戦争と兵器 「戦艦」 | 戦車兵のブログ

戦車兵のブログ

元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。

 

戦艦とは、軍艦の艦種の一つである。

 

巨大な艦砲と堅牢な装甲を備え、海戦が主に砲撃戦主体であった時代に海戦の主力となることに特化していた。

 

第二次世界大戦頃までは、各国の軍事力の象徴的存在であり、世界のパワーバランスを左右する戦略兵器ともされていた。

 

しかし第二次世界大戦において航空戦力の有用性が示されると、海戦の主役の座を航空母艦に譲った。

 

 

第二次世界大戦後は、戦艦は運用機会や存在意義自体が失われてしまい、現在では戦艦と呼称される艦を運用する国はないが、ジェーン海軍年鑑ではロシア海軍の運用するキーロフ級原子力ミサイル巡洋艦がその規模から巡洋戦艦に類別されている。

 

 

軍艦の艦種としての戦艦は、その強大な艦砲による火力と堅牢な防御力により、敵艦船の撃滅を主任務とした。

 

多数の大口径砲を搭載し、敵艦の砲弾が命中しても耐える装甲を装備した。

 

そのため極めて大型になり、第二次世界大戦までは、大型航空母艦を除けば最大の軍艦だった。

 

 

戦艦は、高価かつ当時の先端技術が結集した兵器であるため「主力艦」とも呼ばれる大型戦艦の艦隊を編成して維持する国は、豊かで科学力に優れた列強国に限られた。

 

戦艦が出現した19世紀後半から20世紀半ばにかけては、戦艦の保有隻数などが国力のシンボルとされ、政治・外交の局面でも重視された。

 

 

より大口径の砲を備えた、強力な戦艦を持つ国が有利とする当時の各国海軍の戦術思想を大艦巨砲主義という。

 

しかし第二次世界大戦においては、マレー沖海戦をはじめとした航空機が戦艦を撃沈した例がたび重なり、大艦巨砲主義の破綻と航空機の有用性が実証された。

 

そのため海軍の主力艦は航空母艦に移行し、戦艦は決戦兵器としての価値を大きく損なった。

 

第二次大戦後においては、新兵器であるミサイルが艦砲に変わる存在となると更にその価値を損なった。

 

東西冷戦期には大規模な艦隊同士の海戦などもなく、もはや過去の存在となった戦艦は、各国とも順次退役し、除籍されていった。

 

 

現在では、本格的な戦艦を現役艦として運用する国はない。しかしアメリカ、イギリス、日本などでは、かつて活躍した戦艦が記念艦や、記念施設として保存され、かつての栄光を今に伝えている。

 

 

戦艦が登場する以前、海戦において主力艦としての地位を占めたのは、17世紀に出現した戦列艦(ship of the line)である。

 

 

戦列艦は単縦陣の戦列を形成する艦のことで、一般的には50門(18世紀半ばからは60門)以上の大砲を搭載していた。

 

当時の海戦では砲撃によって沈没に至ることは少なく、砲撃や切り込み隊で航行・戦闘能力を奪った後に捕獲するのが一般的だった。

 

 

1805年のトラファルガー海戦で、イギリス地中海艦隊司令長官ネルソン提督の旗艦となったヴィクトリー(Victory)は、戦列艦の代表的なものである。

 

 

19世紀になって、大砲の威力が向上してくると、大型の戦列艦の舷側に多数の大砲を並べる形式は、防御の面で重大な欠点になった。

 

1853年から始まったクリミア戦争では、3層甲板に多数の砲を並べた木造戦列艦が炸裂弾に対して脆弱であることが明らかになった。

 

 

そこで戦列艦より小型で、乾舷の低いフリゲートに装甲防御を施した装甲艦(甲鉄艦)が考案され、戦艦の始祖とされるフランスの装甲艦「グロワール」(Gloire)が誕生した(1859年に進水)。

 

この艦は、木造船体の舷側に最厚部119 mmの装甲を装着し、舷側に16cm砲30門を装備した機帆兼用艦である。

 

 

イギリスはこれに対抗して、1860年に鉄製船体を持つ「ウォーリア」(Warrior)を進水した。

 

この艦以降、装甲艦は徐々に、汽走専用化、船体大型化、大砲大型化、装甲強化が進み、後に戦艦、巡洋戦艦、大型装甲巡洋艦などへ発展する。

 

 

1886年に竣工したコロッサス級装甲艦は後装填式連装30.5cm砲2基(計4門)と鋼鉄製船体を持つ。

 

後装填式施条砲により砲撃威力と命中精度が著しく向上した。

 

 

1892年に竣工したイギリスの「ロイヤル・サブリン級戦艦」(Royal Sovereign)型は、前後部に連装34.3cm砲を1基ずつ露砲塔に装備し、最厚部457 mmの装甲を舷側に装着した。

 

また凌波性に優れた高乾舷を持ち、近代戦艦のはじめとされる。

 

