元受刑者の ちょっとだけスピリチュアルっぽいこと -2ページ目

元受刑者の ちょっとだけスピリチュアルっぽいこと

以下のブログに統合することにしました。よろしければ引き続きお付き合いください。
https://ameblo.jp/saitamadaihyou

出所しました。
これからどうしようかな。

刑務所では懲役刑を執行するための工場があります。



各一般工場ではそれぞれ業者から依頼を受けて製品を組み立てたり

炊場工場のように刑務所内の需要を満たす生産を行う特殊なところもあったりします。




どの工場にも担当と呼ばれる、いわゆる工場長のような刑務官と、それを補佐する副担当の刑務官がいますが

私のいた工場の担当と副担当は、考え方が明らかに違い、はっきり言えば仲が悪く

二人の間にはいつもピリピリとした空気が漂っていました。




ある朝の訓示の時、担当は


根拠の無い自信を持つな。自信というのは、何かを達成した時に初めて生まれるものだ。


という趣旨の発言をしました。




その日の作業中、二人っきりになったときに副担当は


おい、〇〇(私)、自信に根拠なんかいらねえからな。

自信もって仕事しろよ。 

作業以外の生活もそうだからな。



と、まるで正反対のアドバイスをくださいました。

私は普段から副担当派だったし、まさに同じことを感じていたので

笑顔で 「はい!」 とうなずきました。





そもそも、自信 自体実態もなくあやふやで

人によって 簡単に生まれることもあれば

どれだけ実績をあげてもなかなか生まれない、ということもあります。



確かなのは、自信をもってことに臨むとうまくいくことが多く

それがまた自信となり、習熟の速度も上がる


自信がないと、失敗への不安が先に立ち

普段できることすらできなくなることもある。


ということです。




心が病んでしまった経験のある人ならば、漠然と自信を失って

それまでできていたことができなくなってしまったり

何も行動できなくなってしまったり

身動きのとれない状況を理解しやすいかと思います。



心が平常に近づいてくると、できなかったことが またできるようになります。



自信 というのは、漠然としたものですが

とても大きな力となり得るものです。



それは、思い込みではありますが、ちょっとした心の調整で

大きな力を生み出すことができることを示しています。



心の中は誰にも見えません。

根拠の無い自信を持とうとしていることが、誰かにバレることはありません。

お金もかかりません。

罪に問われることもありません。




今日、副担当を思い出したことで、そんなことを思いました。

私は、失った自信を まずは心の調整で取り戻していこうと思います。




副担当は、私が出所するとき 忙しいのにわざわざ出口まで来て見送ってくださいました。

車に乗って刑務所を離れるとき、少し離れたところで彼に思い切り手を振りました。

彼もドラマの別れのように、大きく手を振り返してくれました。




刑務所内の刑務官と受刑者という関係の中では、絶対にありえないやりとりでした。


あの時 手を振る彼を見えなくなるまで見続けながら、本当にシャバに戻ったんだと実感しました。





一回りくらい年下のはずの 刑務官らしくない副担当、元気かな。

ありがとうございました。















 

営利以外の覚せい剤事案において 懲役刑の判決をもらい、刑務所に入るということは

その前にも一度逮捕されて 執行猶予の判決をもらっていることを証明しています。



つまり、みんな 最低でも2度目 なのです。



捕まって 2か月ほど留置に入り、地獄の日々を送り、判決をもらい

もう二度とこんな経験はしたくない

ていうか、次は刑務所に送られる



警察とか検察での取り調べでも さらには裁判でも 心の底から本心で

二度としません、いや、できません、と言っていたはずなのに

また手を出して、刑務所に行く。



これが 覚せい剤です。



もうやらない という誓いは確かに本物でした。



みんなそうだったと思います。



でも やってしまった。



意志ではコントロールできないもの。

そこに地獄がまっているとわかっていながら 地獄に入り込んでしまうもの。



一度やってしまったら、一生背負っていく 依存症。




我々は、何かの拍子で また手を出してしまう危険性を抱えながら、現在も生きています。



これからも ずっとです。



足を洗ったわけではないのです。



今、私が覚せい剤を打たずに過ごしていられるのは 

たまたま そのほうが幸せだと認識できているからに過ぎません。



再び もう一人の自分に飲み込まれることのないように


自分の心を客観的に見て 判断を急ぐこと無く


冷静に、健全に


自分を制しながら生きていこう。




そう誓います。


 

