出せば新鮮味も味わえるじゃないですか。地方巡業システムを熟知してますよね。
──同感です。
健さん 2005年に曙さんが全日本の地方巡業に参加した時にめちゃくちゃ楽しんでましたね。あとはパッケージプロレスです。格闘技の世界で傷ついた横綱が、子どものような笑顔で地方のファンと触れ合うことで、ポジティブになれたんです。
──これは健さんが命名した武藤全日本を形容するワードですね。
健さん 第1試合からメインイベントまですべて違うカラー、テーマの試合を提供して、それが1つのパッケージになっているのが武藤全日本の魅力でしたね。武藤さんのプロレスが僕のスタンダードなんです。色々なスタイルがありますけど、テリトリー時代のそのアメリカンプロレスを現地で体感し、トップレスラーとして活躍したのが武藤さんですよね。僕にとってはプロレス=武藤敬司なんです。
──興味深い話ですね。
健さん 他のレスラーはそれぞれのプロレスなんです。猪木さんは猪木さんのプロレス、馬場さんは馬場さんのプロレス。でも武藤さんは違う。武藤さんのプロレスである前にプロレスなんです。それが僕の受け取り方なんですけど。そのスタンダードなものを日本のプロレスファンに最大限に発揮して提供していたのが武藤全日本だったと思います。
小林邦昭さんの魅力
──ありがとうございます。ここからは健さんに好きなプロレスラーの魅力について語っていただきます。まずは小林邦昭さんです。
健さん 小林さんはとにかくマーシャルアーツスタイルのパンタロンが革新的で単純明快でかっこよかったです。あとはフィッシャーマンズ・スープレックスですね。フォルムが美しい。1982年11月4日・蔵前国技館のタイガーマスク戦でフィッシャーマンズ・スープレックスをビデオテープが擦り切れるまで何度も見ましたよ。一時停止やコマ送りとかしながら(笑)。
──小林さんのフィッシャーマンズ・スープレックスは芸術品ですからね。
健さん これは書籍『虎ハンターの美学』にも書いたんですけど、小林さんのフィッシャーマンズ・スープレックスがなぜ美しいフォルムになるのかというと、投げる前の段階でクラッチを握っていなくて、投げてからすぐにクラッチするんです。投げる前の段階でクラッチしてしまうと、相手の身体が丸まってしまって、団子のような状態になってしまう。自分のブリッジを効かせて投げるというより、相手の重みで落ちてしまっているという印象を受けてしまう。でも小林さんのようにクラッチを握らなくても適度な足の持ち方で投げると、投げた側が自分の力で投げたと見えるんです。そこが本家と他の皆さんが使うフィッシャーマンズ・スープレックスの違いなんですよ。
──言われてみたらそうですね!
健さん カート・ヘニングはパーフェクト・プレックスと命名してフィッシャーマンズ・スープレックスを使っていましたけど、彼の場合はクラッチしてから投げているんです。あと黒や赤に太いラインが入ったパンタロンを着用した小林さんのフィッシャーマンズ・スープレックスはそのラインがL字型に見えるのも美しいんですよ。だから一時期、黒と白のショートタイツを履いてましたけど、それだとそれほど伝わらないので損だよなーと思っていました。
──めちゃくちゃ細かい指摘ですね!
健さん それ以外は書籍にバッチリと書いてますので、是非ご覧ください!
