前々回のブログ の中で、問5の解説の部分を、今日(2023/4/28(金))、一部書き足しました。

 このブログを続けて読んでいる方は、復習しておいてください。

 さて、今回は問6の(ⅱ)です。

 

【文章Ⅰ】

 

 寝返りさえ自らままならなかった子規にとっては、室内にさまざまなものを置き、それをながめることが楽しみだった。そして、ガラス障子のむこうに見える庭の植物や空を見ることが慰めだった。味覚のほかは視覚こそが子規の自身の存在を確認する感覚だった。子規は、視覚の人だったとも言える。障子の紙をガラスに入れ替えることで、子規は季節や日々の移り変わりを楽しむことができた。

(中略)

 これによると板ガラスの製造が日本で始まったのは、一九〇三年ということになる。子規が不平を述べた二年後である。してみれば、虚子のすすめで子規の書斎(病室)に入れられた「ガラス障子」は、輸入品だったのだろう。高価なものであったと思われる。高価であってもガラス障子にすることで、子規は、庭の植物に季節の移ろいを見ることができ、青空や雨をながめることができるようになった。ほとんど寝たきりで身体を動かすことができなくなり、絶望的な気分の中で自殺することも頭によぎっていた子規。彼の書斎(病室)は、ガラス障子によって「見ることのできる装置(室内)」あるいは「見るための装置(室内)」へと変容したのである。

(中略)

 子規の書斎は、ガラス障子によるプロセニアム〔舞台と客席を区切る額縁状の部分〕がつくられたのであり、それは外界を二次元に変えるスクリーンでありフレームとなったのである。ガラス障子は「視覚装置」だといえる。
 子規の書斎(病室)の障子をガラス障子にすることで、その室内は「視覚装置」となったわけだが、実のところ、外界をながめることのできる「窓」は、視覚装置として、建築・住宅にもっとも重要な要素としてある。
 建築家のル・コルビュジエは、いわば視覚装置としての「窓」をきわめて重視していた。そして、彼は窓の構成こそ、建築を決定しているとまで考えていた。したがって、子規の書斎(病室)とは比べものにならないほど、ル・コルビュジエは、視覚装置としての窓の多様性を、デザインつまり表象として実現していった。とはいえ、窓が視覚装置であるという点においては、子規の書斎(病室)のガラス障子といささかもかわることはない。しかし、ル・コルビュジエは、住まいを徹底した視覚装置、まるでカメラのように考えていたという点では、子規のガラス障子のようにおだやかなものではなかった。子規のガラス障子は、フレームではあっても、操作されたフレームではない。他方、ル・コルビュジエの窓は、確信を持ってつくられたフレームであった。

(以下略)

 

問6 次に示すのは、授業で【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】を読んだ後の、話し合いの様子である。これを読んで、後の(ⅰ)~(ⅲ)の問いに答えよ。


《生徒A》…【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】は、両方ともル・コルビュジエの建築における窓について論じられていたね。
《生徒B》…【文章Ⅰ】にも【文章Ⅱ】にも同じル・コルビュジエからの引用文があったけれど、少し違っていたよ。
《生徒C》…よく読み比べると、【 X 】。
《生徒B》…そうか、同じ文献でもどのように引用するかによって随分印象が変わるんだね。
《生徒C》…【文章Ⅰ】は正岡子規の部屋にあったガラス障子をふまえて、ル・コルビュジエの話題に移っていた。
《生徒B》…なぜわざわざ子規のことを取り上げたのかな。
《生徒A》…それは、【 Y 】のだと思う。
《生徒B》…なるほど。でも、子規の話題は【文章Ⅱ】の内容ともつながるような気がしたんだけど。
《生徒C》…そうだね。【文章Ⅱ】と関連づけて【文章Ⅰ】を読むと、【 Z 】と解釈できるね。
《生徒A》…こうして二つの文章を読み比べながら話し合ってみると、いろいろ気づくことがあるね。

 

(ⅱ) 空欄【 Y 】に入る発言として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。


① ル・コルビュジエの建築論が現代の窓の設計に大きな影響を与えたことを理解しやすくするために、子規の書斎にガラス障子がもたらした変化をまず示した
 

② ル・コルビュジエの設計が居住者と風景の関係を考慮したものであったことを理解しやすくするために、子規の日常においてガラス障子が果たした役割をまず示した
 

③ ル・コルビュジエの窓の配置が採光によって美しい空間を演出したことを理解しやすくするために、子規の芸術に対してガラス障子が及ぼした効果をまず示した
 

④ ル・コルビュジエの換気と採光についての考察が住み心地の追求であったことを理解しやすくするために、子規の心身にガラス障子が与えた影響をまず示した

 

