ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ


 




 











俺達のプロレスラーDX
第263回  テロリズムの牙〜
蜃気楼に消えたラテンの至宝〜/アル・ペレス【俺達のプロレスラーDX】








「もしも、あの時……」

プロレスという、ジャンルそのものが壮大な大河ドラマである世界において、この言葉ほどファンの妄想を掻き立て、同時に切なさを残すフレーズはない。



アメリカのプロレス史、それも狂乱の1980年代から1990年代初頭にかけてのメジャーシーンの境界線上で、あと一歩で世界の頂点に手をかけながら、自らその切符を破り捨て、あるいは時代の濁流に呑み込まれて表舞台から姿を消した一人の男がいる。

男の名前は、アル・ペレス。

端正なルックス、褐色の肌、しなやかでありながら強靭な肉体。そして何より、誰もが認める「本物」のアマレス技術と関節技のスキルを持ち、名マネージャーをして「自分が扱った中で最高のオールラウンダー」と言わしめた天才。

しかし、彼の名前がプロレス史のメインストリームで語られることは極めて少ない。なぜなら彼は、アメリカン・プロレスの歴史において、最も恐ろしく、最も危険な「未遂のテロル」を企てたとされる、いわば「呪われた実力者」だからである。

今回は、ダラスの熱風、NWAの暗雲、そして日本の「王道」のリングを駆け抜けた、アル・ペレスという一人のレスラーの、栄光と挫折、そして静かなる余生にスポットを当ててみたい。光と影が交錯するそのレスラー人生の深淵に、私たちは何を見るのだろうか。

タンパの土壌が生んだ「本物の下地」〜ボリス・マレンコとカール・ゴッチの遺伝子

1957年7月23日。アル・ペレスこと、アルベルト・ペレスは、フロリダ州タンパに生を受けた。
当時のタンパ、そしてフロリダ地区(CWF=チャンピオンシップ・レスリング・フロリダ)といえば、プロレス界における一大聖地であった。

プロモーターのエディ・グラハムが統治するこのテリトリーは、単なるエンターテインメントとしてのプロレスではなく、レスリングの「強さ」と「リアリティ」を極めて重視する風土があった。

ジャック・ブリスコ、ボブ・ループ、のちにはダスティ・ローデスやバリー・ウインダムといった、錚々たる実力者たちがこの地で腕を磨いていたのである。

そんな環境で育ったペレスが、格闘の道に進むのは必然だったのかもしれない。

ジュニアハイスクールからアマチュアレスリングを始めた彼は、瞬く間にその才能を開花させる。高校時代にはフロリダ州大会で準優勝という輝かしい実績を残した。

その卓越した身のこなし、胴タックルの鋭さ、そしてグラウンドでの圧倒的なコントロール能力は、すでに地元では誰もが知るレベルに達していた。

大学に短期間在籍したのち、ペレスはプロの門を叩く。彼が向かったのは、タンパにある名門「マレンコ道場」であった。

指導者は、悪名高きヒールでありながら、恐るべきシュート(実力)の持ち主として恐れられたボリス・マレンコ。のちに全日本プロレスの世界ジュニアヘビー級戦線を席巻するディーン・マレンコとジョー・マレンコの父親である。

マレンコ道場のシゴキは苛烈を極めた。ステップ、スクワット、プッシュアップといった地道な基礎体力の養成から、相手の関節を容赦なく極め、極められるキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(関節極め技主体のレスリング)の真髄。

さらに、このタンパには、あの「プロレスの神様」カール・ゴッチも住んでいた。ペレスはマレンコのみならず、ゴッチやスティーブ・キルンといった、文字通り「プロレスの教科書」と呼ぶべき達人たちの指導を直接受ける機会に恵まれたのである。

「アル・ペレスのベースは本物だった。アマレスの下地がある上に、ボリスやゴッチの技術を吸い込んでいたんだから、その気になれば誰が相手でもセメント(真剣勝負)で極めることができた」

のちに関係者がそう振り返るほど、ペレスのリング上での佇まいには、チャラチャラしたアメプロの流行とは一線を画す、ソリッドな「凄み」が同居していた。

185センチ、115キロ。ヘビー級として理想的なビルドアップされた肉体に、最新鋭の関節技のOSがインストールされた。こうして、1982年、カナダのニューブランズウィック地区で、アル・ペレスは待望のプロデビューを果たすのである。

「ラテン・ハートスロブ」の旅立ち〜全米テリトリーを流浪するベビーフェイス

デビュー当初のペレスに与えられた役割は、その甘いマスクとラテン系の血筋を活かしたベビーフェイス(善玉)であった。

ニックネームは「ラテン・ハートスロブ」。

直訳すれば「ラテン系の命のときめき」、すなわち「伊達男」「女性ファンのハートを盗む男」という意味である。

1980年代前半のアメリカマット界は、ハルク・ホーガンの大ブレイクに伴い、マッスルとキャラクター性が重視される時代へと急速にシフトしていた。その中で、若く、体が動き、ルックスの良いペレスは、各地のプロモーターにとって「使い勝手の良い好青年」として重宝された。

彼は全米の様々なテリトリーを流浪する。 

ジョー・ブランチャードが主宰するテキサス州サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング(SCW)では、マニー・フェルナンデスと組んでサウスウエスト・タッグ王座を獲得。

 さらに国際的なキャリアを積むため、ニュージーランド(NWAオーストラレーシア)へ遠征し、大先輩のマーク・ルーインと組んでタッグ王座を戴冠、ブリティッシュ・エンパイア・コモンウェルス・ヘビー級王座も2度にわたって腰に巻いた。

 また、カルロス・コロンが主宰するプエルトリコのWWC(ワールド・レスリング・カウンシル)にも参戦。

ここでは「ジャンピン」ジョー・サボルディと組んで「ニューヨーク・ロッカース」という小粋なタッグチームを結成し、WWC世界タッグ王座を奪取。さらには北米ヘビー級、プエルトリコ・ヘビー級王座を同時に保持するなど、瞬く間に現地のトップスターへと上り詰めた。

しかし、この時期のアル・ペレスに対する業界の評価は、「技術が高く、試合も作れる優秀な若手」という枠を出ていなかった。

当時のアメプロ界で真のメインイベンター、すなわち興行を一人で満員にできる「ドル箱(マネーメーカー)」になるためには、単にプロレスが上手いだけでは足りない。観客の感情を激しく揺さぶる「毒」と「華」、そして強烈なマイクパフォーマンスが必要不可欠だったのだ。

ペレス自身も、ベビーフェイスとしての自分の限界を感じていたのかもしれない。技は正確、スタミナもある。だが、何かが足りない。観客を熱狂の渦に巻き込むための「起爆剤」が――。

その起爆剤は、1987年、プロレスの歴史において最もドラマチックな変化を遂げたテリトリー、テキサス州ダラスで用意されていた。そして、彼の運命を激変させる「黒い魔術師」との出会いが待っていたのである。

魔術師ゲーリー・ハートとの邂逅〜ダラスを震撼させた「最狂の刺客」


1987年、アル・ペレスはフリッツ・フォン・エリック率いる「ワールド・クラス・レスリング・アソシエーション(WCCW)」、通称ワールド・クラス(ダラス地区)に足を踏み入れる。

当時のワールド・クラスは、フォン・エリック兄弟(ケビン、ケリーら)という絶対的な英雄を擁し、全米でも屈指の人気を誇るテリトリーであったが、同時に次男デビッドの急死、四男ケリーのバイク事故による右足切断、五男マイクの自殺など、「フォン・エリック家の悲劇」の渦中にあり、団体としての求心力を維持するための強力なヒール(悪役)を必要としていた。

ここでペレスの手を引いたのが、「プレイボーイ」ゲーリー・ハートであった。

ゲーリー・ハート。プロレス史にその名を刻む、伝説的なヒールマネージャーである。ザ・グレート・カブキをプロデュースして東洋の神秘ブームを巻き起こし、のちにはグレート・ムタをマネージメントして全米を震撼させることになるこの「黒い魔術師」は、ペレスの端正なマスクの裏に隠された「本物の強さ」と、冷酷なポテンシャルを瞬時に見抜いた。

「アル、お前は今日から、誰も寄せ付けない冷徹な一匹狼になるんだ。お前のその素晴らしいレスリング技術は、相手を痛めつけ、絶望させるための凶器に変えろ」

ゲーリー・ハートのプロデュースにより、ペレスはそれまでの「ラテンの伊達男」を完全に捨て去り、冷酷非情な実力派ヒールへと変貌を遂げた。

スーツを完璧に着こなし、ゲーリー・ハートを傍らに従えてリングに登場するペレスは、それまでのアメプロにありがちだった「大声を上げて暴れるだけの悪党」とは完全に一線を画していた。

静かに相手を見据え、ゴングが鳴れば正確無比なグラウンドテクニックでいたぶり、必殺のスピニング・バックブリーカーやスリーパーホールドで確実に息の根を止める。そのクールでスタイリッシュな悪の佇まいは、ダラスの観客に新鮮な恐怖を植え付けた。

1987年6月21日、ペレスは運命の戦いに挑む。相手は、当時のアメプロ界で破竹の勢いを見せていた超新星、ディンゴ・ウォリアー。のちにWWFで爆発的な人気を獲得する、アルティメット・ウォリアーその人である。

肉体美と荒々しいパワーだけで突っ走るウォリアーに対し、ペレスはゲーリー・ハートのセコンドワークと、己の確かなレスリング技術で対抗。ウォリアーの突進をいなし、スタミナを奪い、最終的にこの大器を破って伝統のWCCWテキサス・ヘビー級王座を強奪したのである。

この王座獲得により、ペレスはワールド・クラスのトップヒールとしての地位を不動のものとする。彼のターゲットは、団体の象徴であるケビン・フォン・エリックへと向けられた。地元の神聖なる英雄であるケビンを、ペレスは容赦ない関節技と、ゲーリー・ハートの悪知恵で追い詰めていく。

そして同年8月、ケビン・フォン・エリックが怪我によって王座を返上せざるを得なくなった際、コミッションは実力・実績ともに申し分ないアル・ペレスを、第4代WCWA世界ヘビー級王者に認定した。

ついに、世界のベルトを手にしたのだ。フリッツ・フォン・エリックが築き上げたダラス王国の最高峰に、外様であり、ヒールであるアル・ペレスが君臨した。この時、ペレスはまだ30歳。その未来は、どこまでも明るく、輝かしいものに見えた。アメリカン・プロレスの頂点であるNWA世界ヘビー級王座さえも、射程圏内に捉えたと誰もが信じて疑わなかった。

しかし、このダラスでの栄華は、彼にとっての最高到達点であると同時に、破滅へのカウントダウンの始まりでもあった。

NWA移籍〜運命を狂わせた「リック・フレアー襲撃計画」

1988年、ワールド・クラスのプロモーターであるフリッツ・フォン・エリックと、マネージャーのゲーリー・ハートとの間で深刻な金銭的・方針的対立が勃発する。結果としてゲーリーはダラスを離脱。この時、アル・ペレスは自らをトップスターへと引き上げてくれたゲーリーへの義理を通し、世界王者のベルトを保持したままゲーリーと共にダラスを去るという決断を下した。

二人が向かった先は、ジム・クロケット・プロモーションズが運営する、プロレス界の総本山「NWA(のちのWCW)」であった。

NWAにおけるアル・ペレスの売り出しは、破格のものだった。ゲーリー・ハートが率いるヒール軍団の若きエースとして迎え入れられ、「ロシアの悪夢」ニキタ・コロフとの大抗争に突入。

全米ネットのテレビ番組『サタデー・ナイト』で毎週のようにそのシャープなファイトを披露し、さらには「リビング・レジェンド(生ける伝説)」ラリー・ズビスコと息の合った実力派タッグチームを結成。NWAのリングでも、彼の評価は高まる一方だった。

当時のNWA世界ヘビー級王者は、言わずと知れた「狂乱の貴公子」リック・フレアー。

誰もが、ゲーリー・ハートに操られたアル・ペレスが、フレアーの持つ世界王座に挑戦するのは時間の問題だと考えていた。フレアーの華麗なインサイドワークと、ペレスのソリッドなレスリング技術が噛み合えば、1980年代を締めくくる歴史的名勝負が生まれるはず――ファンの期待は最高潮に達していた。

しかし、このチャンスの裏側で、アル・ペレスの心の中に、ある「危険な野心」が鎌首をもたげていた。

それが、プロレス界の歴史を揺るがし、のちにゲーリー・ハートが自身のシュートインタビューで暴露することになる「リック・フレアー襲撃計画」である。

当時、NWAの内部では、プロモーターのジム・クロケット・ジュニアからテッド・ターナーへの身売り(WCWへの移行)に伴い、レスラーたちの契約や待遇を巡って様々な不満と動揺が広がっていた。ペレスもまた、自分の実力に対する正当な報酬や、今後のポジションに焦りを感じていたとされる。

そんな中、ペレスは驚くべき計画を密かに企てていた。 

「リック・フレアーとの世界タイトルマッチの最中、予定された展開を完全に無視し、アマレスの技術でフレアーをリアルにセメントで押し潰す。
そして、フレアーの腕を折るかギブアップを奪って、力づくでNWA世界ヘビー級のベルトを強奪する。王座を奪った後は、そのベルトを人質にして、新会社(WCW)の経営陣に対し、数百万ドル規模の超破格の長期独占契約を要求する」

という、前代未聞の「ビジネス・テロ」である。


かつて、プロレス界がテリトリー制だった時代、プロモーターの裏切りを防ぐため、あるいは王座の威厳を守るために、実力者が王者をリアルにシュートで破ってベルトを奪う、いわゆる「ダブルクロス(裏切り)」は存在した。

しかし、テレビマッチが主流となり、近代的な企業組織へと脱皮しつつあった1988年のアメプロ界において、このような行為は一発で業界を破滅させかねない、文字通り「狂気の沙汰」であった。

このペレスの不穏な動き、そして「フレアーを極めてやる」という本気の殺気に気づいたのが、誰あろうマネージャーのゲーリー・ハートであった。

ゲーリーはペレスをホテルの部屋に呼び出し、一対一で問い詰めた。

「アル、お前、リックをシュートで潰すつもりじゃないだろうな?」

ペレスは、ゲーリーの目を真っ向から見据え、冷酷に言い放ったという。

「ああ、その通りだ。俺の技術なら、フレアーをいつでも病院送りにできる。そうしてベルトを奪えば、会社は俺に大金を払わざるを得なくなる。ゲーリー、あんたの取り分も弾んでやるよ」

ゲーリー・ハートは凍りついた。

彼はプロレス界の裏も表も知り尽くした男であり、ヒールのマネージャーを演じてはいても、プロレスというビジネスへの絶対的な忠誠心と誇りを持っていた。

業界の至宝であるリック・フレアーを闇討ちにするような掟破りのような行為を、許せるはずがなかった。何より、そんなことをすればペレス自身のレスラー人生が終わる。

「目を覚ませ、アル! そんなことをしたら、お前は二度とこの国のリングに上がれなくなるぞ!」

ゲーリーの必死の説得も、ペレスの頑なな野心を崩すことはできなかった。

ペレスは己の「強さ」という絶対的な拠り所に溺れ、プロレス界のルールそのものを足蹴にしようとしていたのだ。

ゲーリー・ハートに選択の余地はなかった。

彼はすぐさま、プロモーターとリック・フレアーにこの事実を報告した。

当然、予定されていたフレアー対ペレスのタイトルマッチは即座に中止。代役にエディ・ギバートが立てられ、アル・ペレスはその場でNWAから「即時解雇」の処分を下されたのである。

プロレス界における「 許されざる大罪」。 

アメリカン・プロレスのメジャーシーンにおいて、最もトップスターに近かった男は、己の強すぎる自負と、一線を越えた野心によって、自らそのキャリアの梯子を外してしまったのである。

この事件を境に、ゲーリー・ハートとアル・ペレスの高潔な師弟関係は、完全に破局を迎えた。 

迷走の果ての仮面劇〜WWFでのジョバーと、ブラックスコーピオンの幻影

NWAを追放されたアル・ペレスという男の噂は、瞬く間に全米のマット界に広がった。

「あいつはいつシュートを仕掛けてくるか分からない危険分子だ」
「会社のコントロールが効かない男だ」

そんな悪名高き実力者が、次に流れ着いたのは、ビンス・マクマホン・ジュニア率いる巨大帝国「WWF(現WWE)」であった。

ビンス・マクマホンという男は、他団体で干された実力者を安く買い叩き、自らの帝国の歯車として消費することに長けていた。

ペレスの「本物の技術」は認めつつも、彼が再び牙を剥くことがないよう、WWFが用意したポジションはあまりにも残酷なものだった。

いわゆる「エンハンスメント・タレント」、日本で言うところの「ジョバー(負け役)」である。

かつてダラスで世界ヘビー級王座に君臨し、ウォリアーを破った男が、WWFのリングでは、技術的には遥かに劣るコミカルなキャラクターや、プッシュされている若手レスラーの引き立て役として、毎週のように3カウントを奪われる日々を送ることになったのである。

ペレスの無駄のない動きや、鋭いグラウンド・レスリングは、WWFの派手なソープオペラ(連続テレビドラマ)のような演出の中では完全に殺され、観客にとっても「ちょっと動きの良い前座レスラー」以上の印象を残すことはできなかった。
プライドを引き裂かれたペレスは、1年足らずでWWFを離脱する。

そして1990年、彼は再び、かつて自らを追放したWCW(旧NWA)のリング周辺に、奇妙な形で姿を現すことになる。

当時、WCWの世界王者として絶対的な人気を誇っていたスティングの前に、不気味なメッセージと共に現れた謎の怪覆面レスラーがいた。

その名も「ブラック・スコーピオン」。

スティングの過去を知る男、魔法や超常現象を駆使してスティングを精神的に追い詰めるという、当時のWCW本部長オレイ・アンダーソンが考案したこのキャラクターは、正体が誰なのかという話題で大いに盛り上がった。

このブラック・スコーピオンの「初期の正体」、あるいは前座の試合やテレビマッチで実際にマスクを被ってスティングを襲撃していたのが、他ならぬアル・ペレスであった。

シャープな身のこなし、スティングのパワーに対抗できる確かなグラウンド。覆面越しに見えるその鋭い眼光は、熱心なファンであればアル・ペレスであることを見抜くのは容易だった。

しかし、このギミックもまた、ペレスのレスラー人生に幸福をもたらすことはなかった。

ストーリーラインが進行するにつれ、最終的な結末として「12月のPPV『スターケード』において、スティングに敗れたブラック・スコーピオンは、マスクを剥がされてその醜態を全米に晒す」という方針が決定した。

プロモート側から「お前がマスクを脱げ」と告げられた際、ペレスの心の中の「シューターとしての自負」が、それを拒絶した。

「俺ほどの技術を持つ人間が、なぜスティングの引き立て役として、公衆の面前で恥をかかされなければならないんだ?」

ペレスは、自らのプライドを守るため、ストーリーの途中でブラック・スコーピオンの役職を自ら放棄。WCWの経営陣と再び決裂し、リングを去ってしまったのである。

ちなみに、誰もいなくなったブラック・スコーピオンの最終的な正体(マスクを脱ぐ役)は、紆余曲折の末、なんとあのリック・フレアーが務めるという、歴史の皮肉極まる結末を迎えることになった。

アメリカのメジャーシーンにおいて、アル・ペレスという男は、あまりにも不器用で、あまりにもプライドが高すぎた。

時代が求める「エンターテインメントの歯車」になるには、彼の持つ「本物のレスリング」と「プライド」が、大きすぎる邪魔者になっていたのである。

アメリカのプロレス界に、もう彼の居場所はなかった。 

しかし、そんな「呪われた天才」の噂を耳にし、その確かな技術を純粋に評価しようとする、東洋の島国が存在した。

ジャイアント馬場率いる「王道」――全日本プロレスである。

王道・全日本プロレスへの来日〜ドリー・ファンク・ジュニアが認めた「職人」の輝き

1991年11月。全日本プロレスの冬の風物詩である「世界最強タッグ決定リーグ戦」の参加メンバーが発表された際、日本のプロレスファンの目は、ある一つのチームに釘付けになった。

「ドリー・ファンク・ジュニア&アル・ペレス」

テキサスの不沈艦であり、全日本プロレスの精神的支柱でもあるドリーが、新しいパートナーとして指名したのが、日本ではほぼ無名に近いアル・ペレスだった。

当時の全日本プロレスは、三沢光晴、川田利明、小橋建太、田上明らの「四天王プロレス」が爆発的な熱量を持って台頭しつつある時期だった。同時に、スタン・ハンセンやテリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムスといった、超大型の外国人レスラーたちがパワーとタフネスでリングを支配していた。

その過激な激突のリングに、突如として現れたアル・ペレスは、日本のファンに強烈な「違和感」と、それ以上の「新鮮な驚き」を与えた。

ペレスのプロレスには、ハンセンのような狂暴なパワーも、ゴディのような圧倒的な破壊力もなかった。しかし、彼の行うグラウンド・レスリング、1首、1腕を巡る攻防の美しさは、完全に「別格」だった。

無駄な動きが一切ない。相手がタックルに来れば、完璧なスプロール(切る動き)で防ぎ、瞬時にバックに回ってスリーパーホールドを狙う。

アームロックを極める角度、首固めに入るタイミング、そして何より、地元のタンパで磨き抜かれた必殺のスピニング・バックブリーカー(怪力で担ぎ上げるのではなく、相手の体重を利用してピンポイントで背骨を膝に叩きつける技術)の美しさ。

日本のプロレスファン、そしてジャイアント馬場をはじめとする全日本の関係者は、アメリカでの彼のスキャンダルや「フレアー襲撃計画」の真偽など、どうでもよかった。

ただ、目の前のリングで展開される、ペレスの「正確で、クラシカルで、絶対に崩れないプロレス」のクオリティに、深い敬意を抱いたのである。

リーグ戦の戦績こそ13チーム中7位という中位に終わったものの、ペレスのファイトは、コアなファンの間で「あの男、ただ者ではない」「とんでもない職人がやってきた」と絶賛された。

ドリー・ファンク・ジュニアが、なぜ彼をパートナーに選んだのか。

それは、ドリー自身が持つ「テキサスの正統派レスリング」の遺伝子を、ペレスが最も純粋な形で受け継いでいることを知っていたからに他ならない。

1993年1月、ペレスは再び全日本プロレスのリングに帰ってきた。バリー・フォロウィッツとの実力派コンビでタッグ戦線を沸かせた彼は、1月15日、後楽園ホールである重要な任務を課せられる。

「秋山準・試練の七番勝負・第3戦」の相手である。

前年にデビューしたばかりの秋山準は、その天性のセンスから「超新星」と称され、全日本の未来を担う超新星として破格の期待をかけられていた。

その若きスターの前に、プロの「高くて硬い壁」として立ちはだかったのが、アル・ペレスだった。

試合は、ペレスの独壇場だった。秋山がどれだけフレッシュなファイトを仕掛けようとも、ペレスは涼しい顔でそれをグラウンドに引きずり込み、関節技でコントロールし、スタミナを奪っていく。若さゆえの焦りを見せる秋山に対し、ペレスは完璧なインサイドワークで試合をするも、最後は秋山がタイガースープレックスホールドで勝利を収めた。

試合には敗れたものの、秋山にプロの厳しさ、グラウンド・レスリングの深淵を身をもって教え込んだこの一戦は、アル・ペレスというレスラーが、どれほど優れた「教育者」であり、「本物の表現者」であったかを証明するに十分な内容だった。

カール・ゴッチやボリス・マレンコから受け継いだ技術の灯火は、アメリカのメジャーシーンでは煙たがられ、拒絶されたが、日本の「王道」のリングにおいて、最も美しい輝きを放ったのである。

静かなる引退と、第2の人生〜UPSの職員として掴んだ幸福

全日本プロレスへの来日以降、ペレスはアメリカのインディーシーンへと主戦場を移す。

ジェリー・ローラーが主宰するメンフィスのUSWAや、ダラスに新しく誕生したグローバル・レスリング・フェデレーション(GWF)、さらには2000年代に入ってからはインディー団体LAWなどに参戦し、2001年にはLAWヘビー級王座を獲得するなど、スポットライトの当たらない場所で、彼は黙々と自らのプロレスを全うし続けた。

そして2002年。45歳を迎えたアル・ペレスは、長年痛めていた古傷の肘の負傷と、メジャー団体の政治的な思惑やキャラクター重視の体制に馴染めず、自分の信じる「ストロングスタイル」を大舞台で表現できなくなったことで、「もうプロレス界でやり残したことはない」と、精神的にも区切りがついたという理由で、20年間に及ぶプロレスラーとしての現役生活に、静かにピリオドを打った。

かつてリック・フレアーの首を獲り、世界の頂点を力づくで強奪しようとした男。 スティングのライバルとしての仮面を脱ぐことを拒み、己のプライドに殉じた男。

プロレス界においては危険分子であり、掟破りの男。


そんな男の引退後の人生は、プロレス界の多くの引退レスラーたちが辿る、破滅や忘却のドラマとは全く異なるものだった。

プロレスのリングから完全に身を引いたペレスは、アメリカの大手物流・配送会社である「UPS(ユナイテッド・パーセル・サービス)」に就職したのである。

茶色の制服に身を包み、毎朝決まった時間に出社し、重い荷物をトラックに積み込み、家々へと送り届ける。かつてダラスの何万人もの大観客の前でスポットライトを浴び、世界王者のベルトを腰に巻いていた男が、一人の誠実な「労働者」として、第二の人生をスタートさせたのだ。

プロレス界で彼が犯そうとした、あるいは犯してしまった数々のトラブル。それはリアルとフィクションの境界線が曖昧だったあの時代の、プロレスラーという人種が持つ「業(ごう)」のようなものだったのかもしれない。

しかし、ひとたびリングを降り、日常の社会に身を置いたペレスは、極めて真面目で、礼儀正しく、勤勉な男だった。彼はUPSの職員として長年にわたり勤務し、同僚や顧客からも厚い信頼を寄せられ、数年前に無事に定年退職(リタイア)を迎えたという。

近年、海外のプロレスファンやポッドキャストのインタビューに登場したアル・ペレスは、現役時代と変わらぬ引き締まった体躯に、穏やかな笑みを浮かべながら、かつての思い出を語っている。

「あの頃のダラスは最高だった。ゲーリー・ハートは素晴らしい先生だったよ。日本でのドリーとのタッグや、若い秋山と戦ったことも、俺の人生の誇りだ。色々なことがあったけれど、私は今、家族と共にとても幸せな人生を送っているよ」

そこには、かつてフレアーを震え上がらせ、メジャー団体を戦々恐々とさせた「テロリスト」の面影は一切ない。

己の強さとプライドに振り回された激動の青年期を経て、彼は「日常」という名の、最も穏やかで、最も手に入れることが難しい幸福を、その手でしっかりと掴み取っていたのである。

アル・ペレスとは何だったのか

激動のアメプロ黄金期を駆け抜け、時代の歪みの中で蜃気楼のように消え去った不世出のレスラー、アル・ペレス。

彼が残したレスラー人生を振り返る時、私たちはプロレスというジャンルが持つ、特異な「美しさと危うさ」を思わずにはいられない。

もしも彼が、ゲーリー・ハートの説得を素直に聞き入れ、リック・フレアーへのシュート計画を企てていなければ、彼は間違いなくNWA世界ヘビー級王者となり、ハルク・ホーガンやリック・フレア、スティングと並ぶ、1990年代を代表するメガスターになっていただろう。

彼のルックスと技術があれば、それは約束された未来だったはずだ。

しかし、彼はそれをしなかった。

自らの内に秘めた「本物の強さ」という牙を、ビジネスの都合で丸めることを拒み、プロレスという虚構の世界に対して、リアルという名の劇薬を以て心中しようとした。その結果、彼はメジャーシーンから追放され、歴史の闇へと葬られることになった。

だが、だからこそ、彼は美しい。

ファンタジーとビジネスが肥大化していくアメプロの歴史の中で、最後まで「己の腕一本で世界をひっくり返せる」と信じ、牙を研ぎ続けたアル・ペレスの佇まいは、古き良き、そして恐るべき「シューターたちの時代の、最後の残光」だったと言えないだろうか。

アメリカのメジャーが彼を拒絶し、日本の王道が彼を愛した。その事実こそが、アル・ペレスというレスラーの本質を何よりも雄弁に物語っている。

虚構と現実の狭間で溺れかけ、それでも己のスタイルを崩さなかったラテンの至宝。

彼がリングに刻んだ正確無比な技の数々と、激動のプロレス人生は、今もなお、歴史の裏街道を愛するファンたちの心の中で、怪しく、そして気高く輝き続けている。

アル・ペレスとは、 アメプロがエンターテインメントへと完全に脱皮する直前、 己の『強さ』と『プライド』という凶器を抱いたまま、 時代の蜃気楼へと消え去った、アメプロ最後の『本物のテロリスト』である。









俺達のプロレスラーDX
第262回  オペラ座の怪人劇場〜切なくも美しき「黒い心臓」/ザ・ブラックハーツ



プロレスという壮大な人間劇のリングにおいて、「悪」や「怪奇」と呼ばれる概念は、いつの時代も観客の根源的な恐怖と好奇心を刺激し続けてきた。


古くはミル・マスカラスやザ・デストロイヤーが築き上げた華やかで神秘的な覆面レスラーの文化。しかし、その光の裏側には、闇の深淵から這い上がってきたかのような「異形のマスクマン」たちが常に蠢いていた。


彼らは美しさや華麗さを拒絶し、己の素顔を隠すことで、人間の内面に潜む狂気や恐怖、絶望そのものをリング上に体現してみせる。
  
1990年代初頭、日本のプロレス界——とりわけ「明るく、激しく、楽しいプロレス」を掲げ、ジャンボ鶴田、三沢光晴、川田利明、小橋健太、そしてスタン・ハンセンやスティーブ・ウィリアムスらが極限の激闘を繰り広げていた王道・全日本プロレスのリングに、突如として異色にして超弩級の暗黒空間を解き放ったタッグチームが存在した。



その名は、「ザ・ブラックハーツ」。


彼らがリングに姿を現した瞬間、会場の空気は凍りついた。 入場時には、漆黒の黒装束に身を包み、顔面には不気味に静まり返る白い能面のようなオーバーマスクを着用。


そしてリングに上がると、その白い仮面を静かに脱ぎ捨てる。しかし、現れた素顔もまた、目も鼻も口も存在しないかのような、穴の開いていない漆黒の暗黒布マスクであった。


「顔がない」のである。 


人間としての喜怒哀楽を完全に剥ぎ取られたその異形は、ただ不気味な暗黒の塊としてリング中央に仁王立ちした。試合が始まれば、言葉にならない奇怪な叫び声——「イーッ!」「アーッ!」という怨嗟の音声を会場中に響かせながら、狂気的なまでの合体攻撃で対戦相手を痛めつける。



ブラックハーツ。 アポカリプス、デストラクション、そして後に加わるデバステーション。



彼らが全日本プロレスのリングで放った存在感は、単なる「一発屋の変型ガイジン」という言葉では到底片付けられない重厚な毒気を孕んでいた。



そして、この漆黒の覆面の下に隠されていたのは、単なるリング上の演出にとどまらない、現実の人生における愛憎、嫉妬、裏切り、そして運命の悪戯という、あまりにもドロドロとした生々しい人間模様であったのだ。



男たちはなぜ、顔を捨てて「黒い心臓」となったのか? 仮面の下で渦巻いていた愛憎劇の真実とは何だったのか? 



そして、世界のマット界を揺るがした異形たちのレスラー人生の行き着く先はどこだったのか?


