いつも訪問、ありがとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

元旦の朝は快晴のスタートでした。

※日の出30分前。

 

いつも”サン・ゲージング”を行う公園に着いたら、すごい人だかり。

どうやらこの場所、地元で有名な”初日の出スポット”だったようですね。

 

めげずに、東の方向が人だかりに邪魔されない”芝生の上”を使って実行できました。

 

帰り道、時々会う猫さんに挨拶。近づこうが写真撮ろうが、餌をあげないのに(笑)、絶対逃げないんです。たまたますぐ近くに、犬の散歩中の2人組の女性がいたのですが、”私と猫さんの距離感”をみて驚いてました。

 

 

帰宅後、なんと室内10℃以下突入。”暖房つけない厚着生活”も1週間も続けると、本当に寒くさえ感じず、平気になりますね。

この温度なら、あらかじめ小さな水入りペットボトルを複数冷凍さてせおけば、冷蔵庫を数時間切って冷蔵室に入れてしばらく保冷できます。さらに電気使わなくできそう。

 

〜〜〜〜〜〜〜

 

前置き長くてすみません。

本題です。

 

”心が現実を映し出す”

 

とはなんのことか、抽象的すぎますね。

今日はちょっと受け入れられない人も出てきそうな話ですので、異論があるときは無理しないでこの記事を読むの中断してくださいね。精神論になるので、すみません宗教論争とか哲学論争はコメントで受けません。前のようにキリがなくなり、荒らされるのは困りますので。

 

では、感情入れずに淡々と書きます。

 

 

よく、仏教”すべては心の現れ”とか、スピリチュアル”思考が現実化する”、と言いますよね?

そして、”未来も否定的な心の表れは現実化する”だから食糧危機とか経済危機は来ると思っている人に降りかかると言っているようです。

 

言葉の上っ面だけを見るとそうかもしれません。でも現実はそんなに都合が良くないのです。

 

これは言葉の裏にある意味を理解しないことで起きる誤解です。

例えばこう考えてみてください。

 

食糧危機は2つの側面があります。

1つ目。食べ物が不足(手に入らない)という物理的な危機。

2つ目。食べたいという感情が満たされない危機。

 

注目して欲しいのは、2つ目。

”食べたいという感情が満たされない”

つまり、食べたいという感情がより長く続いて苦しんでいるということができます。

 

仏教とスピリチュアルの話に戻ります。

”心の表れ”、”思考が現実化する”でしたね?

今現在、食べ物を食べたいと思っている時間と回数を考えてみてください。これは人によってかなり個人差があります。つまり、

”食べたい”という心が、より強く現実化するのです。

これでもピンと来なかったらすみません。

 

例を挙げます。

 一日三食必ず必要と考え、毎日最低3回は食事のことを考え、食べるまでは食べたい、食べなくてはと思っていて、さらに栄養学に基づき”タンパク質が1日何gとらないと病気になる”とかいう強い脅迫観念がある人は、未来においてその心の働きがより強く現れたら、常に食べ物のことを考え続ける。満たされないで一日中。これは苦しいですね。これが”悪い例”。

 逆も見てみます。今現在、ほとんど食欲がなく2.3日食べなくても全く平気で、お菓子とかそういうものに全く頓着がなく、”ほとんど食べないでいてもしばらく死なないし病気にもならない”という心の人は、それが未来により強くなったとして苦しむでしょうか?少なくとも心においては苦しみは少なくなることはあっても増えることはないでしょう。

 

 ”食糧危機”というのはただの形、つまり客観的事実を捉えているだけで、本質は今の心の働きが、ある段階でより強く現実化することこそ、

”全ては心の表れ”、”思考が現実化する”

なのです。

 

現在の心の働きは、未来の心の働きとしてより強く現れるだけ。

 

その形の一つとして、食べ物が不足する(食料危機)とういう現象があるのです。

食べ物のことばかり考え、それに依存し、とらわれている人はその心の働きそのものが”現象化”する。

食欲が弱まり心が縛られていない人、その方向に向かっている人は、その心の働きそのものが”現象化”する。

 

これが

”全ては心の表れ”、”思考が現実化する”

なのです。

 

仏教徒が最低実施すべき重要なものの中に、”来世への準備”というものがあります。

私たちの死後49日間、転生までの”中間状態”と言われる間、全ての感覚がなくなり、魂だけの存在になると言われています。そしてそのとき残るのは”生前に”より強く何度も思ったことだけがひたすら出てくると言われます。そのため、日々の行為・言葉の制御・瞑想によって心をコントロールしていき、最低でも人間界以上の世界へ転生する準備をしています。

 

今の世の中、どんどん今まで当たり前に使えると思っていたものが失われていってます。これは生きながらにして、死後の中間状態の予備練習をするために向かっているかのよう。

”いつまでもあると思うな〇〇”とよく言いますね。その通りです。

 

依存していたもの、より強く執着していたものも死を境に持っていけない、という考えは仏教の教えを全く同意しない人には不向きかもしれません。しかし現実問題として、どんな環境も条件によっていつ失ってもおかしくない”砂の城”のように儚いものです。

 

大切なことは、失った時に代用品を見つける技術より、失う前に執着しない心を培うことではないでしょうか?

 

私が実施している、

・テレビの破棄

・電子レンジの破棄

・炊飯器の破棄

・洗濯機の破棄

・暖房生活の放棄

・大手企業を退職し、よりたくさん稼ごうとする環境を放棄

・お金で全てを済ますことを放棄(最小限だけ残し、できることは自分でやる)

 

の理由は、いつなくなっても苦しまないため。贅沢ができなくなる現実は世界中で起き出しているので、日本だけお花畑はでいられるのは無理なこともありますが、自らすすんで離れていく時の苦しみは、心が強く縛られている時に無理やり奪われることに比べれば、何倍も少なく、楽なのです。

 

死ぬ時には味覚・嗅覚・視覚・触覚・聴覚(一番最後まで残ると言われています)がなくなるのでそれは乗り越えていなければすごい恐怖かもしれません。たとえ輪廻転生先が良いとしても。しかし、便利な家電製品。飽食生活。お金依存生活。こんなもの、死の時の恐怖に比べたら、どうでも良いことです。

 

 

食糧・エネルギー・経済。

これは執着するほど失った時の苦しみは大きいです。日本では世界の状態を見ることで準備をする猶予が与えられています。

 

食糧危機はきます。それは現実にも認識にも。それは日本国民の殆どが、常に依存と強い執着を繰り返し心で願ってきたからです。この被害がない、あるいは感じないで済むのは、ものすごく高い精神性をもった、わずかの人だけです

 

食料備蓄をすることは否定しません。むしろ行うべきだと思います。
それは、失ってもより苦しみが少ない、自由な心を作るための準備期間を多く作ることになるからです。
 
それと並行し、節食・少食で食欲をある程度制御できる訓練。これはテレビを破棄し、食べ物や調味料を変えることからやると我慢しなくてもできるようになります。お金依存は自分でできることに切り替えると減っていきます。例として外食→自炊・手作り弁当。経済依存は節約を心がけると見えてきます。ただし、特に家電製品を(必需品)と思い込んでいると無理です。昭和初期の日本人を目指しましょう(笑)。減らせることが見えてきます。
 
 
小さな心の働きの繰り返しが、大きな心の働きになっいく。それによって不幸になるのか、幸福感が増えていくのか。まさに感じ方が二極化する年の始まりです。

 

 

Youtubeチャンネルもよろしくお願いいたします。