 空欄【 Y 】には「正岡子規の部屋のガラス障子」と「ル・コルビュジエの建築における窓」の共通点が入ると思われるので、想定される正解としては「どちらも外界を眺めるための装置だから」ということでよいでしょう。

 ということで、それと合う選択肢を探すとでよさそうです。

 続いて、この大問の最終問題である問6の(ⅲ)。

 

(ⅲ) 空欄【 Z 】に入る発言として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

 

① 病で絶望的な気分の中にいた子規は、書斎にガラス障子を取り入れることで内面的な世界を獲得したと言える。そう考えると、子規の書斎もル・コルビュジエの主題化した宗教建築として機能していた

 

② 病で外界の眺めを失っていた子規は、書斎にガラス障子を取り入れることで光の溢れる世界を獲得したと言える。そう考えると、子規の書斎もル・コルビュジエの指摘する仕事の空間として機能していた

 

③ 病で自由に動くことができずにいた子規は、書斎にガラス障子を取り入れることで動かぬ視点を獲得したと言える。そう考えると、子規の書斎もル・コルビュジエの言う沈思黙考の場として機能していた

 

④ 病で行動が制限されていた子規は、書斎にガラス障子を取り入れることで見るための機械を獲得したと言える。そう考えると、子規の書斎もル・コルビュジエの住宅と同様の視覚装置として機能していた

 

 この問いを解くためには【文章Ⅱ】が必要なので、以下に再掲します。

 

【文章Ⅱ】


 一九二〇年代の最後期を飾る初期の古典的作品サヴォア邸は、見事なプロポーションをもつ「横長の窓」を示す。が一方、「横長の窓」を内側から見ると、それは壁をくりぬいた窓であり、その意味は反転する。それは四周を遮る壁体となる。「横長の窓」は「横長の壁」となって現われる。「横長の窓」は一九二〇年代から一九三〇年代に入ると、「全面ガラスの壁面」へと移行する。スイス館がこれをよく示している。しかしながらスイス館の屋上庭園の四周は、強固な壁で囲われている。大気は壁で仕切られているのである。

 かれは初期につぎのようにいう。「住宅は沈思黙考の場である」。あるいは「人間には自らを消耗する〈仕事の時間〉があり、自らをひき上げて、心の琴線に耳を傾ける〈瞑想(めいそう)の時間〉とがある」。
 これらの言葉には、いわゆる近代建築の理論においては説明しがたい一つの空間論が現わされている。一方は、いわば光の疎んじられる世界であり、他方は光の溢(あふ)れる世界である。つまり、前者は内面的な世界に、後者は外的な世界に関わっている。
 かれは『小さな家』において「風景」を語る:「ここに見られる囲い壁の存在理由は、北から東にかけて、さらに部分的に南から西にかけて視界を閉ざすためである。四方八方に蔓延する景色というものは圧倒的で、焦点をかき、長い間にはかえって退屈なものになってしまう。このような状況では、もはや“私たち”は風景を“眺める”ことができないのではなかろうか。景色を望むには、むしろそれを限定しなければならない。(中略)北側の壁と、そして東側と南側の壁とが“囲われた庭”を形成すること、これがここでの方針である。」
 ここに語られる「風景」は動かぬ視点をもっている。かれが多くを語った「動く視点」にたいするこの「動かぬ視点」は風景を切り取る。視点と風景は、一つの壁によって隔てられ、そしてつながれる。風景は一点から見られ、眺められる。壁がもつ意味は、風景の観照の空間的構造化である。この動かぬ視点(theōria、テオリア)の存在は、かれにおいて即興的なものではない。
 かれは、住宅は、沈思黙考、美に関わると述べている。初期に明言されるこの思想は、明らかに動かぬ視点をもっている。その後の展開のなかで、沈思黙考の場をうたう住宅論は、動く視点が強調されるあまり、ル・コルビュジエにおいて影をひそめた感がある。しかしながら、このテーマはル・コルビュジエが後期に手がけた「礼拝堂」や「修道院」において再度主題化され、深く追求されている。「礼拝堂」や「修道院」は、なによりも沈思黙考、瞑想の場である。つまり、後期のこうした宗教建築を問うことにおいて、動く視点にたいするル・コルビュジエの動かぬ視点の意義が明瞭になる。

(呉谷(くれたに)充利(みつとし)『ル・コルビュジエと近代絵画…二〇世紀モダニズムの道程』による)

 

 作問者がこの2つの文章を選んで問題を作ったのは、実に、この最終問題のためでした。

 作問者の“どや顔”が目に浮かんできたでしょうか?

 

本文中に出てきた、ル・コルビュジエの

設計による『(ロンシャンの)礼拝堂』。

画像は 『ロンシャンの礼拝堂がすごい!』 

から。

 

(つづく)