Legend of Jump Horseの第2回目は、
パンフレット
を紹介。
パンフレット
1995年5月29日生
父 ロンバード
母 シルクイエロー(母の父 イエローゴッド)
このパンフレットは、生れる前・・・いや、種付けの時点から障害で活躍することを見越して生れたサラブレッドなんですね。
パンフレットの兄バッショウは平地で19戦を戦うも勝つことができず、障害に転向。
転向後2戦目であっさりと勝ち上がりました。
そのことからも、馬主の小田切有一氏は田中良平調教師に相談をもちかけ、母のシルクイエローに、障害に合う種牡馬を種付けすることとなったんです。
白羽の矢が立ったのがロンバード。
当時、メジロファントムやメジロザニアーといった障害馬を輩出していたロンバードは、平地でも目黒記念に優勝し引退後は東京競馬場で誘導馬となったロンスパークを出すなど、長距離を得意とする種牡馬で、この両親から生まれたのが後のパンフレットでした。
パンフレットは平地で6戦するも未勝利。
しかし、4歳(現3歳)の6月にさっさと障害入りを果たす。
が、当初は障害でも思うようにレースができず、障害初勝利は入障後9戦目。
さらに2勝目を挙げたのは、そこから1年後だった。
この年、何とか中山大障害に出走するも、メジロマスキットには勝てず2着。
それでも、中山大障害初挑戦で2着だから立派なものある。
翌年(1990年)はライバルが現れる。
シンボリモントルーとシンボリクリエンス。
そして、当時東の横綱だったワカタイショウ。
この年のパンフレットは、まず阪神障害ステークス(春)を勝ち、障害重賞初制覇を達成すると、返す刀で中山大障害に参戦。
1番人気をメジロマスキット、2番人気をシンボリモントルーに譲り、パンフレットは3番人気で出走。
果敢に先手を取って、一度はオキノトウリュウにハナを譲るものの、そのオキノトウリュウが大竹柵障害で落馬し、再び先頭へ。
しかし、一難去ってまた一難。
今度はワカタイショウがパンフレットに迫る。
だが、直線入り口で突き離し、最後は7馬身の差をつけての圧勝劇だった。
この2頭は再び中山大障害(秋)で相まみえることに。
ここでは返り討ちにあい、逆に5馬身の差を付けられて2着に敗れた。
そして1991年もパンフレットは健在。
重賞を勝つことはできなかったが3勝を挙げ、中でも1991年の中山大障害(秋)は見応えのあるレースを展開してくれた。
相手として立ちはだかったのは、またもやシンボリ2騎。
クリエンスとモントルー。
この2頭を相手にパンフレットは果敢に先手を奪う。
2周目2コーナー手前のバンケット前。
ダートコースを横切る際に鞍上の嘉堂騎手がサッとムチを抜いた姿は印象的だった。
そして、どの馬にもハナを譲らず最後の直線へ。
そこで外から襲いかかったシンボリ2騎。
シンボリモントルーが抜け出し、これには突き離されたものの、一度は2番手に上がったシンボリクリエンスには最後まで喰らい付き、あわや2着か?と思わせる粘り腰を見せた。
当時、テレビ東京系で放送されていた『土曜競馬中継』の中で、実況を担当していた矢野吉彦アナウンサーが、
『パンフレット、もう1回差し返す!』
といったフレーズは今でも忘れられない。
しかし、このレースでパンフレットは燃え尽きてしまったのか、翌1992年、そして1993年と現役を続けるもののこの2年間で17戦を走り未勝利。
勝つことはできずに引退することとなり、引退後は同志社大学馬術部に移り、その後、三重県の乗馬クラブに移動した。
冒頭にも書きましたが、パンフレットは小田切さんの持ち馬でしたね。
小田切さんの所有馬としては、ノアノハコブネ、オレハマッテルゼなどがGI馬として名を馳せていますが、このパンフレットも世が世なら立派なGI馬でした。
さて、第3回はアワパラゴンを紹介したいと思います。
【投稿者】 ぼやっきー