今回は、新旧洋邦のあらゆるレスラーの光と影を照射してきた『俺達のプロレスラーDX』の真骨頂として、プロレス史の闇の底に眩いまでの異彩を刻んだ「ブラックハーツ」の激動の足跡と、仮面の下の切ないまでの素顔に迫ってみたい。


★暗黒の産声〜カルガリーの地で交錯した3つの運命〜


​ブラックハーツという怪物が産声を上げたのは、北米のプロレス史において数々の伝説的なレスラーを輩出してきた極寒の地、カナダ・カルガリーであった。
​1980年代末、伝説のブッカーであり名将スチュ・ハートが主宰する「スタンピード・レスリング」のリングに、後のブラックハーツの核となる人物たちが集い始めていた。

​1人目の男の名は、トム・ナッシュ。1965年、アメリカ・フロリダ州に生まれたナッシュは、恵まれた体躯(187cm、110kg)と野性味あふれるファイトスタイルを持ち合わせたレスラーであった。彼はプロレスラーとしての成功を夢見て各地のインディー団体を転々とした後、腕試しのためにカルガリーの地に足を踏み入れた。ナッシュの内に秘められたプロレスへの情熱は本物であり、独自のパフォーマンスと強烈なビジュアルを生み出す鋭い感性を備えていた。後の「アポカリプス」の素顔である。


​2人目の男は、デビッド・ヒース。1969年、フロリダ州タンパ出身のヒースは、幼少期からプロレスに魅せられ、プロレス界の伝説的な鬼軍曹ボリス・マレンコの下で地獄の基礎訓練を受けた。
1988年に弱冠19歳でプロデビューを果たしたヒースは、ビルドアップされた肉体と卓越した運動神経、そして何よりもレスリングに対する真摯な情熱を持っていた。


しかし、当時の北米マット界は超大型レスラーが全盛を誇る時代。180cm強のヒースがその他大勢の若手から抜け出すためには、強烈なインパクトとキャラクターが必要不可欠であった。彼こそが、初代「デストラクション」となる男である。



​そして、この2人の男を引き合わせ、ブラックハーツという劇薬に爆発的な毒性を注入したのが、プロレス界の名門バション・ファミリーの血を引く凄絶な女傑、ルナ・バションであった。


​ルナ・バション(本名ガートルード・エリザベス・バション)は、元AWA世界タッグ王者ポール・“ザ・ブッチャー”・バションの養女であり、あのアワの狂犬モーリス・“マッドドッグ”・バションを伯父に持つ、サラブレッド中のサラブレッドであった。

頭髪の片側を剃り上げ、モヒカン頭に顔面ペイントを施し、ハスキーな濁声で叫び声を上げるルナは、80年代半ばからNWAフロリダ地区でケビン・サリバン率いる「アーミー・オブ・ダークネス」の狂気的な魔女として頭角を現していた。

​プロレス界で出会ったトム・ナッシュとルナ・バションは意気投合し、夫婦関係を結んでいた。


​1989年、カルガリーのスタンピード・レスリングにおいて、トム・ナッシュとデビッド・ヒース、そしてルナ・バションの3人が合流する。ナッシュとヒースはタッグを組み、ルナがそのマネージャーに就任することとなった。

​ここで生み出されたコンセプトこそが、「ザ・ブラックハーツ」であった。

​ナッシュは「アポカリプス」を名乗り、ヒースは「デストラクション」を名乗る。

2人は全身を黒のコスチュームで包み、顔面には目も口も開いていない、表情を完全に殺した漆黒の暗黒覆面を装着した。入場時には不気味な白のお面を被り、ルナ・バションが鞭やチェーンを手に彼らを操る狂気の魔女としてセコンドに付く。


​このビジュアルとコンセプトは、当時の北米インディーマットに強烈な波紋を呼んだ。



単なるペイントレスラーや従来の覆面レスラーとは一線を画す、「顔が存在しない」という根源的な恐怖。相手の攻撃を受けても苦痛の表情が見えず、何を考え、何をしでかすか一切分からない無機質な不気味さ。


​1989年9月、ブラックハーツ(アポカリプス&デストラクション)はスタンピード・インターナショナル・タッグ王座を獲得。若き日のクリス・ベノワやビフ・ウェリントンらと過激な抗争を繰り広げ、その名を一躍轟かせたのである。


​その後、彼らはペンシルベニア州を中心に過激なインディー路線を展開していたジョエル・グッドハートのTWA(Tri-State Wrestling Alliance)や、テレビプロデューサーのハーヴ・エイブラムスが立ち上げた異色の団体UWF(Universal Wrestling Federation)に参戦。



ルナ・バションの狂気的なマイクパフォーマンスと、ブラックハーツの圧倒的な破壊力は、アメリカ東海岸のファンを恐怖と興奮の渦に巻き込んでいった。


​「アメリカのマット界に、とんでもない暗黒タッグがいる——」


​その噂は海の向こう、日本のプロレス界の総本山・全日本プロレスのスカウト陣の耳にも届くこととなるのである。

​★全日本プロレスへの襲来〜「明るく激しく楽しいプロレス」への異物混入〜


​1991年2月。全日本プロレスの「91エキサイト・シリーズ」開幕戦のリングに、新外国人タッグチームとして「ザ・ブラックハーツ」が初来日を果たした。



​当時の全日本プロレスは、巨大な転換期を迎えていた。ジャンボ鶴田が「超世代軍」の三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太らの挑戦を真っ向から受け止め、スタン・ハンセンやテリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムスらの怪物外国人が狂い咲く、まさに世界で最もハイレベルで激しい「王道プロレス」が確立されつつある時期であった。


​その真っ向勝負の王道マットに、ブラックハーツの投入は明らかに「劇薬」であり「異物」であった。


​なお、海外で彼らを操っていたマネージャーのルナ・バションは帯同せず、レスラー2人のみの飛来となったが、その存在感は十分すぎるものであった。花道から姿を現したアポカリプスとデストラクション。


漆黒のロングコートに身を包み、頭部には白い能面のような不気味なオーバーマスク。不吉な静寂を纏ってリングインすると、ゆっくりと白い仮面を外す。そこに現れたのは、目も鼻も口も完全に生地で覆われた、真っ黒な暗黒マスクであった。


​「おい、あれはどうやって前が見えているんだ!?」
「顔がないぞ!?」



​客席からはどよめきと戸惑いの声が上がった。(※実際には、目の部分が特殊な薄い黒メッシュ構造になっており、内側からは外が見えるものの、外からは光の反射で完全に真っ黒に見える精巧な造りになっていた)



​ゴングが鳴ると、彼らの異様さはさらに加速した。レフェリーや対戦相手の威嚇に対して、言葉ではなく「イーッ!」「アーッ!」という、怪人ショッカーを思わせる甲高くて不気味な奇声を上げる。この奇声は、一度聞いたら夢に出そうなほどの不快感と恐怖感を観客に植え付けた。



​しかし、ブラックハーツは単なる見せかけだけのイロモノではなかった。アポカリプス(トム・ナッシュ)の187cm・110kgという堂々たる体躯から繰り出されるパワーと、初代デストラクション(デビッド・ヒース=後のギャングレル)のボリス・マレンコ仕込みの確かなレスリング技術と俊敏性。そして何よりも、彼らの連携攻撃は実に緻密で破壊的であった。



​2人がかりで相手をコーナーに叩きつけ、ダブルのDDTで脳天から突き刺す。


さらに、ブラックハーツの最大の必殺技として全日本のファンを震撼させたのが、「セカンドロープからの雪崩式合体パワーボム(スーパーパワーボム)」であった。


一人が相手を肩車のように担ぎ上げ、もう一人がセカンドロープから飛びついて相手の上半身を抱え込み、そのまま体重をかけてキャンバスへ叩きつける。この破格の破壊力を誇る合体技で、全日本の前座・中堅レスラーたちは次々とマットに沈められていった。  



​当時、日本テレビ系の『プロレスニュース』で名物アナウンサー・福澤朗は、ブラックハーツの不気味なファイトと「イーッ!」という奇声を「ジャストミート!」な語り口で面白おかしくいじり倒し、彼らの存在感は一躍お茶の間にも浸透していったのである。



​王道プロレスのリングにおいて、彼らは「怪奇派」としての役割を完璧に全うしていた。観客を恐怖させ、怒らせ、そしてその異彩に引きずり込む。ブラックハーツの日本初参戦は、大成功を収めたと言ってよかった。 


​★武道館のアジアタッグ戦と、ハンセン&スパイビーという「現実」の壁


​初来日・再来日で強烈なインパクトを残したブラックハーツは、同年1991年9月の「91サマー・アクション・シリーズII」で早くも3度目の来日を果たした(※この時期のデストラクションは、初代デビッド・ヒースから2代目リチャード・ゴスへ交代していたが、チームのコンセプトと威圧感は不変のまま維持されていた)。



​このシリーズで、彼らにビッグチャンスが巡ってくる。1991年9月4日、プロレスの聖地・日本武道館大会。全日本プロレス伝統のタイトルである「アジアタッグ王座」への挑戦である。


​王者組は、ダグ・ファーナス&ダン・クロファットの「カンナム・エクスプレス」。圧倒的な身体能力と絶妙な連携で全日本タッグ戦線を牽引していた超実力派コンビであった。



​超満員の武道館に響き渡るブラックハーツの「イーッ!」という奇声。アポカリプスとデストラクションは、王者カンナム・エクスプレスを相手にラフ&合体攻撃を全開にして襲いかかった。重厚なパワーボムや合体攻撃でファーナスとクロファットを追い詰め、武道館の観客を「もしかしたらタイトルが移動するのではないか」というスリルで包み込んだ。



​しかし、試合は15分48秒、カンナム・エクスプレスの緻密なインサイドワークと空中戦の前に、最後はアポカリプスが3カウントを奪われ敗北。王座奪取こそならなかったものの、ブラックハーツが全日本のトップ戦線に肉薄した瞬間であった。



​だが、このアジアタッグ戦のわずか3日後、ブラックハーツのプロレス人生において永遠に語り継がれる「惨劇」であり「伝説の事件」が勃発する。



​1991年9月7日、後楽園ホール大会。ブラックハーツ(アポカリプス&デストラクション)の前に立ちはだかったのは、全日本プロレスの不沈艦スタン・ハンセンと、203cmの長身を誇る大型凄腕レスラー、ダニー・スパイビーの極悪超大型コンビであった。



​試合開始前、いつものように漆黒のコートと白いお面を被り、リング中央で不気味なポーズを決めようとしたブラックハーツ。しかし、相手はあのスタン・ハンセンである。不気味な演出やスカしたポーズなど、ハンセンにとっては何の威嚇にもならなかった。



​ゴングが鳴る前に、ハンセンとスパイビーはブラックハーツへ猛然と襲いかかった。白い仮面を力任せに剥ぎ取り、暗黒覆面の上から容赦ないナックルパートとエルボーを叩き込む。「イーッ!」と叫ぶ隙すら与えられない。



​スパイビーがデストラクションを場外へ放り投げ、リング上でアポカリプスを危険な角度のスパイク・パイルドライバーでマットに突き刺す。脳震盪を起こして崩れ落ちるアポカリプス。そこへ、ロープを背にして勢いよく走り込んできたスタン・ハンセンが、入魂のウエスタン・ラリアットをアポカリプスの首元へ一閃!


​ドカン!


​凄まじい衝撃音が館内に響き渡り、アポカリプスは後方へ一回転するように激しく吹っ飛んだ。そのまま覆面越しに失神したアポカリプスから、ハンセンが体固めでフォール。



​タイム、6分26秒。



​ブラックハーツはポーズを取る暇もなく急襲され、文字通り完膚なきまでに叩き潰され、秒殺されたのである。



​この試合は、全日本プロレスというリングの「厳しさ」と「現実」を残酷なまでに証明していた。どれほど奇抜なビジュアルや不気味なコンセプトで飾ろうとも、ハンセンやスパイビーといった本物の強者たちの前には、いかなる暗黒の演出も一瞬で粉砕されるという「王道の洗礼」であった。


​しかし、この徹底的な叩きのめされ方こそが、プロレスファンに「ブラックハーツ=悲哀と滅びの美学を纏った怪奇派」という強烈な残像を焼き付ける結果となったのだ。

​★仮面の裏側に潜む「愛憎劇」〜アポカリプス、デストラクション、ルナの崩壊〜

​全日本プロレスのリングで強烈な光と影を放ったブラックハーツであったが、この時期、彼らの足元ではリング上のファイト以上に凄惨でドロドロとした「現実の人間ドラマ」が進行していた。


​それは、アポカリプス(トム・ナッシュ)、初代デストラクション(デビッド・ヒース)、そしてマネージャーのルナ・バションによる、過酷な三角関係と愛憎の破綻であった。


​前述の通り、トム・ナッシュとルナ・バションは夫婦関係にあった。しかし、全米各地やカナダ、日本を転戦する過酷な巡業生活の中で、ナッシュとルナの夫婦仲は急速に冷え込んでいった。夫婦間の溝が深まる一方で、連日のように移動を共にし、リング上で同じ暗黒の世界観を共有していたのが、相棒のデビッド・ヒースであった。


​ヒースはナッシュよりも4歳若く、甘いマスクと熱い情熱を持った青年であった。過酷なプロレス興行の裏側で、傷つき疲弊していくルナ・バションの心を寄り添うように支えたのは、夫であるナッシュではなく、仮面の相棒であるヒースだったのである。


​やがて、ルナ・バションとデビッド・ヒースは密かに恋仲へと落ちていく。

​同じ車に乗り、同じ覆面を被り、タッグパートナーとしてリング上で背中を預け合いながら、一人の女を巡って男たちの間に渦巻く嫉妬と愛憎。目も口も開いていない漆黒の覆面を被ってリングに上がっていた時、アポカリプス(ナッシュ)とデストラクション(ヒース)は、一体どのような想いで互いの手を取り合っていたのだろうか? 「顔が見えない」覆面の下で、男たちは無言の憎悪と葛藤に苛まれていたのである。


​この歪んだ三角関係は、やがて致命的な破局を迎える。


​1991年中盤、絶望的な人間関係の破綻により、デビッド・ヒースはブラックハーツを離脱。全日本プロレスでのデストラクションの役柄が2代目のリチャード・ゴスへと引き継がれた裏には、このプライベートにおけるドロドロの愛憎劇が存在していた。


​その後、1992年にトム・ナッシュとルナ・バションは正式に離婚。ルナはナッシュの元を去り、デビッド・ヒースと公然と交際をスタートさせた。そして1994年10月31日のハロウィーンの日、ルナ・バションとデビッド・ヒースは挙式を行い、正式に再婚を果たしたのである。


​相棒に妻を奪われ、長年連れ添ったパートナーとタッグチームの両方を一度に失ったトム・ナッシュ。タッグチームとしての「ブラックハーツ」のオリジナルラインナップ(ナッシュ&ヒース)は、この凄惨なプライベートの愛憎劇によって、完全に崩壊・分裂することとなった。


​プロレスのリング上で観客に恐怖を与えていた暗黒の怪獣たちは、その仮面を脱いだ瞬間、あまりにも生々しく、切なく、残酷な人間の愛憎の悲劇に打ちのめされていたのである。

​★第2期ブラックハーツの誕生と「デバステーション」の影


​オリジナルメンバーであるデストラクション(デビッド・ヒース)とマネージャーのルナ・バションが去った後、残されたアポカリプス(トム・ナッシュ)はどうしたのか?

​ナッシュは絶望に打ちひしがれてリングを去るどころか、むしろ逆に「ブラックハーツ」というアイデンティティにしがみついた。彼にとって、顔を隠して黒い心臓として生きることこそが、レスラーとしての命であり、唯一の救いであったのかもしれない。


​トム・ナッシュは「ブラックハーツ」の名称とコンセプトの権利を保持し、去っていったデストラクションの穴を埋める新たなパートナーをスカウトした。


​その男の名は、デイヴ・ジョンソン。ジョンソンは「デバステーション(荒廃・壊滅)」という新たなリングネームを与えられ、暗黒のマスクを被された。


​ここに、「第2期ブラックハーツ(アポカリプス&デバステーション)」が誕生する。


​1993年2月、全日本プロレスの「93エキサイト・シリーズ」に、トム・ナッシュは新相棒デバステーションを伴って通算4度目となる来日を果たした。


​新相棒のデバステーション(デイヴ・ジョンソン)もまた、初代デストラクションに負けず劣らずの巨漢であり、漆黒のマスクと白いオーバーマスクというブラックハーツの世界観を忠実に踏襲した。全日本のリングで、彼らは再び「イーッ!」という奇声をあげ、雪崩式パワーボムを繰り出し、中堅タッグ戦線を荒らし回った。

その後、第2期ブラックハーツはアメリカに戻り、ジェリー・ローラーが仕切るテネシー州メンフィスのUSWA(United States Wrestling Association)に参戦。


1992年10月にはジェリー・ローラー&ジェフ・ジャレット組を破ってUSWA世界タッグ王座を獲得するなど、北米主要インディーマットにおいて悪役タッグチームとしての確固たる地位を築き上げた。

​また、カナダなどのインディーマットにおいては、ジェイソン・アンダーソンら複数のレスラーが「デストラクション」や「デバステーション」の覆面を被ってトム・ナッシュと組むなど、トム・ナッシュはパートナーを変えながらも「ブラックハーツ」の灯を消さずに燃やし続けたのである。

​トム・ナッシュにとって、アポカリプスという仮面は、傷ついた素顔を隠し、プロレス界という戦場で生き抜くための頑丈な鎧であったに違いない。

​★ヴァンパイアとしての飛翔と、散りゆく黒い心臓

​一方、ブラックハーツを離脱し、ルナ・バションと共に新たな道を歩み始めたデビッド・ヒース(初代デストラクション)のプロレス人生は、ここから劇的な輝きを放ち始めることとなる。

​ヒースはブラックハーツの覆面を完全に脱ぎ捨て、映画『ロストボーイ』や『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』からインスピレーションを得た新キャラクター、「バンパイア・ウォリアー」へと変身を遂げた。金を施した牙を装着し、ゴシック調の衣装に身を包み、試合前に口から血(赤い聖水)を吹き出すパフォーマンスは、インディーマットで大きな話題を呼んだ。


​そして1998年、ヒースのレスラー人生に最大の大逆転劇が訪れる。世界最大のプロレス団体WWF(現WWE)とのフルタイム契約を獲得したのだ。


​WWFでヒースに与えられたリングネームは、「ギャングレル」。

​リングの底から燃え上がる本物の炎の中から登場し、ワイングラスに入った「血」を飲み干して天井に向かって吹き出す強烈な入場シーン。そして、若き日のエッジとクリスチャンを従えて結成した吸血鬼ユニット「ザ・ブルード」は大爆発的な人気を獲得。ギャングレルの得意技である「インプラント・DDT」は、世界中のプロレスファンを熱狂させた。

​かつてブラックハーツの「デストラクション」として、顔も名前も隠し、愛憎劇の渦中で苦しんでいた男が、覆面を脱ぎ捨てることでWWFのスターダムへと上り詰めたのである。

​そして、彼らを導いた魔女ルナ・バションもまた、WWFで女子戦線のトップとして、ショーン・マイケルズやバンバン・ビガロ、そして日本から参戦したブル中野らのマネージャーとして、さらには稀代の狂気的な女子レスラーとして一時代を築き上げた。

​しかし、運命はどこまでも残酷であった。

​光を浴びた者たちの後年にも、陰りが訪れる。ギャングレル(ヒース)とルナ・バションの婚姻関係も長続きはせず、2006年に離婚。


そして2010年8月27日、ルナ・バションはフロリダ州の自宅で、鎮痛剤の過剰摂取により48歳の若さでこの世を去った。激しすぎる人生を駆け抜けた魔女の悲しい最期であった。没後の2019年、ルナはその功績をたたえられ、WWE殿堂(レガシー部門)入りを果たしている。

​第2期ブラックハーツとしてアポカリプスを支えた「デバステーション」ことデイヴ・ジョンソンもまた、静かにリングを去り、2017年11月26日にこの世を去った。

​そして、ブラックハーツの創始者であり、愛憎の末に仮面を守り続けた「アポカリプス」トム・ナッシュ。

彼はギャングレルのようなメジャー団体での華々しい成功を収めることはなく、インディーマットの闇の中に静かに消えていった。後年はプロレス界から身を引いたとされるが、彼が創り出した「ブラックハーツ」という漆黒の世界観は、彼が去った後もプロレスファンの記憶の中で永久に衰えることはなかったのである。

​かつて、デビッド・ヒース(ギャングレル)は後にインタビューで、ブラックハーツ時代を振り返りこう語っている。

「あの黒い覆面を被っていた時代は、俺のキャリアの原点だった。顔が見えないからこそ、体全体で感情を表現することを学んだんだ」

​そして、1990年代後半の日本のインディー団体(IWAジャパン等)では、ヒースがバリー・ヒューストンらを新たなパートナーに迎え、「ブラックハーツ(デストラクション)」として漆黒の暗黒覆面を再び装着しリングに降臨するなど、時を超えてその血脈が呼び覚まされることもあった。


​黒い仮面に顔を隠し、王道プロレスのリングに強烈な毒と異彩を放った怪獣たち。彼らが残した「黒い心臓」の鼓動は、北米と日本のプロレス史の深層で、今もなお不気味に響き続けている。



★黒い心臓は、いまもプロレスの闇の底で脈打っている


プロレスとは、奇妙な表現空間である。


​リングの上で繰り広げられる技の応酬や勝敗の行方だけでなく、レスラーたちが背負う生い立ち、秘密、そしてリング外で渦巻く人間関係のすべてが、目に見えない磁場となって試合に奥行きを与える。


​「ザ・ブラックハーツ」というタッグチームは、表向きは90年代初頭の全日本プロレスに波紋を投げかけた「一風変わった怪奇派覆面コンビ」に過ぎなかったかもしれない。



​ハンセンとスパイビーにわずか6分余りで叩き潰されたあの後楽園ホールの夜。あるいはカンナム・エクスプレスと激闘を繰り広げた武道館の夕景。福澤アナウンサーに「イーッ!」と叫び声を真似され、『プロレスニュース』でいじられていたあたたかな平成初期のお茶の間風景。



​しかし、その漆黒の布覆面の一枚下には、過酷な北米マットを生き抜こうとした若者たちの野望と、一人の女を巡って引き裂かれた男たちの友情と愛憎の嵐が吹き荒れていた。


​アポカリプス(トム・ナッシュ)は、仮面を被ることで傷ついた自尊心を護り抜いた。


デストラクション(デビッド・ヒース)は、仮面を脱ぎ棄てることでヴァンパイアとしてメジャーの光を掴み取った。


デバステーション(デイヴ・ジョンソン)は、その影に寄り添い暗黒の美学を全うした。


そしてルナ・バションは、彼らを狂気に導く魔女として、己の命を燃やし尽くした。


​彼らの名は、プロレスの輝かしい栄光の歴史(WWE殿堂や三冠ヘビー級王座)のメインストリームの中央に鎮座しているわけではない。



しかし、プロレスという壮大なドラマの「暗闇の領域」において、ブラックハーツが放った不吉で魅力的な輝きは、今なおプロレスファンの心を掴んで離さない。


​素顔を隠し、愛憎の痛みを内に秘めた怪人たちが、漆黒の仮面越しに叫ぶ。


​「イーッ!」



​その声は、人間の欲望と悲哀が渦巻く四角いジャングルという大舞台から響く、魂の叫びなのだ。
​王道・全日本のリングで演じられた、切なくも美しき「黒い心臓」の仮面劇。



​幕が下りた後もなお、胸の奥で重低音を刻み続けるその鼓動こそ——今もなおプロレスファンを魅了してやまない、哀愁と暗黒の「オペラ座の怪人劇場」そのものなのである。












俺達のプロレスラーDX
第261回 偉大なる血統 静かに燃えたいぶし銀の軌跡/ケンドール・ウィンダム





プロレスという名の四角いジャングルにおいて、「血統」が持つ意味はあまりにも大きい。
   
ファンは新しく現れた若きレスラーの姿に、かつて一世を風靡したその父親の面影を重ね合わせる。ダイナミックなファイトスタイル、受け継がれた得意技、そしてリング上で醸し出す特有の佇まい。血は争えない――その言葉通り、偉大なDNAは時として、凡百の努力を嘲笑うかのような極上の輝きを瞬時に放つことがある。

しかし、その輝きが強ければ強いほど、その血統に連なる「もう一人の男」に投げかけられる影は、深く、そして冷たいものになっていく。

1980年代から1990年代にかけて、アメリカのマット界に燦然と輝く名門が存在した。 その始祖の名は、ブラックジャック・マリガン(ボブ・ウィンダム)。

200センチの巨体から繰り出されるブレーン・クローで世界を震撼させ、日本でも「黒い猛牛」として恐れられたテキサスの大物である。

そして、そのマリガンの遺伝子を最も純粋に、かつ天才的な形で爆発させたのが、長男のバリー・ウィンダムだった。

198cmの長身でありながら、クルーザーウェイト並みの軽快な身のこなしと華麗なドロップキックを放ち、「テキサスの若き天才」としてリック・フレアーらと世界最高峰の闘いを展開。伝説のユニット「フォー・ホースメン」の一員としても世界の頂点に君臨した、誰もが認めるスーパースターである。

父は歴史に名を残す怪獣、兄は時代を創った不世出の天才。

そんな、プロレス界で最も分厚く、最も偉大な壁に囲まれた家庭に、次男として生まれた男がいた。 196cm、118kgという、兄にも劣らない見事なヘビー級の肉体とブロンドヘア。

そして、ウィンダム家特有の端正なマスクを兼ね備えながらも、常に「バリー・ウィンダムの弟」という視線と闘い続け、自らのレスラー人生を「名脇役」として全うした男。

彼の名は、ケンドール・ウィンダム。

ある時は、フロリダの海風の中で将来を嘱望された期待の星として。

ある時は、兄の背中を追ってメジャー団体の荒波に揉まれるミッドカーダーとして。 

そしてまたある時は、混沌とする日本の全日本プロレスのリングに、名門のプライドを携えてやってきた「頼れる職人」として。

今回は、偉大すぎる家族の狭間で決して腐ることなく、自らのレスラーとしての職人魂を磨き続けたケンドール・ウィンダムの、光と影に満ちた確かな足跡を、今ここに考察していきたい。  

テキサスの荒野に生まれた純血種〜ブラックジャック・マリガンの血、ヒロ・マツダの教え〜


1967年12月15日、アメリカ合衆国テキサス州スウィートウォーター。この乾いた風が吹くテキサスの地に、ケンドール・ウィンダムは生を受けた。

家庭環境は、まさにプロレス一色だった。物心がつく前から、自宅には父ブラックジャック・マリガンの巨大な背中があり、テレビをつければ父が世界中の大物たちと血みどろの抗争を繰り広げている。

さらに、7歳年上の兄バリーは、ケンドールが少年時代を過ごしている1979年にはすでにプロレスラーとしてデビューを果たし、瞬く間にテキサスやフロリダのファンを熱狂させるスターへと駆け上がっていた。

義理の兄には、のちにWWEなどで活躍するマイク・ロトンドがおり、後年その血筋からは甥にあたるブレイ・ワイアット(ウィンダム・ロタンダ)やボー・ダラス(テイラー・ロタンダ)といった現代のスターたちも輩出されることになる。

文字通り、アメリカン・プロレスの歴史そのものを形成する最強のロイヤルファミリー。その中で、ケンドールがプロレスの道を志すのは、必然を通り越した「宿命」であった。

しかし、ウィンダム家における「プロレス」は、決して甘やかされた特権ではなかった。

父マリガンは、自身のプロレスキャリアだけでなく、時に波乱に満ちた家庭環境(1981年の家庭を揺るがした法的なトラブルなど)を抱えており、息子たちに対しては常に自立と強靭さを求めた。

兄バリーの背中を追いかけるようにしてリングを志したケンドールは、父からの基礎的なサイコロジーの手ほどきを受けた後、本格的なプロレスの技術を学ぶため、フロリダの地へと向かう。そこで彼を待っていたのは、世界で最も厳しく、そして確実な技術を叩き込むことで知られた伝説の日本人指導者、ヒロ・マツダの道場であった。

ハルク・ホーガンの足を折ったという逸話でも知られるマツダのトレーニングは、過酷そのものだった。

基礎体力の徹底的な追及、何百回ものスクワット、そして何より「極められたら逃げられない」リアルなサブミッションの基礎。

ケンドールは、ジミー・タナカやパット・タナカといった実力派のレスラーたちとも汗を流し、その196センチの大きな身体に、日本のストロング・スタイルにも通じる「確実なレスリングの骨組み」を染み込ませていった。

1984年6月11日、ケンドール・ウィンダムは、わずか16歳(17歳になる年)という異例の若さで、CWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロリダ)のリングでプロデビューを果たす。

リングに上がった若きケンドールは、瞬く間にファンの目を引いた。豊かなブロンドヘア、父や兄譲りの長い四肢、そして何より、マツダの道場で培われたテクニック。

彼は兄のバリーを彷彿とさせるフライング・クローズラインを使い、他にもフライング・ショルダーブロック、フライング・バックエルボーといった空中戦が得意だった。

フロリダのプロモーターたちは、この名門の次男坊を「次世代の純白のベビーフェイス」として大いに売り出した。

その期待に応えるように、ケンドールは頭角を現していく。1985年9月2日、NWAのビッグイベント『バトル・オブ・ザ・ベルツ』において、空位となっていたNWAフロリダ・ヘビー級王座を賭けてジャック・ハートと激突。見事にピンフォールを奪い、初の栄冠を手にしたのである。

その後、彼は1986年にかけて同王座をなんと通算5度も獲得。

ロバート・フラーとのコンビではNWAフロリダ・タッグ王座も手中に収め、フロリダのテリトリーにおいて、ケンドール・ウィンダムの名は「未来のNWA世界ヘビー級王者候補」として、確かに光り輝いていた。

「あの頃のフロリダは、毎日が勉強だった。マツダさんの教えは厳しかったけれど、あの基礎があったからこそ、俺は10代の若さでヘビー級のトップ戦線で闘うことができたんだ。父や兄の名前があったからチャンスをもらえたのは事実だけど、リングの上でそれを維持するのは、自分自身の技術だけだった」

若き純血種は、フロリダの青い空の下で、自らの輝かしい未来を確信していたに違いない。しかし、彼がフロリダというローカルな理想郷を出て、全米規模のメジャー団体の荒波へと足を踏み入れたとき、サラブレッドゆえの「終わりのない迷宮」が幕を開けることになる。

「天才」の兄と比較される日々〜サラブレッドの苦悩とNWA・WCWの荒波〜

1980年代後半、アメリカのプロレス界はテリトリー制度が崩壊し、ビンス・マクマホンのWWFと、ジム・クロケット・プロモーションズ(のちのWCW)による全国進出・2大メジャー時代へと突入していた。

ケンドールもまた、フロリダでの実績を引っ提げて、兄バリーが主戦場としていたジム・クロケット・プロモーションズ、そして初期のWCWへと主戦場を移す。

しかし、そこで待っていたのは、あまりにも巨大になりすぎていた「兄バリー・ウィンダム」という絶対的な幻影だった。

当時の兄バリーは、まさにレスラーとしての全盛期を迎えていた。1988年にはリック・フレアー、アーン・アンダーソン、バリー・ウインダム、タロー・ブランチャードという、プロレス史上最も華麗で危険なユニット「フォー・ホースメン」のメンバーとして世界を席巻。

どのような相手であっても、バリーがリングに上がれば、観客の溜息を誘うような芸術的な名勝負が生まれた。プロレスマスコミやファンは、バリーを「テキサスが生んだ奇跡の天才」と称え、その一挙手一投足に熱狂していた。

そんな時代に、同じ「ウィンダム」の姓を名乗り、同じブロンドヘアで、同じように長いタイツを履いてリングに上がるケンドール。 観客やプロモーターの目は、どうしても残酷なものになった。

「確かにケンドールは良いレスラーだ。背も高いし、技術もしっかりしている。……だが、バリーほどの『天才的な閃き』がない」

プロレス界における「悪くない」という評価は、時に「特徴がない」という最大の弱点になり得る。

ケンドールは決して下手なレスラーではなかった。むしろ、ヒロ・マツダ仕込みの基礎があるため、試合の組み立ては非常に確実であり、対戦相手の技を引き出す受け身の技術は一流だった。

