ソンミ村虐殺事件 | 戦車兵のブログ

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1968年3月16日ベトナム戦争でソンミ村虐殺事件が起きた日。

 

ベトナム戦争で反戦運動の象徴的な事件であり、ベトナム人の虐殺された写真は衝撃的であった。

 

虐殺写真はあまりにも酷いのでブログでは掲載しない。

 

 

ソンミ村虐殺事件は、ベトナム戦争中の1968年3月16日、アメリカ軍兵士がクアンガイ省ソンティン県ソンミ村(現:ティンケ村)で非武装のベトナム人住民を虐殺した事件。

 

ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。

 

 

1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のうち第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊(機動部隊には他に第1歩兵連隊第3大隊所属のA中隊と第3歩兵連隊第4大隊所属のB中隊、そして砲兵部隊があった)の、“意地悪カリー”ウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県にあるソンミ村のミライ集落(省都クアンガイの北東13km、人口507人)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子供173人)を無差別射撃などで虐殺した。

 

集落は壊滅状態となった(3人が奇跡的に難を逃れ、2018年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。

 

 

さらにC中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、B中隊が増派され、近隣の村落で虐殺を行っている。

 

 

この際、グレン・アンドレオッタ4級特技兵が機長を務め、ヒュー・トンプソン・ジュニア准士官が操縦しローレンス・コルバーン4級特技兵が射手を担当するOH-23G偵察ヘリコプターが村落上空を通りがかり、多数の死者と民間人への攻撃を目撃した。

 

トンプソンは上官への報告・救助ヘリの派遣要請・生存者の救出を行い、さらに狼藉をやめねば攻撃するとC中隊を脅している。

 

 

カリーは、ワシントン州のフォート・ルイス駐屯地で中隊事務員として8週間の高等訓練を受け、ジョージア州のフォート・ベニング駐屯地で、9週間の基本的な戦闘訓練を経験した。

 

 

彼はまた、AFQT(Armed Forces Qualification Test)で高得点を記録し、米陸軍の士官候補生学校(Officer Candidate School,OCS)に入学する。

 

カリーは、1967年3月中旬からフォート・ベニング駐屯地で16週間の下級将校訓練に参加した。

 

1967年9月7日、彼はOCSを51番の席次で卒業し、歩兵少尉に任命された。

 

 

カリーは第11歩兵旅団第20歩兵連隊第1大隊C中隊に配属され、ハワイのショフィールド・バラック演習場にて、ベトナム共和国(南ベトナム)への派遣に備えて訓練を開始した。

 

 ベトナム到着後、第11歩兵旅団は第23「アメリカル」歩兵師団に合流した。

 

 

カリーは小隊長としての適性が欠けていたと言われているが、彼に関する将校評価報告では、彼について「平均」としか記していなかった。

 

カリーの小隊に所属したある兵士は、「カリーは常識が無く、コンパスも読めなかった」と軍の調査官に証言した 他、別の何人かの兵士は彼を本気で「フラギング」しようと考えるほど嫌っていたと証言している。

 

ただし、このような否定的な評価が急増したのはソンミ村事件の調査が進んだ後である。

 

 

当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌1969年12月に、フリーランスジャーナリストのシーモア・ハーシュが、雑誌『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたことが端緒となり、『ライフ』誌の報道などでも、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。

 

 

ハーシュの記事は「My Lai 4: A Report on the Massacre and its Aftermath」としてまとめられ、1970年度ピューリッツァー賞を受賞した。

 

これは日本でも、同年にベトナムに平和を!市民連合の活動で知られる小田実によって、『ソンミ―ミライ第四地区における虐殺とその波紋』の題で邦訳された。

 

 

この虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、アメリカ世論をベトナム反戦運動の方向へ導く可能性が高いことなどから、事件を隠蔽し続けた。

 

 

 

 

なお、1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に下った判決ではカリーに終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。

 

 

また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放される。

 

陸軍のこの不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。

 

 

虐殺計画は掃討作戦決行の前夜に決定された既定事項で、C中隊指揮官のアーネスト・メディナ大尉が主張したものであるという。

 

 

事件から40年経った2008年3月16日、事件現場跡に建てられた記念館にて追悼式典が開かれ、事件の生存者や元アメリカ軍兵士、地元住民が参加した。

 

 

カリーは仮釈放後、マスコミの取材に応じることはなかったが、41年経った2009年8月19日、ジョージア州コロンバスで開かれた奉仕活動団体の昼食会に出席し、事件について口を開き、謝罪した。

 

これに対し、3人の生存者の一人で犠牲者追悼活動を続けるパン・タン・コン(ティンケ村記念公園博物館長、事件当時10歳。家族を皆殺しにされ孤児となった)は23日、「謝罪は無いものと思っていた、あまりにも遅くて驚いたが、犠牲者を代表して受け入れたい」「カリー氏にはベトナムに来て、当時とその後40年の思いを語ってほしい」と述べている。

 

 

虐殺から50年後の2018年3月16日、ソンミ村の跡地に建設されたティンケ村で追悼式典が行われ、地元住民や帰還米兵団体関係者ら約1000人が犠牲者の冥福を祈った。

 

クアンガイ省幹部は「亡くなった人を忘れたことはないが、村は復興した。未来志向でいたい」と語った。

 

記念碑を中心に平和祈念公園を建設する構想も発表された。