鈴木貫太郎内閣組閣 | 戦車兵のブログ

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昭和20年4月7日鈴木貫太郎内閣が組閣された日。

 

 

鈴木貫太郎内閣は、男爵、枢密院議長の鈴木貫太郎が第42代内閣総理大臣に任命され、1945年(昭和20年)4月7日から1945年(昭和20年)8月17日まで続いた日本の内閣である。

 

 

木 貫太郎(1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。

 

最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。

 

 

海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。

 

予備役編入後に侍従長に就任、さらに枢密顧問官も兼任した。

 

二・二六事件において襲撃されるが一命を取り留めた。

 

枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。

 

一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。

 

陸軍の反対を押し切って、ポツダム宣言受諾により第二次世界大戦を終戦に導いた人物である。

 

 

1945年(昭和20年)4月、枢密院議長に就任していた鈴木は、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した。

 

構成メンバーは6名の総理経験者と内大臣の木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった。

 

若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「とんでもない話だ。お断りする」と答えた。

 

しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。

 

 

東條英機は、陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った。

 

 

これに対して岡田啓介が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條を窘め、東條は反論できずに黙ってしまった。

 

こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。

 

 

重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、組閣の大命を下した。

 

この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある。

 

「軍人は政治に関与せざるべし」という信念があったことなどからあくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた。

 

 

鈴木は自分には政治的手腕はないと思っていたが、天皇に「頼む」とまで言われそれ以上固辞しなかった。

 

皇太后は天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対し、「どうか陛下の親代わりになって」と語った。

 

 

鈴木は非国会議員、江戸時代生まれという二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である。

 

また満77歳2ヶ月での就任は、日本の内閣総理大臣の就任年齢では、最高齢の記録である(2019年3月現在)。

 

 

 

鈴木は総理就任にあたり、メディアを通じて次のように表明した。

 

『今日(こんにち)、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。』

 

 

鈴木貫太郎は海軍大将であり、日本海海戦のときには、第四駆逐隊司令として、ロシアのバルチック艦隊の残存艦3隻を雷撃で撃沈した。

 

そのため連合艦隊参謀・秋山真之から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われた。

 

 

枢密院議長をしていた1943年(昭和18年)のこと、会議の席で海軍大臣・嶋田繁太郎が山本五十六の戦死(海軍甲事件。国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。

 

驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ?」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答弁をした。

 

 

すると、普段温厚で寡黙な鈴木が「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」(鈴木は1928年に予備役に編入され、1932年に後備役、1937年に退役。ただし、帝国海軍士官は終身官であったので、海軍大将の階級を有することには変わりない)と大声で嶋田を叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされ驚愕したという。

 

 

海軍の命令で学習院に軍事教練担当の教師として派遣された折に、教え子に吉田茂がいた。

 

吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田の総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること、つまり負けっぷりをよくすることだよ」などと言ったことを伝えていたと言われている。

 

 

1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が発生した時、鈴木貫太郎は侍従長であり侍従長官邸に居た。

 

前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃した。

 

はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。

 

鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。

 

血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した。

 

 

安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。

 

安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した。

 

そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。

 

われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げた。

 

 

反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかは止血の処置をとってから宮内大臣の湯浅倉平に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけた。

 

鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った。

 

声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。

 

鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んだという風評が立った。

 

安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており面識があった。

 

安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている。

 

安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。

 

1948年(昭和23年)4月17日、肝臓癌で薨去、享年81。

 

死の直前、「永遠の平和、永遠の平和」と、非常にはっきりした声で二度繰り返したという。

 

関宿町の実相寺に葬られた。

 

 

鈴木貫太郎内閣は、前の小磯内閣の総辞職を受け、枢密院議長だった鈴木貫太郎が組閣した内閣である。

 

 

内閣が発足した1945年(昭和20年)4月30日にはベルリンでナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが自決し、5月8日にはドイツ軍が無条件降伏した(欧州戦線における終戦)ことによって、日本は有力な同盟国を失った。

 

 