しかし、バリーが持っていたような、観客の感情を瞬時に爆発させる「カリスマ性」や、一発で試合の流れを変えるような「華」において、どうしても比較され、一歩劣るというレッテルを貼られてしまったのである。

1989年、ケンドールは現状を打破すべく、それまでのクリーンなベビーフェイスから、兄バリーと同じヒール(悪役)への転向を決意する。 

同年、彼はジム・クロケット・プロモーションズのリングで、一時的にリック・フレアーやアーン・アンダーソン、そして兄バリーらが形成するフォー・ホースメンの周辺ポジション、あるいは共闘関係に身を置くことになる。

兄弟によるテキサス・ヒールコンビの結成。それは、ケンドールにとって兄の横に並び、自らの存在感を全米にアピールする最大のチャンスであった。同年の6月27日には、タンパにてあのダスティ・ローデスの息子であるダスティン・ローデス(のちのゴールダスト)を破り、PWFフロリダ・ヘビー級王座も獲得。

さらにPWFカリビアン・ヘビー級王座も戴冠し、ヒールとしての格を上げようと必死の闘いを続けた。

しかし、当時のホースメンやWCWのトップ戦線は、フレアーやスティング、レックス・ルガー、そして兄バリーといった、アメリカン・プロレスの歴史そのものを動かすメガスターたちの政治闘争の場であった。

実力はあれど、キャラクターとしての決定打に欠けるケンドールは、次第にトップ戦線から一歩引いた「ミッドカード(中堅戦線)」のポジションへと押し込められていってしまう。

どれだけ激しい試合をしても、どれだけ正確な技を披露しても、聞こえてくるのは「バリーの弟にしては……」という声。

「兄貴と比較されるのは、いつだってタフなことだった。バリーは特別な存在だったし、彼がリング上でできることを俺がそのままやっても、それはただの模倣に過ぎない。俺は俺自身のプロレスを見つけなければならなかった。でも、メジャーのテレビショーでは、一度ついたイメージを覆すのは容易じゃなかったんだ」

1991年から1996年にかけて、ケンドールはWCWを離れ、プエルトリコのWWC(ワールド・レスリング・カウンシル)や、アメリカ各地のインディー団体を渡り歩く「職人」としての生活を選択する。

 しかし、このメジャーの喧騒から離れたインディー界での放浪の日々こそが、彼のレスリング技術をさらに研ぎ澄まし、どんな状況、どんな相手であっても試合を成立させる「本物の仕事人」としての実力を、水面下で完成させていくことになったのである。

1992年、全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」参戦

アメリカのインディー界で自らの腕を磨いていたケンドール・ウィンダムに、1992年の秋、ひとつの大きな転機、そして栄誉あるオファーが届く。 日本の、それもジャイアント馬場が率いる全日本プロレスからの来日要請であった。

当時の全日本プロレスは、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太らの「超世代軍」が台頭し、外国人勢ではスタン・ハンセン、スティーブ・ウイリアムス、テリー・ゴーディ、ダニー・スパイビーらが絶対的な壁として君臨する、世界で最も激しく、最も質の高いヘビー級レスリングが展開されている戦場であった。

特に、毎年11月から12月にかけて開催される「世界最強タッグ決定リーグ戦」は、世界中のトップタッグチームが集結する、全日本プロレスの年間最大のクライマックス。その1992年大会のメンバーとして、ケンドールに白羽の矢が立ったのである。

彼に与えられたパートナーは、当時、全日本プロレスの外国人戦線でハンセン、ゴディ、ウィリアムスと共に外国人四天王と形容され、実力者として暴れ回っていた「黄金の荒鷲」ダニー・スパイビーであった。

1992年11月、ケンドール・ウィンダムは、初めて日本の土を踏む。 「92 REAL WORLD」の文字が躍るシリーズパンフレットやテレホンカードには、スパイビーの横で、名門ウィンダム家の誇りを称えた精悍なケンドールの姿が写し出されていた。

203cmのスパイビーと196cmのケンドールの長身コンビはビジュアル的にも全日本の大型プロレスに完璧にフィットしていた。

しかし、当時の最強タッグのリーグ戦は、文字通りの地獄絵図であった。 ウイリアムス&ゴーディの「殺人魚雷コンビ」による容赦のないパワー殺法。スタン・ハンセン&ジョニー・エース組の爆発力。そして、三沢&川田の超世代軍が見せる、限界を超えた意地とスピードの応酬。

初参戦のケンドールにとって、全日本のリングが要求する「ノンストップの激しさと、タフなスタミナ」は、それまでアメリカのインディーで経験してきたものとは全く異なる質の強烈な洗礼であった。

リーグ戦において、スパイビー&ケンドール組は苦戦を強いられることになる。 

11月14日のテリー・ゴーディ&スティーブ・ウイリアムス戦では、殺人魚雷の圧倒的なラッシュの前に沈み、その後も、ハンセン&エース組、さらには超世代軍や、ジャイアント馬場&小橋健太組といった、全日本のトップチームたちの高い壁に阻まれ続けた。 大会の終盤、12月4日の日本武道館大会では、ビリー・ブラック&ジョエル・ディートンという、同じくアメリカン・インディーからやってきた実力派タッグとも激突したが、14分27秒の激闘の末に敗北。

結果として、スパイビー&ケンドール組の獲得した勝ち点はわずか「4」(2勝)。リーグ戦の順位としては下位に沈む結果となった。

しかし、戦績こそ振るわなかったものの、日本の熱狂的なファンの目は、ケンドールが随所に見せた「職人技」を見逃さなかった。 

スパイビーがパワーで前線に立つ中、ケンドールは長い足を活かした正確なビッグブーツや、マツダ直伝の確実なスープレックスで試合をコントロール。

何より、ハンセンの強烈なウエスタン・ラリアットや、ウイリアムスのバックドロップを、その大きな身体で美しく、そして完璧に受け止める「受けの美学」は、玄人好みの全日本ファンから「さすがマリガンの息子、ウィンダムの血筋だ」と高い評価を得たのである。 

「全日本の最強タッグは、俺のレスラー人生の中でも最も過酷なシリーズの一つだった。ハンセンやウイリアムス、そして三沢や川田たちの攻撃は、本当に骨の髄まで響くほど激しかった。でも、あのリングで闘ったことで、俺はレスラーとしてもう一つ上の段階へ行けた気がしたんだ。結果は出せなかったけれど、日本のファンが俺の技術を認めてくれたことは、何よりも嬉しかった。」

初めての日本武道館、1万6千人を超える大観衆の中で浴びた歓声と、トップレスラーたちの強烈な打撃。それは、アメリカのメジャーでの評価に悩んでいたケンドールにとって、自らの持つ「技術の正確さ」が間違いなく世界レベルであるという自信を取り戻させる、極めて濃密な洗礼の冬となったのである。


ウエスト・テキサス・レッドネックスの狂騒曲〜WCWでの覚醒と兄弟の絆〜


日本でのタフな経験を経て、レスラーとしての渋みと確実性をさらに増したケンドール・ウィンダムに、1990年代後半、再びアメリカのメジャー団体からの復帰要請が届く。 彼が戻った場所は、当時、ハルク・ホーマン率いる「nWo」の爆発的なムーブメントによって、WWFを追い抜き世界最大のプロレス団体へと大躍進を遂げていたWCWであった。

1997年、WCWに復帰したケンドールは、当初はテレビショーのミッドカードで、若手の引き立て役や、実力派のジョバー(受け役)としての役割を忠実にこなしていた。どんな相手の技でも光らせることができる彼の確実なレスリングは、団体にとって極めて重宝される存在だった。しかし、一人のレスラーとして、このまま引き立て役で終わるわけにはいかない。

そんなケンドールに、レスラー人生最大の、そして最もカルト的な人気を博すことになる「奇跡の転機」が訪れた。 時は1999年。 

当時、WCWは人気ヒップホップアーティストであるマスター・Pを大金で招聘し、彼が率いるヒップホップ軍団「ノー・リミット・ソルジャーズ」を、最先端のベビーフェイスとして大々的に売り出そうとしていた。

 これに対するヒールユニットとして結成されたのが、アメリカ南部のカントリー・ミュージックを愛し、「ラップなんてクソ喰らえだ!」という思想を剥き出しにしたテキサスのカウボーイ軍団であった。 
  
ユニットの名は、「ウェストテキサス・レッドネックス」。

メンバーは、元WWFインターコンチネンタル王者のレジェンドであり、卓越したプロレスセンスを持つカート・ヘニング(ミスター・パーフェクト)。ケンドールの兄であり、復帰したバリー・ウィンダム。そして、同じく偉大な二世レスラーであるボビー・ダンカン・ジュニア(ボビー・ダンカンの息子)。 ここに、次男のケンドール・ウィンダムが加わったのである。

このユニットは、当初はマスター・Pらのヒップホップ軍団を引き立てるための悪役として用意されたものだった。

しかし、彼らがリリースしたオリジナル・カントリーソング『Rap is Crap(ラップはクソだ)』が、WCWの主要なマーケットであったアメリカ南部の保守的なファン、伝統的なカウボーイ・カルチャーを愛するオーディエンスの琴線に大爆発を起こしてしまう。
  
「ヒップホップなんて認めない。俺たちの音楽はカントリーだ!」と叫ぶヘニングやウィンダム兄弟に対し、会場のファンはヒールであるはずの彼らに大大歓声を送り、逆にベビーフェイスであるはずの「ノー・リミット・ソルジャーズ」に激しいブーイングを浴びせるという、前代未聞の「善悪逆転現象」が巻き起こったのである。

このレッドネックスの狂騒曲の中で、ケンドールはついに、兄バリーとのコンビでメジャーの頂点へと手をかけることになる。

1999年8月、レッドネックスの勢いに乗ったバリー&ケンドールの「ウィンダム・ブラザーズ」は、WCWのタッグ戦線の中心へと躍り出る。そして、当時のタッグ王者チームであったクリス・ベノワ&ペリー・サターン(あるいは当時の王者コンビ)らと激しい抗争を展開。テキサスの荒々しさと、カントリーのプライドを前面に押し出した兄弟は、見事なコンビネーションでWCWのリングを支配していった。 

そしてついに、バリー&ケンドール組は、WCW世界タッグ王座を獲得したのである。

ケンドールにとって、デビューから15年目にして初めて掴んだ、アメリカのメジャー団体における世界最高峰のベルト。それも、幼い頃からその背中を追い続け、常に比較され続けてきた最愛の兄、バリー・ウィンダムと並び立ち、共に腰に巻いた栄光のベルトであった。

さらに、彼らはプエルトリコのWWC(ワールド・レスリング・カウンシル)のリングにも遠征し、そこでもWWC世界タッグ王座を獲得。日米のプロレス界において、「ウィンダム・ブラザーズ」の名は、単なる名門の記号ではなく、現代のマット界で最も機能し、最もファンを熱狂させる「最強の兄弟タッグ」として、完全に覚醒したのである。

「あのレッドネックスの時期は、俺のキャリアの中で一番楽しかった。ヘニングがいて、ボビーがいて、そして何よりバリーがいた。俺たちはただのビジネスとしてのタッグじゃなく、本物のカウボーイの絆で結ばれていたんだ。会場中が『Rap is Crap!』と大合唱する中を、兄貴と2人でベルトを掲げて入場したあの瞬間、俺は初めて、バリー・ウィンダムの弟としてではなく、ケンドール・ウィンダムという一人のレスラーとして、世界の頂点に立てたと実感できたんだ」 
  
偉大すぎる血統の影に隠れ、苦闘し続けた次男坊は、テキサスのカントリー・ミュージックという最高のガウンを羽織り、兄との深い絆によって、ついに自らのレスラー人生で最も美しく、最も熱い黄金の季節を掴み取ったのである。

「最後の来日」〜2000年、ウィンダム兄弟として~

しかし、WCWの繁栄は長くは続かなかった。

2000年に入ると、度重なる経営悪化とクリエイティブの混乱により、団体は崩壊の危機へと突き進んでいく。レッドネックスのユニットも解散を余儀なくされ、ウィンダム兄弟は再び、自らの力で闘う場所を求めなければならなくなった。

そんな混沌とする2000年の秋、遠く離れた日本のマット界から、再び彼らに向けて熱烈なSOSのサインが送られる。 それは、かつてケンドールが洗礼を浴びた、あの全日本プロレスからの要請であった。

当時の全日本プロレスは、まさに歴史的な大転換期、破滅の危機に直面していた。 2000年半ば、三沢光晴を中心に、所属レスラーのほぼ全員が離退職し、新団体「プロレスリング・ノア」を設立。全日本に残されたのは、川田利明、渕正信、そして団体の象徴であるジャイアント馬場(前年逝去)の妻・馬場元子社長ら、わずかな人数であった。

「全日本の看板を、ここで潰すわけにはいかない」

渕の決死の新日本プロレスへの宣戦布告などにより、日本人戦線は何とか持ち直したものの、伝統の全日本プロレスのもう一つの柱であった「強力な外国人レスラー」の戦線は、ノアへの大量離脱によって完全に崩壊していた。かつてのウイリアムスやゴーディ、ハンセンといった「世界の強豪が集う全日本」のブランドを取り戻すためには、ネームバリューがあり、なおかつ崩壊した全日本のリングを技術で支えられる、本物のトップレスラーの補強が急務であった。

この、ノア旗揚げによって大きく揺れる全日本のピンチに、名門のプライドを携えて駆けつけたのが、バリー・ウィンダム&ケンドール・ウィンダムの「ウィンダム・ブラザーズ」であった。

2000年11月、ケンドールにとって実に8年ぶり、2度目となる「世界最強タッグ決定リーグ戦」への出場。今回は、ダニー・スパイビーのサポート役ではなく、WCW世界タッグ王者としての実績を持つ、兄バリーとの完璧な「兄弟チーム」としての参戦であった。

シリーズが始まると、ウィンダム兄弟は全日本のリングで圧倒的な存在感を放った。 すでにベテランの域に達し、全盛期のようなスピードこそ衰えていたものの、兄バリーが放つパイルドライバーやエルボーアタックの重み、そして佇まいだけで観客を魅了するオーラは健在だった。 そして何より、そのバリーの動きを完璧に予測し、対戦相手の猛攻をその大きな肉体で受け止め、絶妙なタイミングでカットに入るケンドールの「職人技」が、全日本のリングでこれ以上ないほどに機能したのである。 

リーグ戦では、全日本を支える川田利明や、新たに参戦してきたスティーブ・ウイリアムス&マイク・ロトンド(ケンドールにとっては義兄にあたる親族コンビ)のバーシティ・クラブ、太陽ケア&ジョニー・スミス組といった強豪たちと激突。

12月9日、運命の日本武道館最終戦。ウィンダム兄弟は、全日本の未来を担う荒谷望誉&奥村茂雄組と対戦した。 

試合は、荒谷らの必死の抵抗を、ウィンダム兄弟がアメリカン・プロレスの王道とも言えるインサイドワークで翻弄。

最後は、11分10秒、ケンドール・ウィンダムが雪崩式のバックドロップという豪快な一撃を完璧に炸裂させ、奥村からカウント3を奪取。見事に日本武道館のメイン級の舞台で、ウィンダム家の強さと健在ぶりを日本のファンに見せつけたのである。

リーグ戦全体の優勝こそ、ウイリアムス&ロトンド組に譲ったものの、大量離脱によってガラガラになるかと思われた全日本のリングを、その卓越した試合巧者ぶりで盛り上げ、興行としてのクオリティを死守したウィンダム兄弟の功績は、馬場元子社長をはじめ、全日本の関係者、そして古き良き王道プロレスを愛する日本のファンから、深い感謝とともに称えられた。

かつて父親ブラックジャック・マリガンが日本のファンの度肝を抜き、兄バリーが数々の名勝負を繰り広げた、日本という特別な地。 

ケンドール・ウィンダムは、そのプロレス人生の終盤において、兄とともに全日本プロレスの歴史的危機を救うという、極めて重要な「仕事」を成し遂げた。それは、彼が長年磨き続けてきた「職人としてのレスリング」が、世界で最も厳しい目を持つ日本のファンに対しても、最高の形で証明された瞬間であった。

重圧から解き放たれた職人レスラーの現在

全日本プロレスでの劇的なシリーズを終えた後、アメリカのプロレス界はWCWがWWFに買収され、一強時代へと完全に移行していった。 

時代の変化、そして長年の激闘によって肉体に蓄積したダメージを考慮し、ケンドール・ウィンダムは2002年、静かに現役を引退することを決意する。

1984年のデビューから約18年、四角いジャングルに捧げたレスラー人生の幕引きであった。

引退後の彼の動向について、プロレス界の表舞台でその名前を聞く機会は少なくなった。

しかし、彼は決してプロレスの絆を失ったわけではない。2002年の引退後、ケンドールはフロリダ州ブランドンへと移り住んだ。 

そこで彼は、自らの第二の人生として、最も信頼するパートナーである兄のバリー・ウィンダムとともに、新たな事業を立ち上げることになる。その事業とは、レスラー時代のタフさと経験を活かした「セキュリティ事業(警備・セキュリティ会社の運営)」であった。

テキサスの荒野からフロリダの海風へ、そして世界中のリングを渡り歩いた兄弟は、今度はリング上ではなく、フロリダの市民の安全を守るビジネスの世界で、再び強固なタッグを組んで堅実な毎日を送っている。

2026年の現在に至るまで、彼はそのブランドンの地で、かつてのプロレス界の喧騒から離れ、一人の誠実なビジネスマンとして、静かで満ち足りたセカンドキャリアを歩み続けているという。
ケンドール・ウィンダムのレスラー人生とは、一体何であったのだろうか。

歴史の教科書を開けば、彼の名前は「ブラックジャック・マリガンの次男」「バリー・ウィンダムの弟」という、血統の解説の付属物として片付けられてしまうことが多いかもしれない。

世界ヘビー級王座を何度も巻いた兄に比べれば、彼の獲得したタイトルの多くはフロリダのローカル王座や、WCWでの短いタッグ王座に過ぎない。

しかし、プロレスラーの真の価値とは、巻いたベルトの数だけで決まるものではない。

父が怪物であり、兄が天才であるという、常人であればそのプレッシャーだけで押しつぶされてしまうような過酷な運命の狭間に生まれながら、ケンドールは一度も腐ることなく、リング上での職務を全うし続けた。

ヒロ・マツダから学んだ基礎を頑なに守り、対戦相手を引き立て、自らも196cmの巨体で美しく舞い、激しく受ける。

2世レスラーという重圧、偉大なる血統の陰で、静かに、しかし誰よりも確かに職人のプライドを燃やし続けたテキサスのいぶし銀。 

ケンドール・ウィンダムが残した確かな足跡と、兄とともに歩んだ栄光の軌跡は、目の肥えたプロレスファンの心の中に、今も色褪せることのない名脇役の美学として、深く、深く生き続けている。








俺達のプロレスラーDX
第260回 GREAT MUTAの正体〜海賊版極悪忍者物語/トロイ・エンドレス【俺達のプロレスラーDX】








プロレスファンなら誰しも、心の中に深く刻まれた「謎の覆面レスラー」や「異形なる怪人」の記憶があるだろう。



だが、今から四半世紀近く前、2002年の新日本プロレスのリングに突如として現れ、ファンの誰もが困惑し、首をかしげ、やがて時代の狂乱の中に消えていった「あの男」の正体を、正確に記憶し、その壮絶な背景まで語れる者がどれほどいるだろうか。



2002年9月。武藤敬司が小島聡やカシン、さらには多数の会社スタッフを引き連れて全日本プロレスへと電撃移籍し、団体の象徴とエースを一度に失って崩壊の危機に瀕していた新日本プロレスのリングに、信じがたい男が降臨した。


「GREAT MUTA」——。



全日本プロレスの社長に就任した武藤敬司の化身であり、世界のプロレス界にその名を轟かせる悪魔の化身。それが、なぜか武藤の去ったはずの新日本プロレスのリングに、何事もなかったかのように堂々と姿を現したのだ。



顔面には不気味なペイントとマスク、そして本物のムタを思わせる禍々しいオーラ。



しかし、その身体つきは武藤敬司本人よりも明らかに一回り大きく、重厚で、繰り出される技の数々は本物のしなやかさとは対極にある「力任せの圧倒的破壊力」に満ちていた。



ファンやプロレスメディアは、この男を冷ややかな視線と困惑を込めてこう呼んだ。




 「偽物ムタ」 
「GREAT MUTA USA」



新日本プロレスと武藤敬司との間の「商標権」を巡る醜い対立が生み出した、異形の刺客。さらにこの男は、元・平成維震軍の星野勘太郎総裁率いるヒールユニット「魔界倶楽部」の黒覆面集団・魔界一族の急先鋒「魔界3号」としてもリングを荒らし回ることとなる。



では、問いたい。 


この「偽物ムタ」のマスクとペイントの下にいた男の素顔と、彼がプロレスラーになるまでに辿った苛烈な道のりを、あなたは知っているだろうか?


単なる使い捨ての影武者? 
どこからか連れてこられた素性不明の素人やアルバイトレスラー?



答えは、断じて「ノー」である。


偽物ムタ、そして魔界3号の正体——それこそが、アメリカ・ペンシルベニア出身のプロレスラー、トロイ・エンドレスであった。


彼は、全米最高峰のプロレス団体WCWが誇る過酷な育成機関「パワープラント」において、人間性の否定から始まる地獄のスパルタ教育を耐え抜き、メガトン級のパワーと確かなレスリングの基礎を叩き込まれた、文字通りの「エリート級のプロレスラー」だったのだ。



なぜ彼はプロレスラーを志し、いかにして地獄の訓練を耐え抜いたのか? 

なぜ彼は「偽物のグレート・ムタ」屈辱的な肩書を背負って日本へ渡らなければならなかったのか? 




知られざる「偽物ムタ」GREAT MUTAの正体。 



トロイ・エンドレスのプロレスラー誕生物語と壮絶なレスラー人生、そしてその仮面の下に秘められた誇り高きレスラー魂を、我々は今こそ深く紐解かなければならない。


★ペンシルベニアの巨漢と地獄の虎の穴〜トロイ・エンドレスがプロレスラーになるまで〜


「偽物ムタの正体は、いかにしてプロレスラーになったのか?」



この問いに答えるためには、時計の針を1980年代から90年代のアメリカ合衆国、ペンシルベニア州の静かな街へと巻き戻さなければならない。



1968年7月、ペンシルベニア州ウォーレンに生まれたトロイ・エンドレスは、神から与えられたような巨躯を持っていた。


地元のタイタスビル高校時代は、その強靭な肉体を武器にアメリカンフットボールやアマチュアレスリングの部活動で躍動。


周囲の目を引く大型アスリートとして頭角を現していた。しかし、1986年に高校を卒業した後のトロイは、その溢れるエネルギーの使い道を誤ってしまう。


大学へは進学せず、ジョージア州へと移り住んだ彼は、まともな職に就くことなく裏社会の暗い影へと足を踏み入れる。


複数の警察官を含む凶悪な窃盗・強盗グループに加担した彼は、アダルトクラブの金庫強奪や、大手ホームセンターへの銃器を用いた襲撃など、数々の犯罪に手を染めていった。

破滅への道は早く、1993年に武装強盗の罪で逮捕。1994年11月、裁判所から言い渡されたのは、人生の黄金期を奪い去る「禁錮10年」の重い判決だった。


冷たい鉄格子の内側で、トロイは己の過去を猛省し、更生を誓った。


模範囚として早期釈放を勝ち取り、再びシャバの空気を吸ったとき、20代後半となった彼の手には何も残されていなかった。


前科者という重い十字架を背負いながら、人生で初めて真面目に打ち込み、ゼロからやり直すために選んだ道――それこそが「プロレス」だった。


1990年代後半、全米プロレス界はWWFとWCWが血で血を洗う視聴率戦争「マンデー・ナイト・ウォーズ」の真っただ中。メディア王テッド・ターナーの資金力を背景に、WCWがアトランタに設立した新人育成施設こそが、伝説の虎の穴「WCWパワープラント」である。

更生とプロレスラーへの夢を叶えるために彼は2000年、アトランタへ向かい、同年のうちにパワープラントの門を叩いた。


しかし、そこに待っていたのは「プロレスの華やかさ」など微塵もない、徹底的な絶望と肉体の破壊であった。


パワープラントは、当時のアメリカプロレス界において「最も恐ろしい拷問施設」としてレスラー志願者たちに忌み嫌われていた場所である。



主任教官を務めていたのは、「サージェント(軍曹)」の異名を持ち、自らも過酷な叩き上げであるバディ・リー・パーカーや、元WWFの大スターであり昭和プロレスの理不尽なスパルタ精神を体現するポール・オーンドーフであった。


教官たちの至上命題は「生半可な気持ちで入ってきた男たちの精神を挫き、全員逃げ出させること」であった。



パワープラントの一日は、早朝からの狂気的な基礎補強から始まった。 千回を超える連続スクワット、狂気的な数の腕立て伏せ(プッシュアップ)、腹筋、そして炎天下の砂利道での無限ダッシュ。教官たちはパイプ椅子を持ち、大声を張り上げて志願者たちを罵倒し続ける。



「お前らのような甘ちゃんがプロレスラーになれると思うな!」 
「ゲロを吐いたらそれを呑み込んで走り続けろ!」



体力が限界に達した後に待っているのが、マット上での容赦のない受身訓練とスパーリングであった。硬いマットの上に何度も何度も背中から叩きつけられ、全身の筋肉と関節が悲鳴をあげ、皮膚が擦り切れる。


毎日のように志願者が過呼吸を起こして倒れ込み、足腰の激痛に耐かねて夜中に荷物をまとめて夜逃げしていく。


100人の志願者が入っても、数ヶ月後に残っているのはわずか1人か2人という、正真正銘の地獄であった。


だが、トロイ・エンドレスはこの拷問のような日々に耐え抜いた。


フットボールとアマレスで培った頑丈な下半身と心肺機能、そして何よりも「何が何でもレスラーとして大成してやる」という執念。



トロイは教官たちの罵詈雑言を耐え忍び、スクワット千回をやり抜き、受身の衝撃を全身で受け止め続けた。



このパワープラントという地獄を生き残った男たちの名前を見れば、トロイが置かれていた環境のレベルの高さが理解できるはずだ。


ビル・ゴールドバーグ、ザ・ジャイアント、ショーン・オヘア、マーク・ジンドラック、チャック・パルンボ……。



アメリカのプロレス界を背負って立つこととなるメガトン級のモンスターたちが、トロイのすぐ横で汗と血を流していたのだ。



教官たちも、黙々と厳しい練習をこなし、メキメキと頭角を現すトロイの潜在能力を認めざるを得なくなった。


トロイの最大の魅力は、圧倒的な筋力から繰り出されるパワー技であった。


110kgの巨体でありながら、バランス感覚に優れ、対戦相手をまるで丸太のように頭上高く持ち上げる「ミリタリープレススラム(ゴリラプレス)」のフォームは、美しくかつ凶暴であった。



さらに、インサイドでのバックボーンがしっかりしているため、相手の激しい攻撃を受け止めてもビクともしない頑丈さを備えていた。


地獄のパワープラントを生き抜いたトロイに、教官や関係者は期待を寄せていた。


パワープラント仕込みの確かな技術と110kgの重厚な肉体。近いうちにメジャーのTVショーに絡んでくるであろう「期待のパワーファイター」として、ようやくプロレスラーとしての栄光の道が開かれようとしていた。


だが、デビューの夢が掴み取ろうとしたその瞬間、プロレス史に残る大異変がトロイの頭上に降り注ぐ。


2001年3月。激しい視聴率戦争と放漫経営の果てに巨額の赤字を垂れ流したWCWが、最大のライバル団体WWF(現WWE)に買収され、一夜にして完全崩壊したのだ。



巨大なプロレス帝国が一瞬にして消滅し、パワープラントも閉鎖。デビューの機会を待っていたトロイら多くの若手レスラーは、一方的に梯子を外され、野に放たれてしまう。



経営陣の失敗によって、夢見たリングそのものを奪われる絶望。



しかし、地獄の獄中生活をも生き抜いてきたトロイの胸に灯った情熱は消えなかった。



彼は2001年、アトランタを拠点とするサテライト的インディー団体「NWAワイルドサイド」へと活路を見出す。ここで巨漢ヒール「オーメン」のリングネームを名乗り、ついに念願のプロレスラーデビューを果たしたのだ。



這い上がった実戦のマットで、過去をすべてぶつけるような荒々しいファイトを展開し、地道に実戦経験を積み上げていった。


そして2002年、どん底から自らの腕一本で生き残る道を模索し続けていたトロイのもとに、太平洋を隔てた東洋のジパング――日本から、一つの「怪しいオファー」が届くこととなる。


★2002年、新日本と武藤の確執が生んだ狂気〜新日本で、新たなGREAT MUTA出現 


「偽物ムタ」という前代未聞のキャラクターは、いかにして誕生したのか。


その背景には、2002年の新日本プロレスが抱えていたドロドロとした愛憎劇と政治的思惑が存在していた。


2002年1月、新日本プロレスのエースであった武藤敬司が全日本プロレスへと電撃移籍した。長年団体を支えてきた看板スターの離脱は、新日本プロレスに計り知れないダメージを与えた。


さらに、創始者アントニオ猪木が推し進める格闘技路線によって、新日本のリングは激しい混乱の渦中にあった。PRIDEやK-1のファイターに苦戦を強いられるプロレスラーたち。


プロレスのプライドが揺らぐ中、新日本プロレスのフロント陣や猪木が目をつけたのが、武藤の代名詞である極悪忍者「THE GREAT MUTA(グレート・ムタ)」というキャラクターの商標権であった。



「グレート・ムタ」の名称や意匠権が新日本プロレス側にあることを盾に、団体は武藤への対抗策、そして混迷するリングへの話題作りとして、本家とは異なる「もう一人のムタ(GREAT MUTA)」の投入を画策する。


その刺客として白羽の矢が立ったのが、WCWパワープラント出身のアメリカ人レスラー、トロイ・エンドレスだった。


身長183cm、体重110kgの頑強な肉体を持つトロイは、新日本プロレスからのオファーを、メジャーのリングで自らの力を証明する千載一遇のチャンスと捉えて2002年秋に全面降臨する。


彼に与えられた役目は、武藤敬司への権利誇示を目的とした「アメリカ版のグレート・ムタ(GREAT MUTA USA)」としてリングに立つことだった。


成功すれば「本物を超えた存在」になれるかもしれないが、失敗すれば「武藤の偽物」として冷笑されるリスクを孕む二面性を持っていた。


しかし、トロイ・エンドレスに迷いはなかった。「ペイントやギミックがどうであれ、リング上で圧倒的なファイトを見せれば、日本の観客は俺を認めるはずだ」とパワープラントで培ったプロレスラーのプライドを胸に、彼は過激な新日本マットへと足を踏み入れたのである。





★110kgの重戦車〜海賊版GREAT MUTAが魅せた「本物」のパワー〜

2002年9月16日、新日本プロレス愛知県体育館大会。超満員の観客が見守る中、おどろおどろしい顔面ペイントと不気味なマスクを融合させた男がリングに舞い降りた。


「GREAT MUTA」——。


会場内を包み込んだのは、歓声というよりも「困惑」と「息をのむ静寂」であった。武藤敬司が去ったはずのリングに、なぜムタがいるのか? 


