バレンタイン歩兵戦車 | 戦車兵のブログ

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バレンタイン歩兵戦車(歩兵戦車 Mk.III バレンタイン)は、第二次世界大戦時のイギリスの戦車(15トン級)である。

 

 

バレンタイン歩兵戦車は、A10巡航戦車を元に開発された。ヴィッカース・アームストロング社が私案として設計し(このため"A"コードは付加されていない)、英陸軍省により1938年2月に承認された。

 

A10巡航戦車の車台部品を流用するため、車重を16tに制限する必要があり、歩兵戦車に準じた厚さ60mm以上の装甲を備えるには、車体を小型化する必要があった。

 

このため最初のモックアップではキューポラ付きの3名用砲塔が備えられていたが、それでは装甲厚を減らさないと重量制限に収まらず、一時は武装を15mmベサ機銃に変更することも検討された。

 

結局二度目のモックアップでは小型の2名用砲塔に変更され、この段階ではまだ装甲が50mmから45mmと薄いままの予定だったが、1939年4月半ば陸軍省はヴィッカース社に、装甲厚60mm以上にすることを条件に当初100輌、後に300輌を量産する許可を出した。

 

試作車を作らずいきなりの量産化であったが、既にA10にダミーウエイトを載せた車輌での試験を行っていたこともあり、1940年5月にロールアウトした最初の量産車は試験で満足のいく性能を発揮した。

 

バレンタイン歩兵戦車はマチルダ戦車よりは装甲が薄くエンジン出力も弱く、同程度の速度であったが、低コストで、かつ大量生産に適していた。

 

 

バレンタインという名前が付けられた経緯については、いくつかの説が存在する。

 

もっともポピュラーなものは、陸軍省に設計が提出されたのがバレンタインデー(2月14日)だったというものだが、いくつかのソースは提出日が2月10日だったと主張している。

 

他の説では、A10戦車やその他のヴィッカース製戦車の開発に尽力したサー・ジョン・バレンタイン・カーデン(Sir John Valentine Carden)から取られたというものがある。

 

この他に、Valentine は Vickers-Armstrong Ltd Elswick & Newcastle-upon-Tyne. の頭文字を取ったものだという説がある。

 

 

バレンタイン歩兵戦車は1944年4月まで生産され続け、歩兵戦車だけでなく戦車としても、イギリス最多で、イギリス国内で6,855輌(ヴィッカース、MCCW (Metropolitan-Cammell Carriage and Wagon), BRC&W (Birmingham Railway Carriage and Wagon) )、カナダ国内で1,420輌である。

 

うちイギリス製2,394輌とカナダ製1,388輌(残り32輌は訓練用に保存)がレンドリースの形でソビエト軍に輸出された。

この戦車の初陣はクルセーダー作戦であり、これが半年後に北アフリカ戦線からほぼ姿を消すこととなる、マチルダII歩兵戦車からの装備更新の契機となった。

 

その後も同戦線において広く運用され、初期の頃から防御力と信頼性が評価されていた。

 

しかし英軍戦車が共通して抱える弱点も持っていた。

 

搭載している2ポンド砲は当時、マチルダII歩兵戦車やクルセーダー巡航戦車同様に榴弾が用意されていなかったため、敵歩兵や対戦車砲に対する攻撃力、すなわち着弾時における爆発力を欠き、対戦車砲型とともに時代遅れの装備となっていた(大戦後半にはまだ2ポンド砲を搭載していた装輪装甲車向けに、榴弾が開発されている)。

 

車体幅の狭さからくる小さいターレット・リングと砲塔が、より威力のある砲への換装を困難にしており、後に6ポンド砲やOQF 75mm砲搭載型が開発された。

 

しかし、その頃には既により高性能の戦車が戦場に配備されていた。

 

 

もう一つの弱点は、小さい乗員コンパートメントと、2人用の砲塔である。

 

装填手が搭乗できるよう砲を前方に移動しスペースをとった3人用砲塔型が開発されたが、砲を大型のものに換装したバージョンでは、再び装填手のスペースが削られた。

 

バレンタインのターレットリング径は57.5インチ(約1460㎜)である。

 

1944年のヨーロッパ作戦戦域(ETO)では、前線の戦車型のバレンタインは完全にチャーチル歩兵戦車、またはアメリカ製のM4中戦車シャーマンに置き換えられ、僅かに同じシャーシを用いたアーチャー対戦車自走砲部隊の指揮戦車として少数のみが配備されていた。

 

太平洋戦線においては、限られた数のバレンタインが1945年5月まで残された。

 

 

バレンタインはレンドリース用として、II~V、VII、IX、Xの各型合計3,332輌がソ連軍に対し引き渡された。

 

モスクワ攻防戦の最中である1941年11月25日から参戦、最後は満州侵攻にも参加するなど、終戦まで使われ続けた。

 

他のレンドリース車輌同様、独ソ戦の前期には主に南部地域において用いられたが、これはイラン方面から送り込まれるペルシャ補給線があったためである。

 

特に、カフカス方面ではこれら外国製戦車が戦力の7割以上を占めていたという。

 

 

雪中でも小型軽量であることから良好に機動し、氷結した路面で履帯にアダプターを付ける必要があると指摘された程度で、問題なく運用できた。

 

東部戦線では履帯の連結強度の弱さと、ボギー式サスペンションの被弾に対する弱さ、戦車砲に榴弾が用意されていないことが問題として報告されていた。

 

武装に関しては、1941年末にソ連製の45mm戦車砲とDT機関銃に換装する試験(ZIS-95)が行われたが、ソ連軍が危機にあった時期にそこまで手間をかけて改造する余裕も無かったのと、2インチ発煙弾発射器からロシア製50mm迫撃砲弾が発射可能だったため、結局実施されなかった。

 

 

バレンタイン歩兵戦車はその小さいサイズと機械的信頼性、装甲の質と強度によりソ連兵には好まれ、やはり評判の良かったMk.4ペリスコープも大戦中期以降のソ連軍戦車用にコピーされて使われている。

 

後にイギリスは新たなレンドリース用戦車としてクロムウェル巡航戦車を提案したが、ソ連はこれを拒否、引き続きバレンタインの供与を希望している。