小生の曾祖父(園山ソヨギ)は、幕末に松江藩の藩校講師をつとめた後、明治初年に設立された島根県教員伝習校(島根師範学校の前身で、のちに島根大学教育学部となる)の1期生となり、明治期に簸川郡内で小学校教員となった教育者で、鰐淵寺の住職と交流があったことが縁で現在地に居を構えたと聞いています。大正12年、喜寿(77才)の記念に富士山登山を敢行し、達成後に当時、横浜市弘安寺にあった長男宅に逗留中の9月1日に関東大震災に遭遇し、倒壊した建物の下敷きになり、震災死しました。今年が100回忌にあたることから、ゴールデンウィークの最終日となった5月8日に一家眷属が集まって法要を相営みました。曾祖父は喜寿の記念として、大正12年の正月に「可多見」として『忠者義原孝徳原 至誠存處潤家門 巨楼大閣予何望 惟願子孫守聖言』との巻頭言と「いつも家内は笑うて暮らせ 笑う門には福来る」から「京も田舎も昔も今も 変わらないのは人の道」など、いろは歌48首を詠んだ冊子や『家訓』として「徳を積み善を重ねるは子孫長久の計なり」とする書付を遺しており、いま、自分の存在がここにあることに感謝して仏前に手を合わせました。