 

1895年に竣工したイギリスの「マジェスティック」(Majestic)型は、2基の砲塔を全面装甲式とし、貫通力を向上させかつコンパクトな30.5cm連装砲を採用した。

 

 

以後、これが、弩級戦艦の出現まで、近代戦艦の基本形態とされ(現在は前弩級戦艦と呼ばれる)、強国では多数の近代戦艦をそろえた艦隊を作るようになった。

 

また、多くの海軍国で、戦艦の「定義」を、暗黙ながら、

  1. 建造時に開発・製造可能な最大の大砲(主砲)を搭載している
  2. 自艦に搭載した主砲弾の被弾に耐えられる装甲を有している

と考えるようになった。

 

しかし後に政治的事情や金銭的・環境的事情からこれに当てはまらない艦もあった。

 

 

戦艦の初期戦術は近距離戦であり、副砲で敵艦上部構造を砲撃し、発射速度が劣る主砲は水平射撃で舷側水線部の装甲を実体弾・徹甲榴弾で撃ち抜き大浸水をもたらす戦術であった。

 

しかし戦艦の装甲の進歩が徹甲弾の貫通性の進歩より進んだため、敵艦の舷側水線部を撃破することは次第に困難になった。

 

 

その後、技術の進歩による主砲の発射速度と遠距離砲撃能力の向上に伴い、優速の艦隊を組み、また主砲で榴弾も射撃し敵艦に多数命中させ上部構造を破壊し無力化する戦術も考案された。

 

第一次大戦になると、砲弾の徹甲性能向上および大落下角射撃と、短時間に多数の徹甲榴弾の砲撃を行い、敵艦の水平防御を撃ち抜き内部で爆発させる戦術が発達した。

 

対策として砲塔および甲板全体にわたる厚い水平防御も必要となった。

 

 

日露戦争は鋼鉄艦同士による初めての本格的な海戦が行われた戦争であり、列強はその戦訓を取り入れて、遠距離戦での主砲の攻撃力向上を中心とする戦艦の改良を図った。

 

この戦訓を最も早く取り入れた英国は、従来艦の倍以上の主砲を片舷に指向できる戦艦ドレッドノート(Dreadnought)を日本海海戦の翌年に竣工させた。

 

 

この戦艦は従来の同規模の戦艦と比べて、高速航行可能で2倍以上の火力を備えるため海戦において有利となり、一夜にしてそれまでの世界の戦艦は旧式化した。

 

 そのため、これ以前の戦艦(計画・建造中、竣工・就役直後の戦艦を含む)を前弩級艦、同程度の性能を有する戦艦を弩級艦として区別する。

 

 

戦艦ドレッドノート登場の直後に英国では、戦艦並みの火力と、巡洋艦並みの速度をあわせもつ艦として、巡洋戦艦が登場する。

 

なおイギリスの巡洋戦艦は、概念としては巡洋艦であり、戦艦のレベルの装甲防御力を持たない。

 

一方ドイツの巡洋戦艦は、比較的、装甲防御力を考慮し、代わりに巨砲の搭載を追求しなかった。

 

 

巡洋戦艦の登場の結果、第一次大戦のユトランド沖海戦においては、ほぼ、高速の巡洋戦艦同士の撃ち合いとなり、置き去りにされた前弩級・弩級戦艦は戦闘に参加出来なかった。

 

加えて、海戦の帰趨は装甲防御の劣るイギリスの巡洋戦艦が大打撃を受け、沈没が相次いだ。

 

このユトランド沖海戦の戦訓は、「戦艦は速度が不足し、巡洋戦艦は防御力が不足している」と認識された。

 

 

以降建造された戦艦は高速化と航続性能が向上され、巡洋戦艦の防御力は当初より大幅に向上し、やがて両者の区別がつかないまでに発展していく。そのような戦艦の防御力と巡洋戦艦の速度を兼ね備えた艦を、「高速戦艦」(ポスト・ジャトランド型)と呼ぶ。

 

 

しかし加熱する建艦競争によって起きた前弩級戦艦、弩級戦艦、巡洋戦艦、高速戦艦という目まぐるしい軍艦の発達について来られる国は少なくなっていった。

 

第一次世界大戦より後に新造戦艦を就役させる事ができたのは、アメリカ、日本、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアだけだった。

 

 

より大型に、より高性能になっていく戦艦は、建造費も高騰していき、融通のきかない使い勝手の悪い艦になっていった。

 

機雷、魚雷(を搭載する水雷艇・駆逐艦)、そして潜水艦というより安価な兵器が、次第に戦艦の脅威となっていく。

 

 

そして航空機の登場が、戦艦にとどめを刺す事になる。

 

第一次世界大戦は航空機が軍事に導入された初めての戦争でもあり、以後の海軍は航空兵力に護衛された艦隊ないし航空兵力による単独攻撃という新しい局面に対応することになる。

 

 

