撃つためのデザイン 「南北戦争の銃」 | 戦車兵のブログ

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南北戦争は、1861年から1865年にかけて、アメリカ合衆国の北部諸州とアメリカ連合国を称した南部諸州との間で行われた内戦である。

 

 

奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。

 

この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。

 

 

 

英語の civil war は「内戦」を意味する語だが、アメリカでは独立後に内戦があったのはこの時だけなので(ユタ戦争など、内乱と呼ぶべき物はいくつかある)、アメリカ国内では通常これに定冠詞をつけ大文字にして The Civil War と表記する。

 

アメリカ以外の国では自国の内戦と区別するため国名を冠して American Civil War と表記する。

 

 

南北戦争が勃発した時点では、北部も南部も戦争の準備は全くできていなかった。合衆国陸軍に所属していた将兵は1万6000人程度であり、武器も米墨戦争時の旧式のものを使用しているだけであった。また、合衆国海軍も将兵7600名と船舶42隻程度しか保有していなかった。

 

しかし、それに対して南部は正規軍と呼べるような兵力は保有しておらず、海軍も存在しなかった。

 

 

大半の将兵は合衆国軍に残ったが、士官のうち313名が職を辞して南部連合軍に参加した。

 

この中には後に南軍の将軍として有名になるロバート・E・リーやストーンウォール・ジャクソン、ジョセフ・ジョンストン、それにP・G・T・ボーリガードなども加わっており、南北戦争を長引かせるひとつの要因となった。

 

 

開戦時に南部が優位であった点

 

 

人的資源の量では劣っていたが、多くの優秀な指揮官が合衆国軍を去って南部連合に合流した。

 

そのため北部では将軍に任命するに足る人物が不足することとなった。

 

 

奴隷制を維持し「南部の生き方」を守る、侵攻してくる北軍から郷土を守るといった明確な目的があるため士気が高かった。

 

一方で北部の目標は「合衆国を守る(=南部を合衆国に連れ戻す)」という曖昧なものであり、南部と比較して戦争に対する温度差も大きかった。

 

「放っておけばそのうち戻ってくる」と思っている者や「離反したいならさせておけば良い」と思っている者が少なからずいたのである。

 

 

開戦時に北部が優位であった点

 

 

開戦の時点で北部には既存の政府組織が存在していたのに対して、南部は一から政府組織を作り上げねばならなかった。

 

 

南部と比較して中央集権的な政治体制であったため、合衆国政府の意思決定がスムーズであった。

 

南部はそれぞれの所属州の発言力が強かったため、南部連合の方針を決める際にデイヴィス大統領は非常に苦慮することとなった。

 

 

北部と南部の間には大きな人口差があり、そのため兵役適齢(当初は18歳から35歳)とされる男性の人口も大きな差があり、北部は約400万前後に対して、南部は100万強だった。

 

南部では後にこの枠が17歳から45歳までに拡大され、最終的に上限は50歳まで引き上げられた。

 

しかしそれでも兵のなり手が足りず、敗戦間際には奴隷から志願者を募ろうという案まで提出された。

 

北部では上記のように工業面が南部より発達していた。

 

鉄道の長さは南部の2倍以上あった。

 

この鉄道を利用し、北部は食料や武器を兵たちに受け渡すことができた。

 

 

 

南北戦争は広大な地域で戦われたが、主な戦線としては東海岸の東部戦線と、アパラチア山脈以西の西部戦線とに大別することができる。

 

そして、南北戦争の最も主要な戦線であり、規模の大きな戦闘が繰り返し起こったのは東部戦線の方だった。

 

これは、東海岸の方が開発が進んでおり人口も多かったうえ、北部のワシントン・南部のリッチモンドの両首都も東部に位置していたためである。

 

さらにこの両首都は直線距離でわずか160kmほどしか離れておらず、両都市間に険しい山岳などの障害になる地形も少なかった。

 

北部のワシントンなどはポトマック川を挟んで南部領と隣接している状態であり、自然と両軍ともに相手の首都をめざし進撃することが多かった。

 

こうして、この両都市間の狭い土地で激しい戦いが多く繰り広げられることとなった。

 

 

当初リンカーン大統領が動員した戦力は7万5000人、兵役期間は3か月と短期間で、早期に決着がつくと考えていたと言われている。

 

 

しかし、南北の最初の本格的な軍事衝突となった1861年7月の北軍のバージニアへの侵攻は、第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い、7月21日)での南軍の頑強な抵抗の前に頓挫し、戦争の長期化は避けられない情勢となった。

 

 

ミニエー銃は、パーカッションロック式(雷管式)の前装式ライフル歩兵銃である。

 

プリチェット弾を使うライフル銃としては最初期の物で1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。

 

 

本来滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんだもので、ライフルド・マスケットとも呼ばれる。

 

従来使用されていたゲベール銃(マスケット銃の一種)の銃身に改修を施す方法で製造された。

 

 

ミニエー弾と呼ばれる独特の弾薬を使用した。

 

 

弾丸が充分な回転を持ち弾丸周囲からのガス漏れが防止されたため、飛距離と命中精度が飛躍的に向上した。

 

また装弾が容易となり連射能力も向上した。

 

 

 

