終戦直後には平和が訪れたとはいえ、鉄道や船舶の事故や事件として、いくつかの悲しい出来事が起きています。
1945年8月22日、肥薩線の列車退行事故と、三船殉難事件が重なって起きた日です。
ちなみにこの1年前の同じ日、学童疎開輸送中の対馬丸が米軍潜水艦の攻撃により沈没しました。
三船殉難事件とは、終戦(降伏)により戦闘行為が停止されたにもかかわらず、樺太および北海道侵攻を企てていたソ連の潜水艦により、当時日本領だった樺太からの日本の引き揚げ船に対する雷撃が行われ、これにより三隻が沈没あるいは大破し、合計1708名以上が亡くなるという極めて非道な行為による事件です。
このソ連による北海道侵攻作戦の詳細は、ほかの文献あるいは別の機会での紹介によることにし、今日はもう一方の肥薩線の列車退行事故について少し書きます。
この事故を気に留めた理由は、肥薩線が私自身の身近な路線であったこと、この事故を元にした小説を読んだことにあります。
小説の名は 「中央構造線」(鶴ヶ野勉)。
これは著者鶴ヶ野氏による推理小説で、あとがきにもあるように、この終戦直後の鉄道事故が温めていた小説の材料になったようです。
事故の概要を述べます。
当該列車は終戦により、多くの基地や港のある鹿児島県各地から全国各地に戻る復員兵を乗せるため、通常の客車5両の他に、後ろに無蓋貨車8両を連結。
蒸気機関車は前の牽引と、後ろに後押しの1両。
肥薩線吉松駅から人吉方面へはご存知のように「矢岳越え」と呼ばれ、真幸駅付近にスイッチバックもあり、かなり登り勾配。
矢岳駅付近をピークにして次は下り勾配で大畑駅付近にはループ線とスイッチバックがある。
事故現場は鹿児島県から宮崎県の県境付近、現在のえびの市の吉松-真幸間にある第二山神トンネルで、先頭の機関車がトンネルを抜けたものの、坂を登りきれないまま、殆どの車両と最後尾の機関車はトンネル内にて立ち往生してしまった。
トンネル内に充満した排煙と暑さから逃れようとして線路に降りた乗客は、トンネル入口方向に向かったが、折しも同じくトンネル内の後部機関車の排煙を逃そうと、先頭の機関車がブレーキを緩めてバックしたため、旅客を次々に轢いてしまった、というものです。
(続く)
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