第二次世界大戦においては、水上艦は航空戦力に対して単独では対抗できないことが明らかになる。

 

航空戦力の優位性を世界に初めて知らしめたのはイギリスによるイタリア・タラント空襲と日本による真珠湾攻撃である。

 

 

これらは停泊中の艦船に対する攻撃であるが、日本がマレー沖海戦において戦闘航行中の戦艦(イギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」と僚艦「レパルス」)を航空戦力のみで撃沈して航空機の有用性を確固たるものにした。

 

 

その後の海戦における戦艦の行動は、自国の航空部隊の掩護下(アメリカ海軍)または航空機の活躍出来ない夜間(レイテ沖海戦の西村艦隊)などに限定されるようになり、やがて戦艦は消えていく事になる。

 

 

又ドイツ軍の誘導ロケットフリッツXによるイタリア海軍のローマ (戦艦)撃沈は、将来格下の巡洋艦以下の艦艇にも搭載可能になるであろう誘導対艦ミサイルで戦艦を撃破可能である事を予感させた。

 

 

アメリカ海軍のみは、上陸支援目的で長く戦艦を使い続けたものの、もはや戦艦を新造する事は無くなった。

 

遅れて巡洋艦も減勢し、戦艦を直接無力化した空母はジェット機搭載の為に巨大化して米国以外では減勢し、その後は巨大化した駆逐艦(後述の初期戦艦より大排水量化しつつある)以下の水上戦闘艦や、戦艦の終焉と相前後して現れた水上艦連続任務期間と同等の連続潜水任務期間に達する原子力潜水艦を含む潜水艦と、ターボファン化と空中給油の実用化で搭載量や航続距離が増した軍用機や、誘導能力を得たミサイルが、かつて戦艦が行っていた戦術(制海・哨戒・沿岸攻撃)・戦略(戦略核兵器や砲艦外交)任務の多くを引き継いだ。

 

 

 

イギリスは1946年に「ヴァンガード」を、フランスは1950年に「ジャン・バール」を完成させ(既に戦前から起工されている)、戦後も国の威信と象徴を示すものであり続けた。

 

しかし実用艦としては既に時代遅れになっており、就役期間の大半を予備艦として使われ、退役した。

 

 

前記を例外として、第二次世界大戦以降はそもそも大規模な海戦それ自体が行われなくなった事もあり、戦艦の建造は行われなくなった。

 

戦後、ソビエト連邦の台頭により冷戦が始まった頃には、ミサイルの実用化がなされ、主砲による艦隊戦は有効性を失ってしまった。

 

 

旧ソ連はミサイルを主武装とする艦を大量に建造して、空母を主力とするアメリカに対抗し、ミサイル巡洋戦艦といえるキーロフ級ミサイル巡洋艦(実際、ジェーン海軍年鑑には巡洋戦艦として掲載)を就役させるに至るが、巨砲を主武装とする戦艦とは性格が異なる艦である。

 

 

また、チリ、ブラジル、アルゼンチンの3国は自国の戦艦を退役させた後、代艦としてブルックリン級軽巡洋艦を購入している。

 

国の威信と象徴を表す艦としても戦艦は不経済と考えられ、巡洋艦でも十分であると考えられたのである。

 

 

しかし陸軍及び海兵隊が行う、水際上陸作戦支援には戦艦の砲撃力は依然有効であり、また、第二次世界大戦後に著しく発達したミサイルは、徹甲弾に対する防御を前提とした重装甲を持つ戦艦に対しては決定的なダメージを与えられないとされ、戦艦が再評価される場面もあった。

 

 

アメリカは第二次大戦以降、朝鮮戦争ではアイオワ級の4隻すべてを、ベトナム戦争では「ニュージャージー」を現役復帰させ上陸作戦の支援に使用した。

 

その後アイオワ級は予備役として保管(モスボール)されていた。

 

 

1980年代のレーガン政権下で、「強いアメリカ」の象徴として三度、4隻とも現役に一時的に復役し、「ミズーリ」と「ウィスコンシン」は湾岸戦争で出動した。

 

これらは最後の現役戦艦であり、トマホーク巡航ミサイルを搭載するなど近代化改装が施されていた。

 

 

しかしあくまで大戦期の旧式艦の再利用である事が、戦艦の価値・使用法が限定的な事を示している。

 

 

1990年代初頭には全ての戦艦が退役し、2006年までに全ての艦が除籍された。

 

 

最後の戦艦であった「アイオワ」も現在はロサンゼルスの港にて記念艦として、余生を送っている。

 

 

純粋な戦艦とは異なるが、1990年代後半にアメリカ海軍でアーセナル・シップと呼ばれる艦の開発計画があった。

 

 

アーセナル・シップは大量のミサイルを搭載し対地攻撃に活躍する艦となる予定だったため、アメリカ海軍はこれを『21世紀の戦艦』と銘打っていた。

 

しかし、予算・世界事情の変化などで計画はほぼ立ち消え状態となっている。