ウクライナがロシアに勝つ秘策が此処に有り⁉フィンランド冬戦争 | 戦車兵のブログ

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この動画はよくまとまっていて、とても良い動画です。

 

まずは御覧下さい。

 

ソ連・ロシアは他国を侵略する国で、それは昔も今も変わらない。

 

昭和14年ソ満国境で日満軍とソ蒙軍の軍事衝突が勃発したノモンハン事件のあった年、ソ連はフィンランドへ侵攻した。

 

巨大な軍事力で侵攻するソ連軍に対し、小国フィンランドが戦った冬戦争だ。

 

ウクライナの侵攻と似たところも多々あるフィンランドの冬戦争と継続戦争。

 

 

当時も世界はフィンランドに同情はしても軍事的支援は無く、軍事大国ロシアと戦うことになったフィンランド・・・・ウクライナ侵攻と似ている。

 

「同情するなら金をくれ」じゃないが・・・、ウクライナ侵攻もフィンランド侵攻もロシアは同じ思考であったろう。

 

軍事力で恫喝すれば降伏する。

 

恫喝に応じなければ戦争だ、戦争をすればロシア軍に簡単に屈服するだろう、抵抗してもロシア軍の前には直ぐ降伏して決着がつくと。

 

 

しかし、現実はそうはならなかった。

 

小国フィンランドは全力で孤軍奮闘ロシア軍を撃退した。

 

世界世論なんて当てにはならず、誰もソ連の暴力を止めることはできない。

 

独裁者スターリンには逆らえない・・・・プーチンに逆らえないロシアも同じだ。

 

言論統制や粛清・・・・・・そういう国だよロシアは・・・・。

 

 

フィンランドは冬戦争後にドイツの支援を受ける。

 

ナチスドイツのヒトラーは世界が傍観する中でフィンランドへ手を差し伸べたのだ。

 

現代ではナチスドイツと手を結んだからフィンランドは枢軸国だと言われる。

 

日本も当時世界から孤立し、日独伊三国軍事同盟を締結し、さっさと降伏したイタリアに対し、世界で日本の味方だったのはナチスドイツであったことを忘れてはならない。

 

世界中を敵に回して戦った戦友だった、戦後ナチスドイツの悪行がバレて絶対悪の象徴のようになったら掌を返して・・・・。

 

当時のフィンランドの気持ちは日本こそがよく知るべきである。

 

 

フィンランドは国民が民兵に志願し戦った。

 

ウクライナもそうだね。

 

そして武器の少ないフィンランドはソ連軍の兵器を分捕り鹵獲した兵器でソ連軍を迎え撃った。

 

ん!?ウクライナもロシアの戦車とか・・・・・同じだね!

 

まさに歴史は繰り返す。

 

 

冬戦争の概略の説明。

 

1939年8月23日の独ソ不可侵条約の秘密議定書によって、独ソによる東欧の勢力圏分割が約束された後、ソ連はバルト三国とフィンランドへの圧力を強め、バルト三国とは軍事基地の設置とソ連軍駐留を含む相互援助条約を結ばせた。

 

フィンランドにも同様に、国境線の変更や軍事基地設置とソ連軍駐留を含む要求を行ったが、フィンランド側は応ぜず、両国間の交渉は、11月に決裂した。

 

 

ソ連は自らの国境警備隊がフィンランド軍から発砲を受けたとして、1939年11月30日にフィンランドに侵攻した。

 

明らかな侵略行為に対して国際社会から非難を浴びたソ連は、1939年12月14日に国際連盟から追放されたが、ソ連の行動に何の影響も持たなかった。

 

 

ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、実力行使すれば、フィンランドは和平を求めてくるだろうと考え、フィンランド軍のおよそ3倍の兵力を投入したが、結局マンネルヘイム元帥率いるフィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常に苦戦を強いられた。

 

 

既に、ドイツと戦争中であったイギリス、フランスは、フィンランド支援を口実として、ドイツの軍需生産に不可欠なスウェーデンの鉄鉱石を抑えるために、地上軍の派遣をノルウェーなどスカンジナヴィア半島北部を経由して計画したが、ノルウェーとスウェーデンは軍隊の通過を拒否したために計画は実現しなかった。

 

 

フィンランドは1940年3月まで戦い抜くが、フィンランド第二の都市であるヴィープリを含む国土の10%、工業生産の20%が集中する地域をソ連に譲り渡すという苛酷な条件の講和条約を結び、3月13日に停戦は成立した。

 

 

1940年3月12日、モスクワ講和条約が結ばれた。

 

フィンランドは国土面積のほぼ10%に相当するカレリア地峡の割譲を余儀なくされた。

 

カレリアは産業の中心地であり、第二の都市ヴィープリを含んでいた。

 

 

当時のフィンランド全体の人口の12%にあたるカレリア地峡の42万2千人は、ソ連側が示した10日間の期限内に、故郷を離れて移住するか、ソ連市民となるか、選択を迫られた。

 

その他にも、サッラ地区、バレンツ海のカラスタヤンサーレント半島、およびフィンランド湾に浮かぶ4島を割譲し、さらにハンコ半島とその周辺の島々はソ連の軍事基地として30年間租借されることとなり、8,000人の住民が立ち退いた。

 

フィンランド市民にとって、この過酷な講和条件は衝撃であり、その精神的ショックは、戦い続けた場合よりも大きいのではないかとさえ言われた。

 

 

 

モスクワ講和条約を結ぶために、ソ連の傀儡政権だったフィンランド民主共和国はモスクワ講和条約が結ばれた1940年3月12日に、「フィンランド民主共和国政府は無用な流血を避けることを選んだ」としてソ連の構成国であるカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に統合され廃止された。

 

その後、なんとか独立を維持していたバルト三国は、1940年6月から8月の間に、武力でソ連により併合され、それぞれソビエト連邦内共和国となった。

 

 

1940年6月には、フランスはドイツに降伏し、西側でドイツと戦っているのは、イギリス連邦諸国だけとなった。

 

フィンランドは、冬戦争後、中立維持のためのスウェーデンとの軍事同盟を模索したが、ソ連とドイツの反対で、これは実現しなかった。

 

その結果、フィンランドは、軍事経済援助の見返りに軍事基地の提供などを行い、ドイツ軍はフィンランド領内に駐留を始めた。

 

これは、明らかな独ソ不可侵条約の秘密議定書に対する違反で、のちに独ソ間の外交問題になった。

 

 

1941年6月22日のドイツのソ連侵攻にはフィンランド軍は参戦しなかったが、ソ連軍がフィンランド領を空爆した為、6月25日に、フィンランドはソ連に宣戦し、継続戦争が始まった。