国内各都市への日本本土空襲が日増しに激しくなる中、内閣総合企画局は『国力の現状』と題する報告書を6月6日の最高戦争指導会議に提出、産業の現状から継戦は困難という見解を示したが、徹底抗戦を求める軍部の圧力を受けて「敢闘精神を補えば本土決戦は可能」という結論となり、6月8日の御前会議において「皇土保衛」「国体護持」を目的とした「戦争指導大綱」が決定される。

 

 

これを前提とした決戦体制作りに向けた法案(義勇兵役法など)審議のため、6月9日に帝国議会が開会され、わずか4日の審議でこれらの法案は可決成立した。

 

この間、鈴木が本会議でおこなった演説の言質を議員が問題として議事が紛糾した天罰発言事件も起きている。

 

 

しかし、6月23日には沖縄における組織的戦闘が終結するなど、日本の敗色は濃厚となっていった。

 

 

こうした状況下で内大臣の木戸幸一や海軍大臣の米内光政は講和に向けて働きかけをおこない、6月22日の御前会議で「ソ連を仲介とした米英との講和交渉」が決定され、7月上旬に近衛文麿の特使派遣がソ連に対して打診された。

 

 

その申し出に対して、すでにヤルタ会談での密約で対日参戦を決めていたソ連は実質的な拒絶回答をおこなったが、なおも日本政府はソ連に対して仲介を求め続けていた。

 

 

7月26日にアメリカ合衆国・中国・イギリスの首脳名で発表された降伏勧告ポツダム宣言に対して、これをうけた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言したが、鈴木首相は同月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する。」とコメントした。

 

 

しかし8月6日に広島、同月9日には長崎に原子爆弾が投下されて壊滅的な被害を受け、同じ9日にはソ連軍が満州国に侵攻する(ソ連対日参戦)など、和平工作の失敗が明白となった。

 

 

この8月9日深更から開かれた最高戦争指導会議および閣議の御前会議は、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、あくまでも本土決戦を期して戦争を遂行するかで議論は紛糾した。

 

 

鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぎ、「国体護持」を条件として、ポツダム宣言受諾に意見統一した。

 

 

翌8月10日、内閣は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると付言して、連合国側に申し入れた。

 

 

これに対し、連合国側は、『天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定される』と回答した。

 

 

この回答を受け、8月14日に再度の御前会議が開かれ、再び鈴木首相が聖断を仰ぎ、最終的にポツダム宣言の無留保受諾が決定された。

 

天皇は終戦の詔書を発布し、即座に連合国側にその旨通告された。

 

 

この詔書の中では「国体ヲ護持シ得」たとしている。

 

 

国民に対しては、翌8月15日正午から、ラジオ放送を通じて、天皇自ら終戦の詔書を朗読する形で、ポツダム宣言の受諾が伝えられた(玉音放送)。

 

 

聖断が下されるまで本土決戦を主張した陸軍大臣の阿南惟幾は、阿南にクーデターの旗頭になることを求める一部の陸軍将校らに対して承詔必謹を命じた後、同日自決した。

 

 

1945年(昭和20年)8月14日の御前会議終了後、陸相・阿南惟幾は紙に包んだ葉巻たばこの束を手に「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、お助けしなければならないはずの総理に対し、いろいろご迷惑をかけてしまいました。ここに慎んでお詫びいたします。ですがこれも国と陛下を思ってのことで、他意はございませんことをご理解ください。この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参いたしました」と挨拶にきた。

 

 

鈴木は「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。我が国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本はかならず再建に成功します」と告げた。

 

阿南は静かにうなずいて「私も、そう思います」と言って辞去した。

 

鈴木は迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいた。

 

その数時間後、阿南は割腹自決した。

 

 

阿南は鈴木の侍従長時代の侍従武官であり、そのときから鈴木の人柄に深く心酔していた。

 

表面的には閣議や最高戦争指導会議で、鈴木と対立する強硬意見を言うことの多かった阿南であるが、鈴木への尊敬の気持ちは少しも変わらず、陸軍部内の倒閣運動を押さえ込むことに見えない形で尽力したりしている。

 

 

 

大任を終えた鈴木内閣は8月17日、閣内の意見を統一できず、聖断を仰ぐに至った責任を取るとして、内閣総辞職した。