1941年(昭和16年)12月23日ウェーク島の戦いで日本軍が勝利しウェーク島を占領した日。
ウェーク島の戦いは第二次世界大戦における日本軍とアメリカ軍の戦い。
戦いの後のウェーク島日本軍部隊の状況についても記す。
なお当時の表記は「ウエーキ島」であった。
1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦直後、大日本帝国海軍は第四艦隊司令長官井上成美中将を指揮官とする南洋部隊をもって、ウェーク島の攻略作戦を開始した。
本作戦は日本海軍単独で実施され、基地航空隊の空襲で始まる。
アメリカ軍は海兵隊を主力とする500名と戦闘機12機を配備していた。
12月10日深夜、第六水雷戦隊司令官梶岡定道少将指揮下のウェーク島攻略部隊はウェーク島に到着して海軍陸戦隊による奇襲上陸の準備にかかるが、夜間にくわえて悪天候のため大発動艇の発進に失敗した。
12月11日の天明後に強行上陸作戦を敢行することにしたが、残存していたアメリカ軍の砲台とF4F戦闘機の反撃で駆逐艦2隻(疾風、如月)を喪失、損傷艦多数を出してクェゼリン環礁へ撤退した。
第一次攻略作戦の失敗は、緒戦における日本側唯一の敗北となった。
第二次上陸作戦の実施するにあたり、攻略部隊には地上兵力やグアム島上陸作戦に参加していた重巡洋艦4隻や駆逐艦が増強された。
また連合艦隊は、真珠湾攻撃を終えて日本本土へ帰投中の南雲機動部隊から一部兵力を分派し、ウェーク島攻略に従事させた。
第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)等は南洋部隊(井上中将)の指揮下に入り、21日からウェーク島への空襲を実施した。
23日、攻略部隊は上陸を敢行、この際に哨戒艇2隻が擱座上陸した。
激戦の末に米軍は降伏した。
米軍は空母機動部隊(レキシントン、サラトガ、エンタープライズ)による牽制攻撃やウェーク島救援を計画していたが、米軍守備隊の降伏により日本軍と交戦する機会はなかった。
ウェーク島は、アメリカ本土とグアム、フィリピンを結ぶ作戦線上にあるアメリカ軍の中部太平洋における重要な拠点のひとつであり、日本側から見れば、日本本土とマーシャル諸島を結ぶ作戦線上に位置する楔のような存在であった。
日本軍は開戦前からウェーク島の攻略を企図していたが、具体的に計画されたのは開戦直前の1941年(昭和16年)になってからであった。
中部太平洋方面の作戦は、トラック諸島を拠点にしていた第四艦隊(司令長官井上成美中将)を基幹とする南洋部隊の担任であった。
南洋部隊(第四艦隊)に割り当てられていた戦域は非常に大きく、その一方で手持ちの戦力は少なかったため、ウェーク島攻略作戦は日本海軍単独での作戦(上陸部隊は海軍陸戦隊)、グアム攻略は陸軍南海支隊との協同作戦、海軍少数兵力でギルバート諸島方面攻略を実施という方針に定まった。
日本側は当初、航空戦(基地航空隊の陸上攻撃機)でウェーク島の陸上施設を破壊した後、艦船に所属する陸戦隊だけでウェーク島を占領する計画を立てていた。
だがウェーク島のアメリカ軍守備隊の兵力が予想よりも多かったため、急遽特別陸戦隊2個中隊を追加した。
ウェーク島攻略作戦そのものは、日本艦隊の行動からアメリカ側に警報を与えないため、真珠湾攻撃から3日遅れて実施することになった。
日本軍は1941年(昭和16年)12月8日の開戦と同時に攻撃を開始した。まず5時10分、クェゼリン環礁のルオット島を出発した第24航空戦隊の九六式陸上攻撃機34機がウェーク島へ到達し、高度450mで爆撃を開始した。
