1977年9月27日。
今日は二つの大きな事故から 40年。
時間も経ち、メディアもあまりこのことを報じていません。
両方とも、詳細は 「 」の語句で検索して頂きたいのですが、簡単に紹介すると、
一つは
「JAL DC8 機 クアラルンプール 墜落事故」
空港へのVOR/ADF 進入中の CFIT= controlled flight into terrain 事故の典型です。
雨による低視程で滑走路を視認しないまま、最低降下高度未満に高度を下げたため、空港手前の丘に衝突してしまった事故。
34人が亡くなり、45人が負傷。
これは事故原因にいくつかの教訓を示唆しているものがあるので、別の機会に分析したいと思います。
もう一つが
「米軍機横浜墜落事故(または事件)」
アメリカ海兵隊所属のRF4B ファントムが、厚木基地から横須賀に停泊していた原子力空母ミッドウェイに向かって離陸後、エンジン火災を起こしパイロット2名はベールアウト(脱出)。
しかし無人となりコントロールを失った飛行機は住宅地に墜落。
20軒ほどの住宅を巻き込む大火災となり、その中で大火傷を負った幼い子供二人が間も無く、そのお母さんも皮膚移植手術を繰り返したものの、4年後には亡くなるという悲しい事故です。
場所は横浜市青葉区荏田北三丁目(事故当時は緑区荏田町)。
今朝辛うじて記事を見つけました。
もう一つ
文春オンライン
横浜の墜落現場はうちからも近い。
今の現場は閑静な公園や住宅で、近年だいぶ密集しています。
数年前近くの空き地に、慶応の小学校も開校しました。
今日午後行ってみました。
いつもと特に変わらず、事故後に公園になった場所では子供達が遊んでいました。
遺族の方がまだお近くに住んでおられます。
40年前も住宅地でしたが、当時はまだ宅地造成中でまばらでした。
今日現場近くの年配女性に話を聞きました。
「事故現場はそちらです。新しく家を建て直されました。その時はもう、一面火の海でした。」
事故後すぐに米軍の機体は回収されました。事故原因の解明も米軍という大きな壁に阻まれ、日本側の調査には限界がありました。
近くの図書館に米軍と被災した住民との間に立って、防衛施設庁の担当者も随分苦労されている記録があります。
この様な悲惨な事故を繰り返さない為のご遺族や市民の皆さんの地道な活動も、本当に大変な努力になります。
また早乙女勝元さんの絵本 「パパママ、バイバイ」も有名になりました。
事故の記録を風化させない様に、港の見える丘公園の一角に、「愛の母子像」(山本正道制作のブロンズ)が移設されています。
行政当局は当初この像の由来についての説明文設置を拒んでいましたが、何年か前、中田宏市長の時代になってやっと、事故から29年経って碑文が付きました。