ちょっと話変わりますけど。
PCの不調で久しくブログを更新していなかったが、その間にも忙しなく世間や日々は移り変わり、気づけば2021年となってしまった。
そうして私は私でブログを更新しない間も生きているワケで、また同時に考え事のタネに尽きることもなく、新しいPCを前に久々にブログを更新しようと思ったが、もう何から伝えればいいのかわからないまま時は流れて、という東京ラブストーリー状態なのである。
はて何から書こうか、と立ち止まってみても、『コロナ』に関する云々は嫌というほど色々な人々が述べたり語ったりしているし、『政治』についてはあまり触りたくない。かと云って『天気』の話をする気にもならないし、我が事ながらどうにも天邪鬼で困ってしまう。
昨年末は私もなにかと忙しかった。
年賀状の準備、年末の大掃除の準備、姪たちへのクリスマスプレゼントやお年玉等の手配、奥さんへの”クリスマス”的な配慮等々、改めて〈師走〉という語句の奥深さも感じたし、坊主が原付で走り回るのも頓首できるような気がした。
しかし、アレ、クリスマスってのは面倒臭いな。既に”アラフォーのオッサン”である立場から見ていると〈ハロウィーン〉という行事に熱中する姪たち(四半世紀以上年下)の気分が『実感』としては湧かないのとは違い、私は私なりに〈クリスマス〉という事柄については子供の頃から刷り込まれてきたはずなのに、今となってはその〈クリスマス〉にさえ心が躍らない。またこれが加齢のせいなのか、昨年末の世情のせいなのかは今の時点ではわからない。
そもそもクリスマス直前になるとあちこちで見かける〈十字架に架けられたイエス・キリスト〉の体型に納得がいかない。
私はこれでも高校がミッション系だったこともあり〈キリスト教〉に対して特別な害意を持っているつもりはないが、しかし〈年表〉という軸もやはり頭に入ってきてしまい、キリストの娑婆の父親(ヨセフ)は大工だったとされているワケで、またキリスト自身も三十歳前後で”宗教者”となるまで父親の仕事を手伝っていたとされる経緯を踏まえれば、キリストの体型はもっと筋肉質でガチムチであったと思う。※ついでに、割礼も受けているからズルムケでもある。
もっと言えば、イエスも冒頭のTのように、義務教育なぞ受けずに、ヨセフ同乗の上で、幼少のみぎりより軽トラ(マニュアル)の運転を練習させられていただろうし、半クラだってお手の物であるはずだ。それにあそこら辺(ガリラヤ?ガラリヤ?要は中東)は石油も取れるから、ガソリンにも困らなかっただろうと思う。
いま、これを読んでおられる方が疑問に思っていることにズバリ答えよう。『真理は時空を越える』のだ。
しかし、私はこの件について画期的な解釈を年末に見つけたので、それをここに於いて提唱したい。
”宗教者”としてのキリストは、結構過激な行動が見受けられる。例えば、既成の神殿に乱入しては、そこの偶像やら何やらを手当たり次第に壊してブチ切れまくったりもする。もちろん若い頃からの『肉体労働者』として培われた丈夫な筋肉を持つ”私のキリスト”であれば神像のひとつやふたつ、抱えてぶん投げるくらいの芸当は朝飯前だ。
でね、
キリストが神殿を破壊しまくった直後に、すっと「神殿の再建、安ぅ請け負いまっせ」と”某工務店”の営業マンが『タイミング良く』やってくる。慌てふためいている祭司たちは営業マンの提出した見積書に一も二もなくサインをし、神殿は”某工務店”によって再建される。
この”某工務店”が、イエスの父親・ヨセフが代表を務める建築会社(倅が三十を越えていることから逆算して、ヨセフは現場からは離れているものと思われる)だとしたらどうだろう。証拠は無いが、納得は出来る。
それで、今流行りの都市伝説風に「その”某工務店”が、後の”フリーメイソン”である…」と締め括ったら、まぁ収まりは良いような気がするのだが、如何だろうか。
蛇足として一言足すなら、「”過去”の事さえハッキリせんのに”未来”に怯えていてもシャアない」と書き添えて、私のブログの姫初めとしたい。
末筆ながら本年もどうぞ宜しくお願い致します。

