1716年辺りから庶民にも飴が出回り始めた
八代将軍吉宗公(暴れん坊将軍)の時代、江戸城中でも有平糖あるへいとう、がもてはやされていた。(有平糖あるへいとう、に関しましては以前のブログにも記載されております)作り手は「献上菓子御受納」を拝命し、羽織り袴に帯刀まで許されお城への登城もほかの商人らがつかう通用門ではなく表玄関から通行できるという商人としては破格の待遇をうけた。江戸時代中頃になると飴売り同士の競争も激しくなり、多種多様な飴売りが流行り土平飴、唐人飴、あまいだ飴、など多種多様な物が出回る。大道芸の飴売りも多数存在飴売りの最大顧客が子供であるため奇抜な衣装を着たり奇妙な歌を歌って街中を練り歩き客寄せに努め飴を売って歩いた者、三味線を弾く者、口上などで趣向を凝らした者露天商で目立つ傘をさし、人の注目を集め飴を売る者飴の名はいずれも売り声にちなんだものらしい。女飴売りは鉦を鳴らしながら、越後節などを唄って町を歩いたとか。飴が売れると常磐津を唄い聞かせたり狐の扮装で踊ってみせたり唐人飴売りは唐人風の服装で、チャルメラのような笛を吹いて踊ったりして人を集め飴を売り歩いたりしていたそうです。評判だったのは「土平あめ」なかでも人気は「お萬が飴売り」独特の節回しで唄うようにして売り歩いたがこの飴売りは、もとは屋根職人だった男が女装したもの、このころ、神社仏閣の名物飴も生まれました。加美代飴は讃岐・金毘羅宮の境内で売られている鼈甲飴。その昔、神社に功労のあった五人の役人が特別に境内での商売を許可され、神前に奉納された餅で飴をつくったのがはじまり。1700年頃から千歳飴をはじめ飴が庶民にも出回る様になってきたと思います庶民は穀物由来の甘味料を主原(水飴)とした飴そして高貴な方は砂糖を主源とした有平糖写真を見て私は、この時代の飴売りでなくて良かったと思いました何故なら私はこんなに芸達者ではございませんので次回ようやく1750年前後、飴細工に関する文言が出てきます飴細工 寿庵 ホームページ参考 引用元Kanroミニ電子展示「本の万華鏡」「土平あめ」【怪しいおやぢ】「加美代飴」池商店