ファンは「海賊版だ」「偽物だ」と半信半疑の視線を送った。


だが、試合が始まると、観客の空気は一変する。リング上のトロイ・エンドレスは、本家のムタが持つ独特の不気味な佇まいを模倣しつつも、武藤本人のしなやかさとは全く異なる、怒涛の「パワーファイト」を展開したのだ。



110kgの巨体から繰り出されるラリアット、ショルダータックル。相手をコーナーへ叩きつけ、喉元を締め上げる凄惨な攻撃。


それは、まさにWCWのモンスターそのものであった。さらに、トロイは星野勘太郎総裁率いる「魔界倶楽部」の急先鋒「魔界3号」のマスクマンとしてもリングを暴れ回る。


彼は、元スーパー・ストロング・マシンである実力者魔界1号(平田淳嗣)や、巨体ながら空中戦もこなす魔界2号(筑前りょう太)らと共闘し、新日本正規軍を恐怖に陥れた。


トロイの最大の武器は、パワープラント仕込みの圧倒的なパワーを証明する「ミリタリープレススラム(ゴリラプレススラム)」であった。



対戦相手のタイツと腰を掴み、100kgを超える新日本の生え抜きレスラーたちを己の頭上高く、腕を完全に伸ばした状態で数秒間リフトアップしてみせる。そこから容赦なくマットへ叩きつける規格外のパワーに会場はどよめいた。


そして、彼がここ一番で試合を終わらせるために放った必殺のフィニッシュホールドこそ、「トルネード・クローズライン(変型チョークスラム/バッドオーメン / エンドリザルト)」である。



巨体を生かして相手の喉元を片手で掴み上げ、高角度からマットへ文字通り圧殺するように叩きつけるこの破壊兵器の前に、当時の新日本の若手や中堅レスラーたちは沈むこととなった。



棚橋弘至、吉江豊、飯塚高史、鈴木健想、中西学——。 当時の新日本を支えていたレスラーたちにとっても、トロイの規格外のパワーと、どんな攻撃を受けても揺るがない打たれ強さは、脅威以外の何物でもなかった。



特に、若き日の棚橋や、タッグパートナーであった魔界1号(平田淳嗣)との重厚かつ殺伐とした攻防、そして見事なタッグワークは、チームの主軸として機能していた。


「あの海賊版ムタ、中身はただ者じゃないぞ」



当初は「偽物」と冷ややかな目を向けていた玄人筋のファンや関係者たちも、トロイ・エンドレスの実力を認めざるを得なくなっていた。



「武藤へのあてつけ」という歪んだ動機で用意された仮面。だが、トロイはその役割に対して一切の手抜きをせず、WCWパワープラントの誇りを胸に、毎試合全力を叩きつけていたのだ。



仮面の下で荒い息を吐き、汗を流しながら、彼は間違いなく2002年秋の新日本プロレスにおいて、圧倒的な存在感を放つプロレスラーであった。


2002年10月14日、東京ドーム大会。トロイは天山広吉とのシングルマッチで対戦。その全貌を現したムタは、本家のしなやかさとは異なる怒涛のパワーファイトを展開。必殺の「トルネード・クローズライン(変型チョークスラム)」で天山を沈め、東京ドームに大きなどよめきと困惑を巻き起こしたのだ。

★2002年10月、散り際の悲劇〜17試合の閃光と砕かれた膝〜



しかし、プロレスの神様は、時にあまりにも酷で、残酷な結末を用意する。


2002年10月14日、東京ドーム大会。ジョーニー・ローラーの刺客「GREAT MUTA」として天山広吉に圧勝したトロイ・エンドレス。


その圧倒的なインパクトのまま、彼はジョーニー・ローラーとの最凶外敵コンビを結成し、蝶野正洋&天山広吉組が保持するIWGPタッグ王座への挑戦へと一気に名乗りを上げた。


この日米規格外コンビによる王座強奪計画は、当時の新日本マット最大の注目を浴びていた。


ドーム以降、トロイは星野勘太郎総裁率いる魔界倶楽部の「魔界3号」のマスクマンとしても降臨。


安田忠夫らとともにレギュラーの通常タッグマッチや前哨戦で暴れ回り、新日本正規軍を凄まじいパワーで圧倒し続けていた。


しかし、全国を巡業する過酷なハードスケジュールの中、110kgの巨体で日本のレスラーたちの激しい技を受け止め続けたトロイの肉体には、確実に目に見えない疲労とダメージが蓄積していた。



そして、運命の10月下旬。『GREAT MUTA & ジョーニー・ローラー』でのIWGPタッグ王座挑戦を目前に控えた、通常のタッグマッチの最中に最悪の悲劇が襲いかかる。



試合中の激しい攻防の最中、トロイの右膝に破壊的な衝撃が走った。相手の攻撃を受け止めた瞬間、右膝が怪しい音を立てて関節から外れたのだ。



診断の結果は、右膝の脱臼、および深刻な靭帯断裂。110kgの体重を支え、豪快なミリタリープレススラムを放っていたトロイの下半身の軸が、一瞬にして砕け散った。



立っていることすら不可能な激痛。続行不可能——。



この悲劇的な負傷により、GREAT MUTA&ジョーニー・ローラーによるIWGPタッグ王座挑戦は無念の幻に終わった。



10月27日の神戸大会で予定されていたタイトルマッチは急遽カード変更を余儀なくされ、負傷したトロイの代役として、東洋の神秘ザ・グレート・カブキがローラーのパートナーへスライド出場することとなったのだ。



治療のため、急遽アメリカへと帰国したトロイ・エンドレス。彼は再びリングに立つため、精密検査と手術、そして血の滲むようなリハビリに取り組んだ。



しかし、脱臼によって破壊された右膝の組織が元通りになることはなかった。



110kgの体を以前のように躍動させる筋力と耐久性は、二度と戻らなかったのだ。



2002年9月16日のデビューから、10月の絶望的な負傷離脱まで。トロイ・エンドレスが新日本プロレスのリングに残した公式記録。



実動期間:わずか約2ヶ月間。通算試合数:17試合。通算戦績:7勝9敗1分。わずか2ヶ月。



17試合。


「海賊版ムタ」として叩かれ、魔界3号として暴れ回り、これから日本で、そして世界で大花を咲かせるはずだった33歳という若さ。


トロイ・エンドレスは、この膝の惨劇によってプロレスラーとしてのキャリアを完全に絶たれ、志半ばで静かに現役引退へと追い込まれたのである。



嵐のように現れ、新日本マットを揺らし、そして怪我によって彗星のごとく去っていった男。17試合という数字は、プロレスの歴史においてはあまりにも小さな点かもしれない。だが、その2ヶ月間に彼が見せた圧倒的なファイトと汗は、決して偽物などではなかった。




★友へ託された「GREAT MUTA」と誠実な第二の人生



無念の引退を余儀なくされたトロイだったが、彼が遺した爪痕は、思いもよらない形でその後のプロレス史へと受け継がれる。



2004年、ライバル団体である全日本プロレスのリングに、再び「偽グレート・ムタ」が降り立った。



その正体は、WWEを解雇されたばかりのアメリカ人レスラーであり、トロイと過酷なWCWパワープラントで血と汗を流し、互いに切磋琢磨した無二の親友、ジョニー・スタンボリーであった。


日本での新たな活躍の場を模索していた親友に対し、トロイは自らの経験をもとに「本物の武藤敬司がいる全日本のリングで、俺が新日本でやったような『もう一人のムタ』をやれば、絶対に話題になる」とアドバイスを送り、自らのノウハウと果たせなかった夢を友へと託したのだ。




こうして全日本に参戦したスタンボリーは暴れ回り、ついに2004年12月5日、両国国技館大会で「本物の武藤敬司(グレート・ムタ)対 偽グレート・ムタ」という歴史的なシングルマッチを実現させる。



トロイが怪妙によって叶えられなかった「本家・武藤敬司との激突」は、パワープラントの絆で結ばれた親友の手によって見事に結実した。



トロイ・エンドレスが蒔いた種は、確かに日本のプロレス史に大きな花を咲かせたのだ。



プロレス界の表舞台から完全に退いたトロイは、その後、再び荒れた生活に戻ることは決してなかった。



生まれ育ったペンシルベニア州や、のちに暮らしたジョージア州などで民間企業に勤務しながら、一般人として静かに第二の人生を送っていた。



かつて過ちを犯したからこそ、彼は地元のコミュニティに深く溶け込み、家族や友人を大切にする、非常に真面目で穏やかな生活を何よりも重んじていた。



周囲の人々は、彼を一人の誠実な市民、そして愛する娘を持つ優しい父親として慕っていた。だが、運命はどこまでもこの男に酷であった。


2014年8月3日、アメリカのジョージア州からあまりにも悲しい報せが届く。



トロイ・エンドレスが不慮の自動車事故に巻き込まれ、46歳という若さで、あまりにも早すぎる理不尽な最期を迎えたという訃報であった。


彼の生涯を振り返った時、プロレスラーとしての全盛期を膝の爆発によって奪われるなど、常に時代の波と不運がつきまとっていたかもしれない。



しかし、関係者たちは「トロイは非常に真面目で、優しく、誰よりもプロレスを愛した誇り高き男だった」と口をそろえる。



46歳でこの世を去った男。彼の死が世界中のプロレスニュースのトップを飾ることはなかったかもしれないが、彼が新日本で放った一瞬の煌めきは、決して消えることはない。不運に負けず命を懸けて体現した「プロレスラーのプライド」は、今もファンの記憶の中に鮮烈に生き続けている。


★暗黒期の新日本プロレスに現れた海賊版極悪忍者「GREAT MUTA」の正体



トロイ・エンドレスというプロレスラーの存在を知った今、あなたの中にどんな思いが駆け巡っているだろうか。


「武藤敬司の偽物」
 「海賊版ムタ」 
「2002年の新日本暗黒期に2ヶ月だけいた覆面レスラー」




表面的なプロレスの歴史データベースは、彼のキャリアをそうした味気ない言葉で処理してしまうかもしれない。



しかし、私はこう言いたい。

トロイ・エンドレスは、決して「偽物」などではなかった!



彼が被された「GREAT MUTA USA」や「魔界3号」というマスクやペイントは、確かに団体の政治的都合や「権利の盾」として与えられた記号に過ぎなかったかもしれない。



だが、その仮面の下にあったトロイの肉体、WCWパワープラントの血と汗の結晶である110kgの鋼の身体、そして対戦相手を頭上高く掲げ上げたミリタリープレススラムの圧倒的な迫力は、間違いなく「本物のプロレスラー」の誇りそのものであった。



プロレスとは、スポットライトを浴び続ける超スーパースターだけの世界ではない。



時代の渦に巻き込まれ、大人の事情で不本意な役柄を押し付けられ、それでもリングに上がれば一切の手抜きをせず、膝が砕け散るまで技を受け切り、静かに去っていった男たち。



そうした「影の男たち」の無念さと情熱の積み重ねがあるからこそ、プロレスというジャンルはこれほどまでに深く、切なく、そして愛おしいのだ。


彼は「GREAT MUTA」としてリングで生きた2002年秋の17試合に、己のレスラー人生のすべてを賭けた。


「海賊版ムタの正体は、こんなにも凄く、こんなにも哀しく、そしてこんなにも誇り高いプロレスラーだったんだ」


この記事を読み終えたあなたが、2002年、暗黒期の新日本プロレスの映像を見返した時、漆黒の仮面を被った魔界3号の中に、そして海賊版ムタの中に、熱く燃えるトロイ・エンドレスの魂を感じ取っていただけたなら、これ以上の喜びはない。


暗黒の新日マットに彗星のごとく現れ、一瞬の閃光を放って散っていった男。



仮面を被り、極悪忍者を演じ、膝を砕かれながらも、最期までプロレスラーとしての誇りを捨てなかった男。


トロイ・エンドレス。
彼が遺した命の輝きとレスラー魂を、我々は永遠に忘れない。






俺達のプロレスラーDX
第259回 主役を引き立てることにすべてを捧げた男の誇り/デビッド・アイズリー



「プロレスにおける『負ける』とは、単なる敗北ではない。それは、勝者を光り輝かせるための、最も残酷で、最も高潔な『自己犠牲の芸術』である」

アメリカン・プロレスの歴史を見渡したとき、そこには眩いばかりのスポットライトを浴び、何万人もの大観衆を熱狂させた「選ばれしメガスター」たちが君臨している。

しかし、その輝かしい主役たちの足元には、彼らがスターへと駆け上がるための「踏み台」となり、あるいは時代の要請によって奇妙なギミックを押し付けられ、歴史の闇へと消えていった数多の「名脇役」たちが存在する。

アメリカでは彼らのことを敬意を込めてこう呼ぶ。

「エンハンスメント・タレント(引き立て役)」、親しみを込めて「ジョバー」と。

今回、考察する男は、まさにその「ジョバー」という名の影の芸術を極めた男。


全日本プロレスファンにとって、彼の名前は「1992年春の全日本プロレス」であまりにも惨めな、あまりにも脆すぎる「ダメ外国人レスラー」として記憶されているかもしれない。


男の名は、デビッド・アイズリー。


「1992チャンピオン・カーニバル」

世界トップクラスの過酷なリーグ戦にエントリーしたアイズリーのBブロック公式戦の戦績は、0勝9敗。勝ち点なしの全敗。 

177cm、100kgのプロレスラーとしては決して大きくない男は来る日も来る日も彼は負け続けた。


しかもあっさりと。




結果だけを見れば、歴史の教科書の片隅に追いやられるべき「敗者」だ。

しかし、彼が近年、ポッドキャストなどのインタビューで語った言葉の数々は、我々が抱いていた「ダメ外国人レスラー」というレッテルを根底から覆す、涙が出るほど熱いプロレスへのリスペクトと、一人の職人としての誇りに満ちあふれていたのだ。

記録はボコボコ、しかし本人の記憶の中では黄金。 
主役を引き立てることにすべてを捧げた男が、日本の地で掴んだ「本当の誇り」とは何だったのか。
これは誰よりもプロレスというジャンルを愛したデビッド・アイズリーの物語。

デビッド・アイズリーがプロレスラーになるまで


多くのアメリカのインディー職人がそうであるように、デビッド・アイズリーの正確な生年月日や少年時代の詳細な記録は、プロレス界の歴史の闇に半ば隠されている。

アメリカのデータベースには1962年生まれと記録されているが、何月何日に生まれたのかは不明。

アメリカ ・ノースカロライナ州で生まれ育ったアイズリー。彼はアメリカの著名なプロレス雑誌『プロレスリング・イラストレーテッド』を手にしたことで、プロレスに強い興味を持つようになり、テレビに映るハーリー・レイスやワフー・マクダニエルといった、男臭いレスラーたちの肉体言語に魅了されて育った。 

彼はそうした華々しいスポーツのバックボーンは一切なく、テレビや雑誌でプロレスに魅了された、ごく普通のプロレスファン少年だった。

高校卒業してから数年間、地元のノースカロライナ州コンコード近辺で一般の仕事をしていたアイズリーは当時、住んでいた地域は「ミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)」と呼ばれるプロレスの超盛んなエリア。

彼は仕事をしながら、毎週のように地元のシャーロット・コロシアムなどの会場へ足を運び、客席からプロレスを熱心に観戦していました。



1984年、アイズリーはプロレスに関わるため、ノースカロライナ州シャーロットに在住していた人気レスラーのリッキー・スティームボートが経営するジムでパートタイムのスタッフとして働き始める。
ここで働きながらスティームボート一家と親しくなり、ジムに出入りするロディ・パイパー、スコット・ホール、ダニー・スパイビーなどのトレーニングを間近で見ることで、プロレスに必要な体作りや技術を学んでいった。
ジムでの下積みを経てネルソン・ロイヤルのジムに入門し、1985年に正式デビューを果たした。

ミッドアトランティックの影に潜む「雷の足」

NWAの総本山の一つであり、ジム・クロケット・プロモーションズが絶大な権力を誇っていたミッドアトランティック地区。

ここで彼は黒いマスクを被り、「サンダーフット1号」と名乗ってリングに上がった。

「サンダーフット1号」 

悪の手先としてリングに潜み、その鋭いキックとインサイド・ワークでトップスターを脅かす、恐怖の暗殺者。

のちにボビー・ジャガーズらが「2号」を演じ、タッグチームを結成することになるこのキャラクターにおいて、アイズリーは「1号」として確かなワークレート(試合構築能力)を発揮した。


 彼のレスリング技術は確かだった。小柄な体躯をカバーするための素早い足捌き、相手の攻撃を綺麗に、そしてダイナミックに受けてみせるバンプ(受身)の技術。

そして何よりも「ヒール(悪役)として、いかにベビーフェイス(善玉)のスターを輝かせるか」というプロとしての嗅覚がずば抜けていた。

その実力が認められ、ある時期には、あの「地獄の呪術師」アブドーラ・ザ・ブッチャーとタッグを結成。

当時、全米でアイドル的な人気を誇っていたリッキー・モートン&ロバート・ギブソンの「ロックンロール・エクスプレス」が保持するNWA世界タッグ王座に挑戦するという、キャリアのハイライトを迎える。 

ブッチャーの圧倒的な狂気と無軌道な凶器攻撃の裏で、アイズリーは細かく試合をコントロールし、ロックンロール・エクスプレスのハイスピードな連携を引き立てる役割を完璧に全うしたのだ。

しかし、アメリカのマット界が徐々にテレビショー化し、WWF(現WWE)による全米インベージョン(侵略)が本格化すると、レスラーの「記号化」が急速に進んでいく。177cmのアイズリーの役割は、徐々に「悪のトップスター」から、別の重要なポストへとシフトしていくことになる。それこそが、彼の代名詞となる「名うてのジョバー(やられ役)」としての生き道だった。

メジャー団体のキャンバスを磨く男~WWF・WCWのテレビマッチと、相棒との奇妙な縁~

1980年代末から90年代初頭にかけて、アイズリーはマスクを脱ぎ、素顔の「デビッド・アイズリー」として世界最大のメジャー団体WWF、そしてテッド・ターナーの資本によって誕生したWCWのリングに頻繁に登場するようになる。

しかし、テレビ画面に映し出される彼の姿は、ベルトを争うスターのそれではない。彼の役割は、新しくデビューした怪物や、プッシュされているトップスターの「強さを100%観客に知らしめるための踏み台」――すなわちエンハンスメント・タレントだった。


アメリカのテレビマッチにおいて、彼は徹底的に叩きのめされた。技を出す機会すらほとんど与えられず、怪物のパワー、怪物のスピード、怪物の必殺技をその身にすべて受け止め、リング中央で美しく散っていく。画面の向こうにいる何百万人のファンにとって、彼は名前すら気留められない「名無しの存在」に過ぎなかった。  

だが、バックステージにおける業界内、プロモーターやプロデューサーたちからの評価は、一般ファンのそれとは真逆だった。

 「デビッド・アイズリーを相手にすれば、どんなに不器用な怪物でも、最高のトップスターに見える」 
「彼は安全に、かつ最も効果的に相手の技を受け止めてくれる、最高の職人だ」

彼は自らのプライドを「勝つこと」ではなく、「相手を100%に輝かせ、プロレスというビジネスを成立させること」に置いていたのだ。


そして運命の1992年、春。
アイズリーはジャイアント馬場率いる、全日本プロレスへの初来日。 しかも、伝統あるシングルリーグ戦『チャンピオン・カーニバル』へのエントリーだった。

アメリカでは名無しの存在だったジョバーが、ついに世界の表舞台でシングルプレイヤーとしてスポットライトを浴びるチャンスを掴んだのだ。
しかし、彼を待っていたのは、アメリカのエンタメ路線とは根底から異なる「王道プロレス」の厳しさだった。

1992年・王道の無慈悲なる洗礼~チャンピオン・カーニバル全敗~ 

1992年の全日本プロレス『チャンピオン・カーニバル』。 それはプロレスファンの間で「史上最も過酷なリーグ戦の一つ」として語り継がれている。


絶対王者・ジャンボ鶴田が健在であり、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太の「超世代軍」が、時代の主権を握るために牙を剥き、外国人サイドではスタン・ハンセン、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムスらが「殺るか殺られるか」の超パワーファイティングを展開していた、世界で最も激しいリングである。

このリーグ戦において、初来日の外国人二人は、それぞれAブロックとBブロックに別れてエントリーされた。 Aブロックに入ったマスター・ブラスター(アル・グリーン)が、「0勝8敗1不戦勝」という、ジョー・ディートンの負傷欠場による不戦勝のみという「実質全敗」の醜態を晒し、三沢光晴に1分26秒で秒殺されてファンの失笑を買った。


しかし、Bブロックにエントリーされたデビッド・アイズリーを待っていた運命は、ある意味で本当の「絶望」だった。

なぜなら、彼が残した公式戦の最終戦績は、これだったからだ。

「0勝9敗(勝ち点0)」

不戦勝による勝ち点すら一切なし。

正真正銘、「全敗」。

 スタン・ハンセン、スティーブ・ウィリアムス、ダニー・スパイビー、川田利明、小橋健太……。

Bブロックを占める怪物たちの高い壁の前に、177cmのアイズリーの肉体は、ただただ破壊され、キャンバスへ沈み続ける日々を送ることになった。

その「脆さ」が、日本のファンの記憶に決定的なトラウマ、あるいは強烈な「失笑」として焼き付いてしまったのが、1992年4月10日の大分大会。

対戦相手は、「デンジャラス・K」と呼ばれ、容赦のないキックと危険なスープレックスでプロレス界を震え上がらせることになる、超世代軍の川田利明。

アメリカでのテレビマッチと同じように、トップスターを引き立てようとリングに上がったアイズリー。しかし、全日本プロレスのトップ戦線が展開するスピードと、一撃一撃の「痛みの重さ」は、彼の想像を遥かに超えていた。

アイズリーは、ゴングと同時に川田へ奇襲を仕掛る。威力のないドロップキックを受け止めた川田が、ラリアット、ステップキックから一気にストレッチ・プラムへと繋ぎ、何もさせないまま勝利。

41秒、ストレッチプラムでギブアップ負け。いわば秒殺である。

 メインイベントやセミファイナルで、30分、40分と血反吐を吐くような大熱戦を展開していた当時の全日本において、外国人のヘビー級レスラーが、何の見せ場も作れずにわずか41秒で心を折られてタップアウト。

デビッド・アイズリーという名前は、当時の日本のファンの間で「歴史的な最弱ダメ外人レスラー」として刻まれてしまったのである。

Bブロックにおけるアイズリーの苦難は、川田戦だけにとどまらなかった。彼にとって、最も「恐怖」という名の洗礼を浴びることになったのが、4月9日に岡山大会で行われた不沈艦スタン・ハンセンとの公式戦だった。

当時のハンセンは、全日本プロレスの外国人エースとして、その圧倒的な破壊力でリングを支配していた。小柄で、アメリカではジョバーとしてしか扱われていないアイズリーに対し、不沈艦が手加減をする理由などどこにもなかった。


アイズリーにとってまさに「生き地獄」のような猛攻を受ける展開となった。

ハンセンは小柄なアイズリーに対し、序盤から左腕をアームロックで容赦なく絞めあげる。場外に連れ出されると、椅子や机を投げつけられる荒々しいラフ攻撃に晒されました。最後はハンセンの代名詞である強烈なウエスタン・ラリアットを叩き込まれ、アイズリーの惨敗に終わった。



文字通りの完全なリンチマッチ。

アイズリーは、全日本のトップ戦線の「格の違い」を、その全身の痣と痛みによって思い知らされたのである。

しかし、そんな「0勝9敗・勝ち点0」という惨烈極まるリーグ戦の裏側で、デビッド・アイズリーという一人の職人レスラーが、小さな、しかし確かな「爪痕」を残していた事実を、我々は忘れてはならない。

それは、リーグ戦の合間に行われた、前座の通常試合(タッグマッチなど)での出来事だった。

 対戦相手のリングの向こうにいたのは、当時、全日本プロレスの生え抜き若手としてデビューして間もなかった井上雅央だった。

リーグ戦では大物たちの前に何一つ技を出せずに秒殺されていたアイズリーだったが、キャリアの浅い若手の井上との対戦では、デビュー前に培ったフットボールやアマレスのバックボーン、そしてアメリカで磨き上げてきた「ドッシリとしたプロレスの基礎」を遺憾なく発揮したのだ。 

井上の必死のエルボーを受け止め、プロとしての高い壁となって立ちはだかる。そして試合の終盤、アイズリーは自らの肉体を翻し、美しい軌道を描くバックドロップで3カウントを奪った。


リーグ戦では1勝もできず、ファンから「ダメ外人」と笑われた男が、前座のリングでは全日本の未来の職人である井上に「プロの厳しさと重み」を教える、見事な白星を挙げていたというこの事実。 


彼はただの弱いハリボテではなかった。177cm、100kgというハンデを背負いながらも、相手が若手であれば、きっちりとプロの技術でねじ伏せることができる、確かな実力を持った「プロフェッショナル」だったのだ。

アメリカに戻ったアイズリーはレギュラーとしてテレビマッチに登場していたWCWやWWF(現WWE)といった全米規模の大手メジャー団体には戻らず、1990年代後半以降は出身地であるノースカロライナ州などのローカルインディー団体で、本名や覆面レスラー「サンダーフット」として細々と試合を続けていた。


2005年に、往年のレジェンドやベテランたちが集うファンイベント『レッスル・リユニオン』の興行に参戦したのを最後に、リングから足を洗った。


プロレスから引退したアイズリーはフィットネスやボディビルディング、健康管理ビジネスに関わるようになる。

またセキュリティ・警備関連の業務レスラーとしての屈強な体格を活かし、民間のセキュリティ会社や警備・ボディガード関連の仕事にも就いていた。

アメリカのプロレスラーでは引退後にそのガタイの良さを活かして警備員や警察関係、刑務官などのセキュリティ職に就く人が多く、アイズリーもその1人だった。

現在は仕事もリタイアして穏やかなセカンドライフを送っており、趣味で時折、プロレスのインタビュー番組などに顔を出しては当時の思い出を楽しそうに語っているという。





デビッド・アイズリーが語る1992年のチャンピオン・カーニバル

普通なら、これほどチャンピオン・カーニバル公式戦でボコボコにされ、ファンから「41秒の秒殺男」と失笑を買えば、日本という国そのものがトラウマになり、二度と日本のプロレスのことなど思い出したくもなくなるはずだ。


しかし、デビッド・アイズリーという男の心の器は、我々の想像を遥かに超えるほど、深く、そしてプロレスへの愛に満ちあふれていた。

近年のポッドキャストやインディー界のインタビューにおいて、1992年の全日本プロレス参戦について問われたアイズリーは、日本のファンから「全敗のダメ外人レスラー」と酷評された事実とは裏腹に、満面の笑みを浮かべ、こう語ったのだ。

「あの全日本プロレスへの参戦は、私のこれまでの長いレスラーキャリアの中で、最も誇らしく、最高にエキサイティングな経験だったんだ」

彼は、自分をボコボコにした日本のレスラーたち、そして王道のリングに対して、最大級の敬意を払い続けていた。

「当時の全日本のリングは、アメリカのメジャー団体(WCWやWWF)が推し進めていたエンタメ路線とは全く違っていた。そこにあったのは、『本物の激しさ』だ。あんなに一発一発の打撃が重く、一切の手抜きがないタフなプロレスは、アメリカでは一度も経験したことがなかった。私は、日本のレスラーたちの強さに、心から驚愕し、感動したんだ」


川田利明に41秒で秒殺されたこと、スタン・ハンセンに左腕を破壊され、ラリアットで吹っ飛ばされたこと。それらの無残な記録について、彼はこう振り返る。


「彼らは本物のプロフェッショナルだった。あの凄ましき激しさ、命がけの戦いの中に、デビッド・アイズリーという一人のレスラーが立てたこと自体が、私の人生の誇りなんだ。0勝9敗? 勝ち点0? そんなことは関係ない。私は、世界で最もタフなあのリーグ戦を、途中で逃げ出すこともなく、最後まで投げ出さずに完走したんだ。その充実感は、何物にも変えがたいよ」

さらに、アイズリーの心を最も温め、彼の人生の宝物となったのが、日本の「プロレスファンと、その文化」だった。


「アメリカのテレビマッチでの私は、ただの『やられ役』に過ぎなかった。アリーナの観客も、画面の向こうのファンも、私の名前なんて気にしないし、ただトップスターが勝つのを見て喜ぶだけだった。だけど、日本は違ったんだ」


彼は目を輝かせながら、当時の思い出を語る。

「日本では、私がどんなに負け続けても、ファンは『デビッド・アイズリー』という私の名前をちゃんと覚えていてくれた。会場に行けば、私を指さして応援してくれたり、ホテルの前で『サインをください』とカードやパンフレットを持って並んでくれたんだ。アメリカではただの影だった私が、日本では一人の『プロレスラー』としてリスペクトされた。日本のファンには、今でも感謝してもしきれないよ」


結果だけを見れば、歴史的な大惨敗。しかし、デビッド・アイズリーという一人の職人レスラーの人生においては、世界のトップスターたち、ファンと同じ空間で、命がけのプロレスを作り上げた、人生最高の「黄金期」として、今でも温かい思い出とともに胸に刻まれているのである。


デビッド・アイズリーのレスラー人生



デビッド・アイズリーの経歴は、いわゆる「勝ち組」のそれではない。 プロレス大好き少年のままプロレスの世界へ飛び込むも、177cm、100kgという小柄な体躯のハンデを背負い、マスクマンとして悪の華を咲かせようとするも、時代の波に飲まれ、素顔になってからはメジャー団体のテレビマッチで星を配り続ける「ジョバー」としての日々。 

そして、一世一代の大舞台として挑んだ1992年の全日本プロレスでは、「0勝9敗」という完全全敗を喫し、川田に41秒で秒殺され、ファンからは「ダメ外国人レスラー」と失笑された。

数字と記録だけを見れば、これほど無残なレスラー人生もないかもしれない。

しかし、プロレスというジャンルの本当の美しさと深淵は、こうした「敗者」たちの誇りによって支えられている。 

主役を引き立てることにすべてを捧げた男が、地球の裏側で掴んだ「プロレスラーとしての誇り」。 

アイズリーが体現した、勝敗を超越したところにあるプロレスラーとしての誠実さとリスペクトの精神。それこそが、歴史の主役にはなれずとも、我々の記憶の底に、奇妙で、愛おしい爪痕を残した男の生き様だったのだ。






俺達のプロレスラーDX
第258回 
「とんだ一杯食わせ者」と呼ばれたマスター・ブラスター/アル・グリーン





「プロレスラーの価値とは、巻いたベルトの数だけで決まるものではない。いかに観客の記憶の底に、奇妙で、強烈な爪痕を残せるかだ」

アメリカン・プロレスの歴史を見渡したとき、そこには眩いばかりのスポットライトを浴び、何万人もの大観衆を熱狂させた「選ばれしメガスター」たちが君臨している。

ハルク・ホーガン、リック・フレアー、そしてのちに「ディーゼル」や「nWo」としてプロレス界のビジネス構造そのものをひっくり返した超巨人、ケビン・ナッシュ。

しかし、その輝かしい主役たちの足元には、彼らがスターへと駆け上がるための「踏み台」となり、あるいは時代の要請によって奇妙なギミックを押し付けられ、歴史の闇へと消えていった数多の「脇役」たちが存在する。

今回、考察する男は、まさにその象徴と言える存在かもしれない。 ある時は、のちのメガスターであるケビン・ナッシュの「最初の相棒」として世紀末の暴走族を演じ、

ある時は、日本の最高峰のリングでファンの失笑を買い、 そしてキャリアの終盤には、文字通り「犬」となってリングを這い回った、不条理なるアメリカン・プロレスの体現者。

男の名は、アル・グリーン。 またの名を、マスター・ブラスター・ブレード。あるいはレイジ。そして――ザ・ドッグ。

この無骨で、不器用で、しかし誰よりもプロレスというジャンルの酸いも甘いも噛み締めた「脇役」の激動のレスラー人生を、今回は徹底的に掘り下げていきたい。


フロリダの土壌と遅すぎた出発 

1955年10月15日、アメリカ合衆国フロリダ州タンパ。のちに多くのプロレスラーを輩出することになるこの聖地に、一人の男児が誕生した。

本名をアルフレッド・ドバロという。

若き日のグリーンは、193cm、130kgという、一目で常人ではないと分かる恵まれた巨体を誇っていた。

地元のフットボールやパワーリフティングで身体を鍛え上げた彼が、プロレスという「肉体言語の迷宮」に足を踏み入れるのは、ある意味で必然だったのかもしれない。

しかし、彼のデビューは、プロレスラーとしては決して早いものではなかった。

彼が本格的にプロレスの門を叩いたとき、すでに年齢は30歳を越えていた。

 彼を指導したのは、のちにWWFで「スキン・スキナー」や「ザ・ファビュラス・ワンズ」として活躍し、指導者としても高い評価を得ることになる名職人、スティーブ・カーンだった。