この攻撃は高度3600mを飛行していた4機のF4F 戦闘機を含め、守備隊は日本軍機にまったく気づいていなかった。
飛行場と砲台に損害を与え、飛行場に並んでいた8機のF4F 戦闘機は7機が全壊、1機はひどく壊れ、第211海兵戦闘飛行機隊55名のうち23名戦死・11名が負傷した。
負傷を免れた整備員は一人もいなかったが、整備員は必死で残存5機の整備と修理をおこなった。
昼過ぎにはウェーク島攻略部隊がクェゼリン環礁を出撃した。
第24航空戦隊は12月9日に千歳海軍航空隊の陸上攻撃機27機で2度目の空襲を敢行。
F4F 戦闘機は1機撃墜を記録した。
翌10日にも陸上攻撃機26機で3度目の空襲を敢行したが、対空砲火は熾烈となり、残存の F4F 戦闘機も必死に反撃。陸上攻撃機1機が撃墜(米軍記録2機撃墜)された。
ウィルクス島の弾薬庫が爆発し、高射砲一門を破壊したが人的被害は戦死1名負傷者4名だった。
この間、進撃中の攻略部隊は幸先良い戦果報告のみを重視して油断しきっていたが、アメリカ側も残存の F4F 戦闘機を爆弾が懸吊できるよう改装し、即製の戦闘爆撃機に仕立てて攻略部隊を待ち受けた。
12月10日夜、呂65号潜水艦(第七潜水戦隊、第27潜水隊)に誘導された攻略部隊はウェーク島沖に到着した。
夜闇を利用しての上陸作戦計画である。
日本側は上陸隊形を整えたが、その日は波が高く、攻略部隊の各艦は各々適当の地点から舟艇を発進させることとなった。
ところが、「金龍丸」と「金剛丸」では陸戦隊を乗せた大発動艇(大発)をおろすのに難航した。
ついには大発の破壊や転覆が相次いだ。
攻略部隊は上陸を一旦延期し、巡洋艦や駆逐艦は島に接近して艦砲射撃を行うことにした。
12月11日、米軍指揮官は日本軍攻略船団を発見、巡洋艦からアウトレンジ砲撃されることを警戒し、ぎりぎりまで射撃をしないよう部下達に厳命した。
3時25分にまず軽巡3隻(夕張、天龍、龍田)が、続いて3時43分に駆逐隊が砲撃を開始した。
4時、ウェーク島の砲台が近寄ってきた攻略部隊に対して反撃を開始、ウェーク島の航空兵力を「叩き潰した」と信じきっていた攻略部隊を驚かせた。
まずウェーク島ピーコック岬のA砲台が旗艦「夕張」を砲撃し、「夕張」は煙幕を展開すると南へ避退した。
4時3分、ウィルクス島沖で砲撃を行っていた「疾風」が轟沈、米軍側はウィルクス島L砲台による戦果と認定している。
ビール島のB砲台は駆逐艦2隻(米軍側は弥生、睦月と記録)と交戦し、2隻は煙幕を展開して避退した。
付近には一旦降ろした大発がひしめき合い、艦が密集し身動きが取り辛いところに砲台からの砲弾が次々と降り注ぎ、 F4F 戦闘機は攻撃を繰り返した。
砲戦開始から20分も経過しないうちに、梶尾司令官は撤退命令を出した。
攻略部隊は砲台の射程外へ退避したが、日本軍の航空攻撃を警戒して上空に待機していたF4F 戦闘機4機は『用が済んでいなかった』。
4機は弾薬と燃料の補給を繰返しながら9回も出撃。
F4F 隊は逃走する日本艦隊(夕張、天龍、龍田)を爆撃し、第十八戦隊(天龍、龍田)は機銃掃射で死傷者を出した。
5時42分、攻略部隊各艦と共に退避中の「如月」は、ウェーク島ピーコック岬沖地点でF4F 戦闘機に襲撃され、100ポンド(約45キロ)爆弾1発が命中、同艦は爆沈した。
F4F 戦闘機はさらに追い討ちをかけ、「金剛丸」を機銃掃射して搭載していたガソリンを炎上させた。
各艦(弥生、睦月、望月、追風、哨戒艇32号、哨戒艇33号)も襲撃され、各艦とも死傷者が続出する。
海上の状況も依然として悪く、時刻を改めての奇襲上陸の見込みも事実上潰えた。