出所したての頃、あらゆることが新鮮で、ありがたく感じていました。




しかし、それから半年が過ぎ、あんなにやたらと感じていた自由への感謝と感激を

忘れてきている自分に対し 自戒の意味を込めて

シャバの素晴らしい点を挙げていってみます。





お気づきかと思いますが、これらは私が刑務所生活を送ったからこそ感じ、気づけたことではありますが

実は、皆さんのように 真っ当に生きてこられた方々は ずっと権利として持ち続けてきた事柄なのです。





風呂に毎日入れる

長湯ができる

銭湯でおしゃべりができる

食事中おしゃべりができる

調理ができる

好きな時にお菓子を食べられる

食事のメニューを選べる

タバコが吸える

好きなだけ運動ができる

スマホで連絡を取り合える

車の運転ができる

好きな映画を好きなだけ見られる

本を自由に手に入れることができる

部屋とトイレが分かれている

朝も夜も、決まった時間以外に起きていい

エロ動画が見れる

電車に乗れる

髪を伸ばせる

好きな服を着れる

時計を見放題

普通に女性がいる

墓参りに行ける

野球を生で見れる

言いたいことが言える

いつでも歌が歌える

さんづけで呼んでもらえる






永遠に続けられそうなので、ここでひとまず止めますが

これらのことを 我々はごく当たり前のこととして生きてきました。





しかし、我々は 見方を変えることによって 幸せを感じる自由も

持ち合わせていますので、当たり前だと思っていたことに感謝を感じ

その都度幸せを感じることも許されています。




やってみると分かるのですが、人は少なくとも感謝している間、不幸を感じることができません。




幸せとは心の状態がすべてですので、もう一度初心に帰り、いろんなことに感激し

ありがたさを感じていこうと思います。




そうして気分よく過ごす時間を増やしていくことで

幸せを引き寄せることにもつながるのだと思います。






真っ当に生きてこられた皆さんは

法に背くような悪いことをする選択をせずにここまできた ご自身への誇りと感謝も

リストに加えてあげてください。



 

刑務所内では、受刑者同士の会話の内容で

出所したらまず何をしたいか?

というのが定番です。


なんでもいいから好きなものだけを好きなだけ食べたい

とか

出たいと感じるまでゆっくり湯船につかりたい

とか

家族旅行に行きたい

とか


まあ、そのへんは良くある答えなのですが

真面目に SMクラブに行きたい

と言った人がいました。



彼はいわゆる M(マゾ ドエム)だそうで

それしか思いつかない、とまで言っていました。

当然 何がそんなに良いのか?

という話になります。


「皆さんには分からないと思うけど、怒鳴られるだけで、ゾクゾクするんです。

あ、でも ここ(刑務所)でも怒鳴られまくってますね。

僕、先生(刑務官)に怒られても、そんなに嫌じゃないのかも。」


なんて言っていました。


刑務所では、動作ひとつ決められたようにできないと

新人であろうがベテランであろうが 刑務官から 非常に厳しく、大きな声で注意されます。

それがそこでのやり方です。



私は最後までそれに慣れることなく、注意されないよう 細心の注意を払って生活していました。



しかし、その M の彼にとっては

どうやら初めから我々のように、それを苦痛には感じていなかったようなのです。


刑務所サイドからしたら、想定外なのでしょうけど。




今朝 この話を 思い出して 思うところありました。



今、生きていて 起こったら嫌だなあ と思うこと

とても ひとつやふたつではありませんが


それは 起こるときには起こるし また、起きないのかもしれません。


考えるだけ無駄だ  でも考えちゃう

そんなときは ドMの彼を参考に

予測しちゃうトラブルを肯定的に捉えてみることにしました。



私の場合ですが、すべての出来事には必ず学ぶべきことがある

すべては必要だから起きている。 無駄は無い。

むしろ 得しかない

というふうに、自分に言い聞かせてきたことを 今こそ と、応用して


思いついてしまう心配事を 飛躍のチャンス

と強引に考えてみました。



すると、強引だったにもかかわらず

なんか それらが ゲームに出てくる障害

くらいのことに感じられるようになりました。



今、朝よりも格段に心が軽くなっているのを感じます。












 

私の母(養母)は認知症で、今は専門の施設に入っています。

会いに行けば「あら、どうしたの?」と明るく笑顔で迎えてくれ、会話も普通にできます。

少し話しただけでは、認知症だということもわからないくらいです。



ただ、記憶力が著しく低下したのと、物事の理解力もなくなってきました。



世間的には 認知症というと、家族も本人もかわいそうな感じで見られがちなのですが

母はとっても幸せそうで、学ばせてもらう点も多くあります。



母は、心配するということから解放されました。

私たちは、普段生活している中で あれやこれやと心配し

心配が心配を呼び、がんじがらめになって、結局動けない、なんてことがあるのではないでしょうか?

私にはあります。



また、母は過去を悔やむ ということからも解放されました。

母は転んで骨折し、その間に認知症が進行し

退院のタイミングで自宅に戻ることもなく施設に入居したのですが

骨折したことも、入院したことも 彼女の記憶にはありません。



長い人生、おそらく こうしておけばよかった ということもあるでしょうし

朝の失敗でその日ずっと自分を責めてしまう、ということも 我々にはあるでしょう。



しかし、母にはそれが無い。


まさに 「今」 を生きています。



過去は単に記憶であり、未来は予測に過ぎない。
どちらも頭の中だけの幻想である。


という旨、書籍かなんかで読んだことがあるかもしれませんが

その幻想を取り払うとどうなるか

ということの答えが 母の天真爛漫な笑顔 なのです。



認知症でない私たちは、過去をかえりみて予測し、予測に基づいて行動しながら社会生活を送る必要があるのですが


過去と未来を、単なる頭の中だけの幻想だと見破ることができます。


絶対的な事実なんかではなく、他の人からみたらまた違ったように見えている

そもそも他の人にとっては存在すらしないかもしれない



それを分かっていることの重要性を、母は教えてくれているのでしょう。



ありがとう。