タンパの厳しくも温かい道場で、グリーンはプロレスのイロハを叩き込まれた。 巨体を活かしたパワフルなクローズライン、相手を恐怖に陥れるパワースラム、演じるキャラクターを全うするための基礎技術。

1989年、33歳という遅咲きの年齢で、彼は「アル・グリーン」としてプロレスデビューを果たす。 

デビュー直後、彼の巨体と荒々しいファイトスタイルに目をつけたのが、当時、拡大路線を突き進んでいたメジャー団体「WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)」だった。

1989年6月15日、ジョージア州オーガスタで行われたWCWのテレビマッチ。アル・グリーンのデビュー戦の相手は、当時すでにWCWのトップスターへと昇り詰めようとしていた「アイコン」、スティングだった。 

当然、結果はスティングの快勝。アル・グリーンは、トップスターを輝かせるための「動ける巨漢」として、WCWのロースターの底辺からそのキャリアをスタートさせたのである。

ロン・シモンズと即席のタッグを組んでミッドナイト・エクスプレスと戦い、敗れる日々。そこで彼はプロの厳しさを知った。

しかし、彼にはチャンスが待っていた。1990年、WCWのフロントはある「壮大な計画」をブチ上げる。
それが、彼の運命を大きく狂わせ、同時に歴史に名前を刻むきっかけとなる「マスター・ブラスターズ」の結成だった。

マスター・ブラスターズの誕生と終焉

1990年、WCWは最大の危機に直面していた。団体の看板タッグチームであり、圧倒的な人気を誇っていた「ロード・ウォリアーズ(アニマル&ホーク)」が、ライバル団体であるWWFへと電撃移籍してしまったのだ。 ドル箱を失ったWCWフロントが考えたのは、実にも安易な「二匹目のドジョウ」作戦だった。

「ウォリアーズがいないなら、もっとデカくて、もっと凶悪な世紀末のタッグチームを作ればいい」

そこで白羽の矢が立ったのが、当時、バスケットボールのキャリアを終えてプロレス界に入門したばかりの、210cmを超える超巨人、ケビン・ナッシュだった。

ナッシュは「マスター・ブラスター・スティール」と名付けられ、もう一人の新人コリー・ペンダーヴィス(マスター・ブラスター・アイアン)とタッグを結成。

映画『マッドマックス』の世界から飛び出してきたような、モヒカン頭に黒い衣装のギミックでデビューした。

しかし、このアイアンという男が、プロレスの過酷さに耐えかねて、わずか数試合で団体を去ってしまう。 

急造タッグの崩壊を恐れたWCWが、代役として大急ぎで呼び寄せたのが、確かなパワーと最低限のキャリアを持ち、何よりナッシュと同じく「髪型を世紀末風にアレンジできる」アル・グリーンだった。

こうして、アル・グリーンは「マスター・ブラスター・ブレード」へと変身を遂げる。

「ザ・マスター・ブラスターズ」 スティール(ケビン・ナッシュ)&ブレード(アル・グリーン)。 平均身長2mを超える、WCWが送り出した「ポスト・ロード・ウォリアーズ」の最終兵器。

彼らはリングに上がると、不器用ながらも圧倒的な肉体の圧力で相手を圧殺した。 1990年のビッグマッチ『ハロウィン・ヘイボック』では、ザ・サザン・ボーイズ(トレイシー・スマザーズ&スティーブ・アームストロング)を圧倒。WCWは彼らを次世代の怪物タッグとして売り出そうとした。

しかし、現実は甘くなかった。 

ロード・ウォリアーズの魅力は、単に身体がデカいことや、派手なコスチュームを着ていることだけではない。彼らには、観客をシンクロさせる圧倒的なカリスマ性と、一瞬で試合を終わらせる爆発力、そして計算されたコンビネーションがあった。 

対するマスター・ブラスターズは、ナッシュがまだデビュー数ヶ月のド素人であり、アル・グリーンが必死に試合をコントロールしようとするものの、どうしても「ロード・ウォリアーズの劣化コピー(偽物)」という評価を覆すことができなかった。


観客からのブーイングは、期待の裏返しではなく、「退屈」の拒絶だった。 フロントも見切りをつけるのは早かった。

1991年2月、チームはわずか半年足らずで解散に追い込まれる。

この解散劇の後、二人の運命はあまりにも対照的な二極化を見せることになる。

 相棒のケビン・ナッシュは、その後「オズ」や「ビニー・ベガス」といったこれまた酷いキャラクターに変身する経験を経て、WWFへ移籍してショーン・マイケルズのボディーガード「ディーゼル」となったことで大ブレイク。世界ヘビー級王者となり、のちにWCWへ戻って「nWo」を結成し、プロレス界の歴史を動かすメガスターとなった。

一方のアル・グリーン。マスター・ブラスターのギミックを剥ぎ取られた彼は、再び「使い勝手の良い便利屋」へと逆戻り。

そんな中、彼は一匹狼のシングルプレイヤー「マスター・ブラスター」として、地球の裏側にある「世界一過激なリーグ戦」へと身一つで殴り込みをかけることになる。だが、そこで彼を待っていたのは、人生最大の屈辱と絶望だった。

1992年春の洗礼~王道マットを揺るがした「実質全敗」〜

1992年3月、日本のプロレスファンは、ある「巨大な体躯を持つ初来日外国人」に目を奪われ、そして次の瞬間、あまりの呆気なさに激しい溜息を漏らすことになる。

当時、全日本プロレスが開催していた『チャンピオン・カーニバル(CC)』は、まさに黄金期・激動の時代を迎えていた。

ジャンボ鶴田が絶対王者として君臨し、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太の「超世代軍」が牙を剥き、外国人サイドではスタン・ハンセン、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムス、ダニー・スパイビーといった、世界の最高峰の「動ける超巨漢」たちがゴロゴロいた、世界一過激なシングルリーグ戦である。

そこに、アメリカからやってきた身長193cm、体重130kgの巨漢、マスター・ブラスター(アル・グリーン)がAブロックにエントリーされた。

だが、蓋を開けてみれば、そこに待っていたのは「怪物」の蹂順(じゅうりん)ではなく、全日本の恐るべき「スピードと強さ」という名の巨大な壁による、無残な解体劇だった。

彼の残した公式戦の最終戦績が、そのすべてを物語っている。

「0勝8敗1不戦勝・勝ち点2」

ジャンボ鶴田、テリー・ゴディといった怪物たちの前にことごとくマットに沈み、自力での勝利は開幕から最終戦までただの「1回」もなし。

唯一もぎ取った勝ち点2は、ジョー・ディートンが負傷欠場したことによる不戦勝のみ。文字通りの「実質全敗」。

アメリカのプロレスが「魅せるエンターテインメント」へと純化していく中で、身体の大きさだけでのし上がってきた男にとって、全日本のリングはあまりにも過酷な地獄の品評会だったのだ。
そして、

その「ハリボテの脆さ」が決定的な形で世間に晒されてしまったのが、1992年3月22日、プロレスの聖地・後楽園ホール大会だった。

対戦相手は、若き超世代軍の旗手であり、時代の主役に躍り出ようとしていた三沢光晴。

ゴングが鳴った瞬間、マスター・ブラスターは自らの巨体を利して三沢を圧倒しようとした。

しかし、全日本のトップ戦線が日常的に展開していた、あの目まぐるしいスピード、一撃で戦況をひっくり返すエルボーの破壊力に、彼のプロレス脳と肉体は全くついていくことができなかった。
三沢の放った鋭い打撃に揺らぎ、キャンバスへ崩れ落ちる巨漢。

三沢は容赦なく、その首筋に蛇のように絡みつき、「フェースロック」がガッチリと極まったその瞬間、巨漢のプライドは完全にへし折られた。マットを激しく叩くマスター・ブラスター。 時計の針が刻んでいたのは、「1分26秒」。


メインイベントやセミファイナルで、30分、40分と命を削るような大熱戦を展開していた当時の全日本において、外国人の巨漢レスラーが、わずか86秒で心を折られてタップアウトする。

その光景は、集まった目の肥えた後楽園ホールのファンに、深い衝撃、いや、ある種の「失笑」を以て迎えられた。


ファンの冷酷な視線と、バカにしたような笑い声が、聖地の天井に響き渡る。アル・グリーンにとって、この1分26秒は、自らのレスラー人生の中で最も惨めで、最も逃げ出したくなるような「暗黒の時間」だったに違いない。

当時のファンの間で「あまりにも脆すぎる」と衝撃と失笑を持って迎えられたこの大惨敗。

並のレスラーであれば、この屈辱で心が完全に折れて二度と来日しなかったかもしれない。 だが、物語はここで終わらないからこそ、プロレスは面白いのだ。この「実質全敗」と「1分26秒の溜息」こそが、彼を本物の職人へと進化させる、手痛くも絶対に必要な「王道の洗礼(教科書)」となったのである。

屈辱からの再生~ザ・レッキング・クルーとしての流浪~

アメリカへ戻ったアル・グリーンは、自らの居場所を求めてフロリダのインディー団体「IWF」へと戦場を移した。そこで、運命的なパートナーと出会う。

マーク・ロウリネイティス。 リングネームは「ザ・ターミネーター」。

そして何よりも、あのアニマル・ウォリアーの実弟であり、全日本プロレスで活躍しているジョニー・エースの実兄である。

本物のウォリアーズの血を引くマークと、ウォリアーズの偽物を演じさせられていたアル・グリーン。

この二人の合体は、奇妙なシンパシーを生んだ。二人はタッグチーム「ザ・レッキング・クルー(解体屋)」を結成。

 マークが「フューリー(怒り)」、アル・グリーンが「レイジ(激怒)」を名乗り、再び世紀末的なペイントとコスチュームに身を包んだ。

彼らのファイトは、マスター・ブラスターズの時代とは比べ物にならないほど進化していた。

アル・グリーンが1992年の大惨敗を血肉に変えたことで、タッグとしての試合巧者ぶりが発揮されるようになったのだ。インディー界のタッグ王座を次々と強奪した彼らは、1993年、その実績を引っ提げてWCWのリングへと「逆上陸」を果たす。

1993年1月13日の『クラッシュ・オブ・ザ・チャンピオンズXXII』。レッキング・クルーはトム・ゼンク&ジョニー・ガンを圧倒的なパワーで粉砕。WCWのタッグ戦線のダークホースとして注目を集めた。

しかし、当時のWCWは、スティーブ・オースチン&ブライアン・ピルマンの「ハリウッド・ブロンズ」や、ステイン・ブラザーズ(リック&スコット・ステイナー)といった、技術とスピードを兼ね備えた超実力派タッグが群雄割拠する時代。レッキング・クルーのクラシカルなパワーファイトは、またしてもメインストリートの頂点に届くことはなかった。

だが、彼らの「タッグとしての頑丈さと確かな仕事ぶり」に目をつけたのはなんと全日本プロレス。かつて「チャンピオン・カーニバル」での惨敗劇から約3年、再びチャンスを与えた。


1995年2月の「エキサイトシリーズ」と8月の「サマーアクションシリーズII」。

ザ・レッキング・クルーの姿が、再び王道・全日本プロレスのリングにあった。 

3年前、ファンから「脆すぎる」と失笑されたマスター・ブラスターは、そこにはいなかった。激しい王道プロレスにきっちりと対応し、受けに回りながらも外国人としての威厳を保ち続ける、本物のプロフェッショナル「レイジ」がそこにいた。

彼らに与えられた主な役割は、全日本の未来を担う若手たちの「高い壁」となることだった。

志賀賢太郎や、のちに太陽ケアとして大ブレイクするマウナケア・モスマンといった若き純血レスラーたちと連日対戦。彼らの必死のエルボーやドロップキックをドッシリと受け止め、強烈なパワースラムやクローズラインで叩き潰す。

全日本のファンは、もう彼らのことを「ハリボテ」とは見なさなかった。全日本プロレスにアジャストしてみせたその「プロの仕事」に、日本の玄人ファンは静かな拍手を送った。

アル・グリーンにとって、この日本への再上陸は、自らが「本物のプロレスラーになった証」を証明する、最も幸福な時間だったのかもしれない。

カオスのWCW末期に誕生したザ・ドッグ

1990年代後半、アメリカのプロレス界は「月曜TV戦争」と呼ばれる、WWF(Raw)とWCW(Nitro)の歴史的な視聴率合戦の真っ只中にあった。ケビン・ナッシュらが率いる「nWo」の爆発的なヒットにより、一時はWWFを壊滅寸前まで追い込んだWCWだったが、2000年を迎える頃には、放漫経営とシナリオの破綻により、今度は逆に完全な崩壊の坂を転がり落ちていた。

その、誰もが明日をも知れぬカオスと化したWCWのバックステージに、アル・グリーンは再び戻ってきた。

 すでに40代半ば。肉体には長年の激闘、そして全日本プロレスやインディー戦線で培った勤続疲労が確実に蓄積していた。

かつての相棒ケビン・ナッシュは、団体の全権を握るトップスターであり、バックステージの絶対的な権力者。そんな巨星の影で、アル・グリーンに用意された最後のギミックは、彼のレスラー人生の中で最も奇妙で、最も哀愁に満ちたものだった。

2000年、WCWのハードコア戦線を盛り上げるため、元ザ・ナスティ・ボーイズのブライアン・ノッブスが「ハードコア・アーミー」というユニットを結成する。そのメンバーとして呼び出されたアル・グリーンは、トレードマークだった髪をすべて剃り上げ、不気味なメイクを施され、フロントからこう命じられた。

「お前は今日から『犬』だ。リングの上で犬のように振る舞え」

こうして誕生したのが、「ザ・ドッグ」というギミックだった。首輪をつけられ、四つん這いで入場するアル・グリーン。 対戦相手に噛み付き、レフェリーに向かって吠え立てる、WCW末期が生んだ悲しき怪奇派。

かつて、マスター・ブラスター・ブレードとして、2m近い巨体で世紀末の風を吹かせた男。ザ・レッキング・クルーのレイジとして、日本の王道マットで四天王の技を受け止め、若手の壁となった男が、45歳にして首輪をつけられ、リングのキャンバスを四つん這いで這い回っている。

多くのファンや専門家は、このギミックを「WCW末期のゴミのようなアイデア」と酷評した。かつての彼の活躍を知るファンにとっては、見るに耐えない惨めな姿に映ったかもしれない。

しかし、アル・グリーンは、その「犬」という役回りを、一切の手抜きなしで完璧に演じきった。

 ゴングが鳴れば、は微塵も見せず、巨体を活かした鋭いパワースラムを連発。ハードコアマッチではゴミ箱や机を脳天に叩きつけられ、血を流しながらも泥臭く戦い続けた。

狂ったように吠えながらも、その目線は常に「どうすればこの崩壊寸前の団体の試合を成立させられるか」を冷静に見極めていた。 

元WWEのフィット・フィンレー(当時WCWのエージェント)らは、彼のそのプロ意識を裏で高く評価していたという。

どれほど馬鹿げたキャラクターであっても、リングに上がれば全力でそれを全うする。それこそが、フロリダの土壌で培い、日本の王道マットでの大惨敗から学び取った「プロレスラー・アル・グリーン」のプライドだったのだ。  

しかし、その健気な奮闘も虚しく、2001年3月、WCWはライバルであるWWF(ビンス・マクマホン)に買収され、その歴史に幕を閉じる。ザ・ドッグの首輪もまた、WCWの終焉と共に外されることとなった。

インディーの灯火と、早すぎる旅立ち~57歳の静かな終幕~

WCW崩壊後、多くのレスラーがWWFへ移籍するか、あるいは引退を余儀なくされる中、アル・グリーンは静かにインディーの世界へと戻っていった。 

すでに全米ネットのテレビ番組に出ることはなくなったが、彼の名前と、あの「マスター・ブラスター」や「レッキング・クルー」としての実績は、地方のインディープロモーターたちにとっては貴重な財産だった。

彼は「ビッグ・アル・グリーン」などの名で、フロリダや南部地区の小さなジム、あるいは高校の体育館で行われる試合に出場し続けた。

そこには、首輪をつけた犬の姿も、世紀末の派手なペイントもなかった。ただ、193cmの巨体を持つ、ベテランのプロレスラーが、若い選手たちに「プロレスとは何か」を背中で教えるような、静かで尊い空間があった。

2007年、彼は20年近くに及ぶレスラー人生に、静かにピリオドを打つ。派手な引退興行も、感動的なスピーチもなかった。

彼は、自分がそうであったように、プロレス界の片隅から始まり、片隅へと戻っていくようにリングを去った。

しかし、彼を待っていたのは、過酷な現実だった。 長年の激闘と、巨体を維持するための無理、そして何よりもレスラー特有の不摂生が、彼の身体を蝕んでいた。引退後の彼は、重い呼吸器系の疾患に苦しむことになる。

2013年6月14日、彼の故郷であるフロリダ州タンパの病院から、一報がもたらされた。

「アル・グリーン(本名アルフレッド・ドバロ)、慢性閉塞性肺疾患(COPD)のため逝去。享年57歳」

あまりにも早すぎる旅立ちだった。 彼の訃報に、プロレス界のトップニュースが割かれることはなかった。しかし、かつての相棒であり、プロレス界の頂点に君臨したケビン・ナッシュは、自らのSNSで、若き日に共に泥をすすり、世紀末の夢を追いかけた「最初の相棒」に対して、深い哀悼の意を捧げた。

ナッシュがWWEの殿堂入りを果たしたとき、その華やかなスピーチのバックグラウンドには、彼が「マスター・ブラスター・スティール」としてデビューしたあの日の映像が流れていた。

そこには、確かに、ナッシュの隣で激しく髪を逆立て、吠えている「マスター・ブラスター・ブレード」こと、アル・グリーンの姿があったのだ。

巨星が放つ強烈な光の裏には、必ずその光を引き立てた「影」が存在する。

アル・グリーンがいたからこそ、ケビン・ナッシュのプロレス人生は始まり、のちに「ディーゼル」や「nWo」という巨大な大輪の花を咲かせることができた。それこそが、アル・グリーンという男がプロレス史に残した、目立たぬが決定的な功績なのである。

全日本プロレスでの惨敗劇によって貼られた「ダメ外国人レスラー」というレッテルに抗った一匹の犬



アル・グリーンはマスター・ブラスター時代の1992年の初来日時の印象が強烈すぎたため、日本の熱心なファンの間では「ワースト級のダメ外国人レスラー」として記憶されている。

当時の全日本プロレスは、三沢光晴らを中心としたハイスピードかつ過激な「四天王プロレス」へ移行する過渡期。いくら2メートル近い巨体と筋肉質な体型で見栄えはしても、インサイドワークや受け身の技術が未熟で、全日本の高いレベルに全く対応できず、結果的に「ダメ外国人レスラー」というレッテルが貼られてしまった。

プロレス界では、前評判だけが独り歩きして現場で通用しなかったレスラーを「とんだ一杯食わせ者(期待外れ、見掛け倒し)」と呼ぶ風潮があるが、彼はその典型例だ。

だが、「とんだ一杯食わせ者」として日本のプロレス史に悪い意味で爪痕を残したアル・グリーンが、その後「シングルがダメならタッグ、シリアスがダメなら人間を捨てる(犬になる)」という、プロレス界を生き抜くための凄まじい執念を見せることで、「ダメ外国人レスラー」というレッテルに抗ってきた。



見た目だけのスター候補から、最終的には「何でもやる泥臭いプロの職人」へと泥をすすりながら成長していったのが、アル・グリーンの人生だったのではないだろうか。


彼の経歴は、「エリート」とは言えない。 30歳を過ぎてからの遅すぎるデビュー。会社に与えられたのは、常に「誰かの幻影」を追うための急造キャラクターや、時代の流行りに便乗したB級のキャラクターばかりだった。 ケビン・ナッシュの相方、アニマルの弟の相方、そして最後は犬。

プロレスというジャンルの底深さは、そうした「恥」や「屈辱」をすべて飲み込み、自らの血肉に変えて這い上がってきた男たちの踏ん張りによって支えられている。

アル・グリーンは、自分に与えられた「影」という配役、そして時に押し付けられる「恥」すらも、決して呪うことなく、プロとしての誇りを持って全うし続けた。どんなに滑稽な姿を晒そうとも、リングのゴングが鳴れば、彼は130kgの肉体を投げ打って、観客に「プロレス」を提供し続けたのだ。

アル・グリーンが残したその不器用で、泥臭く、しかしどこまでも誠実だったプロレスラーとしての生き様。それは、歴史の主役にはなれずとも、我々の記憶の中に「脇役」としての強烈な爪痕を残した。

マスター・ブラスターは自身のレスラー人生を全うすることで結果的に「とんだ一杯食わせ者」というレッテルから脱したのである。










俺達のプロレスラーDX
第257
回 剛柔兼備怪獣〜サブミッション&スープレックスの二丁拳銃/サモア・ジョー【俺達のプロレスラーDX】










プロレスラーの「強さ」を定義づけるものは、一体何なのだろうか。


誰もが畏怖する圧倒的な巨体か。それとも、ヘビー級の常識を覆すほどの俊敏なスピードか。あるいは、いかなる強豪をも一瞬で眠らせるリアルな格闘技術なのか。


もし、そのすべてを同時に兼ね備え、なおかつ四半世紀にわたって世界のトップ戦線で「恐怖の象徴」であり続けた男がいるとすれば、私たちはその存在を「奇跡」と呼ばずして何と呼べばいいのだろう。


男の名は、サモア・ジョー。


本名ニュファラウ・ジョエル・シーノア。188cm、130kgのポリネシア系の獰猛な肉体を持ちながら、リングに上がればキックボクサーのような鋭い蹴りを放ち、軽量級レスラー顔負けのトペ・スイシーダ(決死の場外飛び)を敢行し、最後は冷酷無比な「コキーナ・クラッチ(裸絞め)」で相手の意識を完全に刈り取る。




彼がついた異名は「サモアン・サブミッション・マシン」。


総合格闘技のエッセンスを取り入れた独自のファイトスタイルや、一度極まったら脱出不可能な絞め技「コキーナ・クラッチ」などのサブミッション技術に由来している。



また基本的には「サブミッション・マシーン」が最も定着しているが、彼がスープレックス(投げ技)のスペシャリストでもあるため、「サモアン・スープレックス・マシン」と表現されることがある。


巨体でありながら、キメラ・プレックス(ジャーマン・スープレックス→ドラゴン・スープレックス→クロスアーム・スープレックスを連続で叩き込むコンボ技)、投げっぱなしジャーマン・スープレックス、ハーフネルソン・スープレックス、エクスプロイダーといった強烈なスープレックスを得意にしている。



かつてアメリカのインディープロレスの聖地「ROH」で前人未到の長期政権を築き、メジャー団体「TNA」では団体の象徴として一時代を築いた。


そして、誰もが「そのファイトスタイルはメジャーでは受け入れられない」と悲観した世界最大団体「WWE」、さらには現代のユートピア「AEW」にいたるまで、彼は行く先々のすべてのリングで「世界ヘビー級王座」のベルトを強引にその腰へと巻き付けてみせた。



今もその圧倒的な存在感と威厳は衰えるどころか、世界のマット界における「生ける伝説(リビング・レジェンド)」として、若き才能たちの前に巨大な壁として立ちはだかり続けている。


インディーの混沌、メジャーの冷遇、度重なる怪我という試練、そして世界の頂点への完全なる復権――。 


今回は、世界中のプロレスファンを熱狂させ、レスラーたちが最も恐れた「真の怪物」のプロレス人生を、その卓越したファイトスタイルの分析とともに深く考察していきたい。




★ポリネシアンの血と柔道のハイブリッド――「踊る怪獣」の誕生



1979年3月17日、サモア・ジョーはアメリカ・カリフォルニア州オレンジカウンティで、誇り高きサモア系の家系に生まれた。



彼の幼少期は、一般的なプロレスラーのそれとは大きく異なっていた。彼の家族は、ポリネシアの伝統的な歌と踊りを伝える高名なダンス・グループ「トウス・サモア」を主宰していたのだ。 



ジョー自身も、わずか5歳の頃からステージに立ち、1984年のロサンゼルスオリンピックの開会式では、伝統衣装に身を包んでパフォーマンスを披露したという経歴を持つ。



この、幼少期から叩き込まれた「ポリネシアン・ダンス」の経験こそが、後年のサモア・ジョーのプロレスの最大の武器となる「並外れたリズム感」と「圧倒的なステップ、柔軟性」の礎となった。


130kgを超える巨体を持ちながら、彼がリング上で見せる猫のようなしなやかな身のこなし、そして一瞬でトップスピードに乗る爆発的なダッシュ力は、この伝統ダンスのステップによって培われたものだったのだ。



しかし、彼の身体に流れるのは、闘いの一族としてのサモアの血である。


ダンスと同時に、彼は実戦的な格闘技の世界へと没頭していく。 5歳から柔道を始めたジョーは、サモア系特有の恵まれた骨格に加え、並外れた運動神経を持っていた。


カリフォルニア州のジュニア選手権を制するなど、若くして畳の上で頭角を現した彼は、ここで「相手の重心を奪い、自重を浴びせて叩きつける」という体捌きの極意を無意識のうちに骨の髄まで染み込ませていく。


本物のサブミッション(関節術)と投げの技術を十代のうちに完全にマスターした彼は、格闘家としてのリアルなバックボーンをその肉体に刻み込んでいった。


高校時代にアメリカンフットボールのトップ選手として鳴らしたジョーだが、彼の魂は常に「一対一の闘い」へと向いていた。



10代後半から20代前半にかけ、彼は柔道のベースの上に、さらに実戦的な格闘技術を上書きしていく。


目をつけたのは、当時アメリカで爆発的なブームを巻き起こしつつあった総合格闘技(MMA)の世界だった。


ジョーはキックボクシングやムエタイのジムに泥臭く通い詰め、巨体から放たれるローキックや、骨を砕くようなエルボーの技術を習得する。


さらに、UFCの黄金期を築いたティト・オーティズらのジム「パニッシュメント・トレーニング・センター」に出入りし、本物のMMAファイターたちと火の出るようなスパーリングを重ねた。



ここでブラジリアン柔術の寝技やポジショニングを吸収したジョーは、ただ相手を力任せにねじ伏せるのではない、極めてロジカルな「絞め技・関節技」のスキルをコンプリートしていった。


当時の彼は、本気でMMAファイターとしてのデビューを模索していたという。



やがて、その強靭な肉体と格闘センスに目を付けたプロレス界のスカウトにより、彼はプロレスラーへの道を歩み始める。 カリフォルニアのUPW(アルティメット・プロ・レスリング)の道場で、後にWWEの絶対的エースとなるジョン・シナらと同期として切磋琢磨したジョーは、1999年12月にプロデビューを果たす。




デビュー直後から、彼の怪物ぶりは際立っていた。アメリカのインディーマットでその名を轟かせ始めた彼は早くも日本に行くチャンスをつかむことになる。



★「ZERO-ONE」「真撃」「破壊王」「火祭り」」ジャパニーズ・スタイルがサモア・ジョーのバックボーン



2001年、新日本プロレスを解雇された橋本真也が不退転の決意で立ち上げたZERO-ONE。


その橋本が、イベント会社「ステージア」とタッグを組んでプロデュースした格闘プロレス興行が『真撃(しんげき)』であった。


総合格闘技(MMA)の台頭により、プロレスラーにも「ガチの強さ」が要求された時代。この殺伐とした実験場に放り込まれたのが、米UPWから送り込まれた22歳のサモア・ジョーだった。


2001年6月14日、大阪城ホールで行われた『真撃 第1章』。ジョーはケイジ・サコダと組み、バトラーツの石川雄規&臼田勝美という、関節技の猛者たちと対峙する。


アメリカ仕込みのパワーに、柔道ベースの寝技をミックスさせたジョーは、日本のマニアックな格闘プロレスファンを驚愕させた。16分48秒、臼田を必殺のチョークスリーパー(のちのコキーナ・クラッチ)で絞め落とし、衝撃的なTKO勝ちを収めたのだ。



『真撃』での確かな実力を見た橋本真也は、ジョーをZERO-ONEの本戦へレギュラー外国人として正式に招聘する。


ここでジョーは、団体の象徴である「破壊王」橋本真也と正面から激突した。


橋本の代名詞といえば、相手の肉体を破壊するような重戦車のごときミドルキックである。


並の外国人であればその殺気に気圧されるところだが、ジョーは違った。橋本の強烈な蹴りを、一歩も引かずに自らの肉体を突き出して受け止め、不敵な笑みを浮かべたのだ。


逆に、重いエルボーを顔面に叩き込み、豪快なスープレックスで巨体の破壊王を攻め立てた。



「アメリカに、とんでもないサモア人がいる」



ファンの間でその名は一気に広まり、彼は同じサモア系の仲間たちと「キング・ジョー」のリングネームで暴れ回った。


さらに、元グリーンベレーのトム・ハワードやザ・プレデターらと共に、初期ZERO-ONEの強力な外国人勢の筆頭として定着したのである。


ジョーの日本での評価を決定づけたのが、ZERO-ONE真夏の過酷なシングルリーグ戦『火祭り』だった。


2001年(第1回火祭り)には 無名に近い状態でエントリーしたジョーは、9月15日のディファ有明での最終公式戦で、当時すでに団体トップだった田中将斗と激突。


パワー、スピード、タフネスのすべてで田中を圧倒し、最後はアイランド・ドライバー(エメラルド・フロウジョン)で沈める大金星を挙げた。この敗北により、田中は優勝決定戦への道を断たれ、ジョーは「スーパルーキー」として確固たる地位を築いた。


2002年(第2回火祭り)には 大谷晋二郎、TAKAみちのく、金村キンタローらと同じブロックで大暴れし、大会の格を上げる立役者となった。


タッグ戦線でも、2002年1月6日の後楽園ホール大会にて、トム・ハワードと組んで大谷晋二郎&田中将斗組との「NWAインターコンチネンタル・タッグ王座決定戦」に挑むなど、常にメインストーリーの中心にいた。



2003年、与えられたストーリーラインへの不満や、自身のさらなるステップアップのため、ジョーは一度ZERO-ONEのリングを離れることになる。


しかし、22歳から24歳というレスラーとしての最も重要な吸収期に、『真撃』や『ZERO-ONE』という「世界で最も痛みの伝わるリング」を経験したことは、彼の運命を決定づけた。


橋本真也のキックを受け止め、田中将斗をマットに沈めた自信――。日本発のストロングスタイルと受けの美学を完璧に自身の血肉としたジョーは、アメリカへと帰国。


日本で「闘いのリアル」を学んだジョーは、カリフォルニアに帰国後、さらなる進化を遂げる。


2002年、アントニオ猪木がロサンゼルスに設立した「新日本プロレス・LA道場(猪木道場)」に、開校当初から主要メンバーとして関わったのだ。


当時のLA道場は、日本のストロングスタイルをアメリカの地で再現するための、文字通りの虎の穴だった。


そこには、日本から遠征してきた藤田和之やケンドー・カシンといった本物の猛者たちがおり、ジョーは彼らと日常的にガチガチのスパーリングを重ねた。


さらに、同じマットには豪華すぎる同期たちがいた。のちにWWEで頂点に立つブライアン・ダニエルソン(ダニエル・ブライアン)ジュニアヘビー級の至宝となるロッキー・ロメロやTJP、のちにUFC世界王者となるリョート・マチダがいた。柔道とMMAのバックボーン、そして日本のリングを経験していた23歳のジョーは、この環境で完全に覚醒する。



