日本技術立国と言うが過去日本で開発され製造されたその時代時代技術の粋とも言える物をきちんと保存し展示している施設があるだろうか?
特に軍事アレルギーの日本は戦車や航空機、各種火器が使える状態で保存展示している施設は皆無と言っていい。
陸自の武器学校にある小火器なんぞ全て使えないように穴を空けしまっている。
かつて日本国民の血税で開発された兵器や武器は日本国内より海外へ行かねば見ることもままならないのだ。
これで技術立国とは言えないね。
もっとも日本の軍事技術のレベルはそんなに・・・・・・。
以下産経ニュースより転載
旧日本陸軍の「九五式軽戦車」を英国から日本へ買い戻すための計画が始まった。
静岡県のNPO法人「防衛技術博物館を創る会」によるもので、資金をインターネット上の寄付「クラウドファンディング」で募っており、目標額は5000万円。
戦闘機や戦車を題材にした作品のある漫画家の松本零士さん(81)も応援メッセージを寄せるなど、昭和の技術遺産を里帰りさせるべく募金を呼びかけている。
計画の成否には1台の戦車の帰還だけでなく、日本の“温故知新”のありようが問われている。(岡田敏彦)
海外流出と博物館構想
九五式軽戦車は昭和7(1932)年に開発開始。
当時世界の主流だった37ミリ砲を主砲とし、高速(時速約40キロ)を主眼に置いた小型軽量な戦車として完成。
11(1936)年から8年間に渡り、日本の戦車としては最多の約2380輌が生産された。
日本には昭和56(1981)年にポンペイ島(ミクロネシア連邦)に置かれていた1輌が里帰り。
京都市や和歌山県白浜市の私設博物館で展示されたが、閉館に伴い英国人コレクターが購入し、国外に流出した。
買い戻しを目指すのはこの1輌だ。
費用は1億円で、うち5千万円をクラウドファンディングのサイト「Readyfor」で集める。
残りの額は別途集めた寄付金と自己資金でまかなう。
同会は日本初の小型四輪駆動車「くろがね四起」をスクラップ状態から新車同様にまで修復(レストア)して注目を集めたが、この際はクラウドファンディングで1300万円あまりの寄付金が寄せられた。
この実績を足がかりにして、今回は日本の軽戦車「九五式」の里帰りを計画した。
同会では恒久的な保存・展示を目指し、将来的には会の名称通り、防衛技術に関する車両類を集めた博物館を設立する構想を持っている。
実は、こうした技術遺産の保存や継承という面では、日本は進んでいるとは言い難い。
欧米との差
ドイツは日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国だが、欧州トップクラスの規模を持つ「ジンスハイム自動車・技術博物館」(ドイツ南西部バーデン・ヴュルテンベルク州)がある。
「自動車」と名付けられてはいるが、欧州各国の戦闘機や戦車など多数を所蔵、展示。
自動車史に残るクラシックカーやバイク、蒸気機関車と等しい扱いで展示されている。
政治や思想を抜きに、技術発展の歴史として評価されているのだ。
まさに「技術史のマイルストーン(一里塚)を発見する場所」(同館)だが、その規模からは信じがたいが、同館は私有で運営されている。
米国ではスミソニアン博物館が世界的に有名だ。
国立だけに、歴史の証拠を残そうという意志は並々ならぬものがある。
米国は第二次大戦の戦勝国だが、当時の敵だった日本やドイツの軍用機の保管と復元に並々ならぬ力を注いできた。
零戦などの著名機はもちろん、日本の夜間戦闘機「月光」や、ドイツのHe219「UHU」(ウーフー)など、世界で現存する唯一の機体も多く所蔵している。
復元する場合には、当時の製造資料を世界中からかき集めて機体構造などを調査し、戦後に改造された部分や失われた部分を特定する。
修復に当たってどの部分を新造したのかを、電線1本に至るまで詳細に記録に残す。
1940年代の航空技術の実情と発展を歴史として記録し、その“生き証人”として実物を後世に伝えていくためだ。
そこには「他国の飛行機だから修復はそこそこに」といった“敵味方”の区別はない。
