E・L・V・I・S L・I・V・E・S ‼‼ Vol. 7 | JOSE❛n❜GEE   Party club

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E・L・V・I・S    L・I・V・E・S ‼‼   Vol.  7
エルヴィスは生きている ‼‼ 
アメリカ

『僕の歌は誰にも似ていないけれど‥‥。』 

“ I  Don`t  Sound  Like  Nobody….”アップ
と、サン・レコードのサン・フィリップス社長とスタッフの目の前で

内気なヤンキー・ボーイ、18才のエルヴィスは言い放った。


1935年1月8日 南部ミシシッピー州の片田舎でヤンキー・ベイビーが生まれた。

“ロックンローーーーーール‼‼‼” 周りがとんでもなくビックリするような大きな産声をあげて・・・・。


早くも18才になったエルヴィスは当時流行りのジャンパーとジーンズというラフな格好で、ノーアポで、メンフィスのスタジオ、サン・レコードのサン・フィリップス社長のもとへやってきた。4$の小遣いでレコーディングしたいといって、ママにバースデイ・プレゼントとして、2曲選んで決めていたマイクラブラブプレゼント"マイ ハッピネス"(エラ・フィツジェラルドの50‘s初期の名曲だが、当時としてはもう古い曲とされていた。日本で知られているのは、やはり 60‘sコニー・フランシスのカバーで大ヒットした。) もう1曲は  “ブルームーン オブ ケンタッキー”。 その他に知っている限りにも、いろいろ歌ってみた、“心のうずく時”(ジ・インクスポッツThe Inkspots初期のDoo-Wopグループの難しいスロー・パラッド)よくもマー18才のヤンキー・ボーイが間奏中に長いセリフの語りがあるこんなうずくゾクゾクするような歌を選んでいたとは…。

その後1955年11月に最大手の一つのレコード会社RCAビクターと契約。多くのレコーディングのうち、それらはすべて正式に発売されて、ビッグヒットとなったことは言うまでもない。

もう一度、サン・レコード時代の初ッパナの頃の話に戻ろう。とにかくエルヴィスは、ヤンキー・ボーイだが内気そうな伏し目がちで「何曲か歌いたい」と言い、更に丁寧な口調でサン・フィリップス社長と数人のミュージッシャン・スタッフのまえで、こう言い放った。

 

「僕の歌は誰にも似ていないけど‥‥。」

“ I  Don`t  Sound  Like  Nobody.”   

 

それは何と生意気な言葉のようにも聞こえるが、本人としては、謙虚な意味で、もしかしてスタッフに歌い方を笑われてしまうかもしれないという、エルヴィスなりの一応断りのつもりだったのではないだろうか。当時のヤンキー・ボーイにしては珍しくケンキョな所があったのかもしれない。カラオケ目 !!

最初に来た時も、そして又やって来て歌いたいと思った曲も、エルヴィスが選ぶのは18才のヤンキー・ボーイらしからぬ、当時最新の曲ではなく古い歌が多かった。そしてそれが遂に運命を決する日となった。

1954年7月5日フィリップス社長は二人の演奏者スコティ・ムーア、ビル・ブラック(ギターとベースでエルヴィスが一躍大スターになってもしばらく専属バック・プレイヤーとして有名になった。)マイクギタードラムでセッションを当時流行りの何曲か行われたが、エルヴィスの好みではないようで、パッとしなかった。やがて休憩に入って気分転換に、黒人のブルーズ、アーサー・クルーダップの“ That‘s Allright, Mama.” 白人は全く歌わないもう古い曲を、戯れにギターをかき鳴らして一人全身を激しく、くねらせて歌いだした。突如としてまったくバック・プレイヤーも見たこともない新しい歌い方だった。それをマジカに見ていたサム・フィリップスは、自分が探していたものをヤンキー・ボーイに発見した。正にその瞬間、エンタティナ―のエルヴィスの伝説が生まれたのだった。音譜ドキドキラブラブ

※    ≪はじめてのアメリカ音楽史≫第七章ロックンロールの時代より 早稲田大学名誉教授でアメリカ音楽、黒人文化の専門研究者、南部テネシー州出身で大の親日家、日本語で教えているジェームス・M・バーダマン氏ポッチャリ笑顔がチャーミングな白人の方(お顔の写真がある)と評論家の里中哲彦氏(早稲田大学エクステンションセンター講師)の対談の本(ちくま新書)を参考にさせていただきました。

 

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