日本の過激なリングで「本物の闘い」を肌で学んだジョーは、アメリカへと帰国後、本格的に世界のプロレス界の歴史を塗り替えるためのカウントダウンを始めることになる。


★ROHの「絶対的守護神」――CMパンクとの神話、そしてインディーの象徴へ


2002年、アメリカのインディープロレス界に「ROH(リング・オブ・オナー)」という名の新たなユートピアが誕生した。


 過激なハードコアやアメプロ特有のギミックを排除し、「コード・オブ・オナー(名誉の規律)」のもと、純粋なレスリング技術の攻防で観客を熱狂させるこのリングに、サモア・ジョーは「最強の刺客」として参戦を果たす。



当初は単発の外国人ヒールとしての参戦予定だったが、ジョーがリング上で見せた圧倒的なクオリティの前に、ROHの首脳陣、そして世界一目が肥えていると言われたフィラデルフィアのファンは、瞬く間に魅了されてしまった。



2003年3月、ジョーはザヴィアを破り、第3代ROH世界ヘビー級王座を奪取。


ここから、ROHの歴史、否、アメリカインディープロレスの歴史における「神話の時代」が幕を開ける。


彼の王座保持期間は、実に「21ヶ月(645日間)」。防衛回数は29回。


 この数字は、歴史あるROHの世界王座防衛記録の中で今なお破られていない伝説の「絶対政権」である。



この時代のサモア・ジョーは、まさに誰も手がつけられない「破壊神」だった。 相手をコーナーに逆さ吊りにし、その顔面に強烈な顔面ウォッシュ(顔面踏みつけ刑)を叩き込む。


場外戦になれば、リングサイドの観客を文字通り跳ね飛ばしながら、巨体を弾丸のように突き刺す「トペ・スイシーダ」でスタンドをパニックに陥れた。


そして、トップロープから相手を脳天からマットに突き刺す「マッスル・バスター(キン肉バスター)」、あるいは背後から首元を完璧にロックする「コキーナ・クラッチ(胴絞めスリーパーホールド)」の前に、あらゆる挑戦者たちが泡を吹いてマットに沈んでいった。



そして、この絶対政権の中で、ジョーはプロレス界の歴史に永遠に残り続ける「至高のライバル」と出会う。 


男の名は、CMパンク。



シカゴのストレート・エッジ(禁欲主義者)であり、卓越したマイクパフォーマンスとインサイドワークを誇るパンクと、圧倒的な破壊力を持つ絶対王者ジョー。


二人が2004年に繰り広げた「ROH世界王座戦3連戦」は、今なおアメリカプロレス史における「最高傑作」と称されている。


第1戦(2004年6月12日、デイトン大会)、そして第2戦(同年10月16日、シカゴ大会)。


二人は、130kgと90kg台という体重差を全く感じさせない、息をもつかせぬ極限のレスリングを展開。攻守が目まぐるしく入れ替わる緊迫感のなか、2試合連続で「60分時間切れ引き分け(タイムリミット・ドロー)」という、現代アメプロの常識を覆すノンストップの激闘を繰り広げたのだ。 



スタミナが枯れ果て、お互いの意地と誇りだけでエルボーを打ち合う二人の姿に、観客は総立ちで涙を流しながら「This is Wrestling!(これぞプロレスだ!)」と叫び続けた。




12月の第3戦で、ジョーがパンクをコキーナ・クラッチで失神させてついに完全決着をつけたものの、この二人の闘いは、ROHというインディー団体が、世界最大団体WWEに対抗できる「本物のプロレス」を提供していることを世界中に知らしめる決定打となった。



サモア・ジョーは、ROHのベルトの価値を世界最高峰まで引き上げ、自らがインディープロレス界の「神」となったのである。


★2005年10月1日・ニューヨーク「絶対王者」と「絶対王者」の奇跡


ジョーといえば、やはり2005年10月1日、米国ニューヨークのホテル・グランド・ボールルームで行われたROHの興行で実現した世界プロレス史に残るシングルマッチ。


対峙したのは、21ヶ月にわたりROH世界王座を守り抜いたアメリカ最恐の男サモア・ジョーと、日本でGHCヘビー級王座を2年間(13回防衛)守り抜き「絶対王者」と呼ばれた小橋建太。

実は試合前、小橋は大きな不安を抱いていた。

「アメリカのファンは、日本のレスラーである自分を知らないのではないか」「卑怯な外国人ヒールとして振る舞うべきか」と、ジョーに相談していたという。

ジョーは「そんな心配は不要だ。あなたは偉大なレジェンドなんだから」と諭したが、小橋は半信半疑のまま花道を歩いた。


しかし、小橋が姿を現した瞬間、会場は割れんばかりの「KOBASHI」コールに包まれた。


アメリカの熱狂的なマニアたちは、海を越えて小橋の偉大さを知っていたのだ。

小橋は驚きと感動を隠せず、のちに「嬉しくて涙が出そうになった」と語るほどの伝説の入場となった。

壮絶極まる「チョップ vs エルボー」試合は、派手な演出を一切排除した「肉体と肉体の激突」となった。

ジョーは小橋への最大のリスペクトを込め、LA道場仕込みの重いエルボーやステップキックを容赦なく叩き込む。これに対し、小橋も魂の「マシンガン・チョップ」で応戦。


二人の胸元は真っ赤に腫れ上がり、鈍い打撃音が会場に響き渡る。ジョーは持てるすべての引き出しを開け、小橋をギリギリまで追い詰めた。


しかし、最後は小橋の「剛腕ラリアット」がジョーの首元を捉え、カウント3。


試合後、ボロボロになりながらも観客へ「ROHよ、永遠なれ」と叫んだジョーと、彼の強さを認めた小橋。この試合は米レスリング・オブザーバー紙で「5つ星(最高評価)」を獲得し、2005年の世界年間最高試合(MOTY)の最有力候補として歴史に刻まれた



★TNAという名の黄金郷――AJ、ダニエルズとの三つ巴、そして「無敗の怪物の進撃」




2005年、ROHの絶対王者としての役割を果たし終えたジョーは、さらなるスケールアップを目指し、メジャー団体への一歩手前にいた「TNA(トータル・ノンストップ・アクション・レスリング)」へと電撃移籍を果たす。



TNAにおけるジョーの主戦場となったのは、軽量級の天才たちがアクロバティックな空中戦を繰り広げる、団体独自の看板戦線「Xディビジョン」だった。 


130kgのジョーが、AJスタイルズやクリストファー・ダニエルズといった、世界最高峰のハイフライヤーたちの戦場に放り込まれたのだ。


ファンは最初、「ジョーの巨体では、Xディビジョンのスピードについていけないのではないか」と危惧した。


しかし、サモア・ジョーという怪物は、その予想を遥か斜め上へと嘲笑ってみせた。


2005年9月11日、TNAのPPV『Unbreakable 2005』のメインイベントで行われた「AJスタイルズ vs クリストファー・ダニエルズ vs サモア・ジョー」のXディビジョン王座3WAYマッチ。 この試合は、TNAの歴史の中で唯一「メルトザーの5つ星(最高評価)」を獲得した、伝説のクオリティとなった。 


ダニエルズの鋭い飛び技、AJの天才的なひらめきに対し、ジョーは巨体から繰り出す圧倒的なパワームーブと、彼らに勝るとも劣らないスピードのキック、そして意表を突くエプロンサイドからのランニング・ニーで完璧に応戦してみせたのだ。


3人の呼吸が完璧にシンクロしたこの激闘は、TNAという団体の黄金期を決定づける記念碑となった。



TNAでのジョーは、デビューから実に「1年半(18ヶ月)」にわたり、シングルマッチにおいてピンフォール、ギブアップを一度も許さないという、驚異の「無敗記録」を樹立する。




その無敗の怪物ジョーの前に、2006年秋、世界最大のプロレス団体WWEから電撃移籍してきた「オリンピック金メダリスト」カート・アングルが立ちはだかる。



 「本物の格闘技術」を持つカートと、「サモア・サブミッション・マシン」ジョーの抗争は、TNAのPPV観客動員記録を次々と塗り替える大ヒットとなった。


カートのアンクルロックをジョーが柔道の技術で切り返し、ジョーのコキーナ・クラッチをカートが執念の反転でフォールを狙う。プロレスが持つ「競技としてのスリル」を極限まで高めた二人の闘いは、ファンを狂喜乱舞させた。


2008年4月の『Lockdown 2008』では、金網に囲まれたリングの中でカート・アングルを撃破し、ついに念願の「TNA世界ヘビー級王座」を初戴冠した。



★2007年10月27日・日本武道館/「緑の方舟」の頂点への挑戦 



小橋との死闘から2年後、サモア・ジョーの次なる標的は、プロレスリング・NOAH(ノア)の創設者であり、日本のプロレス界の「至宝」である三沢光晴だった。


2007年10月27日、超満員14,000人のファンで埋まった聖地・日本武道館。


ジョーは、三沢の持つ最高峰の王座「GHCヘビー級王座」に挑戦するべく、NOAHのリングへと帰ってきた。


満身創痍の盟主と、全盛期の怪物当時、45歳を迎えていた第11代王者・三沢光晴の肉体は、長年の激闘(四天王プロレス)の代償として満身創痍、いつ壊れてもおかしくない限界の状態にあった。



一方で、28歳のサモア・ジョーは米TNAやROHで世界の最前線を走り、パワー・スピード・スタミナのすべてが全盛期を迎えていた。


試合は、ジョーがその圧倒的なコンディションの差を見せつける形で幕を開ける。ジョーは三沢のお株を奪うような鋭いエルボー、巨体から放たれるパワーボム、そして容赦のないサブミッションで終始、試合を支配した。


三沢の動きが鈍る中、ジョーは勝機を確信し、必殺の「コキーナ・クラッチ」やスープレックスで仕留めにかかる。


しかし、ここからが「三沢光晴」の本領だった。ジョーの怒濤の猛攻を驚異的な打たれ強さで耐え抜いた三沢はエルボーで反撃。最後は立ち上がろうとするジョーの顔面へ、魂を込めた「ランニング・エルボーバット」を叩き込んだ。


衝撃の一撃により、20分すぎ、ジョーはマットに沈みカウント3。三沢が執念の防衛を果たした。


この試合は、全盛期のジョーが三沢の全盛期(90年代)と闘いたかったというファンの幻想も含め、切なくも美しい「最後の王道スタイル」のぶつかり合いとして、今なお語り継がれている。





★TNAの顔となるも⋯不遇の時期が続き決断






その後も、スティングやケビン・ナッシュ、ブッカーTといった元WCW、WWEのレジェンドたちで結成された「メインイベント・マフィア」に対し、ジョーは団体の生え抜きの若手を率いるエースとして、文字通り「団体の顔」として君臨し続けた。


しかし、2010年代に入り、団体の経営方針の迷走や、クリエイティブ(ストーリー)の混乱に巻き込まれる形で、ジョーは次第に不遇の時期を過ごすようになる。



TNAで10年間、文字通り身体を張り続け、団体を支え続けたサモア・ジョー。しかし、2015年、彼は自らのレスラー人生の「最後の、そして最大の勝負」に出るため、住み慣れた黄金郷に別れを告げる決断を下した。


★WWEという巨大な壁への挑戦――中邑真輔との激闘、レスナーを震え上がらせた「本物の殺気」


「サモア・ジョーのファイトスタイルは、WWEのビンス・マクマホンの好みではない」 「彼の体型や激しすぎる技は、WWEのメインストリームでは通用しない」



長年、アメリカのプロレス関係者やファンの間で囁かれ続けていた「常識」だった。WWEは、モデルのような肉体美を持つエンターテイナーや、2メートルを超えるわかりやすい巨人を好む傾向が強かったからだ。


しかし、2015年5月、WWEの育成ブランドでありながら、世界中のプロレスオタクたちを熱狂させていた「NXT」のリングに、サモア・ジョーが突如として現れた時、その偏見は一瞬で吹き飛んだ。



NXTのファンは、インディーの時代から自分たちの青春のアイコンであったサモア・ジョーの登場に、割れんばかりの「JOE! JOE! JOE!」の大歓声を浴びせた。WWEの首脳陣も、ジョーが持つ「リングに立つだけで空間を支配する圧倒的な説得力」を認めざるを得なかった。


NXTにおいて、ジョーはフィン・ベイラー(プリンス・デヴィット)との激しい王座戦を経て、NXT王者へと登り詰める。


そして、彼の前に立ちはだかったのが、日本からWWEへと電撃移籍し、瞬く間にNXTのカリスマとなった「イヤァオ!」の男、中邑真輔だった。



2016年、サモア・ジョーと中邑真輔によるNXT世界王座を巡る抗争は、日米のプロレスの最高峰がメジャーの舞台で激突する、極上の「ストロングスタイル」の応酬となった。


 中邑の変幻自在の蹴りやボマイェ(キンシャサ)に対し、ジョーは容赦ないパワースラムやコキーナ・クラッチで応戦。


ブルックリンやトロントといった大観衆の前で、二人は何度も王座をひっくり返し合う名勝負を展開し、NXTの歴史における最高のライバル関係を築き上げた。ジョーは中邑から王座を奪い返し、史上初の「2度のNXT王者」という栄誉を手にした。



2017年1月、ジョーはついに、誰もが待ち望んだWWEのメインロースター(RAW)への昇格を果たす。 トリプルHの「刺客」として現れ、セス・ロリンズの膝を破壊する衝撃のデビューを飾った彼は、瞬く間にWWEのトップヒールとしての地位を確立した。



メインロースターにおけるサモア・ジョーのハイライトといえば、2017年夏、時のWWEユニバーサル王者であった「人類破壊兵器」ブロック・レスナーとの歴史的な一騎打ち(PPV『Great Balls of Fire』)をおいて他にない。



元UFC世界ヘビー級王者であり、WWEでも無敵を誇っていたレスナーに対し、ジョーは1ミリの臆することもなく、真っ向からその視線を睨みつけた。


 試合前のマイクパフォーマンスでは、レスナーの代弁者であるポール・ヘイマンの首を掴み、「レスナーに伝えておけ。俺はお前を恐れていない。お前の首を絞め落としてやる」と冷酷に言い放った。


その時のジョーの眼光に宿っていたのは、台本(シナリオ)を超えた、本物の「殺気」だった。



実際の試合でも、ゴングが鳴る前にジョーはレスナーに奇襲を仕掛け、実況席にレスナーをボディスラムで叩きつける暴挙を敢行。


リング内でも、レスナーのジャーマン・スープレックスの連発に耐え抜き、執念のコキーナ・クラッチでレスナーの顔面を赤紫に変色させるまで追い詰めてみせたのだ。 


最後はレスナーの一瞬のF5の前に敗れはしたものの、あのブロック・レスナーを本気で「震え上がらせ、冷や汗をかかせた男」として、サモア・ジョーの名はWWEの歴史に深く刻まれることとなった。



その後も、AJスタイルズとのWWE王座を巡る、家族をも巻き込んだドロドロとした心理戦・抗争や、US王座の獲得など、彼は常にトップ戦線で機能し続けた。 



しかし、激しいファイトスタイルの代償として、頭部の負傷(脳震盪)や数々の怪我に悩まされるようになり、2020年以降は解説者としての活動が増えていく。


その知性的で、かつレスラー心理を巧みに突いた解説能力は高く評価されたものの、ファンは「リング上のジョー」を諦めきれなかった。


2021年、一度はWWEから解雇されたものの、NXTの責任者であったトリプルHの強い要望により電撃復帰。


同年8月、新鋭キャリオン・クロスを破り、史上初となる「3度目のNXT王座」を獲得するという意地を見せた。


しかし、団体の体制変更(NXT 2.0への移行)に伴い、2022年1月、彼は再びWWEからリリースされることとなる。



「サモア・ジョーの時代は、これで終わったのだろうか」 


世界中のファンが、彼の引き際を覚悟した。しかし、怪獣の心の中に燃え盛る炎は、まだ1ミリも小さくなってはいなかった。


★AEWでの完全なる復権――「キング・オブ・テレビジョン」から世界の頂点へ



2022年4月、かつて彼が絶対王者として君臨した古巣、新生「ROH(トニー・カーンが買収)」のPPV『Supercard of Honor』のエンディング。 突如として鳴り響いたあの不気味なゴジラの咆哮を彷彿とさせるテーマ曲に、会場は爆発的な大歓声に包まれた。



サモア・ジョー、AEWおよび新生ROHへの電撃入団。


ここから、サモア・ジョーのレスラー人生における「奇跡の第2章」が加速していく。


 トニー・カーン代表は、ジョーの実力と、これまでのプロレス界への貢献度を最大限にリスペクトし、彼を瞬く間に団体の「最高の重鎮」としてプロモートした。


ジョーはまず、ROH世界TV王座、そしてAEWの若き才能たちがしのぎを削る「TNT王座」を次々と獲得。


二つのテレビ王座のベルトを同時に保持し、自らを「キング・オブ・テレビジョン」と称して、毎週の番組を圧倒的な支配力で牽引した。



かつてROHで若き日のジョーと戦ったファンの子供世代にあたる、ダービー・アリンやパワーハウス・ホブスといったAEWの新世代の天才たちが、ジョーの圧倒的な肉体とインサイドワークの前に、文字通り「プロの本物の凄み」を叩き込まれていった。


彼の試合は、派手な空中戦や過激なスタントが主流となりつつある現代のAEWにおいて、一発のチョップ、一発のボディスラムで観客を黙らせる「プロレスの原点」を提示し続けた。



そして、彼の復権劇が最高のクライマックスを迎えたのが、2023年12月30日、ニューヨークで開催されたAEWのPPV『Worlds End』である。


メインイベントにおいて、長期間にわたりAEWの絶対的エースとして王座に君臨し、絶対的な人気を誇っていたMJF(マクスウェル・ジェイコブ・フリードマン)の持つ「AEW世界ヘビー級王座」に挑戦。 


MJFの執拗な反則やテクニックに対し、ジョーはビクともしないタフネスと、全盛期を彷彿とさせる獰猛な攻めを展開。最後は、満身創痍のMJFを強烈なコキーナ・クラッチで完全に絞め落とし、レフェリーストップ勝ちを収めたのだ。



44歳にして、世界で最も熱い団体であるAEWの「世界最高峰の頂点」へと登り詰めた瞬間。


 インディーの混沌から這い上がり、メジャーの壁にぶつかり、怪我に泣かされた男が、自らのファイトスタイルを1ミリも変えることなく、世界最大のインディーの情熱を持つメジャー団体の頂点に立った。


このジョーの戴冠劇に、世界中のオールドファン、そして目の肥えたAEWの観客は、惜しみないスタンディングオベーションを送り続けた。


★サモア・ジョーがマット界に遺し続ける「生ける伝説」の重み


明けて2024年、ジョーはAEW世界ヘビー級王者として、ハングマン・アダムスやスワァーブ・ストリックランドといった団体のトップランナーたちと、息をのむような防衛戦を展開。


同年4月の『Dynasty』においてスワァーブに王座を明け渡したものの、王座を失った後も彼の価値が下がることは一切なかった。


それどころか、2024年から2025年にかけて、サモア・ジョーという男のマルチな才能は、プロレス界の枠をも大きく飛び越えていった。


ハリウッドの映像界において、彼のあの「不気味な巨体」と「圧倒的なドスの利いた声」は、最高のキャラクターとして求められ続けたのだ。


人気ゲームのアニメ化大作『ツイステッド・メタル』において、不気味なピエロの殺人鬼「スイートトゥース」のボディ(肉体演技)を担当し、世界的な大ヒットを記録。


さらに、DCコミックスのゲーム映画『スイサイド・スクワッド』では、主要キャラクターである「キング・シャーク」の声優を務めるなど、エンターテインメントの世界においても、彼は唯一無二の「怪獣」としての地位を不動のものにしていった。



そして2026年。 


サモア・ジョーは、映画や声優としての華やかなハリウッドのキャリアを並行してこなしながらも、毎週、AEWのバックステージ、そしてリングの上にその巨体を現し続けている。



現在の彼は、ベルトという目に見える勲章を必ずしも必要としていない。 


なぜなら、サモア・ジョーがリングに向かって花道を歩いてくる、あのずっしりとした足音、そして解説席から放たれる一言一言の重みそのものが、現在のAEW、そして世界のプロレス界における「格」の基準(スタンダード)になっているからである。



時折、リングに上がっては、最先端の若きレスラーたちを「コキーナ・クラッチ」の一撃でマットに這わせ、プロレスの「綺麗さ」の向こう側にある「恐怖」と「リアル」を叩き込む。


50歳を目前に控えた2026年現在もなお、サモア・ジョーは、世界のプロレス界において誰一人として真似のできない、気高き「破壊神」としての生き様を現在進行形で刻み続けているのだ。


世界のプロレス界に遺し続ける圧倒的な「強さの記憶」と「王者の威厳」



プロレスラーにとって、本当の「偉大さ」とは一体何によって証明されるべきなのだろうか。


「王道を破壊し、インディーのプライドをメジャーの頂点で証明してみせた男」サモア・ジョーのこれまでの歩みを振り返った時、私はある一つの事実に気がつく。 


彼は、20代の若き日に日本のZERO-ONEやROHで魅せたあの「激しさ」「タフネス」「サブミッションのキレ」を、40代後半を過ぎ、様々なエンタメの世界で成功を収めた2026年の今もなお、全く錆びつかせることなく保持し続けているということだ。



それは、彼が自らの肉体、そして「プロレス」というジャンルに対して、どれほど深い愛情と、狂気的なまでのプライドを持ち続けてきたかの証明に他ならない。



リング上では、相手を容赦なく破壊する「最凶の怪獣」。しかし、一歩バックステージに下がれば、若きレスラーたちの相談に乗り、的確なアドバイスを送り、ハリウッドのスタッフからも愛される、極めて理性的で知性あふれる「紳士」であるというサモア・ジョー。


彼が今もなお、痛みの伴うプロレスのキャンバスに立ち続ける理由。


それは、彼にとってリングこそが、ポリネシアンの血をたぎらせ、自らの魂を最も純粋に表現できる「約束の地」だからではないだろうか。


彼が今、リング上で相手をコキーナ・クラッチで絞め落とす時、その冷酷な表情の裏側には、かつて5歳の頃にロサンゼルスの大舞台で伝統のステップを踏んでいたあの少年スティーブンの、純粋無垢な「表現者としての喜び」が、今もなお脈々と息づいているに違いない。



ジョーのプロレスは重戦車のごとき破壊力に、天性のスピードと高度なレスリング技術を完全融合させたその姿は、まさに「剛柔兼備怪獣」。


一瞬で相手の意識を刈り取る鋭い関節技と、脳天からマットへ突き刺す多彩な投げ技、すなわち「サブミッション&スープレックスの二丁拳銃」という最強の武器を携え、彼は世界中のマットを恐怖と興奮で支配してきた。


だからこそ、現在のAEWのリングでも、サモア・ジョーの闘いにはあの激動の日本マットで磨き上げた「ストロングスタイル・王道の重み」が、今なお厳然として漂っている。



サモア・ジョーが世界のプロレス界に遺し続けるあの圧倒的な「強さの記憶」と「王者の威厳」を、私たちはこれからも、彼のゴングが鳴るたびに、震えながら、そして心からのリスペクトを込めて目撃し続けるのだ。











俺達のプロレスラーDX
第256回  
マットは神聖なり!王道を刻む冷酷非情のリング・ジェネラル/グンター






プロレスリングとは、時代とともに変貌を遂げる生き物である。



21世紀の現代プロレスは、目覚ましい進化を遂げた。重力を無視するかのようなアクロバティックなハイフライ・ムーブ、目まぐるしく入れ替わるスピーディーな展開、そしてエンターテインメント性を極限まで高めたマイクパフォーマンスやバックステージのドラマ。それらは世界中のファンを熱狂させ、プロレスというジャンルの可能性をどこまでも広げてきた。



しかし、そうした華美でスピーディーな「現代型プロレス」が隆盛を極めれば極めるほど、ファンの胸の奥底には、どこか乾いた飢餓感が芽生えるのもまた事実である。



「プロレスの本質とは、一体何だったのか?」 「相手の攻撃を真っ向から受け止め、ただ泥臭く、圧倒的な肉体と肉体がぶつかり合う重厚な闘いはどこへ行ったのか?」



その問いに対して、雄弁な言葉ではなく、たった一発の「鈍い肉体音」で答えを突きつける男がいる。



漆黒のショートタイツに身を包み、堂々たる体躯でリングの中央に立つ。 ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』の重厚で荘厳な旋律とともに花道を歩み、一切の無駄な微笑みを見せることなく、冷徹な眼光で相手を見据える。



そして試合が始まれば、相手の胸板がどす黒く変色し、血が滲むほどの強烈な「逆水平チョップ」を一閃する。 


派手な演出も、観客に媚びるパフォーマンスも一切存在しない。あるのは、相手をリングのキャンバスに叩きつけ、平伏させるという「絶対的な競技性」と「暴力的な美学」のみ。



ドイツ語で唱えられる彼の信念――「Die Matte ist Heilig(ディ・マテ・イスト・ハイリヒ=マットは神聖なもの)」。



男の名は、グンター。193 cm 、113kg( かつては150kg)の肉体とパワー、技術でヨーロッパやアメリカのインディー界で「ウォルター」として恐れられ、世界のプロレス界を震え上がらせた「リング・ジェネラル(リングの将軍)」である。



NXT UK王座を「870日間」保持し、WWEインターコンチネンタル王座の最長保持記録を「666日間」へと塗り替え、さらにはWWE世界ヘビー級王者としてプロレス界の頂点に降臨したこの怪物。



なぜ彼は、過剰な演出が支配する現代プロレスにおいて、これほどまでに圧倒的な支持と敬畏を集めるのか? 


なぜ彼の振るう一撃は、観客の魂をこれほどまでに揺さぶるのか?


オーストリアの古都ウィーンで産声を上げ、ヨーロッパの地下室で技を磨き、日本で王道・ストロングスタイルの神髄を吸収し、世界最大のプロレス団体WWEの歴史を塗り替えた男。 


今回は、現代プロレスの救世主にして「マットの聖職者」、グンターの歩んできた真実のドラマを、そのレスリング哲学とともに深く紐解いていきたい。



★ウィーンのサッカー少年からプロレスの世界へ――ヨーロッパの地で育まれた怪物



1987年8月20日、音楽と芸術の都として知られるオーストリアの首都ウィーン。 後に「リングの将軍」としてプロレス界を支配することになる男、本名ウォルター・ハーンはこの地で誕生した。


幼少期のウォルターは、同世代のヨーロッパの少年たちと同じようにサッカーに情熱を注ぐ少年であった。 

恵まれた体躯を持っていた彼は、ゴールキーパーとしてピッチに立ち、相手のシュートを果敢に阻んでいた。だが、彼が本当に心を奪われたのは、緑のピッチではなく、ロープで囲まれた四角いリングだったのだ。


1990年代半ば、オーストリアのテレビ局RTLなどで放送されていたWWF(現WWE)の番組を、友人が録画したビデオテープで観たことがすべての始まりだった。 


ハルク・ホーガンやブレット・ハートらの戦いに魅了されたウォルター少年は、やがて友人が所有していた日本の全日本プロレスや新日本プロレスのビデオテープにも出会うことになる。


巨漢たちが真っ向からぶつかり合い、技を掛け合い、限界を超えて立ち上がる日本のプロレス。 


「これこそが、俺が追い求める本物の戦いだ」 



胸の中に灯った火は、二度と消えることはなかった。




15歳の時、ウォルターはサッカーをやめ、プロレスラーになるためのトレーニングを始めることを決意する。


 彼が門を叩いたのは、ウィーンに拠点を置くプロレススクール「Wrestling School Austria」。


指導にあたったのは、ヨーロッパのインディー界で名陣営として知られるオーストリア出身のレスラー、ミカエル・コバックであった。



コバックの指導は徹底して基礎を重視するものだった。 受け身、グラウンドの基本、ロープワーク、そして何よりも「プロレスラーとしての体作り」。 

ヨーロッパのプロレスは、かつてCWA(キャッチ・レスリング・アソシエーション)に代表されるような、シュートレスリングやキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(CACC)の伝統が色濃く残る土地柄である。 華やかさよりも実質的な強さ、相手をコントロールするグラウンドの攻防が叩き込まれた。


2005年11月19日、18歳となったウォルターは「プロレスラー・ウォルター」として待望のプロデビューを果たす。


初期のリングネームは本名の「ウォルター」、あるいは巨漢を強調した「ビッグ・バン・ウォルター」や「ビッグ・ダディ・ウォルター」。



 デビュー当時の彼は、まだ肉体もしぼみきっておらず、巨大ではあるものの泥臭い若手レスラーのひとりに過ぎなかった。



ヨーロッパ各国のローカルインディー団体を車で巡回し、数少ない観客の前で数千円のギャラのために体を張る日々。 


だが、この過酷な下積み時代に、彼はプロレスリングという競技に対する絶対的な敬意と、いかなる環境でも観客を納得させる「プロの業」を身につけていったのである。


★日本という聖地での修行時代――「ビッグ・バン・ウォルター」と王道・ストロングスタイルの洗礼



ヨーロッパのインディーマット(独wXwなど)で頭角を現し始めていた若きウォルターにとって、キャリアの大きなターニングポイントとなる機会が訪れる。



それは、彼が幼い頃からビデオテープが擦り切れるまで見続け、憧れ続けたプロレスの聖地――
「日本」への遠征であった。


2008年から2010年代初頭にかけて、ウォルターは日本のプロレス団体のリングに度々足を踏み入れた。彼が主戦場として選んだのは、破壊王・橋本真也が魂を吹き込んだ「プロレスリング・ゼロワン(ZERO1)」と、過酷な肉弾戦ストロングスタイルとデスマッチの二大看板で知られる「大日本プロレス(BJW)」であった。


ZERO1のリングに上がったウォルターを待っていたのは、日本プロレス界伝統の「厳しい洗礼」だった。「超竜」高岩竜一をはじめとする小気味よくも容赦のない、骨のきしむような打撃の応酬。


ウォルターはそれらを文字通り肉体一つで受け止め、レスラーとしての懐の深さと耐久力を磨いていった。


さらに2008年には、ZERO1伝統の真夏の祭典「火祭り」にもエントリーを果たし、日本のトップレスラーたちと過酷なリーグ戦を戦い抜いた。



しかし、日本という土地は彼にシリアスな戦いだけを求めたわけではなかった。


遠征中、突如として緑のマスクと全身タイツを手渡され、日本の人気キャラクターをモチーフにしたコミカルな覆面レスラー「ガチャピン」としての出場を命じられたのである。


2メートル近い巨体を窮屈なスーツに包み、リングでコミカルな動きを要求される日々。


一歩間違えればプライドを傷つけられ、へそを曲げて帰国してもおかしくない状況だった。


だが、ウォルターは違った。彼は文句ひとつ言わず、与えられた役割を全力で全うした。「これもまた日本のプロレス文化、エンターテインメントの多様性の一部だ」と貪欲に吸収し、ファンの笑顔を誘った。この真摯で謙虚な姿勢こそが、日本の関係者やレスラー仲間から深い信頼を勝ち取る一歩となった。


やがてウォルターの本領は、大日本プロレスの「ストロングBJ」戦線で完全に開花することとなる。当時、大日本プロレスのヘビー級前線は、関本大介や岡林裕二、佐々木義人といった、日本が誇る筋骨隆々のモンスターたちが覇を競う、世界で最も過酷な肉弾戦のジャングルと化していた。


140キロを超えるヨーロッパの巨漢と、ヘビー級の肉体を極限までビルドアップした日本のヘビー級戦士たち。


彼らの激突は、まさに「動くマウンテンと動く鋼鉄の塊」の衝突だった。特にDJハイドとのタッグで、関本大介&佐々木義人組が保持していたBJW認定タッグ王座に挑戦した一戦や、ドイツのwXw世界ヘビー級王座を巡って関本と日独のリングで繰り広げた至高のシチュエーションは、今もファンの間で伝説として語り継がれている。



互いの胸板が真っ赤に腫れ上がり、破裂音が会場に響き渡る逆水平チョップの応酬は、観客の度肝を抜いた。



「日本のリングは、俺にプロレスの『真の激しさ』を教えてくれた」


ウォルターは後年、WWEのトップスターに登り詰めてからも、この日本遠征時代を最大の財産としてそう振り返っている。



彼が日本の地で最も強い影響を受けたのは、プロレスリング・ノアの小橋建太、そして天龍源一郎、川田利明、さらに全日本プロレス時代のスタン・ハンセンといったレジェンドたちが築き上げた「四天王プロレス」や「王道・ストロングスタイル」のファイトスタイルであった。