スタン・ハンセンの魅力
──ありがとうございます。次はスタン・ハンセンです。
健さん これはウエスタン・ラリアットですね。あれは本当にみんな学校でマネしましたから(笑)。
──赤ちゃんでも出来る技と言われてますからね。
健さん そんなウエスタン・ラリアット一発を極めたのが凄いですね。あと左腕のブラックサポーターがカッコよく見えましたね。後追いでしたけど、アンドレ・ザ・ジャイアント戦(1981年9月23日・田園コロシアム)は名勝負ですし。週プロ時代、ご本人にインタビューして「ウィーではなくユースと言っている」という真相を聞けたのは、在籍時代の3本の指に入る仕事だったと思います。
JBLの魅力
──ありがとうございます。ここからが健さんのチョイスが絶妙なので詳しくお聞きします。JBL(ジョン・ブラッドショー・レイフィールド)の魅力について語ってください。
健さん 好きな外国人選手を挙げる上でエディ・ゲレロと迷ったんですが、エディはプレイヤーの皆さんがその魅力を語っているので、そちらを見ればわかるので。JBLは僕がWWEを見るようになってからハマったプロレスラーですね。ジョン・シナの前のWWE王者でした。2004年6月から2005年4月までは280日の長期政権を築いたのがJBL。彼は昔ながらのダーティーチャンプですよね。めちゃくちゃボコボコにされるけど、最終的にはベルトは防衛している。
──そうですよね。
健さん エディ・ゲレロやアンダーテイカーとやっていて、特にアンダーテイカーとの防衛戦でJBLは毎回ボコボコにされるけど、ベルトだけは守るんです。プロモの時はめちゃくちゃいやらしいマイクをやって相手を挑発して、イライラさせるじゃないですか。ハーリー・レイスやリック・フレアーのような古き良きアメリカンプロレスのダーティーチャンプの流れを汲んだ最後の王者はJBLだったと思いますね。
──同感です。
健さん JBLは試合もプロモも全部が面白かったですね。アンダーテイカーと対戦すると、JBLは露骨にビビるんです。闘うのも怖がるので、控室でJBL派閥のオーランド・ジョーダン、ダグ・バシャム、ダニー・バシャムのバシャムズが慰めてもらってため息をつきながら「行ってくるわ」とリングに上がっていくとか、最高に面白いんです(笑)。実際は、喧嘩もめっちゃ強い人なのに、その喧嘩が強いJBLがビビるって、どんだけアンダーテイカーは凄いんだと。
──ハハハ(笑)。
健さん 当然、試合ではアンダーテイカーにボコボコにされるけど、ベルトだけは守るという流れが大好きだったんです。分かりやすいことを徹底しているのが僕のなかのアメリカンプロレスだと思うので、JBLは象徴的な存在ですね。痛いことはきちんと痛いと伝わらないと意味がない。2万人や3万人の観衆に「これは痛いんだな」と伝わるようにしているのがWWEなんですよ。JBLはあの大きな体でやられっぷりが凄いので、特に分かりやすく体現してましたね。僕は普段、プロレス関連のグッズはそれほど買わないんですけど、レッスルマニアの取材に行った時に毎年出るベースボールジャージーと、唯一買ったTシャツがJBLでした。
坂口征夫さんの魅力
──ありがとうございます。次は坂口征夫さんの魅力について語ってください。
健さん 征夫さんは憧れるけど絶対になれない人枠ですね。見た目も生き方もカッコいいし、なりたいと思うけど僕にはなれないなと。2024年にスパっと引退されたあの潔さも憧れますし、インタビューでも心に染みることを言ってくれたのが征夫さんでした。例えばDDTに上がることになった時に自分の血筋や関係性からすると新日本にも出れるのに「新日本のイッテンヨンに上がるよりも、DDTの王者・HARASHIMAさんと後楽園ホールのメインイベントでタイトルマッチを行う方が夢なんです」と。
──素晴らしいですね!さすが征夫さんです。
健さん プロレスラーになる前に会社も経営しながら、自分がやりたかったプロレスをやってきたわけですよね。あと赤井沙希選手や樋口和貞選手を育てたのも大きいですね。元々総合格闘技出身でありながらDDT内でプロレスラーとしての信頼も厚かったんですよ。それってスキルもそうですが征夫さんの人間性がしっかりしているからなんですよ。年下なんですけど、人生経験値は征夫さんの方が断然上だなと思えるくらい憧れの人です。
──征夫さんは年上とか年下とか関係なくついていきたくなる人ですよね。
健さん DDTの人たちは全員そうじゃないですか。征夫さんはDDTを心から愛してました。組織には絶対にいてほしい人材ですよね。大人としての手本となる生き方を示してくれたのが征夫さんだったと思います。試合、人間性、器量、引き際も含めて、最後までカッコいいレスラー人生を送ったのが僕にとっての坂口征夫さんですね。
(第2回終了)

