エンフィールド銃とはイギリスのエンフィールド造兵廠で開発されたパーカッションロック式の前装式小銃(施条銃)である。

 

弾丸の形状が若干異なるがミニエー銃に分類される。

 

 

1853年から1866年までイギリス軍の制式小銃として使用され、53年型、58年型、61年型などのバージョンが存在するほか、銃身長の異なるタイプ(2バンド・3バンド)が製造された。

 

 

1866年以降は一体型の実包を使うスナイドル銃への改造が進められた。

 

日本では幕末に大量に輸入され、戊辰戦争では新政府軍の主力小銃であった。

 

 

1847年にフランスでミニエー弾が開発されると、欧米各国でミニエー銃の生産が始まった。

 

中でもイギリスで開発されたエンフィールド銃は優秀で、1853年にイギリス軍の制式小銃として採用された。インド大反乱やクリミア戦争、太平天国の乱、ニュージーランドのマオリ族鎮圧などで使用され、その完成度の高さが証明された。

 

 

アメリカの南北戦争では、北軍の標準装備だったスプリングフィールド銃の生産数が需要に追いつかなかった事や当時の民間軍需品製造業者には粗悪品を平気で納入するケースが多かった事から“世界の工場”だったイギリスで大量生産され、信頼性が高いエンフィールド銃が輸入されるようになった。

 

 

また工業基盤が未熟だった南軍は開戦当初から輸入兵器に依存しており、なかでもエンフィールド銃はその命中精度と威力の高さから南軍でも大量に使用された。

 

イギリス政府は南軍の劣勢が明らかになると南部への輸出を禁止したが、武器商人によって最終的に90万挺が輸出されている。

 

 

高い命中率と1,000ヤードまで延長された射程を実現したエンフィールド銃は、歩兵運用の基礎条件を大きく変えてしまった。

 

 

エンフィールド銃を装備した部隊と従来のマスケット銃を装備した部隊が交戦した場合、マスケット銃側は有効射程の100ヤード(マスケット銃の命中率は50%)まで接近するためだけに、最大で900ヤードに渡る死のロードを友軍の屍を乗り越えつつひたすら進まねばならなかった。

 

 

マスケット銃が運用されていた当時の主力兵科である戦列歩兵の前進速度は60m/分(イギリス式)であったため900ヤードの距離を進むためには13分以上かかるが、この間にエンフィールド銃は30〜40回の射撃が可能であるため仮に1,000人のマスケット銃兵を相手にした場合でもエンフィールド銃装備の部隊は理論上25人の小部隊で無傷のまま相手を全滅させてしまう事ができた。

 

 

また、エンフィールド銃がもたらしたもうひとつの変化は、マスケット銃の球弾に比べて複雑な形状の弾丸が高速で回転しつつ人体へ命中すると、弾体が極度に変形しつつ人体内部へくい入ることで、マスケット銃よりも格段に酷い銃創が作られる現象だった。

 

 

日本で最も初期にエンフィールド銃を導入したのは薩摩藩とされ、薩英戦争後の軍制改革で4,300挺を購入したと伝えられており、輸入された当初はその弾丸の構造からミニエー銃の一種とされ、イギリス・ミニエーと呼ばれていた。

 

 

1865年(慶応元年)に双方で300万もの兵士が戦ったアメリカの南北戦争が終結すると、南北両軍が使用していた大量の軍需品が民間業者に払い下げられた。

 

これらの払い下げ品には、90万丁近くが米国に輸出されていたエンフィールド銃も含まれており、その多くは市場を求めて太平天国の乱が続いていた中国(上海・香港)へ集まり、幕末の日本にもグラバーに代表される外国商人によって輸入された。

 

 

この頃から、フランス製のミニエー銃と区別するために“エンピール銃”・“鳥羽ミニエー”といった呼び名が付けられ、後に発足した日本陸軍ではエンピール銃の呼称が継承された。

 

 

スプリングフィールドM1861は南北戦争中にアメリカ陸軍(北軍)及び海兵隊が使用したミニエー形式のライフル・マスケットである。

 

 

製造場所であるマサチューセッツ州スプリングフィールドにちなんで、「スプリングフィールド」と一般に呼ばれている。

 

南北戦争中に、北軍で最も多く使用された小銃であり、その射程、正確さ、および信頼性から好まれた。

 

 

M1861は、持ち上げ式のリーフ式照門を採用した。

 

2つのリーフがあり、片方は300ヤードに、もう片方は500ヤードに調整されており、両方を下げた場合は100ヤードに調整された。

 

南軍が用いたイギリス製の1857年型エンフィールド銃は、ラダー式照門を使用しており、100ヤードから400ヤードまで、100ヤード刻みに調整でき、さらに照門を持ち上げると500ヤード以上に調整できた。エンフィールドの方が細かく照準を合わせることができるが、スプリングフィールドの単純な照門はより丈夫で、また製造コストも安かった。

 

エンフィールドの照門は900ヤード(後のモデルではそれ以上)まで設定されており、500ヤードまでしかないスプリングフィールドより長かったが、実際の戦場では600ヤード以上離れた目標に命中させることは、どちらの銃を用いても運以外のものではなかった。

 

照門の構造は違ったが、その他の点では2つの銃は類似しており、有効射程も似たようなものであった。