攻略部隊各艦はクェゼリン環礁に退却することとなった。
米軍の戦死者1名、負傷者4名、F4F 戦闘機1機が被弾により不時着して全壊となったが、守備隊の戦力は尽きようとしていた。
12月13日、日本軍攻略部隊はクェゼリン環礁に帰投した。
12月14日、F4F 戦闘機1機は着陸に失敗して飛行不能となった。
12月20日、飛行可能なF4F は2機に減少した。
第一次攻略戦は日本側の惨敗であった。
第四艦隊麾下の第七潜水戦隊司令官大西新蔵少将は「後から見ると随分杜撰な計画だった。航空戦(基地航空隊)の効果に期待を持ちすぎた」と回想している。
再度の出撃までの間、研究会が開かれ第一次攻略戦の反省とその対策が論じられた。
「如月」沈没の原因が魚雷等に対する被弾と考えられたので、魚雷と爆雷に断片除けを施した。
また、攻略部隊がたった4機の F4F 戦闘機に翻弄されたことから、より強力な航空兵力が望まれた。
他にも、上陸準備に手間取ったため、大発をすばやく降ろせる措置を講じたほか、通信技術の向上も図られた。
これらの研究会の最中、梶岡少将は陸戦隊の揚陸について、「最悪の場合は哨戒艇を擱坐させてでも揚陸させる」という腹案を持つようになった。
第二次攻略作戦を実施するにあたり、ウェーク島の米軍航空戦力制圧は至上命題であった。
だが南洋部隊の基地航空隊は距離の関係からウェーク島に戦闘機を派遣できず、空母もないため、南洋部隊単独での戦闘機撃滅は不可能だった。
第四艦隊参謀長矢野志加三大佐は、ウェーク島の残存機撃滅を連合艦隊司令部に依頼した。
連合艦隊はこれを受け、真珠湾攻撃からの帰途にある第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将、旗艦「赤城」)に対し、ウェーク島攻撃に向かうよう令した。
これに対し南雲は一旦トラックに入港して整備を行った上、関係将官と打ち合わせを行ってからウェーク島攻撃に向かう旨通告した。
他、グアム攻略戦を終えた第六戦隊(司令官五藤存知少将、重巡〈青葉、加古、衣笠、古鷹〉)や、駆逐艦2隻(朝凪、夕凪)、特設艦船、特別陸戦隊1個中隊が追加されることとなった。
12月15日、第4艦隊から参謀が派遣され、作戦会議が開かれた。この席上、梶岡少将は非常の際の哨戒艇の用兵についても説明。結果、快諾された。
12月17日、第4艦隊より再度のウェーク島攻略命令が出された。
18日、19日、20日と詰めの会議が開かれ、偵察も改めて実施された。
これを受け、機動部隊に「20日頃にウェーク島を攻撃してもらいたい」との要望が出されたが、そもそも南雲の構想とは違っていた上に燃料の関係もあり、適宜兵力を南洋部隊の指揮下に入れてウェーク島攻撃に協力させ、残りは日本に帰ることとなった。
この適宜兵力が、阿部弘毅少将(第八戦隊司令官)指揮下の巡洋艦2隻(利根〈阿部少将旗艦〉、筑摩)、空母2隻(蒼龍〈山口少将旗艦〉、飛龍)、駆逐艦2隻(谷風、浦風)であり、増援兵力は12月16日に機動部隊本隊から分離した。
この頃、呂66号潜水艦と呂62号潜水艦が衝突して呂66号潜水艦が沈没、宇垣連合艦隊参謀長は『同島は少し魔物なり』と記している。
攻略部隊は21日朝4時30分、再度出撃した。
同じ頃、南雲機動部隊から分派された第八戦隊司令官阿部弘毅少将(旗艦「利根」)指揮下の第二航空戦隊(司令官山口多聞少将、旗艦「蒼龍」)は南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官の指揮下に入り、ウェーク島西方300海里の地点で空母2隻(蒼龍、飛龍)より戦闘機18機、艦上爆撃機29機、艦上攻撃機2機を発進。ウェーク島に対して空襲を敢行した。