かつて人類を月面に送ったサターンV型ロケットを筆頭とする米国の宇宙開発を牽引したのは、第二次大戦時にナチスドイツの一員として世界初の大陸間弾道ミサイル「V2」(報復兵器2号)を開発したフォン・ブラウン博士だった。
技術の歴史を「軍か民か」で分けるのはナンセンスだ。
第3の道
日本では、戦車や戦闘機などは戦争の遺物として、朽ち果てた状態のまま、つまり修復されることなく戦死した人々への鎮魂の“碑”として扱われたり、あるいは軍国主義の象徴としてタブー視されることが一般的で、純粋に技術の証として残そうという機運はか細いものだった。
しかし近年は第3の道として欧米同様、ドライに技術だけに焦点を合わせた保存の動きが広まりつつある。
旧陸軍の戦闘機「飛燕」(ひえん)は開発・製造した川崎重工で平成27(2015)年から約1年かけて修復・復元作業が行われた。
同機は長らく米軍基地で展示され、日本各地で巡回展示などをしたため、破損や部品の紛失、応急処置が繰り返されていたが、この復元ではスミソニアン同様、徹底した調査分析を行い、使われた素材や製造技術を改めて記録しながら、当時の日本の技術をありのままに残すことを目的としていた。
今回の九五式軽戦車の里帰りと復元、その後に続く博物館の建設も、こうした新しい潮流のひとつだ。
計画を主導する同会の小林雅彦代表理事は、「軍事関連のものですから、見る人によって好き嫌いがあるとは思いますが、機械に感情はない」と指摘する。
間違いを犯すのは機械ではなく、機械を操作する人間なのは今も昔もかわらない。
「当時の日本は凄かった、日本人は優秀だったと自賛するためではなく、逆に日本なんて劣った国だと卑下するためでもない。感情論ではなく、客観的な技術資料として、日本のモノづくりの資料として残し、後世に伝えることが重要なのです」と強調する。
95式軽戦車が軍で主流となったのは1940年ごろ。
「現在から約80年前のことになります。そして1940年を起点に80年さかのぼれば、明治維新(1868年)の直前です。ちょんまげを結い、刀を差していた時代から80年で、最新の科学に裏打ちされた技術が必要な戦車という工業製品を作りだした。80年という時間と技術の進歩に思いを巡らせてもらうといったこともできるのです」という。
また「銀河鉄道999」などで著名な漫画家の松本零士さんも「日本の機械工学の発展上、大事な時期の制作物です」と強調し、里帰りと修復・保存の意義を説く応援コメントを寄せている。
(産経ニュース)
去年、この会の報告会へ参加した。
いろいろ興味深い話が聞けたが・・・。
この里帰りの戦車は私は嵐山美術館にあった時に会って記念写真を撮っている。
少しだけ縁があったようだ。
そもそもポンペイ島にあった九五式戦車を日本へ里帰りしたのに美術館の館長が亡くなって、最終的に売りに出されてイギリス人コレクターに買われて日本から去ったのだ。
ポンペイ島で戦車を譲ってくれ島でまだまだ九五式戦車を所有して方に言われたそうだ「以前日本に里帰りした戦車がイギリスにあるそうだがどうなっているんだ」と・・・かなり良い状態の九五式戦車だったものを譲ってくれたのに・・・・。
そう思うと熱意のある人が今頑張っても30年して熱意の無い人しかいなくなったらまた・・・。
なんて気がしないでもない。
考えて欲しい、日本の今ある74式戦車も退役しているがほとんどの74式戦車は溶鉱炉へ消えている。
国民の血税で製造され長年日本の国を守って来た戦車が・・・、61式戦車だって自衛隊の駐屯地で野ざらしになり錆びて何時の間にか処分され年々減っているのだ。
他国では戦争になったら博物館にある戦車を動かして戦っているのに・・。
自衛隊OBで防大出身者は天下りにならないかと虎視眈々と戦車愛も無く狙っているという話しか入ってこないし・・・、「戦車だけか?火砲は?普通科のは?」なんて話もね・・・。
この計画は成功してい欲しい、だが計画が成功しても戦車愛の無い輩に食い物にされたくないと本気で願っている。