戦闘するデザイン 「F-15 イーグル 制空戦闘機」 | 戦車兵のブログ

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F-15は、アメリカ合衆国のマクダネル・ダグラス社(現ボーイング社)の開発した制空戦闘機。

 

制式機の受領は1972年(正式編成は1976年)、愛称はイーグル。

 

 

アメリカ空軍などで運用されたF-4の後継として開発された大型制空戦闘機で、第4世代ジェット戦闘機に分類される。

 

F-4と共に、冷戦下のアメリカ空軍とマクドネル・ダグラス社を代表する戦闘機といえる。

 

 

軽量な機体に大推力のターボファンエンジンを2基搭載し、高出力パルスドップラー・レーダーと中射程空対空ミサイルの運用能力を持つ。

 

後継機であるF-22が戦力化され、原型機の初飛行から既に40年経った現在でも世界トップクラスの性能を誇る。

 

 

二枚の垂直尾翼を持つとはいえ、平凡な平面形の主翼に水平安定板を組み合わせた保守的な設計だが、当時としては画期的な機動性を実現し、F-4の運用で発覚した諸問題を教訓に設計段階で様々な工夫が施され当初から高い完成度を見せた。

 

 

数々の実戦経験がありながら、 イラク戦争の砂漠の嵐作戦で2機を失った以外に採用国は2018年現在までに空中戦における被撃墜記録は無いとしている。 

 

 

複数の交戦相手国がF-15の撃墜を主張しており、ソビエト連邦(や後のロシアなど)は戦地に派遣したオブザーバーによりMiG-23などの自国製戦闘機が数機のF-15を撃墜したとしている。

 

 

訓練中の事故として、1995年のF-15僚機撃墜事故などがある。

 

航空自衛隊にとって通算8機目のF-15墜落事故かつ自衛隊史上初の「撃墜」であるとともに、F-15が航空機によって(=空対空戦闘によって)撃墜された世界初の事例でもある。

 

 

当初は一機当りのコストが約3,000万ドル(アメリカ空軍での単価)と高価な機体となったため、アメリカ空軍でも安価なF-16と併用することとなり、輸出先も政治・軍事的に親密な経済大国のみに限られていた。

 

新造機からの運用はアメリカ空軍による877機の他イスラエル・日本・サウジアラビアの3ヵ国の合計356機(ライセンス生産を含む)、総計1,233機で生産を終了した。

 

 

単座型と複座型の2種類が存在するが、飛行性能および戦闘能力に大きな差はない。

 

 

 

 

F-15の武装はベトナム戦争の戦訓より固定装備とした右翼の付根前縁にある、装弾数940発のM61A1機関砲を始め、主翼下の2ヶ所のパイロンの両側のサイドレールに計4発のAIM-9 サイドワインダー、胴体下面4か所のランチャーに計4発のAIM-7 スパローとなっている。

 

 

M61A1機関砲の940発という装弾数はF-4に比べて約50%増加しており、一秒間の射撃を14回行うことができる。

 

機関砲の射線は空中戦用途を主として、機体の基準線から2度上に向けている。

 

 

スパローのセミアクティブホーミング方式は目標への電波照射を母機から行うため、誘導部が簡単で小型軽量になる代わり、命中まで母機の運動を制約するという欠点を持つ。

 

 

このため、半導体技術の進歩により誘導部の小型化を果たしたアメリカ軍のAIM-120 AMRAAMや航空自衛隊の99式空対空誘導弾といった、アクティブホーミングミサイルの運用能力がF-15に追加されている。

 

この他にも、各国向けの仕様の変更や使用武装の追加など様々な更新を制式採用以後も受けている。

 

 

対空戦闘に特化しているとの誤解もあるが、開発当初からMk82、Mk84汎用爆弾及びそれらから派生した各種誘導爆弾などを搭載可能である。

 

それら爆撃装備はミサイルの搭載を妨げないため、戦闘爆撃機としての潜在能力も高い。

 

搭載量に関しては、より大型機である以上当然の話であるが、F-16よりも高い。

 

本機が純粋に戦闘機として用いられる例が多かったのは、対地攻撃は制空任務よりも損耗率が高く、高価な機体をそれに充てる事が得策でないと判断されたからであり、状況によっては対地攻撃任務に用いられた事がある。

 

火器管制装置の空対地モードはHUD表示により、対地射撃、(自動)投弾、投弾後の4Gプルアップを支援する。

 

 

F-15の性能を示す一例として「ストリーク・イーグル」がある。これは1975年当時の上昇時間記録に対して、F-15原型機の内の1機を使用して更新を狙ったアメリカ空軍による企画である。

 

名称中のstreakには本来の「電光石火の」という意味とともに、機体塗装を剥がしてしまった改装から、当時流行した裸で人前を走り回る「ストリーキング」をかけている。

 

これは記録更新機自体の名称にもなった。

 

 

 

 

1976年にバージニア州ラングレー空軍基地の第1戦術戦闘航空団がF-15Aを受領し、初の実戦部隊となる。

 

以降、旧式化したF-4戦闘機と置き換える形でアメリカ国内の部隊や在日アメリカ空軍、在欧アメリカ空軍の部隊へ配備が行われた。

 

 

当初はF-15が制空戦闘機の役割を担う予定だったが、高価な機体であるためにアメリカ軍でも十分な数を調達し切れず、安価なF-16を開発して大量に配備する「Hi Lo Mix(ハイローミックス)」運用となっている。

