このブログを続けて読んでくださっている方々へのお知らせです。

  前々回 の『横長の窓』と『横長の壁』についての解説部分と、 前回 の後半部分を、2023/4/12(水)に大幅に書き直しましたので、書き直す前に読まれた方は、そちらに目を通してから今回の考察をお読みください。

 

 さて、問6の(ⅰ)です。

 

問6 次に示すのは、授業で【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】を読んだ後の、話し合いの様子である。これを読んで、後の(ⅰ)~(ⅲ)の問いに答えよ。

《生徒A》…【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】は、両方ともル・コルビュジエの建築における窓について論じられていたね。
《生徒B》…【文章Ⅰ】にも【文章Ⅱ】にも同じル・コルビュジエからの引用文があったけれど、少し違っていたよ。
《生徒C》…よく読み比べると、【 X 】。
《生徒B》…そうか、同じ文献でもどのように引用するかによって随分印象が変わるんだね。
《生徒C》…【文章Ⅰ】は正岡子規の部屋にあったガラス障子をふまえて、ル・コルビュジエの話題に移っていた。
《生徒B》…なぜわざわざ子規のことを取り上げたのかな。
《生徒A》…それは、【 Y 】のだと思う。
《生徒B》…なるほど。でも、子規の話題は【文章Ⅱ】の内容ともつながるような気がしたんだけど。
《生徒C》…そうだね。【文章Ⅱ】と関連づけて【文章Ⅰ】を読むと、【 Z 】と解釈できるね。
《生徒A》…こうして二つの文章を読み比べながら話し合ってみると、いろいろ気づくことがあるね。


(ⅰ) 空欄【 X 】に入る発言として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

① 【文章Ⅰ】の引用文は、壁による閉塞とそこから解放される視界についての内容だけど、【文章Ⅱ】の引用文では、壁の圧迫感について記された部分が省略されて、三方を囲んで形成される壁の話に接続されている

② 【文章Ⅰ】の引用文は、視界を遮る壁とその壁に設けられた窓の機能についての内容だけど、【文章Ⅱ】の引用文では、壁の機能が中心に述べられていて、その壁によってどの方角を遮るかが重要視されている

③ 【文章Ⅰ】の引用文は、壁の外に広がる圧倒的な景色とそれを限定する窓の役割についての内容だけど、【文章Ⅱ】の引用文では、主に外部を遮る壁の機能について説明されていて、窓の機能には触れられていない

④ 【文章Ⅰ】の引用文は、周囲を囲う壁とそこに開けられた窓の効果についての内容だけど、【文章Ⅱ】の引用文では、壁に窓を設けることの意図が省略されて、視界を遮って壁で囲う効果が強調されている

 この問題を解くためには、【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】の中の、「ル・コルビュジエからの引用文」が必要なので、以下に再掲します。

【文章Ⅰ】中のル・コルビュジエからの引用文


 囲い壁の存在理由は、北から東にかけて、さらに部分的に南から西にかけて視界を閉ざすためである。四方八方に蔓延(まんえん)する景色というものは圧倒的で、焦点をかき、長い間にはかえって退屈なものになってしまう。このような状況では、もはや“私たち”は風景を“眺める”ことができないのではなかろうか。景色を望むには、むしろそれを限定しなければならない。思い切った判断によって選別しなければならないのだ。すなわち、まず壁を建てることによって視界を遮(さえ)ぎり、つぎに連(つ)らなる壁面を要所要所取り払い、そこに水平線の広がりを求めるのである。(『小さな家』)

 

【文章Ⅱ】中のル・コルビュジエからの引用文

 

 ここに見られる囲い壁の存在理由は、北から東にかけて、さらに部分的に南から西にかけて視界を閉ざすためである。四方八方に蔓延する景色というものは圧倒的で、焦点をかき、長い間にはかえって退屈なものになってしまう。このような状況では、もはや“私たち”は風景を“眺める”ことができないのではなかろうか。景色を望むには、むしろそれを限定しなければならない。(中略)北側の壁と、そして東側と南側の壁とが“囲われた庭”を形成すること、これがここでの方針である。(『小さな家』)

 

 さて、正解はどれでしょうか?

 

 …というところまでが前回でした。

 いかがでしょうか?

 この問題はやさしかったのではないでしょうか?

 と言いつつ、僕は最初に自分で解いたときに、この問題を間違えたのですが…。

 

 空欄【 X 】には【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】の引用文の与える印象の違いについての説明が入るはずです。

 ということで、これら2つの違いを丁寧に検討してみましょう。

 

 【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】のル・コルビュジエからの引用部分を統合すると、次のようになります。

 

 ここに見られる囲い壁の存在理由は、北から東にかけて、さらに部分的に南から西にかけて視界を閉ざすためである。四方八方に蔓延(まんえん)する景色というものは圧倒的で、焦点をかき、長い間にはかえって退屈なものになってしまう。このような状況では、もはや“私たち”は風景を“眺める”ことができないのではなかろうか。景色を望むには、むしろそれを限定しなければならない。思い切った判断によって選別しなければならないのだ。すなわち、まず壁を建てることによって視界を遮(さえ)ぎり、つぎに連(つ)らなる壁面を要所要所取り払い、そこに水平線の広がりを求めるのである。北側の壁と、そして東側と南側の壁とが“囲われた庭”を形成すること、これがここでの方針である。

 

