10月30日、島根県認可保育所理事長会(池田哲夫会長)の研修会で、東日本大震災の大津波で流失・全壊した気仙沼市立一景島保育所の所長を務めていた林小春さんが、震災当時の様子を講演されました。要旨は次の通りです。


 一景島保育所は水産加工工場のある気仙沼市潮見町に立地する市立の保育所で、往時には120人の入所がありましたが、平成22年度の定員は90人で入所児童は0才から5才まで75人で、震災当日の在所児童は71人でした。
 保育所は月1回、避難訓練を行い、強い地震の後は近くの気仙沼中央公民館に移動することを歴代の所長は徹底して意識していました。また、有事の際には、近隣の水産工場に若い男性従業員を派遣していただくようお願いしており、日頃の避難訓練にも参加してもらっていました。
 一景島保育所は津波のリスクを抱えていると言うこともあり、行政防災無線が設置されていました。平成23年3月11日午後2時46分。日頃とは全く異なる緊急地震速報の直後にかつて経験したことのない大きな揺れが長い時間続きました。
 保育所は昼寝の時間で、事務室に居合わせた所長と栄養士の2人がおり、就学前で昼寝をしていない5歳児には保育士が覆い被さり、年長と年少、未満児には頭に布団を被せて保護するよう叫びました。揺れが収まるのを待ち、子どもにパジャマなどの上にジャンパーや布団などの保温着をつけさせて、0~2歳児を「避難車」と呼ばれる大型の乳母車に乗せ、3歳児以上は歩かせ、約100メートル離れた気仙沼中央公民館に向かいました。避難車は近くの水産工場から駆けつけた若い男性社員さんが押してくださいました。
 「緊迫した雰囲気を感じ取ったのか、子どもたちは整然と、普段の訓練と同じように行動しました。2日前の3月9日の地震で自主避難したばかりだったことも、順調な避難につながったと思います。
 公民館に着いたのは午後3時前で、一番乗りでした。近所の住民や水産加工工場の従業員が続々と集まり始め、騒然とする中、保護者も大勢駆け付けてきました。地震の時には保護者は保育所に来る必要はないと言っており、保護者が子どもを車に乗せて連れ帰ろうとするのを、保育士らは必死に引き留めました。周辺の道路では、海辺から離れようとする車の渋滞が発生していました。逃げ遅れた多くの車が津波に呑み込まれ、流されたと思います。

 「訓練時には襲来する津波の高さを6~7mと予測し、公民館の2階に避難する事としており、0~5歳児の71人を含めて約450人ぐらいが集まりましたが、携帯ラジオを持参された住民の方から、「10mの大津波警報が出ている。ここの高さでは危ないかもしれないぞ」と大声を上がり、午後3時半ごろ、慌てて3階に移った直後に津波の第1波がやって来ました。
 白い波は気仙沼湾に面した工場や倉庫の高い屋根を乗り越え、土煙を上げながら、もの凄い轟音と衝撃は公民館を揺さぶりました。津波は2階の天井付近まで到達しました。ラジオは第2波、第3波の方が高い可能性を伝えており、3階部分の屋上への避難を考えました。
 しかし、屋上への避難ばしごは、1段目の高さが大人の男性の背丈ぐらいで、子どもは上れません。お年寄りの皆さんもとても無理です。そこで、若い男性5、6人が、サラシのおんぶひもを使い、交代で担ぎ上げて下さいました。子供たち71人を全て屋上に上げた頃、気仙沼湾に流れ出た重油に火がつくのが見えました。炎は海面のがれきに燃え移り、あっという間に公民館に迫ってきました。
 雪が降り出し、煙と臭いはすさまじいものがあり、「このまま焼け死ぬのだろうか。でも、子供たちを死なすわけにはいかない。」との一心で、すすで真っ黒になりながら、衣類を鼻と口に当て、子どもを背負い再び3階に下りました。外の火災は続き、公民館は余震のたびに大きく揺れ、一睡もできない夜を過ごしました。
 震と津波の発生から一夜明けた3月12日午前9時半、東京消防庁ヘリコプターが公民館の上空に現れました。周囲の水位は少し下がりましたが、着陸できる場所はなく、0才児や妊婦、重病人、高齢者を優先しての救助は途中から自衛隊のヘリが応援に加わりましたが、この日の救助活動は50人を収容して終了しました。投げ込まれた少量の水と乾パンを少しずつ避難者に配ることができました。「必ず助けに来るから頑張れ!」。へりの乗組員の皆さんの言葉が今も耳に残っています。
 避難で一番の難事は排泄でした。男性は屋上で用を足しましたが、女性やお年寄りは公民館にあった掃除用のバケツをオマルの代替品として、カーテンで囲った場所を仮設トイレにしましたが、若い女性には難しかったようでした。水が1階まで引いた午後には公民館の2階に備蓄していた防災リュックを探し出し、少しの水とビスケットを避難者に分けました。と言っても水は口を湿らせる程度で、ビスケットは1切れの半分ぐらいでした。
 残った約400人は2度目の夜を迎えました。誰もが疲労し、脱水症状で吐いたり、熱を出したりした子どももありました。13日の朝、公民館に隣接するグラウンドにヘリが着陸しました。皆んなが歩いて順番にヘリで救出され、午後1時に446人全員が無事に生還を果たしました。子供たちはたくましい。ぐったりしていた子どもが食事をし、水分を補給した刹那、笑い、駆け回るのです。その時、私は、まさしく子どもたちこそ希望の灯火だと実感しました。
 「とにかく子どもを守ろうと必死でした。しかし、結果として子どもを守ることができたのは、日頃の避難訓練の繰り返しと、大きな津波が来るというラジオの情報をキャッチして、それに対応することができたからです。」