一発の強烈な逆水平チョップで相手の呼吸を止め、一発のラリアットで会場を爆発させる。華美なギミック、複雑なマイクパフォーマンス、過剰な演出や仕掛けなど一切必要ない。



リング上で行われる「技の威力」と「剥き出しの感情の吐露」だけで、何千、何万という観客を総立ちにさせる。



それこそがプロレスの本質であると、彼は確信した。日本の目の肥えた観客たちも、この若き異国からの刺客が、ただ体がデカいだけの外国人レスラーではないことにすぐに気づいた。日本のプロレスの歴史と文化を心からリスペクトし、泥臭く泥にまみれ、どんな容赦ない打撃も真っ向から受け止めてみせる。



ファンはかつての名レスラー、ビッグバン・ベイダーへのオマージュを込めて彼を「ビッグ・バン・ウォルター」と呼び、そのファイトに最大級の熱い声援を送った。


「相手の技をすべて受け止めた上で、それを遥かに上回る圧倒的な力と説得力で叩き潰す」



日本での過酷な修行、コミカルな試練の克服、そして肉体の限界を超える肉弾戦を通じて確固たるものとなったこの哲学。


これこそが、後にWWEのリングへと渡り、歴史的なIC王座長期政権を築き上げ、世界中を恐怖と興奮で震撼させることになる「リング・ジェネラル(グンター)」の、頑強にして決して揺るがない骨格となったのである。彼の放つチョップの一発一発には、いまもあの頃、日本のリングで浴び、そして放った熱い血の記憶が宿っている。


★wXwの絶対王者と「リングカンプ」の結成――「マットは神聖なり」の美学



日本からヨーロッパへと帰国したウォルターは、ドイツ最大のプロレス団体「wXw(Westside Xtreme Wrestling)」を中心に、ヨーロッパ全土のプロレス界を支配する存在へと急速にのし上がっていく。



2010年3月、ウォルターはwXwの春の風物詩であるヨーロッパ最大のトーナメント『16 Carat Gold』に出場。 並み居る強豪を破り、当時22歳という史上最年少(当時)で劇的な優勝を飾る。決勝でザック・セイバーJr.を破り、wXw統一世界ヘビー級王座を獲得したウォルターは、名実ともにヨーロッパプロレス界の最高峰へと上り詰めたのだ。



wXwでのウォルターは、まさに「動く山脈」であった。 190cmを超える身長と140kgを超す巨体。その巨体から繰り出される容赦のない逆水平チョップは、相手の胸を真っ赤に腫れ上がらせ、会場中に「バシィィィン!」という不気味な破裂音を響かせた。


そして2016年、ウォルターのプロレス人生において、その哲学を象徴する重要なユニットが結成される。



「Ringkampf(リングカンプ)」。



ドイツ語で「レスリング(格闘)」を意味するこのユニットは、ウォルターを中心に、アクセル・ディーターJr.(後のルートヴィヒ・カイザー)、ティモシー・サッチャー、クリス・ブルックスらによって結成された。



彼らの掲げたスローガンこそが、冒頭に記したあの言葉であった。


「Die Matte ist Heilig(マットは神聖なもの=The Mat is Sacred)」。



リングカンプのメンバーは、黒を基調としたシンプルなコスチュームを身にまとい、入場時に笑みを浮かべることも、観客をアピールで煽ることも一切しなかった。 


彼らにとって、リング(マット)とは神聖な競技の場であり、そこで行われるプロレスとは、鍛え抜かれた肉体と技術を競い合う「至高の格闘芸術」でなければならなかったのだ。



「プロレスをサーカスにするな。マットを汚す奴らは、俺たちが排除する」


この硬派で禁欲的、かつ圧倒的に強固な美学は、チャラチャラとしたパフォーマンスが溢れる現代のインディーシーンにおいて、逆説的に強い異彩を放った。 観客は彼らの圧倒的な強さと、プロレスに対するストイックすぎるほどの姿勢に平伏し、いつしかブーイングではなく、深い敬意(リスペクト)の念を込めて彼らを讃えるようになったのである。


ウォルターはwXw統一世界王座を3度にわたって戴冠し、wXwタッグ王座も4度獲得。 ドイツ・ヨーロッパのプロレス界において、ウォルターの名は「絶対に超えられない絶望の壁」として定着したのだった。


★欧米インディー界の「ラストボス」――PROGRESS、PWG、そして世界への侵攻


ドイツの絶対王者となったウォルターの威名は、やがて大西洋を越え、イギリス、そしてアメリカのインディー界へと轟くことになる。



2010年代半ばから後半にかけて、プロレス界は「インディー・パーク(インディー団体の黄金期)」を迎えていた。 イギリスの「PROGRESS Wrestling」や「Revolution Pro Wrestling(RevPro)」、アメリカ・カリフォルニアのハイレベルなハイフライヤーが集う「PWG(Pro Wrestling Guerrilla)」、そして「EVOLVE」。
これらの団体に「ラストボス(最凶のボスキャラ)」として送り込まれたのが、ウォルターであった。



PROGRESS Wrestlingにおいて、ウォルターはメインイベントでタイラー・ベイト、ピート・ダン、ウィル・オスプレイといったイギリスが誇る天才たちを次々と撃破。


 2018年にはPROGRESS統一世界王座を獲得し、ロンドンのファンを絶望と興奮の渦に巻き込んだ。


また、アメリカのPWGに参戦した際には、その規格外のデカさと圧倒的な打撃でアメリカのファンにメガトン級の衝撃を与えた。 PWG世界王座を獲得し、キース・リーやロデリック・ストロング、ザック・セイバーJr.らと繰り広げた肉弾戦は、米レスリング・オブザーバー誌をはじめとする専門メディアから満点の最高評価を連発された。


彼の入場曲は、古典音楽の巨匠ドヴォルザークの『新世界より』第4楽章。 重厚なブラスの音色が会場に響き渡ると、観客は息をのむ。 


そしてリングに上がると、胸板へのチョップ一発で相手をマットに沈め、最後は豪快なパワーボム、あるいは窒息を誘うリアネイキッド・チョーク(スリーパーホールド)で相手を締め落とす。


「世界中で最も恐れられているプロレスラーは誰か?」

その問いに対し、業界の関係者やファンが口を揃えて挙げた名前こそが「ウォルター」であった。


メジャー団体であるWWEやAEWが彼に熱視線を送るのは、もはや時間の問題であった。 


だが、当時のウォルターは、アメリカに移住して過酷な全米巡業を行うWWEのスタイルに対して懐疑的であった。 


彼は生まれ故郷であるヨーロッパの生活と家族を愛し、「自分自身のスタイルを崩してまでメジャーに行きたくはない」という固い信念を持っていたからである。



そんな頑固な「ヨーロッパの怪物」を動かすために、WWEは特別な舞台を用意することになる。 それが、新設されたWWEのイギリスブランド、「NXT UK」であった。


★WWE参戦、NXT UKでの870日不滅の支配



2019年1月12日、イングランド・ブラックプールで開催された『NXT UK TakeOver: Blackpool』。
NXT UK王座を685日間にわたって保持し、絶対王者として君臨していた“ブラザーウェイト”ピート・ダンが防衛を果たした直後、場内にあの荘厳な『新世界より』が鳴り響いた。



花道に姿を現したのは、ウォルター。 全米・全英のファンがどよめいた。ついに「ヨーロッパのラストボス」がWWEのリングに足を踏み入れたのだ。



ウォルターはピート・ダンと真正面から睨み合い、その威圧感だけで会場全体を支配してみせた。



そして同年4月5日、ニューヨークのバークレイズ・センターで開催された『NXT TakeOver: New York』。 ウォルターはピート・ダンと歴史的名勝負を展開。ダンの関節攻撃に耐え抜き、最後は最上級のパワーボムで叩きつけてピート・ダンをフォール! 第3代NXT UK王者に輝いたのである。


ここから、WWEの歴史に永久に刻まれる「ウォルターの絶対支配」が始まった。



タイラー・ベイト、ジョー・コフィー、A-キッド、ランページ・ブラウン……NXT UKの挑戦者たちが次々とウォルターの前に立ちはだかるが、誰一人として彼を引きずり下ろすことはできなかった。


しかし、この長きにわたる王者ロードの中で、ウォルターのプロレス人生において最も凄惨で、最も美しく、そして最も狂気に満ちた「運命のライバル」が現れる。



ロシア出身の熱血漢、イリヤ・ドラグノフである。
2020年10月29日、コロナ禍の影響により無観客のスタジオで行われたNXT UKでのタイトルマッチ。 観客の歓声が一切存在しない静寂空間で、ふたりの戦いは「凄惨な殺し合い」と化した。


ドラグノフは死をも恐れぬ覚悟でウォルターの巨体に突進し、ウォルターはドラグノフの胸板が裂けんばかりのチョップを叩き込み、顔面を殴りつける。 


打撃の肉声、息遣い、そして血の匂い。画面越しにも伝わる圧倒的なリアリズム。 最後はウォルターがスリーパーホールドでドラグノフを失神させ、王座を防衛したものの、試合後のウォルターの胸もまた、ドラグノフの猛攻によって真っ赤に腫れ上がり、呼吸を乱していた。



この試合は「無観客試合におけるプロレス史上の最高傑作」と世界中で絶賛された。



そして2021年8月22日、『NXT TakeOver 36』でのリターンマッチ。 超満員の観客の前で繰り広げられた再戦は、前作を上回る死闘となった。 ドラグノフの執念の猛攻に、さすがのウォルターも追い詰められる。最後はドラグノフのスリーパーホールドに捕まり、あのウォルターが屈辱のタップアウト(ギブアップ)。


この瞬間、ウォルターのNXT UK王座防衛ロードは幕を閉じた。


その保持期間、実に「870日間」。



現代プロレスにおいて、単一のシングル王座を2年以上保持し続けることがいかに不可能なことか。 


ウォルターはNXT UKというブランドの価値を、その圧倒的な強さだけで世界最高峰のハードコア・レスリングの域にまで高めてみせたのだ。
王座を失ったウォルター。


だが、それは彼にとって終わりではなく、世界最大のステージ「WWEメインロスター(SmackDown/RAW)」への本当の挑戦の始まりに過ぎなかった。



★肉体改造と「グンター」への覚醒――IC王座666日の前人未到の金字塔



2022年1月、ウォルターはNXT(アメリカ本土)のリングで一つの大きな決断を下す。 長年親しまれた「ウォルター」というリングネームを捨て、新たに「グンター」と名乗ることを宣言したのだ。


当初、長年彼を追いかけてきた世界中のファンからは強い困惑と反発の声が上がった。 


「なぜ今さら名前を変えるのか?」
「WWEの都合で彼のキャラクターが壊されてしまうのではないか?」



さらにファンを驚かせたのは、彼の肉体の変化であった。 


かつて150kgを超えていたドラム缶のような超巨漢から、過酷な食事制限と有酸素運動、ウェイトトレーニングによって約30kg以上の減量に成功。引き締まった筋肉と腹筋が浮き出る、シャープで獰猛な「完全体のアスリート体型」へと変貌を遂げていたのだ。


「名前が変わろうが、体が痩せようが関係ない。俺はリングで結果を出すだけだ」



2022年4月、グンターはかつてのリングカンプの盟友ルートヴィヒ・カイザー(アクセル・ディーターJr.)、そしてジョバンニ・ヴィンチとともに、SmackDownのリングに「インペリウム」として颯爽と昇格を果たした。



下馬評やファンの不安など、グンターがリングに足を踏み入れた瞬間にすべて吹き飛んだ。 肉体が引き締まったことで、彼の動きは以前よりも格段にスピードとキレを増し、それでいて一発の打撃の破壊力は全く衰えていなかったのだ。



昇格からわずか3ヶ月後の2022年6月10日、グンターはリコシェを破り、WWEの伝統ある王座「WWEインターコンチネンタル(IC)王座」を獲得する。



ここから、WWEの歴史を揺るがす「IC王者・グンターの伝説」が幕を開けた。



かつてサベージ、スティムボート、ブレッド・ハート、ショーン・マイケルズら名匠たちが巻き、王者の象徴とされたIC王座。


しかし近年は、ストーリーの展開次第でベルトがくるくると移動し、ややその価値が低迷していた時期もあった。


グンターはそのIC王座に、再び「絶対的な重みと気品」を取り戻させたのである。



彼が繰り広げた防衛戦は、どれもがWWEのPPV(プレムアム・ライブ・イベント)で最高評価を獲得した。


特に圧巻だったのは、2022年9月の『Clash at the Castle』ウェールズ大会でのシェイマスとの防衛戦である。


 アイルランドの闘将シェイマスと、オーストリアの将軍グンター。二人の巨漢が真っ向から肉体を叩きつけ合い、互いの胸板が真っ黒に変色するほどの殴り合いを展開。会場を埋め尽くした6万人の大観衆は総立ちとなり、試合後には敗者シェイマスにも、王者グンターにも割れんばかりの拍手が送られた。



翌年、2023年の『WrestleMania 39』では、シェイマス、ドリュー・マッキンタイアを相手に「IC王座史上最高」と称される伝説の3WAYマッチを敢行。二人の猛攻を跳ね返し、最後は二人に連続でパワーボムを叩きつけて見事に王座を防衛してみせた。



チャド・ゲイブルとのテクニカルな名勝負、ザ・ミズとの新旧思想対決、ブラン・ストローマンとの超巨漢対決……。 




どのようなタイプの相手であっても、グンターは相手の良さを引き出した上で、最後に圧倒的な暴力と格で叩き潰してみせた。


2023年9月8日、グンターはホンキー・トンク・マンが35年間保持していた「IC王座最長保持記録(454日)」を正式に更新。



そして2024年4月6日、『WrestleMania XL』フィラデルフィア大会。 挑戦者サミ・ゼインに敗れるまで、グンターが刻んだIC王座の防衛記録は、実に「666日間」。



歴代最長保持記録という前人未到の金字塔。 グンターはIC王座を単なる中間タイトルの枠から解き放ち、「WWEで最も勝ち取ることが困難な価値あるベルト」へと昇華させたのである。


★King of the Ring制覇、そして頂点へ――WWE世界ヘビー級王者と「レジェンドキラー」



WrestleMania XLでの敗北により、666日におよぶIC王者としての歴史に終止符を打ったグンター。 しかし、これで彼のアドバンスが止まることなどあり得なかった。王座を失ったことは、彼がWWEの「真の最高峰(世界ヘビー級王座)」へと登り詰めるための助助走に過ぎなかったのだ。


2024年5月、サウジアラビアで開催された伝統のトーナメント『King of the Ring 2024』。 グンターは他を寄せ付けぬ強さでトーナメントを勝ち進み、決勝戦でWWEの生きる伝説“RKO”ランディ・オートンと激突。 


オートンの海千山千のテクニックとRKOの恐怖を跳ね返し、最後は執念のフォールで勝利! 第24代「キング・オブ・ザ・リング」の栄冠を勝ち取ったのである。



この優勝により、グンターは夏のビッグイベント『SummerSlam 2024』(8月3日、オハイオ州クリーブランド)でのWWE世界ヘビー級王座挑戦権を獲得する。



王者ダミアン・プリーストに挑んだメインイベント。 激闘の末、フィン・バラーの介入も引き込みつつ、最後は猛烈なチョークスリーパーでプリーストの意識を奪い落とし、レフェリーストップ!


グンター、WWE世界ヘビー級王座初戴冠!


ついに、オーストリア出身の男が、世界最大のプロレス団体の「世界の頂点」に君臨した瞬間であった。


世界王者となったグンターは、その冷徹な絶対王者としての風格をさらに加速させていく。 彼は自らをプロレス界の「規律」とし、旧時代のレジェンドたちや新時代のチャレンジャーたちを次々と返り討ちにしていった。


特に彼が覚醒させた新たな異名が「キャリア・キラー)伝説を終わらせる男)」であった。

WWEの歴史を彩ってきた超大物レジェンドたちが、最後の意地と誇りをかけてグンターの前に立ちはだかる。 しかし、グンターは一切の容赦を見せなかった。 

WCWとWWEの伝説である“超人”ゴールドバーグとのスペシャルマッチでは、ゴールドバーグのスピアーを正面から受け止め、最後はパワーボムで撃破。


 さらには、WWEの象徴であるジョン・シーナ、AJスタイルズの「引退試合」や「ラストマッチ」の相手を務め、その圧倒的な強さをもって彼らをマットに沈め、引退へと追い込んでいったのだ。


「ノスタルジーで俺のリングに上がるな。過去の栄光など、今の俺のチョップ一発で粉々にしてやる」


冷酷無比でありながら、一切の不正や凶器に頼らず、ただ純粋な「レスリングの力」だけでレジェンドたちを介錯していくその姿。 


観客は彼の残酷さに恐怖しながらも、「プロレスの厳格な守護神」としての彼の圧倒的な存在感に、息をのんで平伏するしかなかった。



2024年から2025年、そして2026年にかけて、グンターはWWE世界ヘビー級王者として(途中でCMパンクらとの熾烈なベルトの争奪戦を経ながらも、2度の世界王座戴冠を果たし)、WWEの『RAW』および『SmackDown』の絶対的エースとして君臨し続けている。


彼がリングに立つだけで、そこはエンターテインメントの劇場から、命とプライドをかけた「聖域」へと一瞬で変貌するのだ。


★キャンバスに宿る神聖なる魂――現代プロレスの支配者


「プロレスとは、一体何なのか?」



プロレスファンであれば誰もが一度は自問自答するこの問いに、グンターはいつだってブレない姿勢で答えを示してくれる。



彼は、最新の空中技を跳ぶわけではない。 派手なコスチュームで身を包み、奇抜なギミックで観客の目をごまかすわけでもない。 SNSで過激な発言をして話題を振りまくことにも興味を示さない。


彼がやること。それは、誰よりも強靭な肉体を作り上げ、誰よりも基本に忠実な受け身を取り、相手の技を真っ向から受け止め、そして相手が二度と立ち上がれないほどの強烈な一撃を叩き込むこと――ただそれだけだ。


だが、その「ただそれだけ」を、世界の頂点という極限の舞台で、寸分の狂いもなく遂行し続けることがどれほど困難で、どれほど尊いことか。


かつてスタン・ハンセンがウエスタン・ラリアット一発で全日本の会場を爆発させたように。 かつて小橋建太が渾身の逆水平チョップで東京ドームの観客の涙を誘ったように。 かつて天龍源一郎が泥臭い拳と蹴りで「プロレスの厳しさ」を教え込んだように。


グンターがリングの中央で振るうあの逆水平チョップには、往年の名レスラーたちが脈々と紡いできた「プロレスリングのDNA」が脈打っているのだ。


「Die Matte ist Heilig(マットは神聖なもの)」。


彼が唱え続けるこの言葉は、単なるマイクパフォーマンスの決めゼリフではない。


 ヨーロッパの地下室から始まり、日本の過酷なリングで磨かれ、WWEの最高峰へと登りつめたウォルター・ハーンという男が、その20年以上のレスラー人生のすべてをかけて証明してきた「絶対の真実」なのだ。


どれほど時代が変わり、どれほどテクノロジーやエンターテインメントが進化しようとも、四角いキャンバスの上で男たちが肉体をぶつけ合うその尊さは、決して変わることはない。


ドヴォルザークの『新世界より』の重厚な旋律が響き渡るとき、私たちは知る。 現代プロレスには、まだこんなにも強く、こんなにも美しく、こんなにも恐ろしい「本物」が存在しているのだということを。


かつて日本の激しいストロングスタイルと肉弾戦でその骨格を鍛え上げ、世界最高峰のリングを完全に支配するに至った男。

過剰なパフォーマンスを削ぎ落とし、ただ純粋な破壊力と圧倒的な威厳だけで対峙する者を絶望に叩き落とす姿は、まさに唯一無二。


リング上の神聖を守り、あらゆる挑戦者を無慈悲にねじ伏せ続けるその絶対的な佇まいこそ、世界が畏怖する冷酷非情のリング・ジェネラル。

それがグンターという現代プロレスの支配者なのだ。





俺達のプロレスラーDX
第255回  
流血と情熱の暴力王。狂気と誇りで時代を撃ち抜く信条/ジョン・モクスリー






2010年代から2020年代、そして2026年の現在に至るまで、世界のプロレスリング・ビジネスはかつてないほどの巨大化と洗練を遂げ、グローバルなエンターテインメントとして進化し続けている。



世界最大手WWEが破格の巨大放映権協定を結び、緻密に計算されたスクリプトとハリウッド映画さながらの映像演出で世界を魅了する一方で、2019年に誕生したAEW(オール・エリート・レスリング)は新たな対抗軸としてマット界のパワーバランスを激変させた。さらに日本の新日本プロレスや欧州、中南米の団体が複雑に交差し、世界的なプロレスの「大航海時代」が到来している。




だが、どれほど時代が進化し、プロレスがハイテク化し、アクロバティックで洗練された技の攻防が主流となろうとも、ファンの心を最も深く、最も激しく揺さぶるものはいつの時代も変わらない。



それは、「命を削る生の人間ドラマ」であり、「剥き出しの感情と血の匂い」である。




アリーナに重低音のテーマ曲「Wild Thing」が轟いた瞬間、会場の雰囲気は一変する。観客席の通路を悠然と闊歩し、鋭い眼光で周囲を威嚇しながらリングへと向かう一人の男がいる。




革ジャンを羽織り、肩を怒らせ、リングインするやいなや相手に襲いかかり、自らの額を割って鮮血を流しながら不敵な笑みを浮かべる。



ジョン・モクスリー。




188cm、102kgの肉体で、かつて世界最大手WWEにおいて「ディーン・アンブローズ」の名でトップに君臨し、いまやAEW、新日本プロレス、そして世界中のインディーマットを縦横無尽に駆け抜ける「現代プロレス界最高の熱量を持ったカリスマ」である。



ある者は彼を「令和のテリー・ファンク」と呼び、ある者は彼を「アメリカン・プロレスのストリート・キング」と称える。



WWEでの巨額の報酬と安泰な未来を自ら投げ打ち、あえて混沌と流血の最前線へと飛び込んでいった男。


2024年にはWWE世界王座、AEW世界王座に続き、日本の最高峰であるIWGP世界ヘビー級王座をも獲得。プロレス史上前人未到の「米日三団体世界王座制覇」という超金字塔を打ち立てた。



さらに2025年の「コンチネンタル・クラシック」を制してAEWコンチネンタル王者となり、2026年現在もその絶対的な存在感を誇示し続けている。



なぜ、この男の背中に僕たちはこれほどまでに魅了され、その生き様に涙するのか。 


なぜ彼は、安定を嫌い、常に自らの肉体を傷だらけにしながらリングの最前線に立ち続けるのか。




今回は、シンシナティの底辺から這い上がり、狂気とプロレスへの絶対的愛を武器に世界をひれ伏せさせた「野良犬」ジョン・モクスリーの壮絶なる生涯と、その深遠なるプロレス思想を深く、深く考察していきたい。




★貧困と孤独のシンシナティ――「野良犬」ジョナサン・グッドの原点



1985年12月7日、アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ。 本名ジョナサン・デイヴィッド・グッドとして生まれた少年は、アメリカの華やかな繁栄の陰に隠れた、極めて過慮な環境で育った。




彼が育ったシンシナティのイーストエンド地区は、貧困と犯罪、ドラッグが日常茶飯事として蔓延する治安の悪い地域であった。



両親は彼が幼い頃に離婚。母親は夜勤の仕事を掛け持ちしながら必死に彼を育てたが、生活は常に困窮していた。



周囲の同年代の若者たちが路地裏でドラッグの密売や窃盗に手を染めていく中、幼いジョナサンの唯一の救いであり、現実の辛さから逃避できる唯一の聖域が「プロレスリング」であった。




部屋の古いビデオデッキで、擦り切れるまでプロレスのテープを観続ける日々。 


プロレスの歴史本や雑誌を貪るように読み漁り、彼は画面の中のレスラーたちに自らの夢と救いを託した。彼が特に心を寄せていたのは、技術と意地の塊であったブレット・ハートや、テネシー州などの南部で繰り広げられていた泥臭く血の匂いがするリアルなレスリングであった。



「俺にはプロレスしかなかった。プロレスがなければ、俺は路地裏で野良犬のように死んでいたか、刑務所の中にいただろう。プロレスが俺の命を救ってくれたんだ」



後に彼が語った言葉には、何の飾りもない生々しい実感がこもっている。



高校を中退した彼は、わずか18歳で地元のプロレス団体HWA(ハートランド・レスリング・アソシエーション)のドアを叩く。


最初は選手としてではなく、リングの設営や撤去、会場の清掃、ポップコーン売りといった雑用係からのスタートだった。



そこで伝説的なレスラーであり名指導者であったレス・サッチャーやコーディ・ホークのもとで厳しくプロレスの基礎を叩き込まれた彼は、2004年に「ジョン・モクスリー」として待望のプロデビューを果たす。




デビュー当初のモクスリーは、恵まれた体格を持ちながらも、エリートレスラーとは程遠い存在だった。日銭を稼ぐために工場や倉庫で最低賃金の労働をこなしながら、週末になれば数十時間も車を走らせて全米各地の粗末なインディー団体のリングに上がる。



路地裏で育った少年が、自らの肉体一つで世界に挑むための第一歩。それはまさに「野良犬」が自らの牙を研ぎ澄ますための、血と汗に塗れた下積みの日々であった。



★過激の泥沼と血塗られた青春――CZW・インディー界での「狂気」の覚醒


2000年代後半、アメリカのインディープロレス界は、過激なハードコア・デスマッチを売りにする団体や、純粋なプロレス技術を競い合う新興団体が乱立する百花繚乱の時代を迎えていた。



その中でジョン・モクスリーが自らの評価を一気に高めたのが、全米で最も過激で危険とされるデスマッチ団体CZW(コンバット・ゾーン・レスリング)や、ドラゴンゲートUSAFIP(フル・インパクト・プロ)EVOLVEでの大暴れであった。




有刺鉄線、蛍光灯、画鋲、カミソリ、ガラス板――。 キャンバスが血で染まる惨劇のリングの上で、モクスリーは狂気的なファイトを展開した。相手の攻撃を正面から受け止め、額から流血しながらも不敵な笑みを浮かべる。



だが、モクスリーが他のデスマッチレスラーと決定的に一線を画していたのは、単に刺激的なショッキング映像を提供するだけではなく、「圧倒的なマイクパフォーマンスと人間的なリアリズム」を備えていた点である。




彼がマイクを握ると、アリーナの空気は緊迫した殺気に包まれた。 クエンティン・タランティーノ監督の映画に出てくる危険な犯罪者や、裏社会のストリート・ファイターを思わせる生々しいプロモ(マイクパフォーマンス)。



「俺を殺してみろ! 俺の魂は誰にも壊せない! この血は俺が生きている証だ!」




フェイクの入り込む隙のない、圧倒的なリアル。観客は彼の放つプロレスへの狂気的な執着と、痛みを恐れない姿に息をのんだ。



CZW世界ヘビー級王座を2度にわたって獲得したモクスリーは、アメリカのプロレスオタクやインディー関係者の間で「全米インディー界で最も危険で、最も魅力的で、最もプロレスに憑かれた男」としての評価を揺るぎないものにしていった。



貧困の街シンシナティから飛び出した野良犬は、自らの血を流すことで、プロレス界に「ジョン・モクスリー」という存在を深く、深く刻み込んでいったのである。



★WWEという巨大帝国の光と影――「ザ・シールド」結成とディーン・アンブローズの狂騒曲



2011年4月、ジョン・モクスリーの圧倒的な存在感とインディーでの実績に目をつけていた世界最大手団体WWEが、彼と正式に開発育成契約を結ぶ。



開発団体のFCW(フロリダ・チャンピオンシップ・レスリング、後のNXT)に入門した彼は、リングネームを「ディーン・アンブローズ」へと変更。



ここで彼は、後にライバルであり親友となるウィリアム・リーガルとの壮絶な抗争や、セス・ロリンズとの一連の名勝負を通じて、WWEスタイルのレスリングとストーリーテリングを急速に吸収していった。



そして2012年11月18日、PPV『サバイバー・シリーズ』において、現代プロレス史に残る歴史的事件が起こる。



メインイベントのWWE世界ヘビー級選手権試合の最中、黒いタクティカルベストに身を包んだ3人の若者が突如乱入。



王者CMパンクをアシストし、巨漢ライバックを実況テーブルへ「トリプル・パワーボム」で叩きつけたのだ。



「ザ・シールド(The Shield)」の誕生である。

  • ディーン・アンブローズ(マイクと狂気を司るマインドハッカー/事実上のリーダー格)

  • セス・ロリンズ(リング上のスピードと圧倒的技術を司る建築家)

  • ロマン・レインズ(圧倒的なパワーと説得力を誇る破壊神)




この3人組は、既存のWWEの秩序を粉砕し、ハイスピードで隙のない6人タッグマッチで全米を熱狂させた。 



アンブローズはシールドの「声」としてマイクを握り、2013年5月には歴史あるWWE US王座を獲得。保持期間351日という、現代WWEにおける最長記録クラスの長期政権を築き上げた。



2014年にセス・ロリンズの裏切りによってザ・シールドが解散すると、アンブローズは「ルナティック・フリンジ(狂犬)」のニックネームでベビーフェイスとして爆発的な人気を獲得する。



髪を振り乱し、相手の攻撃を正面から受けて立ち上がり、自らの体を省みない危険な技を繰り広げるアンブローズのスタイルは、かつてのストーン・コールド・スティーブ・オースチンやロディ・パイパーを彷彿とさせ、子供から大人まで絶大な支持を集めた。




そして2016年6月19日、PPV『マネー・イン・ザ・バンク 2016』。 同夜のブリーフケース獲得者となったアンブローズは、メインイベントで元同僚セス・ロリンズを破って新王者となったロマン・レインズに対し、直後に権利を行使(キャッシュイン)。ダーティ・ディーズ(ダブルアームDDT)を一閃させ、ついにWWE世界ヘビー級王座をその手に抱きしめたのだ。




かつてシンシナティの路地裏で飢えていた少年が、世界最大の団体でナンバーワンとなった奇跡の瞬間であった。



ザ・シールドの3人が一夜にして全員世界王者となるドラマチックな展開は、ファンを歓喜の渦に巻き込んだ。



★世界王者の栄誉と「魂の摩擦」――葛藤の末に選択したエスケープ



WWE世界王者となり、インディペンデント王座、RAWタッグ王座も獲得してWWEグランドスラム(主要全王座制覇)を達成したディーン・アンブローズ。彼は名実ともに世界のトップスターとなった。




しかし、彼の心の中には、年を追うごとに大きくなる「違和感と絶望」が渦巻いていた。



WWEという巨大企業における極度に管理された環境、毎週会社から渡される細かく書かれたセリフ(スクリプト)の丸暗記、コミカルなキャラクターを強制される演出、過密な移動スケジュール、そしてプロレス本来の殺気や流血が排除された「PG体制(ファミリー向け演出)」――。




「俺が愛したプロレスは、こんなものじゃない。俺は操り人形になりたいんじゃない。自分の言葉で話し、自分の血を流し、自分の魂でリングに立ちたいんだ」



WWEからの破格の長期高額再契約オファーを提示された時、彼は一瞬の迷いもなく首を横に振った。お金や名声、安定した地位よりも、自分の「プロレス魂」を取り戻すことの方が彼にとっては遥かに重要だった。



