インドネシア海軍の潜水艦「ナンガラ」は21日の午前3時頃(現地時間)、通常の魚雷訓練を実施するためバリ島北部の海域で潜航許可を要求後に連絡が取れなくなり行方が分からなくなった事故が起きたばかりだ。
日本で潜水艦の事故と言えば佐久間艇長の事故である。
1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇は安全上の配慮から禁止されていたガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かった。
この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、原理としては現代のシュノーケルと同様であった。
午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生したが、閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖する間に17メートルの海底に着底した。
佐久間大尉は母船「歴山丸」との申し合わせを無視しがちで、第六潜水艇は日ごろから申し合わせよりも長時間の潜航訓練を行っていたため、当初は浮上してこないことも異常と思われなかった。
また、母艦の見張り員は、異常と報告して実際に異常がなかった場合、潜水艇長の佐久間大尉の怒りを買うのが怖くて報告しなかった、とも述べており、調査委員会はこの見張り員の責任を認めつつも、同情すべき点が多いとして処分していない。
異常に気がついた後、歴山丸は呉在泊の艦船に遭難を報告。
救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。
佐久間艇長以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死んでいた。
残り2人は本来の部署にはいなかったが、2人がいたところはガソリンパイプの破損場所であり、最後まで破損の修理に尽力していたことがわかった。
歴山丸の艦長は、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止しており、また佐久間大尉もガソリン潜航の実施を母船に連絡していなかった。
歴山丸の艦長は事故調査委員会において、佐久間大尉が過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたことと、禁令無視が事故を招いたのだと述べている。
また、潜航深度10フィートと言う、シュノーケルの長さよりも深い潜航深度の命令によって浸水が起きたとしている。
この件については、報告書の注記として記録上のミスの可能性に言及されているが、佐久間大尉の遺書にある「不注意」とはこのことを指すという見解もある。
この事故より先にイタリア海軍で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していたため、帝国海軍関係者も最初は醜態を晒していることを心配していた。
ところが、実際にはほとんどの乗員は配置についたまま殉職、さらに佐久間艇長は事故原因や潜水艦の将来、乗員遺族への配慮に関する遺書を認めていたため、これが「潜水艦乗組員かくあるべし」「沈勇」ということで、修身の教科書や軍歌として広く取り上げられたのみならず、海外などでも大いに評価された。
アメリカ合衆国議会議事堂には遺書の写しが陳列されたほか、感動したセオドア・ルーズベルト大統領によって国立図書館の前に遺言を刻んだ銅版が設置され、日米開戦後も撤去されなかった。
イギリスの王室海軍潜水史料館には佐久間と第六潜水艇の説明があり、第二次世界大戦の後も展示され続けている。
ある駐日英国大使館付海軍武官は、戦前から戦後まで英国軍人に尊敬されている日本人として佐久間を挙げ、戦後の日本人は「佐久間精神を忘れている」と1986年の岩国追悼式でスピーチした。
潜水艦救難艦は、救難艦の一種であり、特に海中で遭難・浮上不能になった潜水艦の乗員救助の任に当たる艦である。
潜水艦救難艦や飛行機には、深海で作業を行えるよう深海救難艇(DSRV)や遠隔操作潜水艇(ROV)を搭載する物もある。
潜水艦は事故などの不測事態が発生した際に、潜航状態から浮上できずに海底に沈座してしまう事例が多々発生する。
そのような場合に一刻も早く内部に閉じ込められた乗員を救出することを主たる任務とし、そのために必要な装備を施された艦が潜水艦救難艦である。
潜水艦ごと救出する方式
初期の潜水艦は排水量も小さく、潜航深度も浅かったため、艦体ごと海面上に引っ張り上げて乗員を救出する方式が多用された。吊り上げ方式は大きく以下に二別される。
- 釣瓶方式
- 艦の左右どちらかに廃艦となった旧式潜水艦などをバラストとして用意し、これを沈めることで反対側にくくられた潜水艦を吊り上げる方式。
- 直接動力方式
乗員のみまず救出する方式
第二次世界大戦後は潜水艦も大型化し、潜航深度も深くなったため、艦体を急速浮上させるのは困難となった。
このため、深海救難艇などを沈座した潜水艦まで送り込み、まず乗員を救出する方法が主流となっている。