これに呼応して、千歳海軍航空隊の陸上攻撃機27機がウェーク島を空襲した。
翌22日にも、第2航空戦隊は戦闘機6機、艦上攻撃機33機でウェーク島に対する2回目の空襲を敢行。
しかし、この2回目の空襲は思わぬ不覚をとった。
攻撃隊がウェーク島上空に達した時、その上空には F4F 戦闘機2機が待ち伏せていた。
F4F 戦闘機は寡兵ながら攻撃隊に対して奇襲を敢行し、艦上攻撃機2機を撃墜した。
このうちの1機は、水平爆撃の名手として知られ、真珠湾攻撃の際に艦攻隊の誘導機を務めた金井昇一等飛行兵曹機であった。
直後、 F4F 戦闘機は全て撃墜された。
攻略部隊は順調にウェーク島に接近。
22日午後に上陸戦の隊形に占位し、誘導潜水艦を頼りにウェーク島の南岸に接近していった。
21時、上陸命令が令され、これと同時に第18戦隊はウェーク島の東岸に移動して陽動作戦を実施した。
第六戦隊は洋上に展開して、上陸支援や敵艦隊に備えた。
しかし、この日も海上の状況は悪く、大発を降ろすのに順調さを欠いたため、ついに哨戒艇2隻(第32号、第33号)が海岸に擱座し陸戦隊を上陸させた。
それに続き各艦(金龍丸、睦月、追風)からも陸戦隊が大発でウェーク島南岸とウィルクス島に上陸した。
上陸した陸戦隊のうち、舞鶴特陸一個中隊の本隊は砲台と機銃陣地の真正面に上陸し、猛烈な反撃を受けて中隊長が戦死した。
第6根拠地隊一個中隊はウィルクス島に上陸。
これまた猛烈な反撃を受け、小隊全滅等の損害を出した。
舞鶴第二特陸一個中隊も負傷者が続出。
凄まじい彼我の銃火の応酬により、23日になっても戦線はこう着状態となった。
日本軍と米軍がいりくんで戦ったため、洋上の日本艦隊は艦砲射撃もできなくなった。
戦況が一気に日本側に傾いたのは、舞鶴特陸一個中隊のうちの決死隊の働きによるものである。
決死隊は反撃をかわしてアメリカ軍捕虜を道案内として進撃中、飛行場近辺で海兵隊指揮官ジェームズ・デベル少佐を捕虜とした。
さらに進撃すると、ジープに乗った将校を発見。
尋問の結果、将校はウェーク島守備隊指揮官ウィンフィールド・カニンガム中佐だった。
決死隊はカニンガム中佐を捕虜としてジープに乗せ、白旗を掲げて戦線を回らせ降伏を呼びかけさせた。
この結果、7時45分ごろにはウェーク島からの砲声は途絶え、四方の状況からアメリカ軍守備隊の降伏と判断された。
残敵掃討後の12月23日10時40分、日本軍はウェーク島の完全攻略を宣言、通報した。
これをもって第二航空戦隊・第八戦隊は南洋部隊(第四艦隊)の指揮下を離れた。
12月29日、6隻(利根、筑摩、蒼龍、飛龍、浦風、谷風)は呉に到着した。
占領が確認されると、攻略部隊は追加の陸戦隊と医療班を上陸させて処理に当たらせ、水上機隊や飛行艇の基地を整備した。
また、捕虜を飛行場に集めて座らせようとしたが、捕虜たちはそれを拒否して座ろうとしなかった。
わけを聞くと、第一次攻略戦の第一回空襲の後、守備隊は日本の空挺部隊の来襲を恐れて大急ぎで飛行場に地雷を埋設した。
その上に座らせるのは、座らせてから地雷で吹っ飛ばそうと企てているのでないか?と勘繰ったためであった。
また、ブルドーザー1両とクレーン2基も鹵獲し、これらは後にウェーク島の防御陣地構築に使用されることとなる。
その後、日本はこの島を直轄地としてウェーク本島を「大鳥島」、ピール島を「羽島」、ウィルクス島を「足島」、ピーコック岬を「首崎」と命名し統治を行った。
ウェーク島本島には北側に中攻掩体、南西には戦闘機掩体及び燃料置場、飛行場の南東には兵舎地区が設けられた。