2019年4月末、WWEとの契約が満了。 契約が切れた直後、彼のSNS上に一本のセンセーショナルな映像が投稿された。



暗闇の刑務所の壁を叩き割り、脱獄して雨の街へと飛び出す男の動画。 最後に画面に浮かび上がった文字は、「JON MOXLEY」であった。



ディーン・アンブローズという作りモノのキャラクターは死んだ。 本物の熱量を持った野良犬、ジョン・モクスリーが還ってきたのだ。



AEW誕生と電撃の「ジョン・モクスリー」復活――両国国技館への降臨とデスライダー旋風



2019年5月25日、ネバダ州ラスベガスで開催された新団体AEWの歴史的旗揚げ興行『Double or Nothing』。



メインイベントでクリス・ジェリコとケニー・オメガが死闘を繰り広げた直後、観客席から私服姿のジョン・モクスリーが突如姿を現した。



アリーナを切り裂くような悲鳴と大歓声の中、モクスリーはリングへ上がり、レフェリー、ジェリコ、そしてケニー・オメガを次々と襲撃。ステージ上の巨大なポーカーチップのオブジェの上からケニーをパラダイム・シフト(高角度ダブルアーム式DDT)で投げ落とし、世界中のプロレスファンに「自由の宣言」をぶち開けた。



さらに、モクスリーの野心は太平洋を越え、日本の新日本プロレスへと向けられる。



2019年6月5日、東京・両国国技館『BEST OF THE SUPER Jr. 26』最終戦。 当時のIWGP USヘビー級王者ジュース・ロビンソンの前に現れたモクスリーは、初参戦にしてジュースを激闘の末に粉砕し、第6代IWGP USヘビー級王座を奪取。



日本のファンは、アメリカのメジャー団体でトップを極めた男が、日本のリングの固いキャンバスの上で剥き出しのファイトを展開し、試合後に「デスライダー」の異名を響かせる姿に熱狂した。



同年夏の『G1 CLIMAX 29』にも初参戦を果たしたモクスリーは、内藤哲也、石井智宏、後藤洋央紀らと激惨な肉弾戦を展開。



特に石井智宏とのゴツゴツとした真っ向勝負は、日米のプロレス史に残る肉弾戦として絶賛された。海野翔太を「俺の野郎(ショータ)」と呼んで子分のように従え、タッグを組む姿もファンに深く愛された。



そして2020年2月29日、AEWのPPV『Revolution』において、クリス・ジェリコを破り第2代AEW世界王者に輝く。



ジョン・モクスリーという野心に満ちた野良犬は、自ら選んだ戦場において、再び世界の頂点へと上り詰めてみせたのである。


★パンデミックの暗雲を切り裂く「団体の背骨」――流血の死闘とBCC(ブラックプール・コンバット・クラブ)の美学




2020年春、新型コロナウイルスの世界的大流行(パンデミック)により、世界中のプロレス興行がストップし、無観客試合を余儀なくされるという未曾有の危機がマット界を襲った。



観客の歓声もリアクションもない静寂のアリーナ。 その絶望的な状況下で、AEW世界王者として団体をその背中で支え続けたのがジョン・モクスリーであった。



モクスリーは、誰もいないパイプ椅子に向かって熱狂のマイクパフォーマンスをぶつけ、リング上ではミスター・ブロディ・リー、ランス・アーチャー、ハングマン・アダム・ページらと観客がいないことを忘れさせるほどの血みどろの激闘を展開。



「観客がいようがいまいが関係ない。俺たちがリング上で生き様を見せることが、世界への答えだ」




彼の見せたプロフェッショナリズムとキャプテンシーは、AEWという新興団体を「本物のメジャー」へと押し上げる最大の原動力となった。




さらに2022年、モクスリーのプロレス人生は新たなステージへと突入する。



元WWEの伝説的な技術屋ウィリアム・リーガルを師と仰ぎ、元WWE世界王者のブライアン・ダニエルソン、クラウディオ・カスタニョーリ、そして若手のウィーラー・ユウタらとともに「ブラックプール・コンバット・クラブ」を結成。



BCCの理念は明快であった。 



「エンターテインメントの甘やかしを排し、プロレスリングの基本である『血と汗と技術と痛み』を叩き込む」




モクスリーはBCCの絶対的エースとして、自らの体に刻まれた無数の傷跡を勲章とし、どんな若手選手が相手であっても容赦なく叩きのめし、同時に彼らのプロレス魂を引き出していった。




相手の技から逃げず、額から流血しながらも不敵に笑い、肘打ち(エルボー)と膝蹴りを叩き込む。その姿は、かつてアントニオ猪木やテリー・ファンクが体現した「プロレスの殺気と情熱」そのものであった。


★米日三団体制覇という前人未到の超金字塔――IWGP世界ヘビー級戴冠とストロングスタイルの証明




ジョン・モクスリーのレスラー人生において、間違いなく最大の輝きを放ち、プロレス史の教科書に永久に刻まれることとなったのが2024年である。




2024年4月12日、アメリカ・シカゴで開催された新日本プロレスのビッグマッチ『Windy City Riot』。




メインイベントで、第8代IWGP世界ヘビー級王者・内藤哲也に挑戦したジョン・モクスリーは、アウェイの地で内藤と凄惨な死闘を展開。内藤のデスティーノをギリギリで凌ぎ切ると、渾身のデスライダー(ダブルアーム式DDT)を突き刺し、カウント3を奪い取った。



第9代IWGP世界ヘビー級王座戴冠。



この瞬間、ジョン・モクスリーは歴史上誰一人として成し遂げることができなかった超絶的な金字塔を打ち立てた。




【WWE世界王座】 【AEW世界王座】 【IWGP世界ヘビー級王座】




アメリカの歴史ある2大メジャー団体、そして日本のストロングスタイルの象徴である新日本プロレスの最高峰ベルトを「すべて獲得した世界史上初のレスラー」となったのだ。





王者としてベルトを腰に巻いたモクスリーは、ベルトに深々と礼をし、感動の面持ちでこう語った。



「俺はプロレスを愛している。日本のストロングスタイルを尊敬している。このベルトは、俺の生き様そのものだ」




その後、6月のアメリカでの『Forbidden Door 2024』で内藤哲也との再戦に敗れ王座を譲るまで、彼は日米を股にかけ、ザック・セイバーJr.や成田蓮といった強豪たちを退け、IWGP王者としての威厳を世界に示し続けた。



そして同年の2024年10月『WrestleDream』ではブライアン・ダニエルソンを破り、自身通算4度目となるAEW世界王座を獲得。自らの価値を極限まで高めてみせたのだった。


★デスライダーズの猛威とコンチネンタル王座――2025年〜2026年、終わりなき闘争の最前線



2024年後半から2025年にかけて、ジョン・モクスリーの進撃は新たな危険な領域へと突入する。

彼は自らの新たな思想を体現するため、パック(PAC)やマリーナ・シャフィールらを巻き込んだ新ユニット「デスライダーズ」を結成。AEWのリングにさらなる混沌と緊張感をもたらした。




2025年12月には、全米最高峰のシングル・トーナメントである「コンチネンタル・クラシック 2025」に見事優勝。第3代AEWコンチネンタル王座を獲得し、その強さを再び世界に見せつけた。




そして2026年に入っても、モクスリーの勢いは衰えるどころか、ますます凄みを増している。




2026年3月のPPV『Revolution 2026』では、日本の至宝・KONOSUKE TAKESHITA(竹下幸之介)との一騎打ちを制し、コンチネンタル王座を防衛。



さらに2026年4月の『AEW Dynasty 2026』ではウィル・オスプレイとの激突を制し、2026年6月の『Forbidden Door 2026』ではバンディードを流血の果てにテクニカル・サコミッションで仕留めて見せた。




2026年7月現在も、コマンダーらの挑戦を退け、コンチネンタル王者として王座を防衛し続けている。




ポジションに安住することなく、常に自らを極限状態に追い込み、若き強豪たちの挑戦を全身で受け止め叩きのめす。



2026年の今なお、ジョン・モクスリーは世界のプロレス界の最前線で「絶対的なボス」として君臨し続けているのだ。



★弱さを曝け出す強さと真の愛――アルコール克服、家族の絆、そしてプロレスへの絶対的忠誠




リング上では、誰も近づけないような狂気と殺気を放つジョン・モクスリー。


 だが、彼のレスラー人生の真の強さは、自らの「弱さ」と正面から向き合い、それを乗り越えてきた人間的深みにある。



2021年11月、AEW世界王者として多忙を極めていたモクスリーは、突如としてすべての興行を欠場し、「アルコール依存症の治療プログラム(リハビリテーション施設)」に入所することを発表した。




過酷な移動スケジュール、肉体の激痛、そしてトップレスラーとしてのプレッシャーから、長年にわたりアルコールへの依存に苦しんでいたことを自ら明かしたのだ。




ファンや関係者が心配そうに見守る中、彼を支え続けたのが、妻であるアナウンサーのルネ・パケットであった。



WWE時代に出会い、結婚した二人の絆は固かった。ルネはモクスリーの葛藤を優しく受け止め、彼が完全に立ち直るための最大の理解者であり続けた。


また、二人の間に生まれた娘の存在も、モクスリーの心に「守るべき本当の光」を与えた。



約3ヶ月の治療を経て、2022年1月にリングへと復帰したモクスリーの表情は、どこか晴れやかで、より研ぎ澄まされた力強さに満ちあふれていた。



「俺は自分の弱さを隠さない。一度はどん底に落ちたが、俺は生き戻ってきた。プロレスリングが、そして家族が俺を救ってくれた」




自らの過ちや弱さを隠すことなくオープンにし、それを克服してリングで汗と血を流す姿。



 これこそが、ファンがジョン・モクスリーという人間に熱狂し、魂を揺さぶられる最大の理由なのだ。

彼は作りモノのヒーローではない。どこまでも生々しい「人間」なのである。



★時代を撃ち抜く自由の魂――彼が四角いジャングルに刻み続ける「生の証明」



ジョン・モクスリーとは、一体何者なのだろうか。



WWEのメガスターか? インディーのデスマッチキングか? それとも、日本とアメリカを繋ぐストロングスタイルの伝道師か?




そのどれもが正解であり、同時にどの枠組みにも収まらないのが、ジョン・モクスリーという男の真価である。



彼はプロレス界において最も重要とされる「自由」を、自らの力と流血で勝ち取った。




大手団体の言いなりになることなく、自分の意志で戦場を選び、自分の意志で技を繰り出し、自分の言葉で想いを語る。



そのために流した血の量は、現代のレスラーの中で間違いなく一番多い。




188cm、102kgの肉体を躍動させ、パイプ椅子で頭を殴られ、有刺鉄線に突っ込み、それでも不敵にニヤリと笑う。



「プロレスは、俺の人生そのものだ。死ぬまで俺はプロレスラーであり続ける」



今日もどこかの街で「Wild Thing」の重低音が響き渡り、観客席の間から革ジャンを着た男が現れる。



ジョン・モクスリーが四角いジャングルに刻み続ける「生の証明」は、これからも世界中のプロレスファンの胸の中で、永遠に、熱く滾り続けるのだ。



プロレス界の最前線を走り続けるジョン・モクスリーのレスラー人生は、既存の枠組みを破壊し、己の生き様を証明し続ける戦いの連続だ。


WWEでトップスターに登り詰めながらも、さらなる刺激と表現の自由を求めて新天地へ飛び出した彼は、過激なデスマッチから王道のヘビー級戦まで、あらゆる戦場でファンを熱狂させてきた。



リング上で赤く染まるその姿は、痛みを恐れず、プロレスへの底知れぬ愛を体現するまさに「流血と情熱の暴力王」そのものだ。



妻であるルネ・パケットをはじめとする家族の支えを背に、彼はこれからも自らの信じる道を突き進んでいく。


数々の名勝負を刻み、団体の壁を越えてプロレス界を牽引するその足跡は、狂気と誇りで時代を撃ち抜くことを信条にしている男の、揺るぎない覚悟を物語っている。










俺達のプロレスラーDX
第254回  
プロレスと格闘技の狭間で暴れる「ゼロ年代の超獣」/ザ・プレデター





プロレスにおける「最強」という言葉は、あまりにも多義的であり、同時にあまりにも魅惑的だ。
四角いジャングルと呼ばれるリングの上では、日々様々なキャラクターが生まれ、消費されていく。映画のヒーロー、お伽話の怪物、あるいは社会のダークサイドを体現した悪漢。

ファンはその「作り込まれた世界観」に酔いしれ、レスラーたちは与えられた役割を全うすることで、エンターテインメントの歯車として機能していく。

しかし、その役割が「あまりにもチープなコピー(模倣)」に見えた瞬間、観客の熱は冷め、興行は色褪せる。特に、過去の偉大なるレジェンドを彷彿とさせるようなキャラクターは、常に「本物との比較」という過酷な十字架を背負わされることになる。

2000年代初頭、日本のマット界に、チェーンを携え、あるレスラーを彷彿とさせる怪物が出現する。

男の名はザ・プレデター。

その姿は、かつて昭和の日本を震撼させ、全日本プロレスや新日本プロレスで暴れ回った「インテリジェント・モンスター(知的な超獣)」ブルーザー・ブロディの幻影を強く抱かせるものだった。

 一見すれば、時代遅れとも言える「怪奇派コピーレスラー」。しかし、コスチュームの下に隠された肉体と経歴を覗き込んだ時、誰もが戦慄せざるを得なかった。

そこにいたのは、全米のアマチュアレスリング界を制覇した、文字通りの「アスリートモンスター」だったのである。

本名、シルベスター・ターカイ。

ある時は破壊王・橋本真也のライバルとしてZERO-ONEのリングを支配し、またある時は総合格闘技の荒波に身を投じ、そしてある時は世界最大の団体WWEでその素顔を晒して闘った。
 今回は、あまりにも高すぎるバックボーンを持ちながら、あえて「超獣」というキャラクターを演じ続け、時代の激流の中で己のプロフェッショナリズムを貫いたこの男の、重厚で、時に不条理なレスラー人生を、生い立ちから現在まで深く考察していきたい。

全米アマレス界の強豪シルベスター・ターカイ

1970年12月4日、カリフォルニア州リバモア。シルベスター・ターカイはこの世に生を受けた。 

彼の肉体は、幼少期から周囲の子供たちとは明らかに一線を画していた。圧倒的な骨格、容易に脂肪を寄せ付けない強靭な筋肉。彼は自らの有り余るエネルギーをぶつける場所として、アメリカにおける「強さの指標」であるアマチュアレスリングを選択する。

ノースカロライナ州立大学に進学したターカイは、アメリカのアマレス界において、まさに「生ける伝説」への道を歩み始める。

ポジションは、最も重いヘビー級。そこは、テクニックだけでなく、人間離れしたパワーとスタミナが要求される、文字通りの怪物たちの魔境である。しかし、ターカイの強さは際立っていた。 

 1993年、彼は全米学生選手権(NCAAディビジョン1)のヘビー級で見事に優勝を果たす。この「NCAAディビジョン1王者」という肩書きが、アメリカの格闘界においてどれほどの価値を持つか、プロレスファンならば理屈抜きで理解できるだろう。

カート・アングル(1991年、1992年王者)
ブロック・レスナー(2000年王者)
ダニエル・コーミエ(準優勝)

そう、後にWWEやUFCで世界の頂点に立つ怪物たちと、まったく同じ系譜にテルケイもまた位置していたのだ。さらに彼は、全米選手権(AAU)でも3度の王者に輝き、1992年のバルセロナ五輪の補欠選手にも選出されている。

「シルベスター・ターカイとマットの上で向かい合った時、まるでコンクリートの壁が迫ってくるような圧迫感があった」

当時の対戦相手たちは、彼のパワーと、巨体に似合わぬ俊敏性に恐怖した。アマレス界での通算戦績は131勝17敗。圧倒的な実績を引っ提げ、彼はプロの格闘世界へと目を向ける。

しかし、当時のアメリカには、まだUFCなどの総合格闘技(MMA)がビジネスとして確立されていなかった。

ちなみにターカイはプロレス入りする前からハリウッド映画や海外ドラマで映画俳優(スタント・端役)としても活動している。

『ユニバーサル・ソルジャー/ザ・リターン』 (1999年)では病院のセキュリティガード役(ジャン=クロード・ヴァン・ダム主演)。
『パパにはヒ・ミ・ツ』 (1995年)ではニセのサンタクロース役。『SOF (Special Ops Force)』シリーズ (1998年)テレビドラマシリーズに「ブルーノ」役などで出演。

プロレスラーになってからも『ブラック・スコーピオン』 (2001年)悪役として出演。『グランド・マスター』 (2010年)という中国の武術映画ではスコットランド人の屈強なファイター役として出演し激しいアクションを披露。『レスラー vs ゾンビ』 (2014年)ではゾンビ化したプロレスラー役として出演し、かつてアマレス時代に激闘を繰り広げたカート・アングルとも劇中で共演している。

遅咲きのプロレスデビュー

ただ、アマレスのエリートが己の肉体と格闘技スキルを活用して莫大な富と名声を得るための最大のキャンバスは、プロレスしかなかった。 

ターカイは、プロモーターのリック・バスマンにスカウトされ、ロサンゼルスを拠点とするUPW(アルティメット・プロ・レスリング)に入門。ここでプロとしての基礎を学ぶ。そこには、後に「ジョン・シナ」となる若き日の青年や、「ネイサン・ジョーンズ」といった規格外の巨漢たちがひしめいていた。


1999年に同団体で「ザ・プレデター」としてデビューすると、すぐにその実力と素質が評価され、バトルロイヤルを勝ち抜いて初代UPWヘビー級王者に輝くという破格のスタートを切る。

実はターカイは、1999年6月のUFO大阪大会に「ビッグバン・ベイダーUFO」として初来日し、エリック・オルリッチを相手に圧倒的な強さでリバーズバイパーホールドで勝利している。

また本名である「シルベスター・ターカイ」として、WWF(現WWE)のダークマッチや、下部組織であるOVWにも参戦した。

しかし、あまりにも生真面目で、本物すぎる彼のアマレス技術は、当時のWWFが求めていた「派手なソープオペラ(アメプロ演劇)」の文脈において、どう扱っていいのか上層部も測りかねていた。



ZERO-ONEで生まれた「ゼロ年代の超獣」


2001年、日本のプロレス界は激震の中にあった。 新日本プロレスを解雇された「破壊王」橋本真也が、自らの理想郷として立ち上げた団体「ZERO-ONE(ゼロワン)」。

 「破壊の聖地」と呼ばれたそのリングは、従来のプロレスの枠組みを超え、あらゆる格闘技、あらゆる団体との「潰し合い」を辞さない、殺伐とした熱気に満ちあふれていた。

橋本真也が求めたのは、自らの「破壊」を受け止め、それ以上の力で叩き潰してくるような、本物の「外敵」だった。

そこで白羽の矢が立ったのが、ターカイだった。




当初は2001年8月30日のZERO-ONE(真撃)日本武道館大会にて、ビッグバン・ベイダーUFOとして参戦。「霊長類最強の男」マーク・ケアーと組んで、橋本真也&藤原喜明とタッグマッチで激突。この試合の入場時にベイダーのマスクを脱ぎ捨て、素顔に変身。試合は11分43秒、橋本真也の腕ひしぎ逆十字固めにプレデターがギブアップし敗戦。


素顔になった彼に用意されたリングネームが「ザ・プレデター」。

映画『プレデター』に登場する、宇宙最強のハンター。彼はその複雑な造形のマスクを被り、右手に太い鉄チェーンを握りしめて、日本のリングに上陸した。

「ザ・プレデター」を名乗るようになり、いつからかテーマ曲が鳴り響くと同時に、客席の通路からプレデターが現れた。 

彼は入場ゲートからリングに向かうのではない。観客席の椅子をなぎ倒し、恐怖に慄くファンをチェーンで威嚇しながら、文字通りの「暴走」を展開した。その姿、そのステップ、その野性味あふれる風貌は、かつて日本中を席巻したブルーザー・ブロディそのものだった。


当初、日本のオールドファンやマスコミは、そのあからさまなオマージュに対して冷ややかな視線を送った。映画のキャラクターと、過去の偉大なレスラーのミクスチャー。それは一歩間違えれば、チープなパロディに成り下がる危険性を孕んでいたからだ。

しかし、試合開始のゴングが鳴った瞬間、その懐疑的な空気は一瞬で吹き飛ぶことになる。

「ゼロ年代の超獣」プレデターの放った鋭いタックル。それは、かつて日本人が見たことのないような、低く、速く、そして正確無比な「NCAA王者」の芸術品だった。

 巨体を誇りながら、リング上を弾丸のように走り、相手を軽々と抱え上げてマットに叩きつける。さらに、打撃戦になれば、フットワークを駆使した鋭いパンチと、重戦車のようなショルダーブロックが相手を襲う。ブロディばりのキングコング・ニードロップやビッグブーツを放ち、最後はキングコング・バスター(キン肉バスター)で3カウントを奪う。それがプレデターのプロレスだった。



「この男、ただの物真似じゃない。中身はとんでもないバケモノだ!」

観客は、そのギャップに驚愕し、そして狂喜した。虚構のマスクを被った男が、リング上では誰よりも「本物のプロレス」を展開している。この矛盾こそが、ザ・プレデターというレスラーの、最大の魅力となったのである。

破壊王や暴走王との肉弾戦

ZERO-ONEのリングにおいて、プレデターは瞬く間にトップヒールとしての地位を確立する。 彼の前に立ちはだかったのは、もちろん団体の盟主である「破壊王」橋本真也、そして「暴走王」小川直也だった。

特に、橋本真也とのシングルマッチは、毎回が肉体の限界に挑むような壮絶なドキュメンタリーとなった。 橋本の放つ、魂の籠った重いミドルキックや垂直落下式DDT。普通のレスラーならば一撃で沈むような攻撃を、プレデターはその頑強なアマレスボディで真っ向から受け止めた。そして、すぐさま起き上がり、元祖ブロディばりのキングコング・ニードロップで反撃する。

「橋本との闘いは、いつも自分の命が削られるような感覚だった。でも、あれこそが俺が求めていた『プロレスリング』だったんだ」

後にターカイは、日本の闘いをそう回顧している。 また、小川直也との対戦では、「柔道世界王者vsアマレス全米王者」という、格闘技ファンなら生唾を飲むような裏テーマが存在した。リング上でのバックの取り合い、グラウンドでの攻防。それは、プロレスの技術という衣を纏いながらも、一瞬でも隙を見せれば本当に極められてしまうような、ヒリヒリとした緊張感を放っていた。

プレデターの素晴らしさは、単に「自分が強い」ことを見せつけるだけでなく、日本のプロレスの文脈を完璧に理解していた点にある。 シングルではZERO-ONE認定USヘビー級王座を戴冠。

さらに、大巨人ネイサン・ジョーンズが来日した際には、暴走しがちなジョーンズをコントロールし、タッグチームとして機能させる「司令塔」の役割も果たした。

彼は、超獣の皮を被った、最高峰のインテリジェント・ビジネスマンだったのである。

どんなに客席でチェーンを振り回し、狂気を演じていても、リングに上がればレフェリーのカウントに従い、対戦相手の技を引き出し、観客のボルテージを最高潮へと導く。その確かな仕事ぶりがあったからこそ、彼は気難しい日本のプロレス関係者や、目の肥えたファンから絶大なリスペクトを勝ち得たのだ。

格闘技バブルという過酷な実験場への身投げ

2000年代前半、日本のマット界は「総合格闘技(MMA)」という巨大なモンスターに侵食されていた。 PRIDEやK-1が地上波ゴールデンタイムを席巻し、「プロレスラーは本当に強いのか?」という、ジャンルの根幹を揺るがす問いが突きつけられていた時代である。

多くのプロレスラーが、準備不足のままMMAのリングに引っ張り出され、凄惨な敗北を喫してキャリアを狂わせていく中、ターカイにも、その舞台へのオファーが届くのは必然だった。

しかし、他のレスラーたちとターカイが決定的に違っていたのは、彼には「本物のアマレス実績」という、MMAにおいて最も強固なベースがあったことだ。

MMAでは2003年12月31日に『K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!』にてMMAデビューを果たし、マウリシオ・ダ・シルバにわずか13秒でKO勝ち。2004年5月22日の『K-1 Romanex』ではPRIDEやUFCのベテランである強豪ゲーリー・グッドリッジと対戦するも、経験の差が出てパンチ連打によるTKO負け。

2004年12月31日『Dynamite!!』では、クリストフ・ミドゥ(元UFCファイター)にネッククランクを極めて見事に一本勝ちを収め、2005年11月5日『K-1 HERO'S 2005 in SEOUL』では当時PRIDEなどで活躍していた韓国の重戦車チェ・ムベ(崔武培)と対戦し、判定で見事な勝利を収めている。

またターカイは畑違いの立ち技打撃ルールへの挑戦している。特に 2005年12月31日『Dynamite!!』当時K-1ワールドGP王者に君臨していたレミー・ボンヤスキーと対戦。プレデターは強引な突進とパワフルなパンチで世界王者を大苦戦させ、スプリットデシジョンの僅差まで追い詰める大健闘を見せた。

また2006年4月29日『K-1 WORLD GP in Las Vegas』では218cmの「大巨人」チェ・ホンマンとラスベガスで激突。体格差に阻まれ判定で敗れたものの、最後まで退かないド根性ファイトを披露している。


彼は、プロレスと格闘技という両ジャンルで通用することを証明した数少ない「本物のハイブリッド・アスリート」だったのである。

WWE入りで迷走

日本での圧倒的な活躍、そして格闘技のリングで見せた本物の強さは、ついに世界最大のプロレス団体WWEの上層部を動かすことになる。

 2006年、ターカイはWWEと再契約を果たし、ついにメジャーの表舞台へと姿を現した。

しかし、WWEが彼に求めたのは、日本でファンを熱狂させた「ザ・プレデター」というキャラクターではなかった。映画の著作権問題などもあったが、何よりもWWEは、彼の「格闘家としての本物の実績」をストレートに売り出そうと考えたのだ。

彼は本名のシルベスター・ターカイとして、当時新設された『ECW』ブランド、そして『SmackDown!』に登場する。

 その傍らには、マイクパフォーマンスに長けた若い相棒、イライジャ・バークがマネージャー役として就いた。

キャラクターはシンプルだった。

 「MMAとアマレスの背景を持つ、寡黙で危険な本格派の猛者」。

 試合が始まれば、テルケイは対戦相手を瞬く間にスープレックスで投げ飛ばし、強烈な打撃で圧倒する。そのファイトスタイルは、日本でのプレデター時代よりも、さらにリアルで殺伐としたものだった。スマックダウンの放送では、実況が彼のNCAA王者としての経歴を何度も強調し、次世代のモンスターとしての期待を抱かせた。

しかし、世界最大のエンターテインメントの壁は、想像以上に厚く、そして奇妙なものだった。
当時のWWEは、髪型やコスチューム、マイクパフォーマンスでの「一言のフレーズ」が何よりも重視される世界。ターカイの持つ「職人肌の本物の強さ」は、毎週のようにドラマが展開されるTVショーの中で、次第に埋没していくことになる。

 相棒のイライジャ・バークがその高いトーク力で目立つ一方、ターカイは言葉を発しない「ただの強い男」として、ストーリーの主線から外れていってしまったのだ。

試合ではほとんど負けていなかった。実力も誰もが認めていた。 しかし、2007年1月、テルケイは突如としてWWEから解雇される。

「アメリカのプロレスは、時に『強すぎる男』をどう扱っていいか分からなくなる。あそこは、強さを見せる場所ではなく、ドラマを見せる場所だからね」

後年、関係者はそう語っている。ブロック・レスナーやカート・アングルのように、圧倒的なキャラクター性や会社の猛プッシュがない限り、ただ「アマレスが強くて格闘技ができるベテラン」という存在は、WWEという巨大な歯車の中では、消費されやすいパーツに過ぎなかったのかもしれない。

あまりにも早すぎるメジャーからの撤退。しかし、ターカイはその結果に腐ることはなかった。彼は再び、自らの「故郷」であり、自らを最も理解してくれる場所へと足を向ける。

IGF参戦「猪木激怒事件」の当事者となった「ゼロ年代の超獣」。そして、リングを去った現在の足跡

WWEを離脱したターカイは、2007年、アントニオ猪木が立ち上げた新団体「IGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)」に参戦を果たす。

IGFの第2回大会(日本ガイシホール)でかつてのライバル小川直也とシングルマッチで激突。10分以上の激闘の末、小川のスリーパーホールドに一本負けを喫しましたが、団体の看板外国人としての存在感を示す。

またPRIDEやUFCで活躍した「青い目のケンシロウ」ことジョシュ・バーネットと対戦したときは本物同士のハイレベルなグラウンド攻防の末、クロスヒールホールドで敗退。元WWE版ecw世界王者であり、後にMMAでも活躍する超肉体派ボビー・ラシュリーの「日本デビュー戦」の相手を務めた時はラシュリーの必殺技スピアーを浴びて敗退している。   

その一方でやや肉体に衰えが見えてきたのもこの頃。2011年2月5日の福岡大会(GENOME 14)ではWWEでルーク・ギャローズとして活躍するキース・ハンソンとシングルマッチで対戦。しかし、お互いに手の内を知りすぎているのか、攻防が噛み合わずスローで大味な試合展開となる。これに業を煮やした総帥・アントニオ猪木が「こんな試合やめさせろ!」とイスを持って姿を現す。

「客は怒れこの野郎!」
 「こんなチンタラした試合しやがって!」

猪木の怒りは凄まじい中は試合はハンソンが勝利。「猪木激怒事件」というプロレス史に残るハプニングの当事者となってしまう。



ターカイはすでに全盛期の肉体を維持しておらず、コンディションが大幅に落ちていた。

結果として、あの「猪木激怒事件」ハンソン戦が、日本のメジャー団体における彼の最後の試合となった。

その後、2012年にガイアナ共和国で行われた独立系の興行を最後に、ひっそりとリングを去った。

ターカイは現在はプロレスや格闘技の業界からは完全に離れて、故郷であるアメリカ・ペンシルベニア州のピッツバーグにて、自動車の販売員として第二の人生を送り、一般人として生計を立てている。
 
 
プロレス界では不遇な結末を迎えてしまうターカイだが、「大学時代に一度しか負けたことがない(その唯一の敗戦相手はのちに五輪金メダリスト・WWEスターになるカート・アングル)」という超エリートのアマチュアレスラー。2018年には、彼が1993年に成し遂げたNCAAディビジョン1・ヘビー級王座獲得の「25周年」を祝う式典が開催され、アマチュアレスリングのレジェンドとして称賛を受けた。


ザ・プレデターのレスラー人生を振り返る時、私たちはそこに一つの「逆説的な美学」を見る。 


彼は、誰よりも「本物の強さ」を持っていながら、誰よりも「キャラクター」を忠実に演じきった。 普通、これほどの実績を持つエリートレスラーであれば、「プロレスのギミックなんて馬鹿馬鹿しい」「俺は素顔で、実力だけで勝負したい」とプライドを覗かせるものだ。 

しかし、ターカイは違った。 レジェンドレスラーであるブルーザー・ブロディのステップを研究し、客席でチェーンを振り回して子供たちを泣かせた。

なぜなら、それが「プロレスラー」という職業に対する、彼なりの最大の敬意であり、プロフェッショナリズムだったからだ。

彼は、自分の強さを証明するためにプロレスを利用したのではない。 プロレスというジャンルを最高に輝かせるために、自分の持つ「本物の強さ」を隠し味(スパイス)として使ったのである。 

 橋本真也のキックを胸板で受け止めた時の、鈍い音。 格闘技のリングでレミー・ボンヤスキーを追い込んだパンチ。MMAでも冴えたレスリングのテイクダウン技術。ブロディを彷彿とさせるキングコング・ニードロップ。


どのピースもターカイにとっては不可欠なものだった。


華美なマイクパフォーマンスや、SNSでの自己プロモーションが主流となった現代のプロレス界において、シルベスター・ターカイという男の生き様は、どこか古風で、武骨で、だからこそたまらなく愛おしい。

「ゼロ年代の超獣」 ザ・プレデター。

彼がプロレスと格闘技のリングに刻んだ激闘の記憶、そして客席を震わせたあのチェーンの冷たい金属音は、私たちの胸の中で、今もなお、色褪せることなく響き渡っている。