今年も流行語大賞が決まったようである。毎年毎年新しい言葉が流行っては消えていくけれど、中にはそのまま定着していく言葉も一握りながらあるであろうことを考えると、それも時代やね、と受け容れざるを得ないし、殊更取り立てて意義を唱えるつもりもない。
私が生粋の関東人(江戸っ子には非ず)であるせいか、幼少の頃より平常の自分の言葉遣いが“標準語”であると信じて疑わなかったが、16歳の春に半ば放逐に近い形で地元より遠方の全寮制の高校に入ってから自分の言葉が“訛りの強い関東方言”であるということを認識させられた。あれはカルチャーショックだったなぁ、「〇〇だっぺ!」って方言だったのかよ。
そこで取りも敢えず『標準語』を改めて身につけると共に『日本語(方言)』というものに度々焦点を当ててみる習慣がついたのだが、全国から集まってきた同級生たちの方言や言葉遣いの中に時折キラリと光るものを見つけては自分の言語変換ボックスの中に放り込んで来たように思う。
例えが悪いが、女性器を手で愛撫することを関東ではほぼ「手マン」と言うが、関西弁ではこれが「手メコ」になると言う。常日頃から「手マン」という言葉の響きに卑猥なものを感じていた私は今ではそれを「手メコ」と言って憚らない。この種の言い回しの複雑さや猥雑さを自分で整理しながら自分なりの『ことば』の辞書を作っていく作業は誠に楽しいものだとつくづく思う。
落語の枕でこんな話が一つ。
ちょいと無精者が集まって右を向いても左を向いても無精者ばかり。
———どうだい、折角こんだけ無精者が集まったんだ。誰が一番の無精者か決めようじゃねぇか?
———やめようよ、そんなの面倒くせェ。
カテゴリーとしては、この「無精者」というのに全く当てはまるのが私なのだが、長年これが今ひとつ言葉としてピンと来なかった。どうにも腑に落ちない。「怠け者」でも「だらしない」でも若干ニュアンスが異なるようにも思う。だが、私は立派な「無精者」足り得ているのか、つい悶々と思い悩んでしまう。
だが、ある時西郷隆盛について書かれた本の中での「西郷さんは、ずんだれてしもうた」と云う台詞が私にストンと納得をさせてくれた。
この文脈の中での「ずんだれる」というのは『だらしなくなる』とか『たるんでしまう』とかそういうニュアンスで使われていたのだが、なるほど私は「ずんだれて」いるのだな、という実感がふつふつと感じられた。
「俺は無精者でね」でも「俺は怠け者でね」でもなく、「俺はずんだれていてね」という言い回しの方が私の内心のフォルムをなぞる言葉として最も相応しいように思う。第三者には伝わりづらいかもしれないが、もともと私なぞはモノローグが専門だから、この場合他人に伝わるか否かよりも先に自分に納得がいくか否かが先に立ってしまう。
私はずんだれているから、と思ってさえしまえば少々のことでは動じない。
風呂には、入りたくない。
洗い物は、したくない。
トイレに行くのは、保険のようなものだ。
歯磨きに至っては、趣味だ。
とめどなくずんだれて行けば何事も「面倒くせェ」で処理が出来るし、雨中泥濘を行く如し、少しぐらいの汚れや不名誉を気にしては生きていけないような心情にもなる。
だが不思議なことに知友諸氏からはよく「マメだね」とか「几帳面だね」と言われることの方が多い。内心では諸事に渡ってずんだれているのに外面にはそのように映らないところが面白いように思う反面、大きな意味での(世間一般での、プラスとしての)「真面目さ(マメさ、几帳面さ)」のようなものと(マイナスとしての)「ずんだれ(怠け、ズボラ)」というのは全く別ベクトルということではないのかもしれない。
先日、美容師をしている友人と会った際に「髪、ずいぶん伸びたね。伸ばしてるの?」と尋ねられた。
「いや、最近床屋に行くのも面倒くさくて」
「でも伸び方悪くないよ、わざとその髪型にしてるっぽいもん」
「そうかなぁ。じゃあこのまましばらく伸ばしておこうかな」
私なりにずんだれていた床屋にもうしばらくずんだれておく錦の御旗を得たような心持ちで、私の「伸びてしまった髪の毛」は「伸ばしている髪の毛」へと形を変えた。
先日訪れた居酒屋のトイレットペーパーが対空迎撃ミサイルの如く飾られていたけど、実用的では無いように思った。