 

この体制は、後継機種であるF-22とF-35にも引き継がれる。

 

 

 

 

 

当時、要撃機として運用されていたF-106戦闘機の老朽化が進み、その後継としてアメリカ海軍のF-14と採用を争った。

 

しかし、従来のアメリカ空軍がソ連のアメリカ本土攻撃能力を過剰に警戒していた事の反動から、要撃機の配備は優先課題とはみなされず、結果としてどちらにも決定されないまま立ち消えとなった。

 

結局はF-106が戦術航空軍団から退役するに伴い、なし崩し的に既に配備されていたF-15が要撃任務を引き継ぐ恰好になった。

 

また、1980年代には空軍州兵へのF-15の配備も行われ、F-16とともに要撃任務を引き継いだ。

 

最終的なアメリカ空軍のF-15A/B/C/D購入数は911機であった。現在は派生型のF-15Eや、後継機であるF-22の調達により数を減らしている。

 

2009年10月には、最後のF-15A/Bがオレゴン空軍州兵から退役した。

 

米軍のウェブサイトによれば、2012年5月時点の全軍(空軍州兵を含めた)のF-15C/Dの保有数は249機となっている。

 

 

 

一方で、後継機のF-22などの配備およびF-35への配備準備に伴い更新が進められている。

 

まず、フロリダ州ティンダル空軍基地の転換訓練飛行隊へのF-22配備が2002年から行われた。

 

次に2005年にラングレー空軍基地の第1戦闘航空団に編成されているF-15の3個飛行隊のうち、2個飛行隊がF-22に更新された。

 

その後アラスカ州エルメンドルフ空軍基地とニューメキシコ州ホロマン空軍基地、ハワイ州ヒッカム空軍基地への更新・配備が行われている。

 

 

2009年にはフロリダ州エグリン空軍基地に編成されていた2個飛行隊が所属のF-15を全て手放し、アメリカ空軍初のF-35訓練部隊となるべく準備を始めた。

 

なお、米2010年度には多くのF-15C/D飛行隊が運用を終了し、現役の実戦部隊では在日米軍と在欧米軍に残るのみとなった。

 

乗員の教育も今後は空軍州兵部隊にて行われることになる。

 

 

1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートに侵攻し、約4時間でクウェート市を占領、8月6日にはサウジアラビア国境付近まで展開した。

 

これに対してサウジアラビアはアメリカ合衆国を含む友好国に派兵を要求、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時)は即座に派遣を決定した。

 

要請の翌日である8月7日から、バージニア州ラングレー基地の第1戦術戦闘航空団第71戦術戦闘飛行隊の24機のF-15Cは10回以上の空中給油を繰り返し大西洋から地中海まで13,000kmを15時間無着陸で横断し、アメリカ軍で最初に派遣された部隊ともなった。

 

この派遣を皮切りに、当時最新鋭だったF-15Eを含むアメリカ空・海軍の飛行隊が、順次サウジアラビア入りした。

 

11月29日に国際連合にて「国際連合安全保障理事会決議678」が採択され、イラク軍のクウェートからの撤退期限を1991年1月15日としたが、それまでの間のサウジアラビアへの部隊配備や物資輸送作戦を「砂漠の盾」作戦と呼称し、F-15は24時間のフル稼働で戦闘空中哨戒を行った。

 

 

イラクは1月15日の撤退期限を無視。

 

このため多国籍軍は、1月17日「砂漠の嵐」作戦(Operation Desert Storm)を発動させる。

 

同日早朝、サウジアラビア/タブク基地に展開していた臨時第33戦術戦闘航空団第58戦術戦闘飛行隊から、バグダッド西方のCAP任務の為に4機のF-15Cが出撃した。

 

編隊3番機のジョン K.ケルク大尉は、4番機と共に高度30,000ftで高高度レース・トラック・パターン警戒中に、同編隊に向けて74kmの距離から直進上昇してくる所属不明の機影を捉え、22kmまで接近するとE-3早期警戒管制機からの目標識別連絡を待たずにAIM-7Fを発射、現地時間午前3時10分アメリカ空軍のF-15による最初の撃墜を記録することとなった。

 

この撃墜は湾岸戦争での最初の撃墜記録ともなっている。

 

同日、この撃墜を含め3機のMiG-29と3機のミラージュF1の撃墜が確認されている。

 

以降の作戦期間中、アメリカ空軍所属のF-15(E型を除く)は38機のイラク軍機を撃墜し、自軍機の被害はゼロだった。撃墜した38機のうちの約六割がAIM-7による撃墜である。

 

 

この一方的な戦果には、湾岸戦争の交戦規定ではベトナム戦争では禁じられていた目視外距離戦闘が許可された影響が大きい。

 

IFFの照合のみで敵味方を判断してAIM-7を使用することで一方的に撃墜でき、さらにE-3などの早期警戒管制機とのデータリンクによって成果を上げている。

 

皮肉にも、ベトナム戦争で果たされなかったミサイルキャリアーの概念を、ベトナム戦争の戦訓から生まれた格闘戦闘機F-15が実現したといえる。

 

 

 

三菱重工業が航空自衛隊向けF-15C/DであるF-15J/DJのノックダウン生産・ライセンス生産を行った。

 

日本仕様であるF-15Jは165機、DJは48機が製造され、航空自衛隊では現在201機を保有・運用している。