第二次イーペルの戦い 人類史上初の大規模毒ガス攻撃 | 戦車兵のブログ

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1915年4月22日第二次イーペルの戦いが始まった日。

 

第二次イーペルの戦いはドイツ軍が1915年4月22日から5月25日まで連合国軍に再攻撃を仕掛けたことで始まった。

 

この攻撃では人類史上最初の大規模毒ガス攻撃が行われた(最初の毒ガス使用は1915年1月のボリムフの戦いで)。

 

使用された毒ガスは塩素であった。

 

 

甚大な被害を受けた連合国軍は撤退、ドイツ軍が再び街を占領した。

 

1917年秋には、イーペル近郊でマスタードガスが戦闘に使用された。

 

この毒ガスが使用されたのも人類史上初めてで、都市の名前をとってイペリットとも呼ばれるようになった。

 

 

化学兵器がその威力のほどを広く知らしめたのが第一次世界大戦だった。

 

1914年からイギリス・フランス・ドイツの各国が、クロロアセトンやヨード酢酸エチルなどの催涙剤の配備を始め、遅くとも1915年3月までには散発的な催涙ガスの実戦使用が行われた。

 

塹壕戦で戦線が膠着する中で、突破手段としての期待が化学兵器に集まるようになった。

 

 

中でもハーバー・ボッシュ法の開発で知られるフリッツ・ハーバーを擁したドイツは毒ガス開発で他国に大幅に先んじることとなり、1915年1月31日、ドイツ軍が東部戦線のボリモウでロシア軍に対して初めて大規模な毒ガス放射を実施した。

 

さらに4月22日にイーペル戦線でフランス軍に対して塩素ガスを使用し、化学兵器の脅威が世界的に知られるようになった。

 

この戦いでは5700本のボンベに詰められた150~300tの塩素が放出され、フランス軍を局地的に壊乱状態に陥れた。

 

イギリス軍も同年9月には塩素ガスを使用した。

 

同年12月にはドイツ軍がホスゲンガスを同様に使用し始め、改良型のジホスゲンも使われるようになった。

 

これらは風向きを考慮に入れ、相手陣地の風上からいぶすような方法が取られた。

 

 

これらのガスを吸引した兵士は、高濃度のガスにさらされればもちろん全身の組織を塩素による化学反応で破壊されて死亡したわけだが、低濃度でも呼吸器官に甚大な被害を受け、死亡しないまでも、呼吸困難に陥って長い間症状に苦しむことから、非人道的な兵器として恐れられた。

 

 

まもなくガスマスクが広く利用されるようになると、吸引によって作用するだけではなく、直接皮膚に損傷を与える化学兵器の開発が進められた。

 

そして実用化されたのが、皮膚に作用するびらん剤の一種であるマスタードガスで、1917年7月12日にイーペル戦線で投入された。

 

マスタードガスは、浸透性が強く防護が困難で、最初の使用地名から「イペリット」と恐れられるようになった。

 

英仏米もマスタードガスの実戦投入を進め、当時ドイツ軍の一兵士として前線にいたアドルフ・ヒトラーもマスタードガスで負傷したと言われる。

 

 

運用法も改良が進み、ボンベ解放方式に代わって、化学剤を充填した化学砲弾や、イギリスのリーベンス投射器のような毒ガス撒布兵器が開発された。

 

ガスマスクへの対抗策として、フィルターを浸透しやすい種の催涙ガスを混用し、ガスマスク装着を困難とさせる戦術も行われた。

 

敵軍の士気を落とす目的で、無毒な煤煙でいぶす戦術も行われたという。

 

第一次世界大戦中に開発された化学剤の種類は約30種に及んだ。

 

米英独仏の4ヶ国で生産された化学剤の総量は、塩素が19万8千t、ホスゲンが19万9千t、マスタードガスが1万1千tとされる。中でも化学工業の発達していたドイツの割合が高く、塩素の5割、ホスゲンの9割、マスタードガスの7割がドイツで生産された。

 

うち12万4千t(化学砲弾など6600万発)が実戦使用された。

 

イギリス国防総省によると、化学兵器による両軍の死傷者は130万人、うち死者は9万人に上るという。

 

 

第一次世界大戦での化学戦の悲惨な結果を踏まえ、1925年には「ジュネーヴ議定書」(「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」)が締結された。

 

この条約により戦争での化学兵器使用が禁止されることとなったが、保有や研究までは禁止されなかった。

 

議定書は1928年に発効した。