 上の文章の中から、【文章Ⅰ】に引用されたのは次の部分です。

 文字サイズを小さくした部分が、省かれた部分です。

 

 ここに見られる囲い壁の存在理由は、北から東にかけて、さらに部分的に南から西にかけて視界を閉ざすためである。四方八方に蔓延(まんえん)する景色というものは圧倒的で、焦点をかき、長い間にはかえって退屈なものになってしまう。このような状況では、もはや“私たち”は風景を“眺める”ことができないのではなかろうか。景色を望むには、むしろそれを限定しなければならない。思い切った判断によって選別しなければならないのだ。すなわち、まず壁を建てることによって視界を遮(さえ)ぎり、つぎに連(つ)らなる壁面を要所要所取り払い、そこに水平線の広がりを求めるのである。北側の壁と、そして東側と南側の壁とが“囲われた庭”を形成すること、これがここでの方針である。

 

 【文章Ⅱ】の引用部分は、

 

 ここに見られる囲い壁の存在理由は、北から東にかけて、さらに部分的に南から西にかけて視界を閉ざすためである。四方八方に蔓延(まんえん)する景色というものは圧倒的で、焦点をかき、長い間にはかえって退屈なものになってしまう。このような状況では、もはや“私たち”は風景を“眺める”ことができないのではなかろうか。景色を望むには、むしろそれを限定しなければならない。思い切った判断によって選別しなければならないのだ。すなわち、まず壁を建てることによって視界を遮(さえ)ぎり、つぎに連(つ)らなる壁面を要所要所取り払い、そこに水平線の広がりを求めるのである。北側の壁と、そして東側と南側の壁とが“囲われた庭”を形成すること、これがここでの方針である。

 

 これらを比較すると、【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】のそれぞれで強調している部分と省かれている部分の違いがよく見えてきます。

 【文章Ⅱ】の方が引用の仕方に偏りが大きいので、その特徴がより明瞭に表れています。

 【文章Ⅰ】の引用文の中で語られている、壁に窓(「窓」というワードは使われていませんが、それは確かに窓です)をあけることの説明が、【文章Ⅱ】の引用文からは省かれています。

 窓がなければ風景は眺められないと思うのですが、【文章Ⅱ】の筆者は、とにかく、壁に取りつかれているのです。

 「周りを壁で囲われることによって、風景を見る視点が一つに固定される。」

 その一点張りです。

 ということで、正解は、

 

④ 【文章Ⅰ】の引用文は、周囲を囲う壁とそこに開けられた窓の効果についての内容だけど、【文章Ⅱ】の引用文では、壁に窓を設けることの意図が省略されて、視界を遮って壁で囲う効果が強調されている

 

です。

 次に進みます。

 

(ⅱ) 空欄【 Y 】に入る発言として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

 

① ル・コルビュジエの建築論が現代の窓の設計に大きな影響を与えたことを理解しやすくするために、子規の書斎にガラス障子がもたらした変化をまず示した

 

② ル・コルビュジエの設計が居住者と風景の関係を考慮したものであったことを理解しやすくするために、子規の日常においてガラス障子が果たした役割をまず示した

 

③ ル・コルビュジエの窓の配置が採光によって美しい空間を演出したことを理解しやすくするために、子規の芸術に対してガラス障子が及ぼした効果をまず示した

 

④ ル・コルビュジエの換気と採光についての考察が住み心地の追求であったことを理解しやすくするために、子規の心身にガラス障子が与えた影響をまず示した

 

 この問いに答えるために必要と思われる【文章Ⅰ】の箇所を、ヒントとして下に再掲します。

 

 寝返りさえ自らままならなかった子規にとっては、室内にさまざまなものを置き、それをながめることが楽しみだった。そして、ガラス障子のむこうに見える庭の植物や空を見ることが慰めだった。味覚のほかは視覚こそが子規の自身の存在を確認する感覚だった。子規は、視覚の人だったとも言える。障子の紙をガラスに入れ替えることで、子規は季節や日々の移り変わりを楽しむことができた。

(中略)

 子規の書斎は、ガラス障子によるプロセニアム〔舞台と客席を区切る額縁状の部分〕がつくられたのであり、それは外界を二次元に変えるスクリーンでありフレームとなったのである。ガラス障子は「視覚装置」だといえる。

 子規の書斎(病室)の障子をガラス障子にすることで、その室内は「視覚装置」となったわけだが、実のところ、外界をながめることのできる「窓」は、視覚装置として、建築・住宅にもっとも重要な要素としてある。
 建築家のル・コルビュジエは、いわば視覚装置としての「窓」をきわめて重視していた。そして、彼は窓の構成こそ、建築を決定しているとまで考えていた。したがって、子規の書斎(病室)とは比べものにならないほど、ル・コルビュジエは、視覚装置としての窓の多様性を、デザインつまり表象として実現していった。とはいえ、窓が視覚装置であるという点においては、子規の書斎(病室)のガラス障子といささかもかわることはない。しかし、ル・コルビュジエは、住まいを徹底した視覚装置、まるでカメラのように考えていたという点では、子規のガラス障子のようにおだやかなものではなかった。子規のガラス障子は、フレームではあっても、操作されたフレームではない。他方、ル・コルビュジエの窓は、確信を持ってつくられたフレームであった。

 

 さて、正解はどれでしょうか?

 

東京都台東区根岸の子規庵

(戦後に再建されたもの)の書斎。

画像は 『Let's ENJOY TOKYO』 から。

 

(つづく)